Como e Lavinia - 2/12

2

 何もない。そして何もしない。
 セオは手にしていた書類を机の上に放り投げて嘆息した。大きな机の上には放り投げた書類が扇状に広がり散る。アロルド・ココに関しての資料をジャンに頼んで取り寄せてもらったのだが、何の不備も存在しなかった。それは正しくない。不備だらけではあったのだが、その中にセオが求めていた答えは転がっていなかったというのが正確である。
 書類の中に顔を埋めたセオの隣で、ドンは自身がまとめていた書類の端を机に叩いて丁寧に合わせていた。そして、その反対側にいるジーモが自身よりも半分以下、それよりももっと少ない枚数に苦戦している様を見て、手を伸ばし奪い取る。奪い取る際に、遅いんだよと詰ることも忘れない。ジーモは怒ることもせず、Grazieと枚数を減らしてくれたことに礼を述べた。
「出てこない」
「出てこないね」
「出てきたことない?」
 三者三様の言葉が机の上で交わされる。何が、とセオは青い目を丸くさせているジーモに尋ねた。それにジーモはようやく三枚目の書類を机の上に戻しながら答えた。
「まずはアロルド・ココが偽名だってことで、二つ目はアロルドの裏稼業は死体解体業者だってこと。普通だよなー」
 普通と言ってしまえるあたり、ジーモの感覚は既にどこか麻痺しているのかもしれない。セオはそう思いつつも、確かにと紙に書きだしておいた要点をひっぱり眺める。ジーモの言っていたことは間違いではない。むしろ、それらの情報はこちらが感じた違和感と猜疑心を特に値するものである。でも、とセオの思考を遮るようにドンが言葉を漏らし、ジーモの約十倍の速度で手にしている書類を片っ端から片付けていた。
 最後の一枚がドンの目の前で滑る。
「随分と仕事熱心ではあるよね。それに死体処理能力の低いファミリーや殺し屋の情報をどこから集めたんだと思う。彼の仕事は滑り出しから順調すぎやしない?」
「情報屋か?もしくは先代から引き継いでるとか」
 尤もな質問には尤もな回答が添えられた。そんなありきたりな回答を求めているのではないとドンは半眼になり、セオに馬鹿でも見るかのような視線を向けた。隠す気のない軽蔑の視線を真っ向から受けながら、しかしそんなものはもう既に慣れっこであるとばかりにセオは話を再開することに努めた。
「戸籍も偽造だろ?これ」
「もしくは他の誰かの戸籍を使用しているかのどちらか。多分後者の方が有力じゃないかな。偽造戸籍は経歴の嘘がすぐにばれる。顔なんてものは整形すれば済むことだし…今じゃ、その道であれば人の目を騙すも容易い幻術なんてものが存在してるからね。相手がこっち側の人間であるならばその可能性は捨てないでおいた方がいい。楽観視はできないものの、ラーダとの関係性は一切見つけられないし…ま、考えられる可能性としては、女の子の体をばらすのが好き、あるいは幼女に恋愛感情を抱くタイプ。それに付け加えるなら、ゲテモノに興味があるとか」
「待てよ、ゲテモノって何だ」
「君の視力は正常?生憎だけど俺にはラーダが普通の可愛い女の子には色んなものを差し引いたところで見えないけどね」
 ドンの口から流れた言葉は反論の余地がないほどに正確かつ正論であった。ラヴィーナは可愛いとセオは兄馬鹿上等の一言を悔し紛れに付け加えたものの、見事に一蹴された。冷たく切り返し、少しばかり温度の下がった二人を取り持つようにして、ジーモは俺も可愛いと思うよとセオの味方をした。味方というよりも、ただ単に本人がそう思っただけであることは二人の青年は十分理解していた。このジーモという青年は嘘を吐かないのではなく吐けないのである。
 一度はばらまいた書類をかき集めるようにようにまとめ、セオはそれらを整えてファイルに挟み戻した。ジーモとドンの書類も預かり、同じように挟んだが、やはりその重さ以上のものがこのアロルド・ココという青年にはあるのではないかという疑いが心臓の裏側にこびりついて離れない。タールの海にぶち込まれたような気分にさせられた。無性に体を洗いたくなる。潔癖症ではない。
 眉間にきつい皺を寄せている青年を、三人の中では最も小柄な青年が肘で突いた。
「アロルド・コモでは調べたの」
「調べた。でも出なかった。第一、コモファミリーは」
「君が小さい頃に殲滅してるよね」
「ああ。研究所は俺とスクアーロで担当したんだ。生存者はいないし、リストアップされている人間は全員殺した。間違いはない」
 それでこそのVARIAクオリティでもある。その完璧さにはセオ自身、自負していた。その看板を下ろしてはそこここの護衛組織とそう変わらない。このクオリティの高さこそ、ボンゴレが最強である所以の一つでもある。任務終了後はボンゴレ研究班が研究所に派遣され色々としていたようだが、その旨の情報にセオは積極的に関わらなかったし、今後関わるつもりもなかった。それはVARIAの仕事ではない。
 ふとその時小さな髪の毛の塊が床を掃除しながら扉を開けて姿を現す。その異星人の兄は顔を緩ませ、ラヴィーナとその奇怪な生き物の名を呼ぶ。小さな手にはトレーが持たれており、その上にはおそらく母が作ってくれたのであろう、茶菓子としてクッキー、それから紅茶が添えられていた。ジーモはGrazieと礼を述べてからラヴィーナからそれを受け取る。三人分しか用意されていないところを見ると、ラヴィーナはもう食べて来たか、それとも別室で取るのは容易に知れた。一緒に食べればいいのにとセオは思ったものの、それが妹の気遣いであることを悟り、ラヴィーナが用件を済ませて出ていくのを大人しく見守った。
「あー…流石は俺の妹。何でこんなに可愛いんだろう」
「シスターコンプレックスって知ってる?君、そこら辺の変態よりも気持ち悪いよ。親馬鹿ならぬ兄馬鹿の発言は俺がいないところでしてくれない。胸やけがするよ。微笑ましい通り越して鬱陶しいからね」
「ラヴィーナ可愛い。超可愛い。天使みたい。マシュマロみたい。食べたいくらいに可愛いよな。髪の毛もサラサラだし、ちっさい手は紅葉みたいでずっと握ってたいよ」
「俺へのあてつけ?」
「まさに」
 その通り。セオは鼻で笑い、それにドンは青筋を額に浮かべた。しかしそれにジーモは、そんなことよりと笑って二人の会話を遮った。そんなこと扱いされた子供の会話にセオとドンはそっと視線をそらす。
「結局どういうことなんだろうなーそれに、アロルドはなんでこんな時期に編入してきたんだろう。今更学校に通うことに意味あったのかな…?」
 素朴な疑問は人の核心をつくものである。ジーモの質問にセオとドンは互いに顔を見合わせ、その答えを探したがそれらはあくまでも推測にすぎない。
「たとえば、ドンの言う通り女の子に何らかの特別な感情を抱く人間だったとしても、それだったら生徒として同じ年頃の多い中等に入学するよりも、初等の方に清掃員なりなんなりで入った方がよっぽど効率的だと思うんだけどなー…それとも」
「他の目的がある?ラーダとか?でもね」
「ラヴィーナの存在はそれこそ秘匿だろ。正直存在を知っているのはボンゴレ本部幹部とVARIA隊員くらいだ」
 ドンの言葉を受け取り、最後はセオが絞める。しかしどう考えてもしっくりくる答えが出てこず、三人は唸った。唸ったところで正答が出てくるはずもなかったが。
 手の内にあるファイルの用紙をぱらぱら漫画の要領で捲りながら、セオは今の行動がかなり無駄であることを悟った。ならばこんなところで書類とにらめっこする必要などどこにもありはしない。まあと切り出す。
「何かあればそれに応じた行動を取ればいいだろ。相手は死体処理専門なんだ。悪いが、あの体つきみても俺達が負ける要因はないだろう。最悪を想定しても、完全に潰せる。一応バッビーノにも知らせとこうかな…」
「知ってるんじゃない?ジャンに調べてもらったんでしょ。全部上がってるよ。むしろラーダに釘刺しといたほうがいいんじゃない?心配なら」
 ドンの言うことも尤もで、セオは成程と頷いた。そして、ようやく手を付けようと茶菓子のクッキーに手を伸ばしたが、白皿の上には既にもう何もなかった。ドンとセオはさっと視線を最後のクッキーを口に放り込んだ巨漢へと移す。二人の視線に気づいたジーモはにっこりと笑って、そしてこう言った。
「Ho mangiato di gusto(ごちそうさま)」
 怒声と書類が舞った。

 

 理由など、そんなものはたった一つでいいとアロルドは思う。
 頭の悪い連中は今頃こちらの情報を探っているだろうが、既に自身に関する情報は遥か昔、それはボンゴレに父親のファミリーを潰された時に自分の手によって消滅させた。そちらの方が都合がよいのは分かっていたし、何かと面倒を省くためである。それでも苗字をココとしたのは何かしらの愛着があったせいなのかどうなのか、アロルドにそればかりは分からなかった。分かったところで何の意味もない。
 人間であった、などとは到底思えない肉の塊を詰めた瓶をアロルドは袋から出す。あの日、殺し屋から渡された死体を隠滅することなく、こうやって瓶詰にして持ち歩いているのは、死体を愛好している趣味を持ち合わせているからではなく、この結末になった要因をこの肉塊を見ることで思い出せるからである。自分は何一つ間違っていなかったということと、そしてもう一つ。アロルドは笑う。特殊な溶液に浸しているために、独特の腐臭は発生せず、さらに死体が、死体と称するにはいささか定義を大きく越境しているような気もしないではなかったが、兎も角死んだ生物の肉がこれ以上の腐敗をすることもない。
 肉と骨の詰まった瓶を机の上において、まるで熱帯魚でも鑑賞するかのように眺める。これで瓶の中身が透き通った清い水で、中を泳ぐのが色鮮やかな魚であれば普通の光景だっただろう。どこか金持ちのような臭いもさせかねない光景になるわけだが、現実は全く異なるものであった。青年が眺めている瓶に詰まっているのは、無色透明な、僅かにどろついた溶液であり、そして中を優雅に泳ぐのは魚ではなく、血を凝固させた肉塊である。目玉が、ぎょろんと零れた。歯は粉々に砕かれたのか、顎だけが不気味に泳いでいる。
「Sei mia」
 僕のもの。君は僕のもの。生まれたその瞬間から、死ぬその一瞬まで、僕の所有物。
 アロルドは笑う。手の中に持っていた果実を齧る。ぷちゅりと果肉を前歯が食い破り、濃厚で芳醇な香りを有した果汁を指先にたらす。零れ落ちたそれは、白い皮膚を伝い、袖口を湿らせた。肩を揺らし、アロルドはどうしようもなく可笑しいこの気持ちを抑えきれずに噴出した。果肉は既に喉を通った後だったため、床に吐き出されることはなかった。死人を冒涜するような死体を前にしながら、アロルドは可笑しくて嬉しくてたまらなかった。どう言葉を尽くせばこの皿に収まりきらない気持ちを表現できるのか。表現しきれないことがただ唯一、アロルドを悔やませた。
 肩を揺らして椅子に腰かけていると、窓をノックする音が耳に届いた。首を横に向ければ、暗闇には目立つ金糸が黒の中に踊っている。どうやって立っているのか、ここは三階であったはずであることを思い出しながら、アロルドはノックに対する返答をした。
「Si accomodi. …Bitte, kommen Sie herein(どうぞお入りください)」
 イタリア語のそれをドイツ語に言い直された入室許可に、窓の外に立っていた男は夜風を纏い中に踏み入った。ざらりと金色が流れる。
「今日は一人なのか」
「問題でも」
「あなた方はいつも二人組だと聞いていたから」
「支払ってくれた分の働きはさせてもらう。実際に仕事にかかるのは二人だから心配はいらない」
「成程。それで?」
「こちらの準備は終わった。そちらはと聞きに来た。同伴するのか」
「同伴?止めておく。冗談じゃない。あなた方の勝率は酷く低い。噛みついた犬は顎ごと牙をへし折られる」
 失礼も甚だしい言葉であったが、男は怒るどころか表情一つ動かさなかった。ただ、青年の言葉を聞く。そして、青年の前にある机の上に置かれている瓶を眺め、一言こういった。
「Sie haben den schlechten Geschmack(悪趣味め)」
 僅かに罵るような響きが込められた言葉にアロルドは笑う。
「死体を眺めて喜んでいるわけじゃない」
「なら?」
「死体を創り出した生き物を想像して、愉快でたまらない。僕が創り出した最高傑作」
「人殺しの機械を」
「機械?冗談じゃない。あれは最高で最上の生き物だ。人を、殺すための」
 青年の言葉に、金を揺らす男の青はまるで氷のような色を放った。男は踵を返し、先程入ってきた窓枠に手をかける。そして言い残したように背中を向けたまま、椅子に座っていえる青年に言葉をかけた。
「人殺しに、最高なんて言葉はありえない。人殺しはいつだって」
 最低の所業だ。
 窓が閉じられ、そして最初からその場には一人しかいなかったとでもいうように、静寂が戻る。
 闇に溶けてしまった全ての事象をアロルドはもはや振り返ることをしない。それは彼にとって重要なことではなかった。そして、肉片の詰まった瓶を眺めながら微笑む。果汁で汚れてしまった指先で瓶を外側から詰める。青年の瞳に映っているのは、一般人であれば吐き気を催すような光景であったが、青年の心に映っていたのは別の光景だった。瓶詰の、までは一緒であったが、はるかに高く大きな瓶の中、その中に詰まっていたのは一つの生命。淡い茶色の髪の毛を液体の中で揺らし、赤子のような手足を浮かせていた。あれぞまさに最高傑作。そうと称さず何と称する。アロルドの語彙の中に、それ以上の言葉は見つからなかった。至高の生物兵器。
 目は人の心を踏み躙り崩壊させ、発する声は人の器を破壊し砕く。小さな器は見るものを油断させる可愛らしい容姿。ヒトという存在を壊すためだけに作られ、それらの能力を完全に凝縮した存在なのである。それが現在いい意味で行使されている事実をアロルドは非常に好ましく思った。コモファミリーにおける一つの欠点と言えば、八号の能力を合法的にかつ摩擦無く使用できる場面がなかったということであった。その点においては、自身のファミリーを壊滅させたものがボンゴレ独立暗殺部隊であることを歓ばなくてはならない。
 しかし、アロルドは一つ気に食わなかった。セオ、はあの兵器のことを妹と称したことだった。まるで一般の小さな子供であるかのように当然のごとく扱われている様はあの生き物に全く相応しくないと思う。あれに適した光景は、小さな手が破壊しつくされた人肉の上に乗っていることだろう。嬉しそうに弁当を届けに来たり、子供のように飛び跳ねたりする様は不格好であり無様である。悲しくなるほどに。泣きたくなるほどに。
 死にたくなるほどに。
 ならばあれは失敗作なのか。アロルドはふとそんな思考にたどり着いた。あれは己の最高傑作ではないのか。首を捻る。傾げる。人殺しのための、人を殺す以外一切の能がないように作り上げた生物である。それ以外のものなど必要ないものとして切り捨て、創りあげたのだ。ならば、あの不必要な見るからに不愉快なあの表現方法や行動は一体何なのか。アロルドには見当がつかなかった。そんなものは、インプットしていなかった。DNA配列からしてそうならないように創り上げたはずだったのだ。一から七号はそれぞれ欠陥が生じていた。能力が上手く発動しなかったり、発育の過程で病死したりなど外界の菌やウイルスに異様に弱かったり。はたまた思ったように養育できなかったり。
 故に八号は完璧であった。生物を殺す際に躊躇がなかった。殺した後もパニックに陥ることはなかった。捨て子など、まだ小さな子供相手が実験段階であったが、転がされている人間や怯えている子供たちは簡単に肉塊へと変化させられた。
 完璧でなかったのか。
 アロルドの脳内に軋みが走る。耳にするのも不愉快な音が脳内に充満してパンクしそうになる。苛立ちと共に振るわれた腕は机の上にあった瓶に当たり、それを床に叩き落とした。幸いガラスは耐久性の高いものであり割れることはなかったが、中身は落とされた振動に合わせて浮遊し、激しく混ざった。
「確かめよう」
 結論を出すにはまだ早かったのかもしれない。アロルドは、そう思った。