Como e Lavinia - 6/12

6

 刹那。
 殺す者と逃げる者が、互いの状況判断に要した時間は非常に僅かであった。殺す者は青年の前に現れた血塗れの生物を標的と判断し、逃げる者は自身の前の妹を連れて逃げる選択をした。
 しかし、逃げられるのかとセオは背中に感じる、一瞬で溢れかえった殺気に足を竦めかける。少しの判断ミスも命に関わるため、実際に体を竦めることはせず、ラヴィーナの目から自分の意識に他者の意識が混じり踏み躙られる感覚を引き剥がしつつ、その腕に抱えるには思いのほか大きくなった体へと腕を回した。ラヴィーナの腕はもう既にセオの腰にしっかりと巻きついて離れない。腕を引っ張り、共に走って逃げるという選択肢はセオには用意されず、ラヴィーナを抱えて逃げるという道を取るしかなかった。腰に回っている腕は、幼女のそれではなく、少女のそれである。今まで感じていた腕の力よりもずっともっと強く、その二つの長きはセオの体を締め付けた。ひどく震えていることには気付いていたが、大丈夫だと慰める余裕は今もって現在、兄には全くなかった。背骨の骨を一つずつ叩く殺意と脅威に神経を集中させるのに精一杯であった。一息すら、重い。
 妹の腰にしっかりと手を回し、その真っ赤な足の裏を勢い良く持ち上げると同時に、先程まで持っていた扉の上枠を掴み直し、体を片腕で廊下側の天井へと放った。相手からは完全に死角になる位置である。先程まで体が在った位置の向こうの壁が鋭利な刃物で切り取られたかのように破壊された。破片が、破壊音を廊下全体に反響させながら崩れ落ちた。もしも直進し、壁を蹴りつけて逃げていればと考えれば全身の血が引く。
 乱暴に放り投げた体であったが、当然重力に従って体は落ちる。瓦礫の山をブーツが踏みしめ、セオは再度二人の暗殺者と視線を合わせた。しかし、セオはそこで奇妙な動きを二つの金色の頭に見る。
 似たような身長の、しかし弟の方が幾分体格は良い兄弟がセオの視界の中で動く。それは予想だにしない行動であった。ヴォルフガングがヴィルヘルムの繊細に動く手を上から乱暴に掴み、そのまま自分の体を相手の体に衝突させる。この間、僅か一秒にも満たない。
 コンマ数秒の世界の中でヴォルフガングは、妹を抱えて床に足をつけ直した兄へと怒鳴りつけるように吠えた。
「Geh!!(行け)」
 音を耳から入れ頭で理解するまで、電気信号到達速度の限界値でセオは反応した。Gの発音がなされるとほぼ同時に、不安定な瓦礫を蹴り捨てて廊下の向こうへと走り去った。VARIAに所属するだけあって、青年の気配が遠くに逃げ去るのは称賛に値するほどに速かった。
 ヴォルフガングはヴィルヘルムをそのまま押し倒し、素早い動作で兄の全身を縫い付けるようにして、その服と床に針を突き立てた。最後に、上下に僅かに動いた喉仏に漆黒の針の切っ先を突き立てる。部屋にあるものは、青年が殺害した躯と、それからヴィルヘルムとヴォルフガングの三人、生きてる人間だけを換算するのであれば、死体を一つ引いて二人であった。暗い色は下を向き、明るい色は上を向いていた。針を軽く突き立てている喉仏は、動けば切っ先が皮膚一枚で動いた。弟は唇をきつく噛んで謝罪を口にしようとしたが、目を細め、一度は開けた口をまた閉じる。そして、また僅かに開けて息を吸う。
「駄目だ、ヴィル」
 組み敷いた兄は何も言葉を弟へと伝えることをしなかった。ヴォルフガングはまるで許しを請うように、Noと繰り返す。
「対象者がここにいるという事自体もおかしい。彼の反応から考えると、八号を捕まえたのは依頼者に他ならない。おかしいだろう、契約違反だ。八号を捕獲し、邪魔するものを殺すよう俺達に依頼された。依頼者が一枚噛んでくるのは、それも俺達に何の相談もなしに!ヴィル、この依頼は、契約違反で反故すべ」
 きだ、と最後までヴォルフガングは言葉を紡ぐことは叶わなかった。視界の隅で一瞬動いた兄の武器と、体の重心が崩れたのを知るのはほぼ同時であった。ぐらついた視界と、鍛え上げた幅の広い視界に、真っ赤な色が映ったのをヴォルフガングは知る。それから二つの、本来膝から下に存在するべきそれが、全く別方向に、白と筋繊維を剥き出しにして床に倒れていくのを見た。
 兄の喉元に突きつけていた針は払われ、弟は兄の軽い動作で床に倒れる。大きく血液が床へと流れたのを肌で感じ取る。意識が急速に霞み行き、体が意識よりも早く冷え込んでいくのを酸欠になっていく繰り返される呼吸の中でヴィルヘルムは呆然と眺めていた。ズボンに、腹へと血液は染みて行き、肌に不快感を与える。鼻をつく臭いは鳴れたものではあったが、それが自分の血液だと知ると、妙に変な臭いに思えた。
 引き攣らせるような呼吸をヴォルフガングは小さく行う。力の入らなくなった指先から武器が零れ落ちる。弟を体の上から退けた兄は、尻についた汚れを叩き落とし、そして静かに弟を見下ろした。そして、幾度も幾度も繰り返してきた言葉を、もう欠片しか意識の残っていない弟へと捧ぐ。見慣れた深い海の色をした瞳は瞼の裏へと沈んでいった。兄は弟を静寂の中で視界に落とす。弟の瞳が何かを言うことはなかった。言葉も何も、伝えるべきことは何もないかのように、その結末が当然であるかのように、そうして動きを緩慢にしていく。そして、薄目を開けたまま短い金色を己の血液に浸し、男はとうとう動かなくなった。それを見下ろしていた、神も仏も信じていない男は胸の前で小さく十字を切り、その体に背を向けた。そして、部屋の中で動かぬ体は二つに増えた。

 

 足音から逃げるように脱出経路を、ラヴィーナを抱えたままセオは走る。頭の中に詰め込んでいる通路を上手い具合に走っているはずなのに出口に辿り着くことはない。逃げ出せられる出口から遠くへ遠くへと誘導されるように、追いかけられている。しかし、ラヴィーナを抱いた状態であの男とかち合ったところで勝ち目など万に一つもない。
 短髪の男は一体どうなったんだろうかと心臓の音がやけに大きくなる。突然の仲間割れを好機と捉え、言われた通りに即座にその場から離れたものの、背後から静かに追ってくる気配を考えれば、妨害をした男の方の末路など目に見えている。血の繋がりがあろうとなかろうと、この世界においては一切の関係がない。セオは短く息を吐いた。抱え直したラヴィーナの体はセオの上半身にぴったりとくっついている。腕から体から、服越しに伝わってくる震えと怯えは未だに取れていなかった。何があったのか、大丈夫だとか、言いたいことも多くあったが、今はそんなことをしている暇などない。ただ、首に回された腕の力が予想以上に強く、息が詰まりそうになり、セオはその腕を軽く叩いて腕の力を弱めるように伝える。しかし、放すという行為に恐怖を感じたのか、ラヴィーナはさらに強く抱きついてくる。
「ラヴィ…、ナ!苦しい」
 ぐりぐりと額を、肩を震わせながら、ラヴィーナはセオの体にこすり付けた。
 通常の人間であれば、決して見られない体の成長に怯えているのかどうなのか、セオに判断することはできなかった。むき出しになっている白い腕にはところどころ青痣が変色しつつ残っていた。どこかでぶつけたのか、それとも暴力を振るわれたのか。声は使ったのかどうか、それは聞いた方がいいのだろうかとセオは一瞬思いもしたが、それは今すべきことでもなく、脱走可能な通路を探ってそちらに走る。しかし、その先回りをするように、背後にあった気配はいつの間にか退路を塞ぐようにしてそちらに移動している。外壁は対死ぬ気の炎用の特殊な素材で作られているために、それを破壊することは不可能であることは先の調査で分かっていた。窓の類は一切なく、内部は迷路のように入り組んではいるものの、出口と呼べるものは突入したただ一つの扉だけであった。追い回すための時間も、場所も余裕も、全ては十分に取り揃えられている。生温い鍛え方はしていないものの、人一人抱えて走っている人間と、そうでない人間の体力を比べれば、先にばてるのは間違いなくこちらであることもセオは気付いていた。八方塞がりの状態に臍を噛む。
 その時、通路に添えつけられている通気口を通り、囁くような歌うような声がセオの耳に届いた。人よりも随分と良い耳は、男の声を拾う。ドイツ語であった。
「Eins」
 鼓膜を小さく震わせる。歌はまだ続いた。
「Zwei, drei, vier Eckstein, alles muss versteckt sein」
 どこかで聞き覚え、もとい見覚えのある単語の流れに、セオは走りながら頭の記憶をシャッフルさせた。単語の意味も文章の意味も理解できる。ぞぁ、と肝が締め付けられるように冷えた。吐き出す息に氷の粒でも混じったかのような気分にさせられた。ブーツの爪先が、コンクリートの床を蹴る。
 歌は、鼻歌交じりに続く。
「Hinter mir und vorder mir gilt es nicht, und an beiden Seiten nicht. Eins, zwei, drei, vier, fünf, sechs, sieben, acht, neun, zehn…ich komme」
 ふつり。声が途切れた。
 セオは前方に進むために前方へと踏み出した足を止め、乱暴に後方へと下がった。急ブレーキのかかった体は大きな負荷を受ける。一つ前方の横壁に大きな穴が開く。鋭利な刃物で切り取られたかのような瓦礫が向こう側からセオ達が走っていた通路へとばらまかれる。壁を挟んだ向こう側、穴が開いたそこに、肩まである金糸を揺らして男は居た。白い歯が、赤い舌の合間に覗く。声変りなどとうの昔に済ませたであろう声が、瓦礫の小さな破片がまだ転がっている中に、響いた。それはセオの中身までも恐怖で震わせた。
「Zu dir」
 寒空の透き通った瞳の色が銀朱を映し込み、紫へと一部転じた。
 武器を向けることを放棄し、セオはラヴィーナの頭を保護するように手でしっかりと守る。一歩下がった位置から踵を即座に返し、床を強く蹴る。背後からの攻撃の気配を研ぎ澄まされた感覚で、床を蹴り、壁を蹴り、天井へと乱方向へ移動をしながら距離を稼いでいく。相手は走る様子を一切見せずにゆっくりと歩くが、その様が余裕と、そして恐怖に近いそれをセオの心に打ちつけた。
 途端、前方の天井が切り刻まれ通路を塞ぐ。内壁は特殊加工はされておらず、セオはラヴィーナの頭から一旦手を放し、銃口を瓦礫に向けて引き金を引く。憤怒の炎を纏ったそれはいとも容易く瓦礫を片付けた。開けた通路へと飛び込み、さらに向こうへと逃げる。震えの止まない体をしっかりと抱き返した。背後から迫りくるのは、もはや死そのものである。勝つ見込みなどなく、相対するなどと愚者の思考に違いない。セオは、それを分かっていた。しかしそれと同時に、逃げれば逃げるほど、追われれば追われるほど、同じほどに分かっていった。
 逃げられない。
 どんな通路を利用しても、内壁を破壊して道を変更しても、出口に向かうどころか反対に遠ざけられている。頭にインプットしてきた地図の一体どこに自分がいるのか、セオは痛いほどに理解していた。任務で死ぬことも無論覚悟の上ではあるが、背筋から這い上がってくる恐怖だけは抗い難いものである。せめて、そう思う。せめてラヴィーナだけでもと。通信機は使えず、もう既に任務終了の報告をしてしまったので、それ以降の連絡がなくとも不都合は一切ない。居場所を確認する装置が付いているといっても、任務終了後の隊員の動向を確認程度に使われるものであって、第一それ自体も壊されてしまっている。破壊に本部の人間が気付いたところで、救援が来る時間帯には既にかくれんぼは終わっている。
 その思考の中でふと、ヴィルヘルムが先刻まで口遊んでいたのは、その定型句であることをセオは思い出した。ラヴィーナに読んでやったことのあるドイツ語の絵本の中の一文である。
 Eins, zwei drei, vier Eckstein, alles muss versteckt sein. Hinter mir und vorder mir gilt es nicht, und an beiden Seiten nicht. Eins, zwei, drei, vier, fünf, sechs, sieben, acht, neun, zehn…ich komme.
 かくれんぼの際に鬼である見つける側が口にする言葉である。あの男にとって、この追いかけっこがただの遊びの範囲でしかない事実にセオは顔を歪めた。しかし今更、何を悔やんだところで、力量の差など埋めようがない。
「Wo bist du, wo bist du, Söhnchen? Ich will dich finden. Du sollst dich bereit finden, dann kommst du vor mir heraus(何処にいる坊や?俺はお前を見つけるよ。覚悟を決めて、出ておいで)」
 追いかけてくる声を耳に微かに捉えながら、セオはとうとう足を止めた。これ以上出口から引き離されると、本当に生きて帰れなくなる。
 ラヴィーナ。セオはそう呼び、嗚咽の代わりに兄の体にしがみつき震えている妹の背を叩いた。力で首に巻きついている腕を引き剥がし、その両足を床に下ろす。横に開かれた瞳孔を見れば、頭の中が酷い混雑を起こしたが、それでもセオは小さな妹をまっすぐ正面に見る。恐怖が頭にダイレクトに伝わってきた。言葉にしようのない恐怖がまるで自分のもののようにセオには感じられた。しがみ付こうとした両手を自身の両手で手首を掴み止め、長く伸びた体の脇につけさせる。くびれはまだないけれども、それはもう女の子、の体であった。
 ゆっくりと歩いてくる足音はまだ遠い。しかし、確実に近づいて来ている。身に着けていたコートをラヴィーナの体に着せれば、丈の長い裾は、ずるりと床を引きずることになった。袖も少しも合ってはおらず、だらしなく伸びている。それでも、ラヴィーナの血に塗れた姿を隠すには十分であった。セオはラヴィーナと視線を合わせるために、膝を折ってしゃがむ。頭の中では、まだラヴィーナの感情が自身の感情ととぐろを巻きつつ、思考を乱していたが、セオはラヴィーナに視線を合わせたまま逸らさない。言葉を一つ選ぶのにも、ひどく大変な作業であった。
 ラヴィーナ。
 そう、もう一度名前を呼ばれて、肩を震わせていた生物は唇を強く引き絞る。
「ここは俺に任せて、行け」
 兄の口から発された言葉を妹は正確に理解した。ふるりと口が効けない代わりにNoを動作で示す。ラヴィーナの頭の中には、先程の金髪の男が浮かんだ。セオの脳内にもそれが自然に伝わり、頷く。
「俺が止める。お前が逃げるだけの時間くらいなら稼ぐ。だから、行け。帰るんだ、ラヴィーナ。皆がお前を探してくれている。お前を心配している。俺はラヴィーナよりもずっと強いし、あいつの標的は俺じゃなくてお前だから。ひょっとしたら、完全に息の根を止められることはないかもしれない。きっと、今頃本部から救援が来てる。ここは遠くて、まだ時間はかかるけど、両方向から向かえば、すぐに会える。いいか、ラヴィーナ…俺を助けると思って、ここは任せろ」
「Bist du schon fertig mit dem Gespräch?(話は済んだか?)」
 遠くにあった足音はいつの間にか背後に訪れていた。セオは立ち上がり、肩までの金髪を揺らした男と狭い廊下で初めて対峙した。ぶるりと体が震える。
「…Ja, du kommst gerade eben recht.(ああ、丁度いい時に来た)ラヴィーナ、行け」
 コート下の隊服を小さな、以前よりは一回りも二回りも大きくなった手が掴んだが、セオはそれを払いのけた。
「Gambe!(逃げろ!)」
 兄に怒鳴られたことなど一度もなかったラヴィーナは大きく体を緊張で震わせる。そして、困惑しながら背を向けた兄を下から見上げる。しかし、兄が妹を振り返ることはなかった。後ろと前を一度ずつ見、そしてラヴィーナは兄のコートを引きずって反対方向へと駆け出した。出口のある方向へと一直線に。
 遠ざかった足音に、ヴィルヘルムは軽く首筋を掻く。
「困るんだがな。そう、長引くと。面倒事は好きじゃない」
「同意見だ。俺も好きじゃない。でも、俺はお前をここで止める」
「…別に、俺はお前を殺す依頼は受けてないんだがな…まあ邪魔なんだ。仕方ない」
 セオは深く息を吸い込んだ。そして吐き出す。残弾数は頭に入っているが、いざとなれば憤怒の炎を纏って戦うこともできるので、弾丸が尽きても問題なく戦える。尤も、それが眼前の男に通じるかどうかは、甚だ不明である。外見から見ても、今までの攻撃方法から見ても、遠距離もしくは中距離戦闘型の人間に対して、近距離戦を挑むなど戦う以前の問題だろう。しかし、手段がそれしかないのであれば、どんな状況に陥ろうともそれを選択するしかない。そうでなければ、妹を逃がせないことをセオは知っていた。
 瞬きを一つし、乾いた目を湿らせる。そして、セオはきつく床を踏み切った。

 

 XANXUSは足元にあったガラス瓶を蹴り飛ばした。中に入っていた、人の頭部であったものが特殊な溶液の中で揺れる。
 ラヴィーナに任務を当たらせた場所を始め、昔彼女が製造された研究所、コモファミリーに関連する場所、アロルド・ココと名乗る人物の仕事場とホテルにも足を運んだものの、目的のものは髪の毛一筋見つからなかった。彼が借りていたホテルのこの一室にあるものと言えば、趣味の悪い瓶とその中身である。ルームサービスのボーイが入れば、悲鳴を上げることは確実である。
 上司が蹴り、絨毯の上を転がった、頭部と呼ぶには損壊があまりにもひどい肉の塊が詰まった瓶をスクアーロは足で止めた。
「大層なご趣味をお持ちのようだなぁ。その、アロルド・ココって野郎は」
 ルッスーリアと仲良くできそうだと、スクアーロはネクロフィリアである同僚の名を言葉に上げた。残念ながら彼にはそれに同意する趣味も嗜好も持ち合わせていないために、人であった肉塊を瓶に詰める人間の気持ちは欠片も理解できそうにはなかった。スクアーロは足の下で踏み止められた瓶を上に器用に蹴り上げ、掌の上に乗せる。液体と、それから瓶と、それに加えて肉塊の重みもプラスされ、それはなかなかに重たい。腕に添えつけてある剣と比べても、十分にそれは手にずしりと感じられた。
 机を蹴り飛ばした音が部屋に大きく響く。XANXUSは傍に置いてある椅子に乱暴に腰かけた。足を棒に、と言うほどは歩き回ってはいないものの、ジャンがリストに記した場所はここで最後である。そんな自分たちを迎えたのが見るも無残な男の頭部であれば、全く面白くない。XANXUSでなくとも、何かを蹴り飛ばしたくなる衝動は湧かなくともない。スクアーロ自身も、部屋の添えつけのベッドの上に腰かけた。掌で掴んでいた瓶を脇に置き、肘を乗せると指先でガラスを軽く叩いた。
「どうする、ボスさんよぉ。もう心当たりは全部当たったぜぇ。後はJr.の学校くらいだろうが、んなトコにいるはずもねぇなあ」
 そんな事態になれば大騒ぎどころでは済まない。大体、あの学校には監視カメラがあるために、怪しい人物が居ればすぐにジャンがその情報を送ってくるであろうし、アロルドが写っていてもそれは同様であった。しかし、それはない。
 スクアーロの問い掛けにXANXUSは背凭れに深く体重をかけ、安っぽい天井を見上げた。長い息がまっすぐになった気道を通り抜ける。カス、とその空気に混じってもはや代名詞とも思えるそれで呼ばれ、スクアーロは銀の髪を分けてXANXUSへと視線を動かした。指先でガラス瓶を叩く。
「何だぁ」
「そいつをよく見せろ」
「あ?あぁ」
 真意がわからない言葉であったが、スクアーロは二つ返事でXANXUSに従い、肘置きにしていたガラス瓶をくるりと回す。速度はゆっくりであったが、その中身も動きに合わせて、少しばかりずれながらくるりと回った。とろけた目玉が、ぎょろりと一寸XANXUSと視線を合わせた。
 目玉、崩れた頬骨、だれた舌、顎。赤い目を細め、XANXUSはスクアーロが持っている瓶に体を折って近付けた。造作が崩れに崩れているため、その顔を頭の中で復元するには多少の時間を要したが、XANXUSはその顔を数十秒経過してから組み立てることに成功した。それは数週間前に暗殺の標的となり、何事もなく遂行され、殺害された男の頭部だった。その任務につかせたのは一体誰であったかなど、XANXUSは即座にそれを思い浮かべることが可能だった。それは、現在行方不明であり、自身の養っている幼女であり、妻の娘のような存在であり、生物兵器であり、どこに分類されるかと問われれば、どうにも答えに詰まる生物である。
 呼び名はラーダ。妻が付けた名はラヴィーナと、ここにおける確定された接点をXANXUSは確認した。耳に付けられた通信機のスイッチを入れ、通話を取る。
『はいはいはい、お呼びかな?ボス』
「アロルド・ココに関してもっと詳しく調査しろ。偽名なら本名、生まれとその素性まで調べ上げておけ。必要なら、情報屋とも連絡を取って構わねェ』
『そう言われると思ってたよ、ボス。もう調べは完璧だ』
「報告しろ」
 XANXUSのその言葉にスクアーロは慌てて自身の通信機にも二人の会話が聞こえるように設定し直した。地下室のパソコン狂いの声が鼓膜を叩く。声の合間には、パソコンの起動音とマウスを叩く音も混じっていた。
『アロルド・ココは案の定偽名。本名はアルノルド・コモ。名前が近ければ近いほど反対に疑われづらい先入観が働くんだもんねェ。面白いもんさ。おっと、無駄口はこの辺までにしておくよ』
 上司の機嫌を完全に悪化させる前に、ジャンは先手を打って先に話を進める。
『アルノルドはコモファミリーのボスの一人息子であり、天才と呼ばれた神童だった。僕らがあのファミリーを壊滅させたでしょう。それこそ、ああうん、根絶やし。ファミリーにノータッチだった女子供は流石に九代目のストップが入って見逃されたけどね。この時にアルノルドも見逃されたのは、彼の名がコモファミリー自体にリストアップされていなかったからだ。その後、彼の母親は病死。始めは孤児院に入れられたんだけど、暴力沙汰を起こし10歳で出て行った。その後は浮浪児さ。色々あって今の職業に落ち着いたようだよ。シルヴィオからの情報によれば、ボス』
 勿体振るように、ジャンは一拍持たせた。
『アルノルドはラーダ製造工程の第一人者だ』
「…だろうな」
『あれ?ボスいつそんな情報仕入れたの?』
「チビの殺した死体を後生大事に瓶に詰めている狂った野郎だ」
『あーらら末期だね。それとボス、もう一つ。これは今ルッスーリアから入った話なんだけど』
「何だ」
 マウスをクリックする音が、乾いた空気に伝わっていった。
『Jr.の通信機が壊れたみたい。壊されたのか、それとも自分で壊したのかは定かではないけど、確認可能最終地点はそこから5km先にある建物内部。作りは…と、言わなくても分かってるとは思うけど、そっちの携帯に一応詳細情報送っとくよ。後、こっちもシルヴィオからだけど、この件、ハウプトマン兄弟が一枚噛んでるのも確か。依頼人はアルノルド。依頼内容は』
 XANXUSはジャンからの通信を最後まで聞くことなく切った。聞かなくてよかったのかぁとスクアーロは瓶をベッドの上に放り投げて問うが、XANXUSはそれに一瞥をくれた。
「研究者なら」
「…なら、何だぁ」
「失敗作は、破壊する。人を殺せねぇ殺人兵器に価値はねぇ」
 椅子から立ち上がったXANXUSはポケットから携帯を取出し、ジャンが送ってきた情報を再確認すると、またポケットに押し込む。スクアーロも一部始終を聞いていたために、これから自身の上司が一体どこへ向かうのかは、問わずとも知れたことだった。
「糞餓鬼が」
「ラーダも一緒だと思うかぁ」
「可能性は高ぇ。何よりもう当たれるところは当たった。ここにこいつが」
 あるとすると、とXANXUSはスクアーロがベッドの上に転がした瓶へと視線を投げる。ラヴィーナが殺害した男が詰まった瓶。それがもう用なしとばかりにここに転がっていることから考えれば、アルノルドは既にその死体を創り出せる生き物を捕まえたか、どうにかした可能性が非常に高い。しかし、その結果が芳しくない場合、仮に攻撃を防げるだけの防衛策を備えていたとしても、アルノルド本人は実験結果から生まれた生物を殺すだけの能力を持たない。さらに言えば、ラヴィーナはその身柄をVARIA預かりとされている。ただの人間がこの防壁を破壊すれば、返り討ちは目に見えている。ハウプトマン兄弟はおそらくその役目も持つことだろう。用済みになった場合ラヴィーナを殺すための、そしてそれを妨害してくる人間を殺害するための役割である。考えれば考えるほど頭が痛い。面倒なことばかりが増える。
 スクアーロは腰よりも長い髪を揺らし、肩に羽織った隊服を靡かせたXANXUSの背を歩く。
「ボス」
 返事はないが、それが己の主だとスクアーロはよく知っている。言葉を続ける。暗闇に体が次第に溶け込んでいき、声だけが、最後に残った。
「獲物は、どれだぁ」
 くいっぱぐれていた男は、口元をよくよく笑わせた。

 

 足を止める。立ち止まる。いつもよりも開けた視界に顔を両手で覆った。兄の言葉が耳を打つ。体を覆うコートはまだ兄の温もりを残していた。そして、前を向き後ろを向いた。裸足で地面を反対方向に走り出す。
「Tata」
 兄を呼ぶが、人の気配が一切感じられない道で呟き落とされた。