Como e Lavinia - 12/12

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 大量のファイル、あるいは紙の束を見、ドンとジーモは何とも言えない声を零した。ああともうわともつかない。
 大きな体で扉を頭を屈めてくぐりながら、強烈な臭気にジーモは顔を顰めて鼻を抓む。
「凄い臭いだなー…沢山あるし」
「研究者ならこれくらい普通じゃない?むしろ一冊二冊、段ボール一二箱って考える方がおかしいんだよ。どっちにしても、シャルカーン隊長が匣兵器を貸し出してくれて助かった。遠方だったけど、まあ、頼んでみて正解だね」
 そう言ったドンの足元にはくるりと尻尾を巻いた黒猫が鎮座している。嗅覚はないのか、一般人ならば嘔吐するほどの臭いにも、猫の姿をした匣兵器は然程大した反応を示さなかった。
 手品と子供好きのシャルカーンは現在任務で中国へと行っていたが、ドンはスクアーロの指示を聞き、成程と頷くと一旦ラジュへと連絡を取り、そしてシャルカーンへと連絡を取りつけた。二日してラジュが炎を注入して開けた匣兵器を渡され今に至る。
 閉ざされている冷蔵庫には蠅が集っており隙間からは蛆がうねり落ちている。お世辞にも近づきたい、あるいは開けたいとは思わない光景であった。腐臭の中心もそれであり、前に置いてある作業台とバケツなどの器具は綺麗に洗われてはいたものの、それでも鼻につく臭いは染み付きこびり付いて離れないようで、一匹、黒い蠅が音を立てて止まって見せた。
 この部屋を使用していた人物がいったいどのような仕事を生業としていたかは承知していた二人は、それをおかしいとは思わなかった。ただ、部屋を大きく占めている冷蔵庫に触れることはしなかった。
 乱雑にまとめられた書類と、壁に収まっているファイルをある程度縄でまとめ、猫型の匣兵器に呑み込ませていく。作業は着々と進み、必要とされる書類の半分は片付いた。ドンは額に浮かんだ汗を袖で拭う。窓一つない部屋の唯一の換気扇は壊れていた。冷房は添えつけられていたが、電気が回されていないために、動くことはない。匣兵器の雷の炎で動かせないこともおそらくはないのだろうが、万が一にでも火災が起こり、書類が燃えれば大惨事である。様々な意味で。首を切られる、というのは冗談にはならない。くそ、とドンは悪態を一つついて、滴り落ちそうになった汗を拭い直し、ファイルの束を両手で抱える。
「ドン、しんどいなら休んでていいよー。俺、やれるから」
「いいよ。何?君は俺のことをそんなに非力だって貶したいわけ!?」
 鼻を突く臭気と風通しの最悪な部屋、慣れない力作業で苛立ちの臨界点をうろついているドンは声を上げて、攻撃的に皮肉った。それにジーモは多少たじろぎ、困ったように眉を下げ、えーと、と友人を宥める。
「そうじゃなくて、俺は力仕事得意だし、ドンは苦手だから、得意分野生かしたほうがいいんじゃないかなーと…」
「全くその通りだけど、正直言って君だけに任せると不必要な書類まで持っていくでしょ。ほら!その赤いファイルも違う!」
 抱えていたファイルを床に下ろし、ドンはびっと鋭くジーモが小脇に抱えているファイルのうち、真ん中に挟まっていたものを指さして、そして引き抜く。ごめんなーと気の抜けた謝罪が上から響いたが、皮肉を言う気力既にもなく、ドンは溜息をそれに代えた。
 可能であれば鼻に栓をして行いたい作業であったが、それでは他の異臭が感知できないので叶わない。全く、と舌打ちを口の中でくぐもらせ、青年は書類の上に腰を下ろした。
「休憩?」
「休憩!君とセオの二人で来ればよかったんだ!今回ばかりはボスの采配ミスだとしか思えないね」
「でも、結局セオは怪我で安静にしてなくちゃいけないよー」
「そんなことは分かってんの。口に出しておきたいだけだから」
 そう言って、ドンは壁を埋め尽くしているファイルへと視線を走らせ、そして教室であった色のない青年の顔容を思い出す。鮮明に思い出せはしたものの、やはり印象には薄い。爪先にこびり付いていたであろう死臭だけは、今でも鼻に残っている。
 一冊、ファイルを拾い上げてページをめくり、中につらつらと書かれている文字を横に読みながら、自動暗記しつつ、それを途中でやめると放り投げた。投げられたそれは弧を描いて、黒い猫の影の中にぽちゃりと落ちる。底なし沼のようなその兵器の構造がどうなっているのか、ドンにはさっぱり理解できないが、ただそれは持ち主のように薄気味悪い不可解さを備えていることだけは確かだった。
 部屋に備え付けられている冷蔵庫からは変わらず臭気がこぼれ、蠅がぷぅんとその周囲で翅を喧しく震わせていた。
「まあ、ボスが俺達を選んだ理由も分かってはいるけど」
「ドン、すごいなー」
「…君のそれは、時々本気で人を馬鹿にしているかのように聞こえて気分悪いよ」
「ごめんなー?」
 責められ、すぐに謝ったジーモだったが、その表情を見たドンは彼がそれを然程重要視していない事実に気づいた。しかし、それに対して言及するような真似はしなかった。
 尻をはたき、小さな体を立たせ、ドンは作業を再開した。休んでいる間も変わらず動き続けていたジーモのお蔭で先程よりもぐっと減ってはいたが、本部に帰還した時の選別作業はまた面倒くさいだろうと溜息を吐くきたくもなった。
「ところでさ、これって何の書類?」
「ここまで仕事をこなしてて、君がそれに対して何の疑問も抱いていなかったことに俺は頭を抱えたいし、だから選別作業ができてなかったってことに気づかなかった俺を責めたいね。ねえ、ジーモ。俺言ったよね。確かに言ったよ。分からないことがあったら、すぐに聞けって、言ったよね、俺は。君のブレインが大概役立たずなのは分かってるんだから、どうして今まで聞かないのさ!馬鹿なの!?いや、君は馬鹿だけど!」
「…ドン、大丈夫」
「もーやだ!なんで君に心配されなくちゃいけないんだ!俺が?君に?死にたくなる!」
 ぎゃんぎゃんと喚き立てながらも、ドンは作業をする手の動きを止めはしなかった。そしてジーモは変わらず穏やかな表情で怒ることもせずにドンの言葉を聞き流していく。
「それで、何の書類だっけ?」
「ラーダの書類だよ」
 うんざりするような悪態を最後まで聞き終え、ジーモはドンに質問し、ドンはそれにあっさりと答える。掌の中に収められていたファイルが一枚二枚と捲られ、ジーモが抱えているファイルの上に乗る。
「研究書類。どうやって生まれた、いや、この場合は製造したか。どんな訓練や実験を繰り返したか。軽度のものから重度のものまで。こっちが右往左往しながら調べていたラーダの生態が全部、そうだね、全部解き明かされているワケだ。ここでは」
「まるで、モノみたいだなぁ…」
 ぼそりと呟かれたジーモの言葉に、ドンはそうだよと軽く返す。
「モノ、だよ。兵器だ。生物兵器だ。少し走り読みさせてもらったけど、それでも俺はラーダの認識を改めたね。史上最悪の対人間兵器だと俺は思うよ。何しろ、その的は人間だけで、他の何も殺さないんだから。人間だけに感染するウイルスと共存してた、ってところかな、敢えて言うなら」
「セオ怒るかな」
「…怒るも何も」
 ぷつん、とドンはそこで言葉を途切れさせた。視線は残りのファイルの山へとただ向けられている。もう後半分ほどで回収作業は終了する。
 しかし、これこそが、彼女であるのかと思えば、ドンは少々吐き気がした。この書類の山が、火をつければ燃えて消えてしまうのが彼女の人生それそのものだと思えば、気分は宜しくはない。往々にして、自分も自慢できるような過去を持っていることもないが、それでも、ラヴィーナが口にするのも厭うような過去を、あるいはその日常を有してきたことに今更ながらに知る。
「別に、気にしないでしょ。セオは」
「そうだなー気にしないなー」
「本人が気にしないから周囲が気にするんだけどね」
「はは」
 中身を確認し、ファイルを猫に食わせる。影が視界の中でぞるりと揺れた。
 よく。と、ドンは思う。よく、彼女は生きていたものだと。ファイルの内容を上滑りで読んだとしても、その異質さはくみ取れる。狂人を侮蔑できる職を手にしているわけではないが、ドンはそれでも、その内容を気味が悪いと思った。
「とんだ、母親だよ」
「父親、じゃないのかなーこの場合」
「子を産むのはいつだって母親の仕事だよ。男は身体構造的に不可能でしょ。尤も、これから先は分からないけれど。自然に反して作られた命ってのは、本当に、厄介だね。色々と。多分これからも。ラーダは針の筵だよ、これが公開されたら」
「また、戻るのかな」
「ボスがそれを許可したらね。セオが何言ったって無駄さ」
 いつの間にか最後の一山になってしまっていたファイルをドンは持ち上げ、猫の形をした黒い匣兵器の影の上に乗せる。それは、何の抵抗もなくずるりと黒に溶けて消えてしまった。満足、とばかりに猫は尾を振るい、寝転がっていた体勢から立ち上がる。
 ジーモは部屋の片隅に、ここに来る時に持ってきていたガソリンを持ち上げる。待ってよ、とドンは制止する。
「まだ俺が出てないんだけど。ガソリン浴びせられるなんて御免だよ」
「うん。大丈夫」
「大丈夫じゃないって…あー…もういいよ」
 猫を腕に抱きかかえ、ドンは階段側に足を乗せた。腕に抱えている猫の重みはやはり一匹分のそれであって、大量にファイルを食い込んだ生き物の重さではない。異臭の上に、油の匂いが鼻を突く。ガソリンが、コンクリートと、そして必要のない書類の上にだばだばと遠慮なくまかれていく。二酸化炭素を削減しようと叫んでいる連中が見れば、青筋を立てて怒り狂うのは目に見えているが、そんなことは知らない。
 そんなことを頭脳労働派の青年が考えている間に、肉体労働派の青年はタンクのガソリンをまき散らしながら、傍らに置かれていた冷蔵庫を開け、ああと短く声を漏らす。目に飛び込んできた光景に表情を一つも崩さず、その中にもガソリンを撒いた。火が点けば、中にある物は全て燃える。
 ジーモ、とドンは四つほどあったタンクを全て空にした青年の大きな背に声を掛ける。
「もう、いいかなあ」
 部屋には余すところなくガソリンがぶちまけられている。歩けば滑って転びそうであった。その中をジーモは滑り止めのついた靴で平然と歩く。鍛え上げられた平衡感覚もそれに一役買っていることは間違いない。
 ジーモもドンと同じく、ガソリンの巻かれていない階段の上にようやく到着する。
「セオがいれば火要らずなのに」
「ないものねだりはよくないよ、ドン」
「君いつからそんな難しい言葉使えるようになったのさ」
 は、とドンは友人を一言で馬鹿にし、そして手にしていたマッチを擦る。じゃり、火花が散り、先に火が灯される。そしてドンは部屋の中に火を投げた。一瞬で爆発的な炎が部屋を埋め尽くす。
「アツ」
「帰ろう、ドン。任務は終わったよ」
「そうだね。きっとセオは今頃置いてけぼりを食らって臍を曲げてるんだろうね。うるさい我儘っ子を宥めに、ついでに林檎でも買って帰る?」
「この格好で?この時間帯に?」
「空いてる店なんて、いくらでもあるさ」
「リンゴ酒くらいじゃないかなー出してもらえるの。メフィストとこの間行った店に確かあったと思うよ」
 どうだったかな、と首を傾げたジーモとそれを小さく笑うドンは熱がこもり、もう暫くもすれば、最初に仕掛けた爆弾が爆発するであろう部屋を後にした。
 炎ばかりが煌々と狭苦しい部屋を内側から照らしていた。

 

 自分の弱さに嘆くのは簡単である。
 自分の弱さを責めるのは楽である。
 それだけに、青年は呻いていた。父親に言われた言葉が耳にこびり付いて離れない。確かにそれは事実ではあり現実であるが、それを誰かに言わせたことによって、一つ、自分の逃げ道ができたように感じていたのが悔しく苦しいのである。
 妹はまだ目が覚めない。
 一生、このまま目が覚めないのかもしれない。
「…畜生」
 時間を巻き戻せるのであれば、そんな弱いことを考えている自分をまず一番に縊り殺したかった。