Como e Lavinia - 4/12

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 骨が、軋む。皮膚が引き千切られる。筋肉が悲鳴を上げる。関節が捻じ曲げられる。四肢がもぎ取られる痛み。
 血溜まりの中にそれはいた。淡い茶色の髪の毛を赤の中に浸し、もがいている。奇妙な様であった。もし彼女の兄がその光景を見れば、かつて妹と初めて出会った時の陰惨な光景を瞬時に脳裏に浮かべたことは違いない。ただ異なることと言えば、冷たい灰色のコンクリートで作られた床の上に転がっているものは、生きているものだけで、あの時のような機器も、そして死体と呼ぶにはあまりにも悲惨な状態の肉塊もそこには存在しなかった。部屋の隅にはクロロフォルムでも嗅がされたのか、それとも睡眠薬でも打たれたのか、気絶をしている三十代頃の、ホームレスと思しき身元不明の男が転がっていた。その反対側には、養父から与えられたサングラスが無残に踏み砕かれている。
 亀裂の入った皮膚から鮮血が溢れだして床を汚す。コンクリートを塗り替えんばかりに流される出血は致死量に及ぶと思われたが、少女は気絶することなく痛みに悶えている。本来なら痛苦で絶叫の一つも上がって良いほどの光景であるが、声と呼ぶべき音は何一つ部屋の壁を叩いてはいなかった。痛みからか、開けられた口には白い歯とそして赤い舌が覗いている。ただし、生存を最低限維持するための呼気は行われており、酸素を吸い込み二酸化炭素を吐き出す行為だけは激痛に交えて行われていた。
 両手両足は拘束されていないために、その場に大量の血液さえ四散していなければ、何故少女が逃げ出さないのか十人が十人同じ疑問を頭に浮かべたことだろう。しかし現実、少女は血の海に浸り、体を引き裂かれるような痛みに悶え苦しんでいる。悲鳴一つ上げない様は、反対にその痛みを如実に示した。呼吸だけを繰り返す口内は酷く乾いている。逃げたくても逃げられない。そういった状況であった。
 その光景を、丸い椅子に座って眺めている青年がいた。深い青の瞳を眼窩にはめ込み、真白の髪には少しばかり不釣合いな、少々汚れた白衣を身に着けている。手に持っているのは注射器である。その前の机の上に置かれている開かれた鞄の中には、鮮やかな色をしたものから無色透明のものまで、様々な色の薬品が詰められた小瓶が整然と並べられていた。注射器の針の先端から、少量の液体が尻を押すことで勢いよく飛び出し、それは僅かなり床に汚れを残す。椅子が一回転する。革靴が、コンクリートの床を蹴る。青年は、淡泊にかつ冷淡にある言葉を少女に向けた。青年の指先は、部屋の片隅に転がっている男へと向かっている。それは少女の記憶の中で唯一、自己という存在を生かすために必要な行為であった。その言葉の意味を、かつては無意味にただ記号のように頭に入れ、少女はそのように行動した。しかし、少女はその言葉の本来の意味を知った。その行為の重さを身に覚えた。そして何より、少女の耳にはっきりと残る、それは毎日繰り返し耳に慣らされた忠言、それこそ少女の人間的な部分を考慮し尊重した故のものが蘇った。
 声は、何があっても使うな。
 命令が下されるまで。使うな。任務以外で使用するな。少女は固く唇を引き結んだ。喉の奥では痛みが所狭しと唇を突いている。小さく首を振るう。
 それを無視するように、青年は再度命令した。己の創造物に対して、今まで一度も無視されたことのない命令である。その命令だけで、眼前の生き物は単純に弾け飛んだ。ガラス越しの景色は、研究成果であった。透明なガラスの向こうにあるのは、完全な生物兵器であった。美しささえ覚えるほどの完璧さ。ただただ、人を、人のみを、人という存在だけを、破壊し蹂躙し暴挙の限りを尽くして、無残に殺害するイキモノ。生まれた時は、体が打ち震えるほどに感動したことを青年は覚えている。
 声が床を叩いた。
「殺せ。そろそろ、薬の効果も終わったことだろう。殺せ」
 まるで呪文のように繰り返される言葉が床に転がった少女の鼓膜を震わせる。サングラスも顔布もかけていない目が、浅くなってきた痛みの中、朦朧とした意識で青年へと紙の隙間から覗いた。青年は膝を折ってしゃがみ、転がる少女の髪の毛を引っ張り、顔を上げさせる。その面はもう、幼女のそれではなかった。丸みを帯びていた輪郭は幾分すっきりとしたものへと変わり、顔に比例して大きく見えていた目も輪郭に収まるようになる。
 少女の、横に開いている特徴的な瞳孔が青年の目を捉えた。しかし少女は首を横に振った。その反応に、青年は穏やかに微笑む。掴んでいた髪の毛を乱暴に引っ張り、隅に転がる男へと凶器となる口ごと顔を向けさせた。大きな眼から、人のように大粒の滴が次から次へと零れ落ちる。
「殺せ!お前は、完璧な殺人兵器だ。僕が…この僕が創りあげた完全無比な、人を殺すためだけにある兵器なんだ。人を殺す命令を受け付けないお前に生きてる価値なんかない。早く、殺せ。お前の完璧さを見せろ。研究者としての僕の全てが正しかったと!証拠を見せろ」
 はちごう。
 青年の口から発された名前に少女は首を振った。体の痛みは少女の痛覚をもうほとんど痛めつけてはおらず、少しばかりの反撃を見せた。髪の毛を掴む腕を引っ掻き、逃げようと必死になる。その無様な様に青年はひどく、酷く悲しそうな顔をした。何故と問う。
「そんな殺し方、教えてない」
 少女の顔には大きな手が顎を頬ごと掴んだ。頬肉が指先の強い力で持ち上げられる。困惑し、涙で濡れた瞳が青年を見た。そして青年もまた少女を見た。少女が本来持っている精神を踏み躙るような能力が青年に対して作動しているようには到底思えない光景であり、そして事実であった。青年は、どうしたらいいか分からないかのように、軽い失望を混ぜて口角を引き攣らせる。
 感情をぶつけるように青年は掴んだ顎に、それこそ吐息が混ざりそうな近距離で、潰しそうなまでの力を加えた。
「僕は、そんな殺し方教えてない!そんな、そんな低俗で馬鹿げた、クズでもできる殺し方は…お前に僕はインプットしていない!お前の殺し方はもっと芸術的だ。人間の尊厳を完全に踏み躙ったように殺すのが、お前の殺し方だ。そうやって、お前は試験管の中で殺してきただろう。あの研究所という試験管の中で、お前は人を肉に変えて来ただろう!殺せ!」
 急き立てるようにして怒鳴りつけた青年に怯えて、少女は体を縮こまらせる。唇をかみしめ、それでも少女は青年の言うことを何一つ聞こうとはしなかった。首を弱弱しく振る。青年の顔が激情でひどく歪んだ。苛立ちを叩きつけるように、少女の髪を乱暴に引っ張り、床に叩きつける。すっ転んだ少女は顔を血溜まりに滑らせた。投げられた拍子につかまれていた髪の毛が途中からぶちぶちと音を立ててちぎれる。
 そして、声を出さずに、少女は泣いた。現在の状況が何一つ呑み込めず、混乱の極みに達し、泣く。おいおい、と言葉を添えるならばその表現が妥当であるが、少女の開けられた口から声が零れることは全くない。無声映画のフィルムを回しているかのような光景であった。
 少女は泣いて泣いて、青年は顔を押さえて項垂れた。

 

 おん。
 静かな部屋に空調の音が流れる。黒の塊がいくつか、その部屋に佇んでいる。宝石よりも澄んだ色をした、赤い目の男は椅子に粗暴に腰かけている。眉間にはきつい縦皺があまりにも深く刻み込まれている。
 男は暗殺部隊の長として、無慈悲な、しかしそれが当然である命令を下した。その命令は部屋に集まっていた人間が誰しも想定できたものであり、それに対して批判する者は誰一人としていなかった。
「誘拐されたならば、主犯含め関係者全てを殺せ。あいつを即時保護しろ」
 ただし、男は続ける。隊服に身を包んだ男の息子は僅かなりとも、表情を固くした。
「脱走ならば、殺す。どんな手段を使ってでも俺の前に引きずり出せ」
 赤い目の男の直属の部下である男達は、その言葉の重さを知っていた。そして、かつてそれによく似た言葉を男の口から聞いた事実を脳裏に蘇らせる。足の骨をへし折ってでも俺の前に連れてこいと、この男はかつて最愛の妻をそうするように命じた。女にとって大切であるものを全て奪うことに一切の躊躇をしなかった。コーザ・ノストラとしての在り方がその身にある男であるが故の決断であることは、その場にいる誰しもが知っていたから、誰もが質問をしなかった。養っている子をこの男が如何なるように思っていようが、全く関係ないのである。
 逃げれば、殺す。
 ここ、を逃げ出せるのは自身が流した血以上の血をもたなくてはならない。すなわちそれは、死を示す。だからこその男のこの命令であった。
 赤い目を白い紙の上に滑らせながら、男はさらに命令を下す。
「実際に動くのは俺とそこの糞餓鬼だけで構わねぇ。通達はしておく。発見した場合は確実に捕えろ」
「俺は動かなくていいのかぁ」
 一応の名乗りをスクアーロは上げた。それにXANXUSは視線を億劫に持ち上げ、逡巡すると必要ねぇと答える。実際にラヴィーナの捜索以外の任務も他のものには割り振られている。かといって、「あの」ラヴィーナを殺害ではなく捕獲の方向で動くのは下っ端にはかなり危険性が高く、無駄死にする可能性が高い。それこそミンチになる可能性が大である。
 丁度その時、大きな扉をノックする控えめに音が響いた。入れ、とXANXUSは扉に向かえって声をかける。扉が開かれ、その下には黒髪の女性が立つ。手には、重たい色をした武器が握られていた。引き金を引くだけで命を奪えるそれである。
「マンマ」
 セオは思いもよらぬ母の登場に思わず声をこぼした。父親であるXANXUSは横目でギラリと息子を睨みつけて黙らせる。しかし、母の瞳は声をかけた息子を見ることはなった。銃の安全装置は掛っているものの、それを即時に外すだけの気迫を感じる。セオは僅かに表情に変化を零した。戸惑いを混ぜ、母を見る。
 優しい母の唇が動く。
「分かっています」
 ただ、そう言った。
 そしてセオは母の真意を悟る。顔に焦りを滲ませて、バッビーノと初めてその場で抗議の意図をもって示した。赤い瞳が自分へと向けられるのに、背筋が凍りつくような緊張感を覚える。しかし、セオは唾を飲むと、思っていることをはっきりと舌に乗せた。
「マンマは関係ない。するなら、俺かバッビーノだ」
「黙れ、餓鬼が。それはこいつの仕事だ」
「バッビーノ!」
 あからさまに非難の色を含めてセオは声を上げる。それ遮ったのは、年を重ねた母の腕であった。マンマとセオは悔しさを滲ませて説得しようと試みた。しかしながら、母は息子の瞳のさらに奥を覗きこむように見、その言葉を反対に返した。私の仕事です、と。
「セオ。ラヴィーナを預かったのは他ならぬ私です。ラヴィーナが自らの意思でここを逃げ出したのであれば、始末をつけるのは私です。黙っていなさい」
「マンマ、でも」
「黙りなさい、セオ」
 きつい調子で言われ、セオは視線を床に落として押し黙る。母は普段から携帯している銃をホルスターに戻した。しかしその背は、あまりにも厳しい。父であるXANXUSはそれでいいのかといった類の確認の言葉を一切妻に掛けることはなかった。
 XANXUSは背もたれに手をかけ、椅子に収めていた体を持ち上げる。肩に羽織る隊服がようやく伸びた。部屋に唯一いる女に男は背を向ける。脛まで覆うブーツの底が重たい音を床と重なることで奏でた。腹の底にまで響くような音である。母の背を呆然と見続けているセオにXANXUSは来いと命じた。セオは一度立ち止まり、母の背をもう一度眺める。しかし、その背が振り返ることはなかった。ホルスターに差し込まれた暗い色が、セオの視界に残った。そして、木製の扉は背で音を立ててしまった。
 父の後ろを追い、セオはその斜め後ろに体をつける。
「バッビーノ」
「情報なら今ジャンキーが調べ上げている。携帯に情報は送らせるから、心当たりを探せ」
「バッビーノ!」
 荒げられた声にXANXUSは視線だけをセオへと送った。二人の足が止まり、少しばかり高いだけの位置から、父は息子を見下ろす。何だ、と言葉をかけたところで、所詮息子の問いかけが一体なんであるかなど分かり切っていた。XANXUSは会話に挙げられなかった答えだけを口にした。
「見つけ出さなきゃなんねぇのに、違いはネェ。そうであるかないかは、それから問い詰めりゃいいだけの話だ」
「俺は」
 セオは一度は言葉に詰まったが、それでも選びながら、父親をまっすぐに見つめた。
「逃げてないと思う。きっと、今、すごく寂しくてつらい思いしてると、思う」
「関係ねェことだ」
 素気無い言葉はいつものことで、しかしその裏に一体何があるのかをセオは少し思いながら、視線を落とす。この父はいつもこうなのだと。しかし、そうでなくてはならず、そうでなければVARIAの頂点など到底勤まるはずもない。その心痛はいかばかりか。ありきたりな言葉で一般的な視線でこの状況を見るならば、父の背はそう表現できるのだが、セオはそう思わなかった。
 これが、普通なのだ。ただ一つ、ボンゴレのために。
 おそらく自分が仮に脱走したとしても、父親は同じ行動をとるであろうことを、セオは確信していた。誰が逃げても、誰が離れても。マフィオーゾの重きを担う一角として、正しい行動を常に選択する。それが父でありXANXUSという独立暗殺部隊VARIAの頂点である。
 セオは言葉を一寸探し、そして一度は詰まらせた喉を鳴らした。そして、考えていることを父に問う。
「バッビーノは、どっちだと思った」
「興味もねぇ。考えられ得る可能性は視野に入れる」
 相変わらず淡泊かつ簡潔な回答がなされた。セオは前を見据えたまま歩き続ける。父の目を見ることはしなかった。
「拉致なら、俺は正直許しておけない。正直、何するか分からない」
「言ったはずだ」
 がつん。黒いブーツが地面を噛み、筋肉に支えられた体を前方へと放る。
「主犯含め、関係者は全て殺せ。邪魔なものは排除しろ。加減も容赦も、必要ねぇ」
 横顔をちらりと見、セオはこの父が可能性の高い方を考え、十分に怒り狂っていることを知る。自分でなく父が犯人を発見した場合、まさに、跡形もなく消されるのだろうと悟る。赤い特徴的な瞳は、まるで炎の如く燃え盛っているかのようだった。触れれば火傷どころではすみそうもない。
 その時、跳ねるように明るい声が二人の前にぶつかった。珍しく地下室から引きずり出された様子で、その肌は驚くほどに白い。地下室暮らしをいい加減にやめればいいのにとセオはそんなことを頭の隅に思った。
 そんなセオの思考は完全に無視し、XANXUSはジャンに予想以上に速く上がった調査結果を求める。掛ったメガネを指先で軽く持ち上げ、ジャンはオレンジの髪を揺らした。
「結論とすれば、」
 勿体をつけるようにジャンはひらりと一枚の用紙を持ち上げた。
「分からない」
「何?」
 そこでXANXUSは初めて歩みを止める。セオもそれに合わせて、足を止めた。ジャンに追跡不能な情報などあるのだろうかと眉を潜める。オレンジの三つ編みを背で揺らし、ジャンは一度は見せた用紙を自分の方へと向ける。
「裏返せば、脱走ではなく誘拐だってこと。ラーダ程度にそこかしこにある監視カメラの死角を通って逃げるだなんてことは、今までの情報からしても不可能だ。共犯者でもいれば可能だろうけれど、その可能性は皆無だろ?そりゃ、ボスだって知ってる事さ」
「無駄口叩かずに続けろ」
「Si,si.ラーダは小さいからね。何かの箱に入れて…トランク、旅行鞄なんて持たれちゃ完全に分からなくなる。旅行者はこの時期とても多い。そうなれば、いくら監視カメラの映像を探ったところで無意味さ。運搬方法は車か列車か…飛行機は検査が入るからないと思うけど、どちらにしろ足取りを掴むのは無理。藁の中にある針を探すようなもんじゃない。針の中の針を、探すのと同義だよ。ラーダのことは極秘扱いだし、拉致するとすればそっち方面ではあるんだろうけど、ただ、さらわれた場所から考えると、突発的な犯行とは考えづらいし、何より今までのラーダの外出には常に監視が伴っていたから、後をつけられるへまはありえない」
「犯人像がねぇのか」
「ここまで突き詰めれば、あと残る答えは内部犯行ってところ。一応、今ボンゴレ本部含め、VARIA内の防犯カメラの画像を全て洗ってはいるけど…発見の可能性は低いと見てくれると助かるね、ボス。ここまでくれば、あとは人海戦術しかない」
「割ける人手はねぇ」
 万が一にも攻撃されれば、人体のみを攻撃可能なあの声程厄介なものはない。XANXUSは現状の手詰まりに舌打ちを鳴らした。セオは恐る恐る手を挙げて、あのさと小脇にパソコンを抱えている男に話しかけた。
「アロルド・ココって、この間以上の資料ある?」
「ないね、Jr.彼に関する情報はあれだけだ。ああ、でも一つ気になったことはあったかな」
「言え」
 XANXUSは手短に仔細を述べろと部下へ視線を送った。それにジャンはパソコンを手の上で抱え直すと、片手で器用に素早いブラインドタッチを披露する。あっという間に、彼自身が引き出したかったであろう情報がディスプレイに表示される。
「今回の件でコモファミリーについて洗い直したんだけど、あそこのドンには息子が一人居たのさ」
「それがどう関係を持つ。研究者リストにこの餓鬼とそう変わらねぇ年端のチビが並ぶわけがねぇだろう」
「そう!並ぶはずがない。実際に並んでいなかったんだ、ボス。でも、僕はこう睨んでいる。あれはただ、並ばなかっただけじゃないかってね」
 実際には研究に参加していたのではないかとジャンは口を動かし、開いていたパソコンを大層丁寧な動作で閉じる。愛しいものでも撫でているかの手の動きは、少しばかり尋常ではなかった。無論、そんな行動はいつものことなので、セオにとってもXANXUSにとっても言及すべきことではない。
 ジャンは白衣を揺らし、顎を指先でするりとなぞる。
「勿論これはただの推測にすぎないし、情報処理班が暗殺者名簿に子供の名を連ねさせることはなかった。常識的に考えて、ラーダ製造に関する研究は国家機密クラスだし、それをいろはも分からない子供が理解できるとは到底思えない。でもまぁ、イレギュラーってのはどこにでも存在しうるとは、僕は思うね」
「…その餓鬼は」
 眉根を動かし問うた上司にジャンは肩を大仰にすくめて見せた。述べられた回答には多少引っ掛かりを覚えるような言葉回しが使われる。
「それがね、死んでる。戸籍上。と、言うのがベストなんだろうけど、戸籍だけじゃない。死体も出てる。警察の検視によってそれが、アロルド・コモ本人だとの見解も出た。DNA鑑定もされたんだ。それは間違いない」
「死因は」
「硫酸掛けられて焼け爛れてた。見れたモンじゃない。ショック死との結論で括られて…当時は警察も子供に対しての非道な行いに義憤を駆られて方々犯人を捜したみたいだけど見つからず。随分と世間のバッシング受けてたよ。新聞もマスコミ各社も、ひどいもんさ」
 ただ、とジャンは続ける。
「仮に、あの子供がラーダ製造に関与して、その上そこにおける中心人物だとすれば、自分の死体の偽造なんて容易いだろうと、僕は踏むよ。偽造、というより複製かな。この際。ボス、何度も言うけれど、この論には一切の確証はない。証拠もなにも。だから、この話を主体に行動するのは全く論理的じゃないと指摘はしておくよ。それからJr.」
「あ、うん」
 突如話を振られ、セオは目を瞬かせる。長いこと日光を浴びていない不健康な肌をした指先が鼻先でふられた。
「アロルド・ココがこの少年と同一人物であるという見解は現時点の確証は得られない。そしておそらく本人の自白がない限り、一生その確証は得られない。何しろ、僕の仮定が正しいとすれば、彼は、DNA単位から人体をいじることができる。天才と、まさに名乗るにふさわしい。彼の今の顔だって、かつて彼の家にあったアルバムとは全く異なるものだ。本人自身のDNAもいじってしまっている可能性も十分にある。人が本人である証拠というのはね、Jr.ひどく、脆く曖昧なものなんだよ。ま、疑わしきではあるけれど、一応。アロルド・ココは今日は学校欠席。今、ドンから連絡が入った。国内の全監視カメラハッキングの結果、ホテルにここ数日宿を取っていることも確認した」
「今は」
「もう、いないだろうね。ボス」
 八方塞がりの状態にXANXUSは眉間の皺をさらに深くした。それに対して、ジャンは思い出したように付け加える。
「そう、そういえばボス」
「…何だ」
「ハウプトマン兄弟が入国してる。けどね、彼らが殺害した遺体はまだ発見されてない。入国から大体半月近く経っているのにも拘らず、この状況はちょっと異常だね。彼らのやり方としては、かなり珍しい方だ」
「あの、えーと?ごめん、よく分からない」
 XANXUSとジャンの会話についていけなくなり、セオは説明を求めるために口を挟んだ。赤い瞳に鬱陶しげに睨みつけられたが、構わずにその仔細を尋ねた。そういえば面識なかったっけ、とジャンは笑う。
「名前くらいは聞いたことあると思うけど、ハウプトマン兄弟。ドイツで有名な殺し屋一家さ。尤も両親は随分前に他界して、二人の兄弟ではあるけれど。フルネームは兄のヴィルヘルム・ハウプトマン、弟はヴォルフガング・ハウプトマン。こっちでも、正直な話、幹部連中じゃないと相手ができない。それと、今までの統計データからして、彼らの仕事は依頼されてから大体三日、長くても一週間で終わる。ちなみに連中は死体を隠すことはしないから、その仕事が判明するのも早い。他国との縄張りも考えているのか、本国から出ても滞在は仕事の期間だけ」
「関与の可能性は」
「ないとは、言い切れない。何しろ連中、最近アロルド・ココと会ってる。仮定の話の続きだけれど、アロルドがコモの人間であったとして、ラーダに関して何らかの依頼をハウプトマン兄弟にした場合、彼らが珍しく滞在期間を伸ばしているのも頷ける。繰り返しになるけれど、この話には確証がない」
 そのことだけは承知してくれ、とジャンはXANXUSに念を押す。苦虫を噛み潰したような顔のまま、XANXUSはいくらか思考を巡らす。そして、携帯を取出し耳に添える。数回のコールの後、電話越しでもうるさいと感じる声がきんと響いた。
「カス鮫、任務を全部セオに回せ。てめぇはチビの捜索に当たらせる。相手はハウプトマン兄弟の可能性が濃厚だ」
「な、バッビーノ!」
 思わず反論に気色ばんだが、XANXUSはセオを一睨みして黙らせた。電話向こうから、スクアーロの一瞬の間の後に了解の返事がなされる。有無を言わせず、XANXUSは電話を切ってポケットに突っ込んだ。
 コートを翻した父の背を追いかけ、その隣にセオは体をつける。そして、単純に頭に思い浮かんだ疑問と不満をぶつけた。父親同様決して良いとは言えない目付きの眦が吊り上げられ、凶悪な面を形成する。
「なんで俺を外すんだ!」
「力不足だ。うるせぇ」
「ラヴィーナは、妹なのに!俺に、バッビーノは指咥えて黙ってみてろって言うのか!」
「…分からねぇようならはっきり言ってやる」
 口喧しく囀る息子に痺れを切らしたのか、歩みを止め、XANXUSはセオの胸座を拳で掴むと、その体を壁へと叩きつけた。体格もそう変わらないというのに、軽く壁に叩きつけられたその事実はセオの顔を悔しさで歪ませた。一寸、息が止まり肺が痺れ、目を細めてセオは父親を睨みつける。美しい赤の中に映る自分自身を、そしてセオは見た。
 壁に息子の背中を押さえつけ、吐息がまじりあいそうな近距離でXANXUSは抵抗を見せたセオを捩じ伏せるかのように、眦を吊り上げ脅しにも似た言葉を吐き捨てる。
「足手纏いは必要ねぇ。てめぇは黙って低ランクの任務をこなしてろ」
 XANXUSの言葉にセオは喉を詰まらせた。唇を固く噛み、反論すらできずに俯く。掴んでいた胸座を放し、XANXUSは項垂れているセオを他所に先に進む。
 その一部始終を眺めていたジャンは壁際で悔しげに唇を噛んでいる青年へと視線を動かす。パソコンしか愛せない男でも、多少の機微は理解できるようで、愛するパソコンを叩く指で青年の肩を叩く。
「ボスに従うべきだ。僕は戦闘員ではないけれど、ハウプトマン兄弟の強さは承知してる。数値の上でも、君が彼らに勝つ可能性は万に一つもない。非戦闘員の僕の見解がこれなんだ。戦闘におけるヒエラルキーの最上位にいるボスの意見が間違っているようには思えないね」
「でも」
 言い澱んだセオにジャンは脇に抱えていたパソコンの面を愛おしげに撫でた。
「プロにはプロのやり方がある。感情に流されて全てを不意にするか否かは、君が決めるところさ。Jr.ボスに任せることだね。それが一番安全な方法だ。君にとっても、ラーダにとっても」
 妖艶に笑った男にセオは視線を落とし、壁に拳を叩きつける。震える音が空気を揺らした。ジャンはそんな青年の姿を見て口元を飽きたように真一文字へと変え、そして愛しいパソコンに頬を摺り寄せた。用は済んだとばかりに、軽い足取りで彼の根城へと戻る。愛しい愛しいニコラがいる地下の城へと帰っていく。
 一人になってしまった長い廻廊の壁に背をつけながら、セオはずるずると力なく座り込んだ。言われなくとも、父親にもスクアーロにも、幹部の座にいる全ての人間に及ばないのをセオは身をもって誰よりも知っていた。手合わせをしたところで、誰に勝てた記憶もセオにはない。
 妹を、助ける力もないのか。
 喉から出かかった罵倒をどうにか押さえて飲み下す。自分がここで暴走すれば、父の言う通り、確実に足手纏いになることは十分に理解する。しかし納得はいかなかった。溢れそうになる苦悶の悲鳴を堪える。声一つ出さないラヴィーナはいつもいったいどんな気持ちで己の気持ちを飲み下していたのだろうと小さな小さな、大切な妹の姿を脳裏に思い描いてセオは呻く。
「セオ、大丈夫」
「しょげるんだったら部屋でやってくれない?気分悪いからさ、そういうの見てると」
 辛辣な言葉と、心配の言葉が同時に掛けられ、セオは視線を持ち上げる。こんなに近くに来るまで気付かなかったのかと、やはりここでも己の未熟さをセオは思い知った。
 首の後ろを掻きながらセオは座り込んでいた姿勢から、足に力を入れて立ち上がる。ジーモとドンは私服から隊服に着替えて、セオの顔をまじまじと見る。その視線にセオは小さく笑う。しょげてないと、そう告げる。二人の青年は互いに顔を見合わせて、肩をすくめた。
「そ、ならいいけど。レヴィ隊長から聞いたけど、拉致されたんだって?ラーダ。面倒引き起こしてくれるよね」
「俺もルッスーリア隊長から今聞いたところ。学校にいる時に連絡入るの珍しいから驚いたよなー」
「別に。主犯はやっぱアロルド・ココなわけかな。今日学校休みだったし。後さ、ハウプトマン家も関わってるんだって?ふぅん、それで君はお払い箱。…一介の殺し屋程度負けるのかな、君が。結構いい線までは行けそうだけど」
 ドンは言葉を最小限選びながら、セオに声をかける。それが小さな慰めであることは自明のことで、セオはそう?と口角を軽く持ち上げた。兎も角、とジーモは手を叩く。
「スクアーロ隊長が駆り出されたから、そっちの仕事が回ってきたんだ。AランクからCランクまであるけど、上手く割り振って片付けよう。それで、ラヴィーナが帰ってくるのを待とう。セオ、待つのも仕事の一つだよ」
「ああ、うん」
 友人たちの小さな優しさにセオは困ったように目を細めて頷いた。

 

 ホルスターにしまった銃を上から触れる。それは、指先が震えるほどに冷たい。東眞は目をきつく瞑り、首を垂れた。
「東眞」
「…ルッスーリア」
 隣の椅子を引いて、カラフルな髪を揺らしながらルッスーリアは腰を下ろす。そして、女の指先に触れている人の命を奪う道具を目に留めた。先刻のやり取りを思い出しながら、ルッスーリアは薄い笑みを刷く。
「安心したかしら、アナタ」
「そうですね、ええ、安心しました」
 XANXUSからスクアーロに入った連絡によって、ラヴィーナは脱走ではなく拉致である可能性が格段に高いと示された。引き金を引くことがなくてよかったと東眞はその時、一生にこれ以上ないというほどに安堵した。
 ええともう一度笑い、その細い背中を椅子の背もたれに預ける。
「安心しました」
「引き金を引けた?」
「はい、それは」
 自分の前に引きずり出されたラヴィーナを瞼の裏に思い描き、しかし東眞は首を縦に振った。自分の手に収まっている銃の重さとその役目は理解していた。
「私は、あの人の妻ですから」
 セオの戸惑った声が耳に残っていた。息子に後ろ指を指され非難されようとも自分は引き金を引いたであろう。東眞はそう確信していた。
 窓の外には木枯らしがひょうと吹き、枯れ木が寂しく揺れている。そこでルッスーリアは可能性の一つを口にする。母としての東眞にとっては最悪の可能性であった。しかしまた、それは否定しようのない事実でもある。
「殺されてなかったらいいわね」
 生きていれば、ではなく。そして東眞は一枚落ちた枯葉の行方を目で追いながら、そうですねと静かに呟いた。