Como e Lavinia - 8/12

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 肩に担いだ体は力が完全に抜けきっており、常時よりも倍くらいには男の体に負荷をかけた。ぐったりとだれた腕は、鮫の巨体が泳ぐに合わせてぶらりと揺さぶられるようにして動く。それでも、担ぐことには手慣れているのか、常人が行うそれよりはかは、青年の体の傷に触る回数は随分と少なかった。
 雨の炎を纏った己の匣兵器にその青年の体を乗せようかともスクアーロは一時は考えたが、ラヴィーナが首にしっかりと腕を回しているために上手く身動きが取れず、ともすれば、セオの体を落とすことにもなるため、諦めて肩に担いだままになっている。しかし、そろそろ本部から出た救護班も遅れ足ながらも近辺には到着しているはずである。360度ぐるりと大きく周囲を見渡し、姿の有無を確認したが、黒の闇夜に動く姿は確認できなかった。どうしたものかと、思考を巡らせたが、結局行き着くところは、応急処置が可能な家屋に一刻も早く滑り込むだけである。近くにボンゴレ関連の施設の有無を確認するものの、手ごろな物件は記憶の中からは漁れず、やはりスクアーロはただ血を吸い込み重たくなっていくばかりの体に舌を打った。血液ばかりではなく、首筋には声もなくしゃくりあげているラヴィーナの涙が滴っている。泣く暇があれば、降りて走れと叱咤したいところではあったが、余計に時間を食うので、それを行うことはしなかった。
 そこから2kmくらい走ったところで、視界に金色の尻尾が踊ったのを認める。足を止め、その小柄な体が自身と同じ高さの屋根に到着したのを見下ろし、スクアーロは暗闇にはどうにも目立つ白衣を着た女に、遅えぞぉと文句をつけた。それにぱっちりと開いた目を二三度瞬かせ、すんませんと女は頭を下げた。
「遅なりました、スクアーロ隊長」
「…ルッスーリアはどうしたぁ」
「ルッスーリア隊長は他の要件で出向いとります。せやから、こっちにはうちが来ました」
 そう言いつつ、到着した女はスクアーロの肩に担がれているセオの容体を尋ねる。それにスクアーロの眉間にきつい皺が寄ったのを見、そんなに悪いんですか、と多少イントネーションの異なる言葉で問い掛けた。
「重体、なのは違いねぇ」
「骨折は」
「右腕。後は、おそらく肋骨も何本かやられてるなぁ」
「ラヴィーナの方は」
 スクアーロの首にかじりついたままの少女へと女が視線を動かし問うと、ああと銀色の髪を揺らせ、それに外傷はねぇと付け加える。数秒の間を置き、女は、ここではと繋げた。
「うちのオッタでの治療は無理です、隊長。ラヴィーナの方も、一応精密検査しといた方がいいと思います」
「治療は無理かぁ」
 舌打ちをした上司に女は悔しげに唇を噛み、視線を斜め下に落とした。
「この状態で、炎による治療を行うと折れた骨が変にくっつく可能性があります。せやので、まずは一般的な外科手術を受けさせる必要があります。特に、腕は今後のことも考えると、完治させなあきません。ここで、オッタで無理につけることもできますけど、うちは得策ちゃうと思います。ラヴィーナ、うちが預かりますから、隊長は」
 そこまで言いかけて、スクアーロは口角を落とした。フランカ、と一員の名を呼ぶ。
「そうしたいのは山々なんだがなぁ、ラーダの野郎、俺の首を放しゃしね、」
 最後まで言い切ることはできなかった。首にかじりついていた小さな体から瞬間的に力が抜け、腕から零れ落ちた。落ちた、既に少女のものになっている体は慌てて差し出されたフランカの手によって、屋根の上から転げ落ちるようなことはなかった。落ちた体を抱き直し、フランカは慌ててその体を屋根の上に横たえさせ、呼吸と脈拍を確認する。
「どうしたぁ!」
「い、いけます。ただ、脈拍数が異常におおなっとります。適切な処置取らな、まずいことになります。触った限りでも、骨が折れ取ることもないようですし…内出血も見られません。考えられることとすれば、この異常な成長具合だけです」
「マッタクですネ」
「シャルカーン!」
 暗闇の天井から落ちてきた男にスクアーロは目を見張る。相変わらず神出鬼没で、訳の分からない男であった。褐色の肌は闇夜によく混じり、その姿を視認困難にしている。指先まで覆い隠す長い袖先で、シャルカーンはフランカの隣に横たえさせられているラヴィーナに手を伸ばし、首筋に軽く触れると、フンと小さく声を零した。一連の動作を静かに見守っていたスクアーロだったが、とうとう業を煮やし、どうなんだと次第に冷たさを増していく血が染みこみはじめた服の不愉快さを覚えつつ、男に尋ねた。答えを求められたシャルカーンは、袖で顎先を軽く擦りつつ、その笑みを変えず湛える。
 そして、そのシャルカーンの肩に柔らかく黒い猫が乗る。体をしなやかに滑らせ、両前足を滑らかなラインを描いている肩に落とした。
「ナニカの薬品を投与されたようデスネ。彼女にとっての成長促進剤、トデモ言うべきでしょウカ。シカシオソラク」
「おそらく?勿体ぶってないでとっとと言えぇ!」
「ソウ怒鳴らないで下サイヨ。耳がイタイデス」
 セッカチデスネと口先を軽く尖らせつつ、シャルカーンはスクアーロが担いでいるセオの体に指先を伸ばし、探るように肌に触れると強く一点を押した。それと同時に、肩に感じていた血液が染みこむ感覚が失せ、止血をしたのだとスクアーロは理解する。止血ができたのは幸いだが、状況のひどさはそう変わってはいない。どちらにせ、一刻も早く外科治療ができる場所を探さなくてはならず、そしてシャルカーンがそちらを得手としていないのをスクアーロは承知していた。誰か、と口を動かすが、その前に、シャルカーンの袖が言葉を止めるようにスクアーロの口元に差し出された。
 紙のように白くなった顔を細い、まるで糸のような目で眺めつつ、シャルカーンは含んだような笑みを添えた。その肩に乗っている猫が、するりと影を揺り動かす。一瞬スクアーロはその行動に警戒を示したものの、大丈夫デスと念を押され、大きく動くことはしなかった。あ、とフランカの驚きに彩られた声が夜を震わせる。ぎょっとして視線を動かせば、ラヴィーナの体が黒い影に、底なし沼に落ちていくかのように飲み込まれていった。
 眼前で起こった、まるでSFのような光景に目を瞬かせているスクアーロにシャルカーンは口角をさらに吊り上げた。普段から顔に張り付けてある笑みがさらに深められる。
「ソチラも、お預かリシマショウカ」
「あ゛あ゛?う、うおぉお゛おい、てめぇ一体何やって…」
 肩にまで這い上った黒い影に体を緊張させたが、それは肩に乗せられていた重みを取るに終わる。セオの体が消え失せ、正しくは黒い影に飲み込まれ、スクアーロは突然軽くなった肩に体勢を崩す。
 何をした、とスクアーロが問質す前に、シャルカーンはいつの間にやら肩に懐くように乗り、頬を擦りつけていた猫を袖で撫でる。
「最高の状態で保存中デス。治療は本部で受けてモライマショウ」
「…それで、医療班の精鋭の代わりにてめぇがココまで来たってわけかぁ」
「大切な医療機器を持ち出スヨリ、随分と効率的デスカラ」
 軽く流したシャルカーンに、スクアーロは肩を払いつつ、一つ鼻を鳴らす。隣に呆然と座っていたフランカの背をそのブーツで軽く蹴り飛ばす。
「呆けてんじゃねえぞぉ。とっとと、外科手術が終わったら、てめぇの能力が必須になる。ちんたらしてネェでとっとと戻れぇ」
「は、はいい!!もどっ、戻ります!」
 恐ろしい怒声を響かせられ、フランカは小さな体を一度大きく震わせて、飛ぶように本部へとその体を走らせた。
 小さな体があっという間に小さくなったのを確認し、スクアーロはシャルカーンへと顔を向ける。先程とは全く異なった顔付に、シャルカーンは僅かに笑みを含ませてみせる。
「ナニカ」
「…てめぇの見立てはどうなんだ。シャルカーン」
「見立て、トイウト?」
「とぼけるんじゃねぇ」
 舌打ちと共に、あからさまな苛立ちが含まれた言葉にシャルカーンは喉を震わせ、口元を袖で隠して笑う。隠したところで、糸のように吊り上った目はどこか人の神経を逆なでする。そればかりではなく、この男の纏う雰囲気だろうかとスクアーロは思い直す。XANXUSが人を委縮させるタイプの空気であれば、この男は全く理解できない、人に対して不安感を覚えさせるような人間である。
 スクアーロの問いかけに、ソウデスネとシャルカーンは肩に乗った猫が鳴らす喉を撫でながら答える。撫でられた猫は去って行ったフランカを追うように、するりとその姿を陰に溶かした。相変わらずのイントネーションがスクアーロの鼓膜を叩く。
「ラーダは、マァ、心配いらなイト思いマスヨ。診たトコロ、体ガ能力に耐え切れなくなりデモシテ、防衛本能ガ働いたンデショウ。シバラク…どれ程になるかハ、見当もつきませンガ、生死に関わるようなキズではアリマセン。喉ノ損傷がヒドイデスガ、時間をおけば自然治癒シマスヨ」
「Jr.は」
「九割は」
 死にマス。
 今でサエとシャルカーンは続けた。
「生きてるノガ不思議デスヨ。トテモ。正直言いマスト、ワタシの匣のナカでも持って一時間とイっタところデショウ。ネコサンの移動速度を考えても、厳しいデス」
「厳しいかぁ」
「厳しいデス。モチロン間に合エバ、VARIAの医療設備デス。助かる見込みは高イ。時間との勝負デス。出血量ガ多いノガ問題デス」
 スクアーロはシャルカーンの言葉を最後まで聞き、銀色の髪を泳がせた。ざらと流し、視界の隅を流れた銀を見て、シャルカーンはくつと三角を作り見せる。
 この男が嘘を吐くことはなく、問われたことには正直に答える。裏を返せば、問われないことは答えない。そういうところがイケ好かないのだとスクアーロは視界から外したシャルカーンの相貌を容易に思い浮かべながら、舌打ちを零した。
 血の臭いが染着いた洋服は重たく、肌にしっとりとへばりついている。仲間の血で汚れるのはどうだろう、久々であるとスクアーロは思う。それが、よく知った人間の血であるならば、それはもう何十年来と記憶にない。奪ったのは常に敵の血であり、仲間の血ではない。セオが死んでしまえば、あの男はやはり悲しむのだろうかと、報告を受けると同時に椅子から立ち上がった男の背を脳裏に描く。
 耳の奥、鼓膜のさらに奥から銃声が響いたような気がした。自分達が向かったあの場にはもう既に、死体すら残っていないのだろうと、しかしこれが日常であると、母親に報告すればひどく悲しむのだろうかと、頭の中に巡り巡る思考をまとめながら、スクアーロは、失礼シマスと隣を去ったシャルカーンの背中を目線で追いながら、自分も屋根を蹴る足に力を込めた。

 

 泥沼である。
 四肢は重たく、もがけばもがくほどに呼吸のできない底なし沼に引きずり込まれていく。吐き出した息の代わりに肺腑には泥がたまり、呼吸を阻害する。視界はただただ暗く、身動き一つれない。頭に響くのは、哀しいばかりに己の無力さばかりである。
 そうだと、セオは思う。ひょっとして自分は死んだのではないかと感じる。しかしながら、常識的に考えて、思考を司るのは総じて脳であり、それが死んでしまえばこのように意識を巡らせることもなくなる。ならば、今のこの状況は、心停止だろうか。死ぬのか。死んだのか、セオは目を開けた。目を開けている時点からさらに目を開けるという行動の不思議さを何の疑問もなく行う。
 あまりの眩しさに眩暈を覚えた。情けない呻き声は口の上に覆いかぶさっている酸素を供給する機械によって外界への直接的な発音を遮られた。うすぼんやりとした視界の中で、金属音が耳の中に残る。指先から、どこまでも皮膚の感触さえもなく、物事を認識するために活用できるのは視覚嗅覚のみに限られていた。眼球をぐるりと動かせば、腹の中と、そして腕の筋肉がめくれあがっている。自分の周囲に群がる白衣で完全防備した人間は医者である。生きているのだろう。夢でさえなければ。セオは痛みもなく、自分の体が切り開かれている光景を淡々と見つめていた。
 父親であるXANXUSが来たからにはもう、ラヴィーナは助かっていると見ていい。スクアーロも来ている。ならば、ならば大丈夫である。それに加え、自分がここに横たわっている事実もそれに真実味を増した。
 よかった。
 声にはできないが、ただただ安堵ばかりをする。腹を切り開いている様子を患者が見ないようにしてくれるくらいの配慮はないのかと一般的な病院における手術のサービス環境の良さを思い知ったが、しかし、人の臓腑を見慣れている人間に対してそれをしてもあまり意味がないのだろうかと思い直す。
 腹と腕が、何かを埋め込んで閉じられていく。腕も肋骨も、感覚的には間違いなく折られていた。
「気付いとん、アホ」
 フランカが話しかけ、その浅黒い色の肌の中に二つ揃っている大きな青い瞳が覗きこんでくる。セオは瞬きを一度し、それに是と答えた。
「もう、平気やで。生きとんよ」
 もう一度瞼を落とし、受け答えをする。喉を動かし、肺の空気を押し出すことによって声を発生させることは、何故だか疲れ切ってできなかった。
 セオの反応に、フランカはしっかりと頷く。
「ジーモもドンも、心配しとった。手術室の前で待っとる。今回の傷が落ち着くまで、オッタは使わんよ。そんなことばっかりしよったら、自己治癒能力が落ちるからな。ちょっと休まなあかんけど、久々の休暇や思てゆっくり体休めとき。ラヴィーナもな、ちゃんとこっち帰って来とる。生きとるよ」
 医師であるフランカの口から改めて、ラヴィーナの安否を聞き、口元を小さく笑わせた。よかった、と唇だけ動かす。
 縫合が終了し、諸々の最終検査が行われていき、体を横たえさせているベッドが扉が開き、手術室から外へと運び出される。セオ、と立ち上がった母の姿を認め、セオは指先を動かし、大丈夫だということ示そうとしたが、動かずに下唇を軽く噛み、満身創痍の自分に悲しげな顔をしている母の姿を見ているだけにとどまる。その隣に、立つ、ひどく大柄のジーモと、それに対比するとひどく小柄なドンもベッドに寄り添い、それぞれに安堵の表情を浮かべていた。
 フランカはセオの頬を撫でた母親に、状況の説明をするため別の小部屋に案内する。そして、セオは隣に立つ、友人二人へと視線をやった。
「君、しぶといよねぇ。よく死ななかったね」
「ドン。でも、うん、よかった。よかった、セオ。全部治るまで、時間かかるようだけど、心配することないよ。俺もドンも、セオの分まで頑張るからなー」
 頑張れるのかよ、とセオは軽口を叩こうとしたが、やはり腹に力は入らなかった。声すらも霧がかかったようにしか聞こえず、視野もそろそろぼやけてきてはいた。ひどく眠たいのである。眠ってしまってもいいのか、少し悩む。そこでセオは、丁度病室に入る前、角の所に立っている黒い人間に気付く。
 XANXUSの隣で、運ばれてきたベッドは一時止まった。
 赤い目が自分を見下ろしてきている。いつもの光景だが、それの意味合いは大きく違う。バッビーノ、と口だけ動かす。それだけで父親には、今現在で言えば、VARIAのボスである男には十分伝わることをセオは知っていた。黒髪から覗いている首筋にくすぐったいほどの羽は、XANXUSの動きに合わせてゆるりと揺れた。真っ赤な、吸い込まれそうな、母が愛する瞳をセオは、両親の色の混ざった瞳で見上げる。
「弱ぇ、カスが」
「…」
 しゅぅと呼吸を助ける機械の中、その声だけが嫌というほど鮮明にセオの耳の中に響いた。
 横たわるセオに良かったとも、安心したとも、そんな言葉など掛けるはずもなく、XANXUSは踵を返すとその場を後にした。遠ざかる父の背をセオは悲しいほどに大きく感じる。一生届かないようにすら思えた。
 その思考の中、ドンの無遠慮な声が割入る。
「取り敢えず、今日は寝たら。どうせ君のことだから、一晩も寝れば化け物宜しくぴんぴんしてるんじゃない」
「うん。そうするといいな。セオ、また明日」
 瞼は重く、そして思考はどっぷりと疲労の海の中に溶けた。