Como e Lavinia - 3/12

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 武器を整備する。
 それは男の慣行であった。毎日、それこそ一日も欠かすことなく行われ続けていた行動である。それをせずしては眠ることなど叶わないという程、半ば中毒症状にかかったようにその行動を繰り返していた。
 天井の高い、暖炉がほうほうと温もりを与えている部屋では男が二人、暖の前に置かれている椅子に座り、互いの武器を整備している。一人はリールのような糸らしきものを、もう一人は数十本の針を一本ずつ丁寧に布で拭く。針とは雖も、その色はまばゆい銀ではなく、漆黒の闇の色をしていた。丁度、夜の帷に隠される色である。
 男は薄く固い唇を微かに振るわせた。この依頼、筋肉が収縮、弛緩して文字を語り始める。しかし、それ以降の言葉はNO、と強く告げられたもう一人の男の声に押し潰された。それに髪を短く刈り込んだ男は悔しそうに精悍な面立ちを歪ませた。Aber(だが)そう、苦しげに続ける。
「あの娘は」
「関係ない。『あれ』が一体何であろうが、誰と関係があろうが。俺達は、そういう仕事に就いてるはずだ。Du bist der Mörder!(お前は暗殺者だろう)」
「Das versteht sich.(分かってる)分かっている、そんなことは。だが…俺達の友人の、娘だ」
「だから?そんなことは全くどうでもいい、下らないにも程がある事実だし、誰の血縁者であろうと依頼は依頼だ。俺達はただそれを遂行するだけ。殺意を運ぶ、ただそれだけ」
 辛辣な言葉に男は針を磨いていた手を止め、項垂れていた首を持ち上げる。深海の色を模した瞳を兄へと向けた。それに兄は空へ泳ぐ色を返す。しかし、明るい色のそれ程、ぞっとするほどの冷たさを内に秘めていた。
 男は一線に伸ばしていたリールのような武器を強めに引っ張り、その反動で腕輪の内部に戻す。金属が打ち合わされる音が小さく耳を叩く中、細い指で男はその腕輪を自身の手首に嵌め直した。音が鳴れば完全に装着され、僅かなりとも動かない。男にしては細い手首に嵌められた黒い腕輪は、まるで手首を寸断するかのようなアクセサリであった。左右両方に嵌めれば、それはすっかりと落ち着いた様相を見せた。男の手首によくよく馴染んでいる。
 肩よりも長い金糸を揺らしながら、男は柔らかな背凭れに体重を乗せた。皮張りのソファは男の体を適度な固さで包み込む。同系色の目を持つ弟の言葉を頭でリフレインさせながら、兄は天井へと視線を移した。木目がよく見えるその天井には、幼い頃にテーブルの上に脚立を乗せ、絵の具と筆で描いた落書きが未だに残っていた。手首にしっかりと巻きついている腕輪の冷たさを男は感じる。ただ、前にある暖炉だけは炭になった木が割れる音が、音楽の一つもない部屋にやけに大きく響き渡る。
 Du passt nicht zum Mörder.(お前は殺し屋には向いていない)
 頭に廻った考えを男は口にすることはなく、ただただ、男は静寂の中にある落書きを眺めていた。

 

 淡い茶色の髪の毛の隙間から伸びた手がひょいと持ち上がった。その紅葉のような小さな手にはノートが一冊持たれている。
 スクアーロはラヴィーナが注目してくれることを望むように持ち上げたノートを黙視する。そのノートは普段ラヴィーナが意思表示のために使うノートではなく、左斜め下にはTheoと彼女の兄の名がアルファベットで記載されていた。小さな手からそれを受け取り頁を捲ると、中には数式がずらりと並んでいる。どうやら数学のノートであるようだった。忘れ物もするんだなとスクアーロは思いつつ、それをラヴィーナに返す。ノートを一冊忘れたくらいでそうそう支障が出ることもないであろうと見当をつけた末の行動であった。実際に起こり得る害とくれば、教師に怒られるくらいのものである。忘れ物をする、というのは総じてそういう意味である。
 気にする必要性を見いだせず、ノートを少々不安そうに受け取ったラヴィーナを上から見下ろす。その小さな手は、人差し指で玄関を指していた。時計を見れば、セオがここを出てからそう時間も経過していない。まだ学校には到着していないだろう。全速力で走れば話は別だが。セオの足とラヴィーナの速度を考えればどうかとスクアーロは頭の中で計算式を弾き出す。往復経過時間は如何程か、もう一度室内に掛っている壁時計を見上げ、ちらりと髪の毛の塊を見下ろす。喉を軽く鳴らす。
「…往復十分で戻ってこれるかぁ?」
 スクアーロの言葉に淡い色が激しく上下に揺れる。髪の毛の塊は、嬉しげに兄のノートを胸に抱えた。ここからその程度の距離であれば、人目につくこともない路であること、それからその危険性を考慮し、しかし少しばかり悩むと一応念押しの意味も含めてラヴィーナに尋ねようと、その背を屈めた。だが、それと同時に後頭部に人を気絶させんばかりの衝撃が走る。痛みに前方に向かって数歩ふらつきながら、毎度の如く睨みを効かせて振り返る。銀色のカーテンの向こうにいたのは、赤くちらつく炎の瞳を瞬かせている男であり、かつ髪の毛の養父になっている男でもあった。
 ラヴィーナとスクアーロの二人組へと視線を走らせ、XANXUSは顎を軽く動かし、説明を求める。どう考えても寡黙なぞ通り越している男をねめつけ、スクアーロはブーツ底を一度はめり込まされた後頭部をさすりながら事の次第を説明する。終わると同時に、忌々しげに舌打ちが響いた。
「あの糞餓鬼が…」
「で。ボスさんよぉ、ラーダ一人に行かせようと思うんだが…どうだぁ?この距離だと人通りもねぇし…まぁ、もう行く気満々みてぇだしなぁ」
 小さな手で髪の毛を結わえ上げ、顔布の代わりに外界と目を完全に遮断するサングラスをばっちりかけ、小脇にセオのノートをしっかりと抱えているラヴィーナにスクアーロは苦笑を交えた。そわそわと小さな足が絨毯を踏む。
 市街地に踏み入るわけでもないので、かまわないだろうとスクアーロは考えているのだが、XANXUSの考えは相変わらずわからない。外に出す場合、ラヴィーナを単独行動させることはなく、必ず誰か一人見張りをつけて動かせる。そして、ラヴィーナがそれ程の危険因子であることは動かせないこともまた、事実である。ただしそれは一般人が集合している場所に限られる話であって、この時間でのセオの移動距離には人は皆無と言える。スクアーロとラヴィーナはXANXUSの言葉を待つ。
 一拍、二拍。三拍置いた後、低い声が喉を震わせた。
「とっとと渡してこい」
 まるで周囲に花が咲いたようだった。
 スクアーロはそう感じた。感情表現として最も便利とされる目元が全く見えず、さらに口頭による表現もないというのに、珍しく曝け出された口元と小さな手足はそれ以上に雄弁であった。膝がスカートの中で曲がり、伸び上がる。小さな体が宙へと跳ねる。任務時以外一切発されない声が、スクアーロの耳には一瞬聞こえたような印象に捉われた。勿論それは、ただの幻聴であり、実際にラヴィーナが声を発したわけではない。
 喜び勇んでいるラヴィーナにXANXUSは釘をしっかりとさすことを忘れなかった。それはほぼ毎日のように繰り返されている言葉であり、戒律でもある。
「声は、何があっても使うな」
 子供に説明する能力もとうとうXANXUSにも備わったのか、武骨な指先が彼自身の喉を一二度叩く。ラヴィーナは養父の教えに両足を絨毯に戻して、大きく、そして強く頷いて見せる。それを見届けたXANXUSは犬にでも命じるかのように、行けと一言ラヴィーナに与えた。結わえられた髪の毛が風を巻き込んで揺れ、小さな背中は扉の向こうへと消えた。
 スクアーロはにたにたとしたり顔をしながら、XANXUSをからかいに笑う。
「随分と長くなるが、てめぇも今更ながらに父親が板についてきたかぁ。ボスさんよ、ぶ!」
「るせぇ」
 下から強烈に振り上げられた足に顎を吹き飛ばされる。スクアーロは二歩下がって、尻餅をつき、蹴られた顎をさする。成長したのは彼の父親具合だけではなく、己の耐久性もかと喜ぶべきかどうか迷う事実に少々頭を悩ませた。
 顎を撫でていると、ひょっこりと扉の向こうから白いスケッチブックが覗く。Sto uscendo. Ciao.(行ってきます)とご丁寧に弾んだ文字で記されていた。殺人兵器の本質を持つそれの、あまりにも嬉しそうに笑う声のない口元と桃色に染められた丸い頬は本当に、ただの子供のようである。それこそ、彼女の生来持ちうる能力全てが、人を殺すためだけにしか活用できないそれであっても。
 スクアーロがXANXUSをちらと見上げれば、男は養っている子が消えた方向へと視線を送っている。心配なのか。こいつにそんな父親らしい可愛らしいとも言える一面があったのかと、腹の内でひそりと笑っていれば、見事な蹴りがもう一発、スクアーロの側頭部にめり込んだ。銀色が流れ、絨毯の上に顔を擦りつける。すると、暖炉の前でのんびり寝そべっていたスィーリオがのっそりと体を持ち上げ、スクアーロの顔へと鼻を擽らせる。心配しているのか。そんな様子を見たXANUXSは鼻で一つ笑うと、付け加えた。
「犬にも同情される始末か。流石はカスだな」
「う゛お゛おおぉ゛おおい!!そこまで言うかぁ!?」
 鼻を押し付けて餌をねだってきたスィーリオを押しのけ、そしてスクアーロはいつものように上司の言葉に陳情した。それから当たり前のように、傍に置かれていた花瓶が飛び、見事十点、華麗にスクアーロの顔面に音を立ててキスを果たす。花瓶は絨毯の上に無事着地した。そして銀糸の剣士もまた、後頭部を絨毯へと乗せた。
 一方、部屋から出たラヴィーナははやる心を押さえながら、庭の地面を楽しく踏む。誰にも見張られていない外出というものは、ラヴィーナにとって初の体験であった。きらきらと落ちてくる光に両手を振りながら拾おうとする。勿論光なぞが拾えるはずもなく、ただ小さな紅葉の手は一人で歩く道に落ちているものを、興味深そうに一つ一つポケットに詰め込んでいった。まっすぐに歩けば二三分の距離をジグザグに歩きながら、その倍の時間を掛ける。
 地面を見ながら歩く。小さな靴がスカートから、歩く度にひょこひょこと覗き、その様は面白可笑しい。ラヴィーナは歩数を数えるように歩き、いつの間にやら当初の目的を忘れていた。脇に抱えた一冊のノートの上にはすっかりとポケットに入りきらなくなった、石やら落ち葉やらが乗せられている。随分とノートを汚してしまったが、兄がその程度では怒らないことを妹は知っていた。反対に褒めてくれるのではないかと思い立ち、さらに沢山のものを開いたノートの上に乗せていく。丁寧に書かれた数式はあっという間に拾得物で埋められてしまった。 その時、綺麗な小石を数メートル離れたところにラヴィーナは目敏く見つけた。木の葉の陰から差し込む光で、それはまるで宝石のようにきらきらと眩しいほどの光をきらめかせている。小さな足をめい一杯に動かし、ラヴィーナはそちらに走った。しかし、それにたどり着く前に、誰かの体に衝突する。ジーンズ。結わえた髪は地面を擦らない。ラヴィーナは顔を上げた。そこに立っていたのは、青年であった。吸い込まれるような目を、青年はしていた。そして青年は柔らかな挨拶をした。朝の挨拶である。
「Buongiorno(おはよう)」
 ラヴィーナはその挨拶にもう一つ持っていたスケッチブックをめくり、先程青年が述べたのと同じ言葉を見せる。小さく笑った少女の口元に、青年はうっすらと、同じような笑みを添えた。

 

 スクールバスが出るまではまだまだ時間がある。セオはゆっくりといつも通り森の小路を歩いていた。車でバス停まで行っても構わないような距離であるが、足腰を鍛えるという基礎を鍛える一貫において毎日徒歩でそこまで通う。ルッスーリアには、いっそ学校まで歩いて言ったらどうかと勧められたが、セオも流石にそれは断った。それに何より、スクールバスというのは新鮮でよい。友達と一緒にバスで通うというのは、なかなかできない経験である。それこそ一生における一定期間しか味わえないことではなかろうか。それに、バスの中で運命的な出会いもあるかもしれない、などとと思春期真っ盛りの思考でセオはにへらと頬を緩ませた。徒歩通学でも十分に見こせる可能性であるが、バス内というのがまたシチュエーション的に、心躍るものがあるだろう。好きな子と一緒のバス。そんなことがあったら面白いし素敵である。
「へへ」
 ついつい笑みが口をついた。ドンあたりに見つかれば、この変態と罵られることだろうがそんなことは気にすべきことではない。自分の年頃の男の子が少しばかり夢を見たところで非難するような人間は誰もいない。寧ろ、微笑ましいと見守ってくれる人が大半を占めるだろう。
 木の葉の隙間から落ちてくる暖かな陽光が足元を明るく照らす。道を抜けた先に見えるのは、バス停である。セオは耳に聞こえたエンジン音に慌てて駆け出した。十分に時間があるとはいえ、少しばかりのんびりしすぎたのかもしれない。十分に溜め込み、そして一気に体を走らせる。頬を風がなぜる感触は大層心地よい。道路にまで飛び出す前に急ブレーキをかけ、バス停の看板を片手にぐるりと回り、停止する。それとほぼ同時にバスは停留所に到着し、そのドアを開けた。
 温もりを感じさせるオレンジのバスは、セオを中に入れると扉を自動で閉めてまたタイヤを回し始める。
「Buongiorno!」
「Buongiorno」
 運転手に挨拶をし、セオはバス内部に乗り込む。いくらかある席には半数ほど既に生徒は座っている。その中にジーモやドンが乗っているは承知であったので、最後尾に座っている二人へとセオは向かい、Ciaoと笑い声をかけた。ジーモは相変わらずののんびりした様子で挨拶を返す。
「Ciao, セオ」
「Ciao! ジーモ、ドン」
「朝からその喧しいテンション下げてもらえる?鬱陶しくてかなわない」
 手にしていた分厚い、それこそ兇器にでもなりそうな本を音を立ててドンは閉じ、下から明るく挨拶をしたセオを睨みつけた。しかし、そんなのは彼にとっては挨拶のようなものだとセオは認識しているのか、気にせずにその隣に座る。一番大きなジーモの体は窓の横に収まっている。体が大きな分、隅に寄っているその姿は何故だろうか愛らしささえ覚える光景である。時間に正確なドンにしては珍しく、朝食がまだであったのか、手には紙に包まれたパニーノが半分、握られていた。半分で足りるのかどうか心配だとジーモはその隣で、眉の両尻をしょんもりと下げる。友人の心配にドンは肘で、鍛えられている体を突いた。痛くないのか、ただジーモは困ったように苦笑するばかりである。
 そんな二人の会話を遮ることなく、腰を下ろしたセオは肩に斜め掛けにしていたカバンを膝の上に持ってくる。
「今日の数学の宿題難しくなかったか?」
「別に」
「難しかった。俺まだ解けてないんだ。あ、ドン、なら解法見せてくれないかなー」
「君は一度体の前に脳味噌を鍛えてしかるべきだと思うんだけど」
 ぶつぶつと苦言を呈しながらも、ドンは自分の鞄から数学のノートを取り出してジーモに差し出す。セオは反対側からドンを挟むようにしてそれを覗きこんだ。
「あー成程。ドン、こうやって説いたのか」
「一番効率的な解法だよ。公式を二つ使うのがみそだと思うね」
「俺は、一つしか使わなくって…あれ?」
 セオも自分のノートを取り出そうと鞄を開け、そして首を傾げる。一冊一冊隙間を開けながらノートの表紙に書かれている文字を確認するものの、そこにはセオが探しているノートは入っていなかった。その顔からさっと血の気が引く。巨人と小人がその顔色の変化を横から眺めつつ、内容的には全く一緒の言葉を互いに言った。
「馬鹿じゃない?忘れたの。登校前に鞄の中確認しないわけ?君。迂闊にもほどがあるよね」
「忘れ物?セオ、えーと、俺のノート貸そうか?」
「教科書なら兎も角、人のノートなんて借りてどうするのさ。大体同じクラスで貸し借りなんて成立するはずないでしょ。ジーモ、時々俺は君の脳細胞が全部死滅していないかどうかでとても心配になるんだけど」
「生きてるから大丈夫。でも、数学のノートはまずいと思うけど…ほら」
 ああとセオはジーモの言葉に苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。数学の教師は一般に見ても鬼教師である。忘れ物をすればとんでもない叱責と半端ではない量の宿題と、それに合わせてトイレ掃除までやらされる始末である。
 すっかり青褪めてしまったセオは、さっと現在バスが走っている外の風景を眺め見る。まだそう遠くまでは走っていない様子である。何かを考え、その思考が読み取れたのか、ドンは口元を引き攣らせて呆れ果てた様子で額に手を添えて項垂れる。
「Incredibile!(信じられない)はぁ?!君正気なの?ねぇ、一ついいかな」
「いや、でも間に合う」
「いいよね。ねえ、言わせてもらえる?言うけどさ。走行中のバスから飛び降りて数学のノートを取りに帰るなんて、君本気の馬鹿だよね!トイレ掃除や叱責くらい大したもんじゃないでしょ?君の内申に微々たる影響も及ぼさないと思うよ?それをわざわざ?いやね、そりゃあ君の身体能力を考慮すれば、十分に可能だけれども。でもそれを実行するってのは、どの角度から見ても考えられないね」
「いや…授業の時に教科書とノートが揃ってないって…こう、違和感が」
「理由はそれだけ!?ああ、どうして君はそんなに馬鹿で愚かなんだろう。君のマンマの呆れる顔が容易に想像がつく」
「マンマは褒めてくれると思う」
「そんな馬鹿な話はないよ。ジーモだってそう思う」
 同意を求めたドンにジーモは首を軽く傾げて、曖昧に笑い、回答を拒否する。そうこうしている間に、セオは窓を全開にしてその枠に足を掛ける。運転手はしっかり前を見ての安全運転である。ちなみに鞄はドンの隣に置きっぱなしであった。
 じゃあとセオはドンとジーモに、さも当然のように頼んだ。
「鞄は俺の机に置いといてくれ」
「焼却炉に放り込んどくから、燃やされないうちに拾いに行くことだね」
「うん、分かった。気を付けてなー、セオ」
「おー」
 上側の窓枠に手をかけ、セオは腕と蹴った反動でバスの屋根に飛び乗る。天井から人一人分の体重が乗った音が二人の青年の耳に落ちた。やれやれとドンは溜息を吐きながら、セオの鞄を自分の鞄の上に乗せる。もう一度踏み切る音がし、そしてそれ以降はぱったりと音が止んだ。開けられていた窓をドンが閉じ、そして何事もなかったかのようにバスは学校まで走り続けた。
 そのバスを横目で見送りつつ、セオはバスの屋根から、道路を走る車の屋根を川の石渡のように踏み渡った。道路脇のすぐ傍を走る車の屋根を音もなく踏むと最後には道路に両足をつける。革靴が高い音を立てはしたが、見事に強い衝撃は膝のクッションで和らげられた。類稀なる身体能力、もとい日々の訓練の成果がまさか忘れ物を取りに帰る際に活躍するとはセオ本人にとっても予想の斜めを行っていた。
 爪先を地面で数度叩き、背骨を大きく鳴らして伸びをする。バスが学校に到着するまで二十分弱。授業が始まるのが、それからさらに三十分後。ここから帰宅後に学校に全速力で向かえば、間に合わないことはない。人目につかない屋根を音を消して走れば、注目を浴びないこともセオは承知であった。かか、と雨樋を足かけに天井まで体を跳ね上げる。宙でくるりと一回転。脚を存分に使って、衝撃音を完全に消した。本来、暗殺目的のために鍛えた技は素晴らしい効果をもたらした。父親から大目玉をくらわないことを祈りつつ、セオは二三歩で次の屋根へと飛び移る。
 暫くもそうやって走れば、あっという間に人気がなくなる路地へと戻り、自身のバス停へと戻った。後は多少入り組んでいる小路を走り切れば、家に無事到着である。どうぞバッビーノがノンノとの会食、マンマと一緒にくつろいでいるか、あるいはVARIA内での会議に参加していますようにとセオは両手を合わせて祈る。殴られるのは、本当に痛いのである。どう考えても、我が子を殴る強さの痛みではない。あまりにも強力かつ強烈である。殴られた後は星が散る。思い出してぞっとしながら、セオは腕時計を一度確認し、時間に間に合うことを見直した。
 走り出し、小路を潜り抜ける。行きこそ、木々のざわめきや虫の鳴き声に射し込む陽光を楽しんだものの、今となっては、ただ流れるだけの趣を感じる間もない音の塊であった。
 三分の一程進んだところで、セオは突然足を止める。視界に入ったものは、自然に存在するものではない。驚異的な視力で、それを確認したセオは行き過ぎた道を取って帰す。速度を緩め、視界を横切ったその白い、四角い物体の下へと戻った。腰をかがめ、セオは落ちているそれを拾った。紙でできている。文字を書くために使用するそれは、ノートという物体であった。手になじむそのノートの下には自分の名前が書いてあることを確認し、開く。それと同時に、ばらと沢山のものがノートから落ちる。虫、小石、葉に小枝。到底ノートとしての活用法としては明らかに間違っていた。しかしそのノートは数学に使用するノートで、昨日苦戦した宿題が書き記されている。自分のものに間違いない。
 セオは小首を傾げた。自分はひょっとして鞄を閉め忘れたのだろうかと推測する。そして、歩いている表紙にノートがぱさり。ありえない。流石にそこまで注意力散漫ではない。ノートが落ちればさすがに気付く。それに何より、落ちたノートに自ら、虫は兎も角、葉や小石、それに小枝が歩いて挟まるわけがない。現実的に考えてまずありえないだろうとセオは結論付けた。そして、それは間違いない。
 そう思考を巡らせていると、ポケットの携帯電話が音を立てる。何かと思いズボンに入っている携帯を取り出して、着信画面を見ればそれは、父親のものだった。もしや忘れ物をしたのがばれたのかと、セオは口元を引き攣らせつつ、顔を紙のように白くさせる。電話を取るのが恐ろしい。しかし取らないわけにもいかず、セオは恐る恐る通話ボタンを押して、耳に当てた。
「P, pront…?(もしもし)」
『遅ェ、糞餓鬼が。三秒で出ろ』
「無茶言わないでよ、バッビーノ」
『ぐだぐだ抜かすんじゃねぇ』
 電話に出頭、いつものように叱られたセオは口をへの字に曲げる。怒る以外のこともしてくれないだろうかとささやかな期待をしつつ、しかしそんなものは淡く儚く消えるものだと、同時にセオは理解もしていた。
 寂寥感に心を浸すのを妨害するかのように、電話越しにXANXUSはある名を告げた。
『糞餓鬼はそっちに行ったか』
「…ラヴィーナ?会ってないけど…ひょっとして、俺のノート、ラヴィーナが?あっ、そうなの?そう?えへ、俺のために?へへ、本当?」
 浮かれた息子とは別に電話越しの声には緊張が走り抜ける。
『…会ってねぇのか』
「ノートならさっき拾ったよ、バッビーノ。色んなもの、挟まってたけど。あ、」
『何だ』
 セオは少しかき分けたところに、ノート同様白いものを見つけ、拾い上げる。
「…ラヴィーナのスケッチブック」
 捲れば、日常に必須である語句が妹の文字で記されている。
「バッビーノ」
 嫌な予感が背筋を冷たく凍らせた。答えは、父からは未だになされない。セオは手に持ったスケッチブックについている葉と土を払い落とす。ぱらぱら漫画の要領で、紙を急ぎ捲りゆく。瞬間記憶能力をフル回転させて紙が白地に変化するまで見たものの、重要な言葉など何一つ書かれていない。ぱらり、と最後の一枚で表紙を閉じる。
 携帯を肩と耳で挟んだまま、セオはまだ切れていない電話に話しかけた。
「まさかとは思うけど」
『戻れ』
「すぐに」
 言葉と共に、木々の中から青年の姿は掻き消えた。