Como e Lavinia - 9/12

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 お前達には分からないさ。
 青年の口はそう動いた。本来眼球が備わっている部位にガラス玉をはめ込んだ男がその動きを見ることは叶わなかったが、微かな空気の動きで、青年が言おうとした言葉は理解した。
 XANXUSが破壊しつくした廃墟のさらに地下、大量の血だまりとおそらくは出血多量で死に至った人間で、室内は生乾きの血の臭いが充満していた。嗅ぎ慣れたその臭気は、男に不快ではなく安堵をもたらした。幸い、この地下という状況も男の精神を穏やかにさせる要因の一つでもあった。眼窩に窪むガラス玉は動くことはない。男のさらにその後ろ、錆びついた脚で四本の長さが揃っていない椅子の上、腰を下ろしている男がいる。黒い服を纏う姿は不吉を呼ぶ死神のようである。伸びた黒髪の隙間から、赤い色が不機嫌も露わに覗いていた。感情を欠片も隠そうとはしない上司に拷問を仕事とする男はそれを雰囲気で感じ取り、自身には見えていない青年の唇の動きが見えているのだろうと考えて笑みを深めた。手の中で転がした、温度を持たない匣兵器の形を確かめる。
 咳き込み、青年は血を吐き出した。喀血の臭いもまた独特で、軽く酸の臭いがするため、男はそれを理解する。勿論、二つの使える眼がある人間は、青年が血を吐き出した光景を網膜から脳へと伝達した。
「誰が」
 低い、地獄のケルベロスをも従わせんばかりの声が地下室に設けられた一室にこだまする。コンクリートでできた床に広がる血液の縁はそろそろ乾き始め、赤黒い色を模してきている。
「そんなことを聞いた?てめぇは黙って聞かれたことに答えてろ」
 椅子に座っていた男はゆっくりと体を持ち上げると、脱力した状態で直に床に座っている青年の顎を下から上へと蹴り飛ばした。黒い革のブーツの靴紐が動きに合わせて靡くように揺れる。顎を蹴り飛ばされ、脳震盪を起こしかけた青年は背中から血溜まりの中に体を落とした。撥水性でもないその服は、背中から繊維を染みわたり、青年の肌に到達する。擦れた吐息がだらしなく開けられた口から零れ落ちた。
 赤とは対照の色がぼんやりと上に跨る男を見上げている。
 黒い塊を見上げ、青年は笑った。幼い日々に見た光景は白であった。病的なほどに白く、あらゆる汚れを嫌い抜いたような光景であった。空気中の埃すらも厭うた世界は、この真っ黒の物体に破壊されたのだ。復讐などと、頭でどう考えても不可能な事実を実行する気にはなれなかったし、そんなくだらない考えは一度も持ったことはなかった。家族も同僚も、好きではあったが、自分の残りの人生を賭けられると思えるほどの価値は彼らにはなかった。しかし、また、自分が生涯をかけて完成させたいと願ったものは、全く、哀しくなるほどに、一体どこをどう間違ったのか、限りない失敗作であった。嘆かわしい。
 青年の目尻に涙が溜まり、それが限界を超えた頃に頬を一筋の川になって伝った。
 暴力の限りを尽くされた顔は腫れ上がり、あまり言葉は美味く話せない。被検体が小さな扉から逃げていく時、自分の中で何かが崩れ落ちたような気が、青年はした。壊さなければとそれ以上に絶望のどん底に突き落とされた。期待し、胸躍らせ、その結果が、この部屋に転がる死体である。銃で撃ち殺した、名前も知らない人間である。
 ああ。青年の零した吐息を隣でしゃがんでいる男は耳にした。青年の、その年頃にしては薄い胸にブーツの底が乗る。みしり。常人の耳ではいささか聞き取り辛い音も、男の耳はしっかりと捉えていた。みぢりみしり。骨が悲鳴を上げている。肺と心臓を保護する役目を持った肋骨の強度は弱い。予想よりも簡単にその骨は簡単にひび割れ折れる。身長188cmもある男の体重が、その一つの足にじわりと加えられていく。拷問のプロフェッショナルの男からすれば、それは初歩の初歩、否、初歩ですらない痛めつけ方であった。尤も、青年を踏んでいる男はただ殺すことに長けた男であるので、拷問が如何なるものかをその真髄を知る日は来ない。
「てめぇだけか」
 返事はない。もとよりこの状態でまともな返事を期待する方がおかしい。一拍、その質問から一秒と経たぬうちに、ホルダーから即座に赤いXのアルファベットが飾られている銃口が閃光と轟音を放った。青年の右耳がもぎ取られる。正しくは、焼け千切れる。
 耳は拷問する際に敏感な部位の一つであるから、そう簡単になくして欲しくはねぇなあと男は思いつつも、それを口に出すことはなかった。滑らかな黒髪が、男が首を軽く傾げたことによって赤い色を際立たせる。厚めの唇がもう一度同じ言葉を紡いだ。
「てめぇだけか」
「そんなこと、お前達が誰よりも知ってるだろう」
 その言葉が青年の口から零れ落ちたと同時に再度閃光が青年の残っていた左耳を食い破った。シルバーブロンド、ほとんど白髪にすら見えるその髪の毛が幾本か焼き千切られる。痛みを感じる機能が働いていないかのように、薄ら笑いを浮かべた。随分とイかれちまってる、と男はその青年の笑いを上から眺めながら、ぼんやりそう思った。
 自分の体の一体どこが損傷しているのかを冷静に分析しながら青年は肺から溢れた血液を押し出し、口角から床へと零す。
「僕らを滅ぼしたお前達が、その真実を知らないはずがないだろう。枯れ木一本残さず、根こそぎ焼き尽くしたお前達がそれを聞くのか?論理的じゃない。全てを知っていながら問うのは、愚者か狂者のすることだ。そうだろう?独立暗殺部隊VARIAのボス。僕の、全ての仇」
 青年の口から零れた恨み言に対し、XANXUSは一言も返すことはなかった。ただ赤い目を細め、踏みつけた足の下の青年を見下ろしている。
「僕の全ての過去と未来を奪ったな。建設的な意見じゃないことは僕も理解している。はは、研究者としてらしくもない。あー…僕の、全て」
 台無しだ。
 青年の口がそう動き、声にはならなかった。恨みがましげな視線が向けられ、その動きで踏まれた部分が痛んだのか、また口から血の泡が溺れる。鼻の穴から、赤い色が流れ落ちて見えた。
 視界が、次第に霞を帯びてくる。耳が遠くになる。喉奥で六本足の何かが食道を叩いていた。青年は冷静にそれが一体なんであるのかを分析し、そして理解し、結論付けた。無様な最期である。負け犬の遠吠えは、自分の声なのだと青年は思う。指先がぬめる血の中を泳いだ。
「ご…ぶ、ふっ、僕は、ただ完璧が、見たかっただけなのに。あんなに、美しい生き物だったのに。どうして台無しにしたんんだ。あれは、僕の最高傑作だったのに。僕のあらゆる全てだったのに」
 青年の言葉の一切合財を無視し、XANXUSは銃口を青年の頭部へと照準を合わせた。銃口に目が潰れるほどの眩しい光が集まっていく。
 消えていく焦点をぼんやりと眺めながら、青年は笑う。鮮やかな光に記憶も何もかも飲み込まれていく。それと同時に内臓が、蟻に食い潰されていく。尋問という経験を生まれて初めて味わった。自分が創った兵器の養父となった男に銃を向けられ、暴行を受ける前に、吐き気がする程の眩暈を覚えた。ははと笑った声は、蟻に食われる。胃が腸が肝臓が心臓が脳が、肺が、全てが、焼き尽くされる前に蟻の胃の腑に収まっていく。笑う。
 すべてがきえうせる。
 論理的に見れば十分におかしいその結論も、青年は笑って笑って、そして、
「僕を、買わないか」
 死神が傍らで鎌を振り上げている事実に気付きながら、青年は薄笑いをXANXUSへと向けた。
「八号の整備や、これからの開発を考えたら、僕を、今ここで殺すのは、惜しいと思わないか」
 馬鹿なことを言ってやがんねえ。
 ガラスの目玉の男は、ジェロニモ・ロッシは自身の匣の中身が青年の臓腑を食い荒らしている事実を感情を欠片も揺らさずに実感しながら、僅かに首を傾げて地面に広がる光景を聞いていた。しかし、青年の言葉に対した上司の返答も、何を言わずとも理解していた。このXANXUSという男の中にはそれ以外の答えはないのである。
 厚ぼったい唇の間から、舌が弾く。
「てめーみてえな役立たずは、俺達にゃ必要ねぇ」
「役立たず」
 そしてジェロニモは珍しく自身の上司が軽く饒舌になったのを聞く。引き金は未だ引かれない。
「意思のある兵器と、ない武器はどっちが役に立つか分かるか?糞餓鬼」
 青年の耳にXANXUSの言葉が届いているのかどうかは定かではない。青年の、その深みを帯びたブルーを内側から一匹の蟻が食い破った。ぶちゅりと眼球を内側から推していた液体が眼孔に零れる。青年は痛みを感じていないのか、それとも元からそうなのか、或いはそうなるような薬を自分に打ったのか。死んでいるのか。その反応はただただ薄い。薄く開けられた口から、呼気が零れているあたり、まだ青年が生きていることを示している。尤もそれは、思考が止まっているか動いているかの証明にはならない。
 銃口をそらさず、光球を眩しいものにしながら、XANXUSは独りごちた。
「てめぇの頭で考えられねえ奴ほど、カスな奴もいねぇ。命令に従うだけのカスを完璧だなんざほざくカスに貰い手は一生つかねぇな。死体でママゴトやってんのが、一番似合いだったんじゃねえのか、ドカス」
 青年の残された目が落ち窪み、そして黒い大軍の腹に消えた。そうして、その喉の奥から溢れかえらんばかりの黒い渦に青年が飲み込まれていく中、XANXUSは引き金を引いた。最後の言葉が青年の理解に収まったのかどうかは、男の知るところではない。青年の上半身は、まるで鮫に食われたかのようにずっぽりと消えてなくなっていた。
 その光景を隣で聞いていた男は、あーあぁ、と肩を落とした。
「どうしてくれるんでさぁ、ボス。俺の匣兵器まで破壊しないでくだせえよ。そりゃあ最近食い意地が張ってきっとはいえ」
「るせぇ」
 焼切られた上半身、焦げた脊髄が、ぢりと欠け、そしてそこからなお黒く小さな生き物が溢れ、焦げた肉と血を啜っていく。ぞっとする、身震いを覚える悍ましい光景であったが、しかしXANXUSももう一人、そこにいた男も感慨深げもなくその現状に立っていた。
 じゃりと男は項を古傷の多い手でなぞるように掻く。指先に短く刈った髪の毛が凹凸に合わせて感触を残していく。
「そういや、ボス。今回は何で俺だったんですかいね」
 ぼりん。
 蟻が死体を片付けていく音を一つ一つ耳の鼓膜で拾いながら、男はXANXUSに尋ねる。上司である男は、部下であり、拷問を専門とする男、ジェロニモ・ロッシに、ジェロニモにはない眼球を動かしてねめつけた。視線を肌で感じ取り、他意はないですぜ、とジェロニモは一つ断る。
 足元に蟻が一匹、六本の足を器用に動かしながら、その触覚でジェロニモのブーツに触れる。腰から曲げて指先を伸ばし、人食の蟻をその先に乗せる。驚異的な生物兵器は主の血肉を食らうような真似はしなかった。
「シャルカーンの野郎でも、いいはずですぜ。むしろ奴の方が、俺としちゃあ適任だったと思いますがねい」
 ジェロニモの言葉に、XANXUSはく破られていく青年の肉の器を眺め下していたその赤を質問をした男へと向けた。自らの下手であったかと思わせる程の赤く鋭い眼光が揺れ動いた。その視線は眼球のない男に向けられてぴたりと止まる。背筋を張った寒気にジェロニモは口角を小さく引き攣らせた。冗談でさぁと誤魔化す前に、赤い色一つでそれ以上の弁明を禁じられた。
 ばりん。
 蟻はとうとう青年の骨を齧り始めた。内部の柔らかな液体から貪っていく。物言わぬ死体は、それ以上何も語ることはなかった。元より聞き出したいことは、ジェロニモの手によって全て聞いていたので、今更死体に何を語らせるまでもなかった。元々は人だったものは、いつの間にか、ただの蟻の餌に成り果てていた。食物連鎖、の外のことである。
 黒いブーツに付着するはずの血液すら啜られ、まさに、細胞の一欠けらさえ残さぬ勢いで青年の体は消えて行っていた。その代りに、黒い塊が一つ二つと増えていく。増えていくばかりの昆虫の形を模した匣兵器は不気味ささえ感じられ、部屋を埋め尽くさんばかりの勢いで増え続けている。
「Tieni la bocca chiusa.(口を閉じろ)」
「Va bene, va bene, mio capo.(分かったよ、ボスさんよ)」
 声を荒げない分、男の声は静かに通る。いっそ、怒鳴りつけた方がその恐ろしさも半減したものである。穏やかにではなく、一言苦言でも呈そうものなら、消し炭にされそうな口調だからこそのこの畏怖であるが、ジェロニモは、両手を上げ降参のポーズをとることで、それを示した。自身の上司がどのような人間であるかは、スクアーロよりは短いものの、よくよく知っている。
 とうとう白い骨の一欠けら、赤い血の一滴すらなくなった床の上に、黒い蟻の群集ばかりが残った。もぞりと不気味に動いたその塊を、ジェロニモは匣兵器に戻すことで解決する。黒く蠢く生き物が消えた後の部屋は綺麗なもので、つい先程まで、ここに死体と血溜まりがあったことなど、誰一人として思わないだろう。匣に戻り損ねた蟻が一匹、床の割れ目を彷徨っている。どこに行くでもなく、どこに行きつくわけでもない。右も左も前も後ろも、何処にもいきつくところのないその思いは想像しかねる。こちらにもあちらにも行けない受け入れられない求められない。
 青年の心中如何ばかりか。
 それを想像で補うことは下らないことである。ジェロニモはそうしてきたのであれば、自分は今頃発狂していることだろうとそう信じて疑わない。果たしてどんな思いで、青年は少年のころ両親とその仲間の死を聞いたのか、どんな気持ちで生きてきたのか、それは惨めで仕方がなかったのだろうか、青年はどうして死体処理を始めたのか、試験体から路地に転がる死体へと、整えられた設備から虫が這いまわるような環境への転落は青年に果たしてどのような思いを齎したか。そんな落ちぶれた状況の青年が、かつて、彼が何不自由なく研究していた頃に創り上げた被検体を発見した時の気持ちは。思いは。感情は。そして、それが実は青年が思い描いていたような完璧ではなく、青年にとっては致命的な欠陥があったと知った時の絶望の度合いは。
 そう言えば、とジェロニモは思い返す。
 この青年の資料を見た時には、随分と口を割らせるのに手間取りそうかと思っていたが、実際にやってみれば、ものの四五分で口を割ったなと。何しろ、何を聞くまでもなく、青年は自ら口を開いた。失敗作などどうでもよいと言わんばかりの態度であった。否、青年にとってあれは既に失敗作で、それに関する情報など至極どうでもよかったに違いない。青年は、悟ったのかもしれない。この世の中に完璧などというものは、どこにもないことを。人の口に戸は立てられぬよう、どこに漏洩しない情報もない。だからこそ情報屋が存在するのであるし、自分たちの存在がまことしやかに語られているわけでもある。語らない、それは口だけはない。語るのは、人の表情、空気、ありとあらゆるものが、情報を語る。尤も、現在この世の中で便利なのは、言葉とそして映像である。それを聞きだすのは酷く大儀で、しかしそれを主な仕事にしてる自分も大概なものである。
 青年と自分の違いは何かと問われれば、たった一つであろう。ただの、それは偶然である。
 自分は拷問が、拷問器具が好きで、好きで好きで。青年は好奇心が貪欲で、ただ己の求める完成を待ち望んでいただけである。青年は食われるべくして食われ、自分は生き残るべくして生き残っている。ボンゴレファミリーかコモファミリーかという違いだけであった。世が世なら、時代が時代なら、もしボンゴレが最強ではなかったら、コモが最強であったなら。今頃微生物に食われるのは自分であったはずであろう。
 結論は、ただ、そうならなかった。
「仕方ないねい。こればっかしは」
 どうしようもならない。
 最後の、うろついていた蟻を匣に戻す。
「ボス」
 ジェロニモはコートを翻した男の背に声をかけた。脛を覆うブーツが、音を立てて止まる。赤い瞳が鬱陶しそうに向けられた。この男が、他の何に心を揺るがすこともなければ、ボンゴレは最強である。
 自分もまた、拷問をし続けたい。あの美しい音楽のなる地下室で。
「それで、無事なんでさあ?ちびっこ共は」
 小さなJr.。初めて怯えたのは地下室でだった。
 眼前の光景を受け止められず、わんわんとしまいには泣き出したと聞いた。その男の子は今では銃を握り、ボンゴレの牙と盾になっている。ラーダには滅多に会わないけれども、彼女が通った後の床は大層綺麗に埃一つないので、いる、ということは認識していた。拷問室に彼女が来たことはなかった。それでもとジェロニモは思う。ラーダが、彼女が自分の仕事を見て怯えることはないだろうと。それだけは確信していた。何しろ、彼女はもっと陰惨な光景を目にしているはずであろうから。そういう人間は、自分のような仕事が向いている。一度、スカウトしようかと思ったことさえあった。しかし、その戦闘能力の方を買われ、彼女は現在戦闘部隊の方にいる。残念である。
 振り返ったXANXUSにジェロニモはありきたりな、しかし、この環境に置いては非常に珍しい言葉を言った。
「心配ですねい」
「死んじゃいねぇよ」
 自分の子供を半殺しにされて、怒っていたのか。
 自分たちの職業を鑑みれば、ファミリーを殺されたからといちいち躍起になると身が持たないし、全く下らない。弱いから死ぬのであるし、弱いから怪我をする。弱者は、もはやそれだけで価値がない。この一点において、VARIAと通常のコーザ・ノストラは異なる。仲間を、家族を殺された場合のコーザ・ノストラのすることは、一つであって、それは報復である。自分たちの場合、それだけが違う。殺されるのは、殺される方が悪いのである。卑怯も卑劣もありはしない。勝者が生き残り敗者は死ぬ。
 それが、普通なのである。確かに、武力をもたない息子を娘を妻を己の家族を殺されれば、報復にはでる。しかしながら、XANXUSという男の場合、多少異なっていた。彼の子供(等)は既にVARIAの一員であるし、そうなるとやはり彼の息子が怪我をし、彼の娘が倒れているのはやはり弱いからに他ならない。責めるべきは自分の指導であり、彼らの弱さであって、敵の強さではない。
「危機感でも持つんじゃねえのか」
「そうですねい。負けて生きてるなんざ、余程運がいい」
「ああ」
「ちびっこ共ぁ、これからが伸び盛りだ。楽しみじゃねえですかい、ボス」
「そうだな」
 適当な返事の中に、彼のほんの僅かな感情が感じ取れる。うちのボスはこれだから、とジェロニモは口を三日月に笑った。うるせえと放たれた弾丸を慌てて避け、失礼しやしたと声を潜める。
 一つの地下室から、そうして二つの人影が消える。部屋の中には何もない。誰も彼もそれもどれもこれも。何も、ない。

 

 ガラスの向こう、集中治療室には少女の細く白い手がくったりと垂れている。ベッドに寝かされ、幾本もの管が繋がる姿は痛々しい。真白な病室は、異常なまでの清潔感を保っていた。部屋の中では緑の防護服を纏う人間が数人ちらほら慌ただしく動いている。その中で交わされる言葉は、その部屋の人間にしか分からない。マスクが被せられた口から、唇を読むことは不可能である。
 その光景をガラス越しに眺めていた女は、冷たい、温度を持たない、そのガラスの向こうは絶対温度調節が行われている世界の反対側で、無力さに悔しさを覚えながらガラスに手を触れた。ぺったりと掌が全てつく。下唇を噛み締め、額をつける。どんなに心で想うとも、ガラス向こうの光景が何一つ変化しないことを女は知っていた。
「大丈夫かぁ」
 その背中に間延びした、大きな声がかけられる。普段よりもそれは随分と控えめに掛けられた。大丈夫か。娘の養母である女、東眞はその声に首を回し、声をかけた男の名を口にする。それは鮫のイタリア語でもある。銀色が、黒髪の隣に立ち、同じようにガラスの中を眺める。それはスクアーロの銀の瞳をもってしても、やはり少女は幾本もの管に繋がれ、それが取り除かれることはない。
 目の下に隈ができている東眞を斜め上から見下ろし、スクアーロは軽く溜息を吐く。
「寝ておけぇ。そんな調子じゃ、てめぇの方が先にぶっ倒れるぞぉ」
「寝てますが、眠りが浅いんです。どうしても、気になってしまって。セオも、ラヴィーナも」
「…Jr.は治療も終わった。輸血も済ませてんだぁ。何も心配いらねぇ。あいつは、助かる」
 そして、こっちは、とスクアーロは横たわる少女へと視線を戻した。
 外傷はない。それはスクアーロがXANXUSと共に現場に到着した時にいの一番に確認した。しかし、重症なのはセオよりもラヴィーナの方だった。セオも九死に一生を得たようなものだったが、ラヴィーナは目が覚める気配がない。未だに彼女の目を覚まさせないのは一体なんであるのか、スクアーロはには理解の及ばない領域である。兄を心配し、自分にまで攻撃を仕掛けようとした少女が一瞬に腕の中で力を抜いた。ぐったりと落ちた体は重たく、そしてスクアーロが知っているラヴィーナよりもずっと大きかった。
「別人みたいだなぁ。親の知らねェところで、随分とでかくなってらぁ」
 慰めにもならないが、場の空気を読み、そうなんとなく口にした。数分経ってから、それに対する返事がなされる。かなり東眞も参っている、スクアーロはそう感じた。
 彼女がいくらXANXUSの妻であっても、我が子を心配する気持ちに変わりなどない。おそらくそれは、世間一般の我が子を愛する母親の気持ちと大差はないであろう。子が死にそうになれば、私でできることならば何でもするとそう額を地面にこすり付けて助けを請う母と同じである。
「驚き、ました」
「ずっと小せぇままだったからなぁ。俺はずっとこいつはガキのままかと思ってたぜぇ」
「そんなことは、ないですよ」
 静かに否定され、スクアーロは視線だけを上司の妻へとやった。斜め上から眺めれば、眼鏡がかけられているのがよく分かる。黒縁の、その眼鏡。
「成長します。ラヴィーナも、セオも」
「そりゃなぁ、成長…でっかくなってんだ。特にJr.なんてきたら、もうボスとそう身長も変わらねぇ。その内、ボスの背も越えるんじゃねぇのかぁ」
「男の子はこれからですから。大きくなると思いますよ」
「…東眞」
「何ですか」
 何を言おうとしているのか、スクアーロにはよく分からなかった。つるりと出たその名前は、目の前の子供をぼんやりと視界に入れつつ、会話を運ぶ。
「これから先、きっとこれ以上の事態が考えられる。てめぇ、それを耐えきれるかぁ。ボスの、XANXUSの傍に、ずっといてやることができるかぁ」
 子供が傷つき、殺された母親は始末が悪い。スクアーロはそういうファミリーをいくつも見てきた。
 何しろこのような世界である。女子供を殺さない、というのは所詮ボンゴレ、ボンゴレ本部にしか過ぎない。一方でVARIAのように女子供容赦なく、ファミリーの敵になるならば血の道を築くことをいとわない組織もある。何もかもが、ボンゴレファミリーと同じではなく、コーザ・ノストラの矜持は既に形骸化し始めている。売春、薬、俗にいえば非人道的な物に手を出すファミリーも少なくない。むしろ、そちらの方が一般的である。
 ボンゴレファミリーが如何に最強であろうと、死人は出る。死はつきものなのだ。それは、人を選ばない。子供、女、男、老人。どんな命も敵からしてみれば、ただの憎い奴らに他ならない。マフィオーゾの妻になる女は、多くの場合がこちらと完全に切り離される。故に、子供を敵対ファミリーに殺された時、なぜ殺されたのか、その理不尽さに気が狂う場合がある。報復と、彼女達の平穏は両立しないのである。
「ずっと」
 あの男が、一人で椅子に座る姿を、スクアーロは容易に想像できた。彼は、ずっと一人であった。独り、であった。
「いてやれ」
「います」
 スクアーロが最後まで言い切る前に、東眞はガラスの向こう側を眺めながら、そう告げた。スクアーロの方へと顔は向かない。ただ、ガラス向こうを眺めている。その姿は、まるで現状を飲み込んでいるかのようだった。
「ずっと、死ぬまで。何があっても」
「…そうかぁ」
 下らねぇことを聞いた。
 スクアーロはそう続け、そして廊下の端にあった椅子に腰かけ、その長い足を振って組んだ。少女から、やはり管が取れることはなく、機械から除く波状のラインは、ひどく規則的に波打っていた。
 それは、彼女がまだ生きている証でも、あった。