Io innomoro a prima vista.
そう表現するのが最も正しい。何気なく違う散歩コースを選んだのが、幸いだったのだろう。運命を信じるほどには、自分は信心深くない。ただその一つの選択と偶然が重なって、出会った。出会った、と言う表現はいささかおかしいのかもしれない。正しくは「見かけた」である。だが、思ったのだ。ああと。
彼女が、よい、と。
ただ、それだけ。
へぇ、と彩度を落とした緑の目が、非常に楽しげに声を弾ませながら、通りの角で壁にもたれかかって視線の先に映るもの、小ざっぱりとした女性が一人明るい笑顔を振りまいて花を売っている、様子を眺めていた。マッチ売りの少女再来とばかりにはだしの足で、如何にも凍えそうで幸薄そうな顔であれば、興味もなく通り過ぎたのだろうが、残念ながらそう言うことはなかった。
その男性の隣には、さらに大きな男性が、さらに、と呼ぶにはいささか語弊があるような、まるでクマのようにのっそりとした男は口にパンを一つ放り込んでもぐもぐと口を動かして、同じように小さな、決して小さすぎるとは言えないのだが、この男と比べるとまるで親子のようにさえも感じさせる身長差の男の隣で、同じ女性を観察していた。
小柄な男が口を開く。
「へー。なんだ、思ったよりも普通だね。あんまりにも普通すぎて度肝抜かれちゃったよ。もっとこうばいーんぼいーんな美人でも連れてくるのかと思えば、とても見目貧相じゃない。何がいいのかちょっと答えに詰まるね」
辛辣な言葉の十割はある程度評価を下げての発言なのは、そこにいる男は知っている。が、それでも苦笑をこぼしつつ、そうかなーと隣のクマ男はフランスパンをばりんと齧ってそれに答えた。
「誠実そうな人だと思うけど」
「裏では結構すごかったり?」
「…ドン、あんまりそんなこと言わない。俺が見たって、清純そうなイメージだよ」
「ジーモの審美眼なんて実戦で一つも使ってないでしょ。全く何の役に立つって言うんだか。一度は聞いてみたいね」
は、と鼻でせせら笑ってから、小柄な男性、ドンは花を一つ売って明るい笑顔で挨拶をする女性へと視線を戻す。それにクマ男、ジーモは役に立つと思うけどなーとのったりとした様子で困ったように声を上げた。実際に、彼の場合、尤も随分とその欠点、女性に近づきすぎると真赤になって硬直してしまうという欠点もある程度は克服されてきてはいるようで、現在では硬直せずとも、真赤になってもごもご言うほどにはなったのだが、やはりあまり役に立たないと言われても仕方のない事実ではある。
ジーモの横にも縦にも大きめの体に隠れてしまっていた、その後ろで、いい加減にしろ!と狼狽した声が上がる。ドンはにやにやと笑いながら、ジーモもにこぉと頬の筋肉を緩めて気にしない気にしないと繰り返す。
「だ、大体何で…っお、俺言ってないぞ!」
銀朱の目が特徴的な、否、銀朱の目よりもその強面の方がずっと問題である男は町の往来で何故か小声になりながら怒鳴った。そんなに声を潜める必要はどこにもない。むしろ、その行動の方があきらかにおかしい。
その男も十分に大柄で見上げるほどにあるのだが、隣にジーモが立つとその身長がまるで普通のように感じられる。これでも二m近くある。オランダの男性平均身長が180台なのだから、それから考慮しても彼の身長は馬鹿みたいにでかい。何を食べたらそんなに大きくなるのかぜひぜひ聞いてみたいところである。
その馬鹿でかい二人の隣にちょこんとおさまっているドンは、馬鹿にしたような笑顔で、決まってるじゃないと銀朱の男に答えた。
「そんなねぇ。毎日毎日、あんな嬉しそうな顔して散歩って言う程散歩っていう生易しいものじゃないと思うけど、それから帰ってくるなら、何かあると思うんじゃない?普通。で、ジーモと二人で後をつけたら、あの店の前で見事に速度落とすんだもんねぇ、君。真正面向いてるみたいだけど、ちらっと確認してるのくらい分かるんだよ。ねぇねぇ?」
「おおおお、おまおま、お前!」
「まぁまぁ、日々のトレーニングを欠かさない真面目なセオ君には全く感服だよ。別にそんなセオ君のトレーニングに一時の休息、もといふしだらな理由でこの通りを通ってることを糾弾する理由なんてないない。ね、ジーモ」
「うん。いいことだなー」
嫌味ったらしく、名前に君までわざわざつけてドンはあからさまに楽しんでいた。
もう終わった、とばかりに壁に頭をぶつけた男、セオはその背中に深い哀愁を漂わせる。曲げられたために、肩に手が伸ばせる位置になって、ドンはそれを叩くとぐいと引き寄せて、愉しげな笑みを深くする。
「で?どこまでいったの?百戦錬磨の君の事だから、もうベッドインまで済ませた?」
「ば、ばば、ば、ばっ馬鹿!そ、そんなことするわけないだろ!」
顔を真っ赤にして怒鳴ったセオに、あれ、とドンは少しばかり拍子を抜かれた顔をする。そこにジーモが、なーと声を落とした。二つの視線が持ち上がって、持ってきていたパンを食べ終わったジーモへと見た。
ジーモはにこやかな、ただ単純にそう思っているであろう、言葉を口にした。
「あの女の人は何て言う名前なんだ?セオ」
だが、返事はない。顔全体を真っ赤にして、視線が横にすすすと逃れて行っている。え、まさか、とドンは明らかに想定していなかった事実に珍しく声を驚かせた。ベッドインはまだでも、声をかけるくらいはしていると思っていたのである。
「…ひょっとして、話したこと、ない、とか?」
「…悪いか…べ、別にいいだろ」
「スポーツウェア着て走ってなかったら、君はとんだストーカーだ…!その強面だもの、壁に立って見つめていたら殺し屋に睨まれていると思われて怯えるか、凶悪犯罪者にストーカーされていると思われて警察にお世話になるところだったね」
真赤にした顔でぼそぼそとその事実を述べたセオに、ドンはレッドデータブックに掲載されいている生物を眺めるような目を向けた。
セオセオ、とドンは明らかに言葉を失った状態で名前を呼ぶ。
「ついこの間までの君はどこ行ったんだい?声をかける女性をとっかえひっかえ」
「誰がとっかえひっかえだ。ちゃんと」
「断りを入れてる?まぁ、最低なことやってる事実にはいい加減気づこうね。で、冷たくあしらってきたブリザードが!え、何何?女性の名前一つ聞けなくて、ジョギングなんて目じゃない速さで頑張って走ってる最中にチラ見で満足?君、誰だい?」
「…だ、いや、だ、だから、その。あ、あれだ!いやだって、そんな、用事もないのに話しかけるのは…変だろ?」
同意を求めてきたセオに、ドンはこれみよがしに深い溜息をついた。返す言葉も思いつかず、セオはもごもごと口の中で何かしら言い訳を考える。
こほん、と一つ咳をしてドンは綺麗な笑顔を浮かべた。
「用事もないのに、わざわざジョギングコースを変えてるのも十分変だと思うけど?セオがそうやって、変なことを止めようっていうなら、まずはこの明らかにジョギングには向いていないコースを変更すべきなんじゃない?」
「そ、それは!」
「それは?」
「…それは、その…い、嫌だ。み、見られなくなるし」
目が完全に泳いでいるセオととても楽しそうなドンの笑顔を見ながら、ジーモが流石に見ていられなくなったのか、その辺にしてあげたらと苦笑をこぼす。ドンはそうだね、とにこやかな笑顔をさらに爽やかなものにして、セオの方から手を退けた。
Grazie!と明るい女の声が店の中で弾けている。花束を抱えた初老の女性が穏やかに微笑んで見せから出てくると、雑踏にまぎれる。
そうだ、とドンはその笑顔を浮かべたまま、セオに話を持ちかける。
「セオ、俺は君の友達だものね。友達の恋を応援するのは、友達として当然!ねぇ、ジーモ」
「え、ああ、うん。そうだなー」
「ほら、ジーモ!セオを持ち上げて、あっちに投げる!」
「は!?ま、待て!お前どう考えても楽しんでるだけ…っ!おい、ジーモ、馬鹿!やめろ!」
ジーモの腕がセオの腹部をしっかりと抱え込むと、その巨体をぐっと軽々と持ち上げる。力馬鹿というだけはあって、地面をしっかりと踏んでいたセオの足は簡単に地面から浮いてしまう。
まだ少し顔が赤いセオの腕をドンは笑顔で軽く叩いた。
「まぁ頑張ってよ。応援してるからさ!」
「抜かせ!ジーモ、下ろ…っ」
せ、と最後まで言わせずに、ジーモは力任せにセオを投げ飛ばした。
上手く人ごみを縫うように投げられており、この野郎とセオは心の中で盛大にドンとジーモに悪態をついだ。だが、投げ飛ばされた状況は変わるものではなし。無様に顔面からスライディングは御免であると、セオは持ち前の身体能力で、宙で体勢を整えると、石畳の上をブーツに滑らせながら止まった。途中人にぶつかりそうになったので、慌てて手の平で地面をすりながら移動距離を縮める。
そこまではよかった。
だが、そこからが悪かった。最後の踏みとどまりは何故かつるりと滑りやすくなっており、ずるりと体勢が一気に崩れる。ああと思ったが、色々頭が混乱していることも作用した上に、今は緊張感がどうにも欠けているので、見事にそのまますっ転んだ。なんとも格好悪い。
畜生、とセオは顔面が石畳と挨拶をしかけたぎりぎりで両手をついて、それだけは防ぐ。手が摩擦で擦れたらしく軽く痛みが走る。あいつら覚えていろとセオは歯ぎしりをした。だが、それは上からかけられた声で止まる。
「…Buonasera?その、お怪我はありませんか、シニョーレ?」
「!」
しゃがんだ状態で、セオは声のした方を向いて硬直した。一方声をかけた女の方は、店頭に突然滑り込んできた奇妙な客の取り扱いに完全に困っているようである。
セオは慌てて立ち上がって、両手を大きく前に出して振った。
「だ、だい、だい、だ、だいっ、だいじょう、ぶ、です!」
緊張してしまって、上手く言葉が喉から出てこない。耳まで真っ赤になって、セオは自分よりもずっと小柄な、それはもう見ているだけだった女(ひと)を見下ろす。しかも今、話している。会話を。
あの二人を殴るのは止めようか、とセオはそんな風に考えた。
大丈夫と言ったセオの掌を見て、女はシニョーレ!と声を上げる。
「手の平、怪我されています。今、奥から何か…あ、でもその前に水で傷口を洗って」
細い手がセオの無骨な手に触れる。水仕事など、花屋をやっているためか、その手は決してセオが今まで相手をしてきた「女」たちの手よりも固かった。だが、それはセオの手と比べればずっと細く、そして柔らかかった。なによりも、温かくて優しい。
触れた指先に、セオはまるで条件反射のようにそれを振りはらって高い位置に持ち上げる。耳までと言わず、もう首まで真っ赤である。突然手を振りはらわれて、女はきょとんと目を丸くする。
「シニョーレ?」
想像以上に耳になじんでほっと落ち着くような声に、セオは脳内を完全にかき乱されながら、はくんと口を開いた。
「こ、この程度!つ、つ、唾をつけていれば、なお、な、治ります!ご心配なく!」
「…そう、ですか?」
奇妙を通り越して奇怪な客の対応に女は困りつつ、客に対する笑顔を崩さない。
「えぇと、本日はお花を?」
「は、花?」
「ええ。当店は花屋ですので」
「あ、ああ、花!花ですね!いや、花、その、花ですね。あ、あはは」
頬を引き攣らせて、セオはどうにも笑い声とは呼べない笑い声で対応する。しかし面倒な客相手も十分になれているのか、女はもう動じることを止めて、はいと笑顔で答えた。
「え、ぇと名前は」
「こちらのですか?」
「え!あ…は、はい」
貴女のだと言いかけた言葉は喉もとで止まって、結局肯定に落ち着く。セオの耳は、右から左へと花の説明を聞き流しながら、初めて話せる喜びと、逃げ出したい程の恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。
花の説明が終わり、こちらの花を?と女は尋ねる。それにセオは慌てて、いいえ!と答える。花花と考えつつ、セオは慌てて、カーネーションを!と叫ぶようにして指した。
「ま、マンマに、そう!もうすぐFesta della mamma(母の日)でしょう!」
「…カーネーション…ですか?」
「え?」
怪訝そうに潜められた眉にセオは口元を引き攣らせる。それに女は、困ったように口を開いた。
「いえ、その…母の日まではまだ二カ月程ありますが…」
「……いや、今日から毎日カーネーションを一本ずつ贈ろうかと…」
「でしたら、カーネーションよりも薔薇などの方がよろしいかと思います。ところで、どうしてカーネーションを?」
「あ、その、マンマの母国が日本で、その、そちらでは、母の日にはカーネーションを母親にプレゼントすると、き、きいてまして」
「お母さん思いなんですね」
「…いえ」
消え入りそうなほどに恥ずかしいとセオは、二か月先のカーネーションを買おうとした自分の失策に眩暈がした。
だが、そこで店頭に沢山の、他の花と比べると随分と量が多い花を見つける。セオの視線に気づいたのか、女は優しく微笑んで、ミモザです、と花の名前を教える。
「今日は三月八日ですよ、シニョーレ」
「…三月八日?あ、あぁ、そう、そうですね!俺もそう思っていました!」
そう言えば、今日はバッビーノがマンマを椅子に縛り付ける勢いで大人しくしていろと命じる日である。通称「Festa della donna(女性の日)」日本にはない風習だが、この日に男性は女性に日ごろの感謝の気持ちを込めて、ミモザを贈る。花とは無縁のバッビーノでさえ、この日にはミモザをいつもマンマにプレゼントするのである。勿論母の日には薔薇を。
何故初めからミモザを頼まなかった、とセオは落胆する。完全に見つめてくる瞳が、困ったお客様に対する目である。
「で、ではミモザと…その、薔薇を一輪、お願いします」
「ミモザはどれほど?」
「ど、どれほど?」
「はい」
「あ、あの、た、たくさ…………店にあるの、全部下さい」
「…か、かしこまり、ました…」
そんなに沢山どうするつもりなのかと、セオは自分でも答えられない質問に頭を抱えながら、つい全部と言ってしまった自分を悔やんだ。勿論時すでに遅し。
せっせせっせと女は店頭の四つほどある容器一杯に飾られていたミモザと一輪の薔薇を丁寧に花束にしてセオに渡そうとしたが、それをふと止める。
「お送りいたしますか?」
「いえ、それくらいなら持って帰られます。大丈夫です」
また見栄を張ってしまったとセオは二度目の頭痛を味わいながら、大量の花束で前方が全く見えなくなりながらそれをどうにか受け取ると、代金を払った。Grazie, signore!と優しい声が、花のせいで顔は見えないのだが耳まで届き、セオは幸せな気持ちになる。
そして、ああと思いだして、腕一杯に抱えているミモザを一つ抜いて女に差し出した。
「その、今日は、ミモザの日ですから…あ、貴女、にも」
「Grazie mille, signore!(どうもありがとう)」
「……Prego, non c’ e di che(どういたしまして)」
向けられた柔らかな笑顔に胸に暖かいものを広げながら、セオは目の前をミモザの花でいっぱいにしてその場を後にした。
見た?とドンはひぃひぃと笑いながら壁を叩く。
「き、きいた!?セオが、ぶっふ…!何あれ!俺どうしてビデオカメラ持ってこなかったんだろ!」
「…そんなに笑わなくても」
腹を抱えて笑うドンにジーモは困ったように眉を下げて、それに答える。
「あのセオが!ミモザの花で目の前一杯にしながら…っああ!なんて似合わないんだろ!駄目だ…もうこれは、末代まで笑い話にできるよ。今年一杯はこれで腹筋が鍛えられるね」
「でもあの花どうするんだろうなー」
あんな沢山の花、とジーモはセオが抱えていた大量のミモザの花を思い出す。ラーダじゃない?とドンは彼が溺愛する妹の名前を上げたが、ああいやと笑う。
「彼の母親にも、かな。あとルッスーリア隊長にあげるとして…最後の花束は?どうでもいいけど、セオってこれから母の日まで毎日薔薇を買いに来るわけ?」
「…そうじゃない?多分。有言実行だろうから」
俺の腹筋それまでもつかな、とドンはもう一度笑って、そしてセオが抱える花を少し減らしてやろうとジーモと一緒に、その花でいっぱいの背中へと走った。