Como e Lavinia - 10/12

10

 どっぷりと、そんな表現が適当な程に白いシーツに包まれて、黒髪の青年は眠っていた。熟睡を通り越して、すでに爆睡といっても過言ではない。青年は、XANXUSの息子であり、ラヴィーナの兄であるセオという名の彼は、丸三日を寝て過ごしていた。ベッド脇に三日間ただ無言で直立し続けている点滴台は、大人しくその役目を果たしていた。青年は昏々と眠り続ける。
 たかだか三日程度で髪の毛が急速に伸びるはずもなく、青年は以前とさして変わらぬ姿で瞼を落としていた。その年頃にしてはやたら大きな体も、さらに大きなベッドの中に余裕を持って問題なく収まっている。変わったところといえば、青年は満身創痍であったことを知らせるように、治療の痕である包帯類をそこかしこにつけていたことだろう。腕にはギプスが固くはめられている。胸は上下に、規則的に動く。
 銀朱の瞳に被さる瞼の上に、大人の手が乗った。もうその手は若くはなく、皮膚には衰えが見え始めているが、その手つきは優しい。眉の下にまで伸びている髪を横になでてよける。指先の辺りで切り揃えられている爪が青年の肌に赤い筋を残すことはなく、ただ指の腹で青年の顔を撫でていく。夢でも見ているのか、僅かによった眉間の皺にその指が伸び、柔らかに触れた。
 指先を上へと辿れば、青年と同じ黒髪の、しかし性別は逆の、丁度青年の母親と思しき年の頃の女性がそこにいる。丸椅子に腰かけ、我が子を、憂慮の色を深い灰色の瞳に浮かべながら覗いていた。女性の唇は青年の名を紡がず、呼吸は鼻で行われていたために、その口が開くことはなかった。しかし、その口が、背中に掛けられた声に応答するためにようやく開く。女性が、青年の病室に入ってから、丸椅子に腰かけてから十分な時間が経っていた。
「そないに心配されんでも、セオは大丈夫ですよ」
 インパクトのあるイントネーションを発したのは、健康的に焼けた肌を持った、小さな、この場合は小柄な女性であった。小柄ではあるが、年相応の落ち着きは持っており、彼女の年頃を間違えることはない。太陽のように明るい金髪に、それに縁どられた真っ青な二つの空色は女性ではなく、青年へと向けられていた。
 フランカはセオの腕へと繋がっている点滴の様子を確認してから、座る女性へと頭を下げ、そして穏やかに挨拶をする。
「Buongiorno, Sinora」
「Buongiorno, Franca」
 女性からも挨拶が返され、フランカは本題に移る。
「そう心配されんでも大丈夫です。術後の経過もいいですし、今んところ他に併発してる病気もありません。良好ですよ」
 フランカの言葉に、腕は信用しています、と女性は穏やかに微笑んで返した。その言葉に嘘がないと判断したフランカは、Grazieと礼を述べた。尤も、彼女自身自身の腕を疑いなく信じており、手術における失敗を感じた覚えはなかった。人がそれを高慢と呼ぶかは別として、絶対の自信を持って手術は成功した、とフランカは言える。
 血の気が戻ったセオの顔を横目で見、現場で見た時の彼の状態を思い出して、フランカは僅かながらにぞっとした。
 ひどい、としか呼べない状態のそれでもセオが生きているのは偶然ではない。運が良かった、というのは当てはまる。応急処置など意味を成さず、自分とシャルカーン隊長が出向いていなければ、今頃は墓の下であろう。スクアーロ隊長が如何に有能であろうが、時間と勝負して勝てるはずもない。どちらにしろ、結論として彼は助かり、この白いベッドで平然とした顔で眠っているのである。人の心配など他所に。そもそも彼が人の心配をまともに感じたことがあるのだろうかとフランカは軽く首を捻った。
 他者の感情をあまり気に留めない男であるのは、フランカは任務中の彼を時折見かけて知っていたし、何よりボンゴレ本部における彼の陰口ははキラーマシンである。マシン、機械、無機物、つまり感情がない。ないこともないのだろうが、彼の妹の方が余程感情の起伏があるようにフランカには思えてならない。尤も、ドンやジーモに言わせれば、オンオフが激しいだけで、日常生活では彼は非常に青春を満喫しているとのことである。信じたことは、一度もない。
 どうかしましたか、と声を横からかけられ、フランカは、いいえ何でもないですと笑って返した。母親に青年の悪評を聞かせるほど、女性は浅はかではなかったし、そもそもこの母親はその程度のことなど知っているに違いない。
 フランカは休まれたらどうですかと、ここ三日、この母親はラヴィーナとセオの病室に行ったり来たり、入り浸ってほとんど寝ていない。軽く仮眠は取っているのだろうが、やはり眠っていない。子供が心配な気持ちは分からないでもない。少なくとも、自分は女である故に、例え子持ちではなくとも、その気持ちは理解できる。
 体の芯まで凍りつくような恐ろしさを持った母親の夫は、一週間程ここを留守にしている。何やら娘と息子を半殺し、どころではないが、にした原因の詳細を探っているようだと風の便りで聞いた。根本的な原因は始末したらしく、しかし死体に関する情報が出てこなかったことを考えると、ジェロニモが出たか、あるいはボスの炎で完全に焼き尽くされたかのどちらかであろう。一体何を調査しているのかは定かではないが、何にせよ、母親の夫がこの場にいないことは動かしようのない事実である。
 しかし、眠らないほどに心配するのであれば、任務の時こそ狂ったように心配するのではないだろうか。当然な疑問を口に出すことはなく、その真実を知る日はおそらく一生来ないであろうことも納得しながら、フランカは一度部屋を出てから、ホットミルクを片手に戻ってきた。
「どうぞ。少しは疲れが取れますやろか」
「有難う御座います。疲れては、いないんですよ」
「心労も疲れです。うちには子供おりませんが、それでもほとんど寝てないあなたが疲れてることくらいはよう分かります。それに、疲れてるって感覚は、本人が意外に一番よう分からんものなんです。セオやラヴィーナの傍を離れん言うんやったら、食べる飲むはきちんとして、疲れはそないに溜めんといて下さい。うちが、ボスにどやされます」
 どやされるという単語を口にして、それを認識した途端、ぞぞと恐怖が駆け抜けた。どやされる、程度で済めばいい。願わくば、スクアーロ隊長のようにならんように。そう、フランカはただ祈るばかりである。当然のように花瓶やカップを飛ばされるのは御免被りたいことである。
 フランカの言葉に、母親は受け取ったミルクを苦笑してから口に含んだ。人肌に温められた牛乳はとても飲みやすい。
 どうですか、とフランカはホットミルクの感想を聞こうとした時だった。女の視線がベッドへと釘付けになっている。手に持たれていたカップはいつの間にか、傍らの机の上に置かれていた。
「セオ」
 母親の口から息子の名前が零れ落ちる。それに答えるように、銀朱を隠していた瞼がぱちり、と瞬きをした。
 セオは口を開いたが、うまく言葉が出てこず、まるで言葉を忘れたかのようだった。だが、折れていない方の腕をつっかえに体を器用に起こすと、ホットミルク、が、中に入っていることに気付いていないのか。それとも慌てていてそれだと分からなかったのか、セオはそれを掴み取ると、喉の渇きを癒すかのように、それを唇につけ、一気に逆さにして中の液体を飲む。が、当然のことながら、
「っぶ、げ、」
 青年は急き込んだ。折れた肋骨が痛むのか、一二度咳込んで、ベッドの上で苦悶の表情を浮かべた。ただのアホにしか見えない。これがドンとジーモの言っていたそれなのかとフランカは横で眺めながら納得する。アホ、と小さく呟いたが、それを再度咳込んだセオの耳に届くことはなかった。
 白いシーツを吐き出した白い牛乳で濡らし、セオは目じりに浮かんだ涙を拭う。
「ぅえ、濡れた」
「急ぐからですよ」
「…んん」
 呆れた、しかしそれ以上に目が覚めたことの嬉しさの勝った声にセオは困ったようにはにかみ、
「Buongiorno, mamma」
「おはようございます、セオ」
 まるで子供のように青年は笑った。
 夢でも、幻でも見たかのようにフランカは瞬きをする。信じられない光景を見た。あの、セオが、あの、キラーマシンが、ああ、そう、幼い子供のように母親に微笑んだ。驚くほどに柔らかで感情豊かなその笑顔に驚かざるを得なかった。驚愕では生易しく、開いた口が塞がらない。夢なら早く覚めればいい。本気で、女史はそう思った。
 茫然自失としているフランカを意にも介さず、あるいはよくよく見られる光景なのか、気にすることもなく、セオは、今度こそ母親からグラスに水を注いでもらって、それを飲み干す。喉に粘ついた感触が全く残らないそれは一気に青年の胃の中に消えた。は、と短い息を勢いよく吐出し、話しやすくなったのだろうか、Grazieと先程のどこかかさつき乾いている声とは別にすっきりと通った声で礼を述べた。そして母親は、いいえと短く答えた。
 セオはぱちと瞬きをし、眩しいと素直な要求を述べる。明順応が遅れているのだろうか、とフランカは不思議に感じた。もとより暗殺部隊のエリートたれば、暗順応や明順応の速度を訓練で極端に速くできる。暗闇に紛れて行動するのだから、それもまた当然である。故に、彼の今の発言の真意をフランカは分からなかった。白いシーツの上に乗せられている、ギプスを眺め、青年は困ったように母親を下から、上目遣いに見た。座っているからこそできる行為である。そうでなければ、青年は常時母親を見下ろしていなければならない。丁度彼の父親のように。もっとも、あのボスが上目遣いで相手を窺うような行動をとれば、天変地異の前触れである。傲岸不遜、唯我独尊、強烈なまでのワンマン。だからこそ、彼がこのVARIAを統括しているのだとも言える。
「心配させた?」
「心配しました」
「ごめんなさい、マンマ」
 そして謝った。母親は至って平然とお帰りなさいと続けていたが、フランカはただただぞっと身を震わせた。気味が悪い。少なくとも、フランカが知っているセオという人間はこのような人間ではなかった。そう、少なくとも、「子供らしい」「年相応な」と言った面を持ち合わせてはいなかったはずである。同じVARIAということで、それなりに会話はするし、打ち解けた部分はあるものの、やはり子供のような面はいっそ奇妙なほどである。否、不気味であろう。
 鳥肌が立った肌を手のひらで撫でさすりながら、フランカはセオに体調を聞く。医を預かる者として、うっかりしていた。目覚めてすぐに聞くべきである。
「問題ない」
 向けられた視線は、母親に向けられるそれとは別種のものである。イタリアの男は総じてマンモーネだというが、彼もまたその一人ではなかろうかとフランカはひそりとそんなことを考えた。
 セオはフランカによる診察を一通り受けた後、さも当然のように母に笑顔を向けた。
「ラヴィーナは?」
 息子の問いかけに母親は言葉を詰まらせた。
 かり。ペンを白い紙の上に走り、異常なしと黒い文字が描かれる。最後にそれは大きめの丸で囲われた。ボールペンを白衣の胸ポケットにひっかけ、フランカは患者の問いに率直に答える。
「まだ、起きとらん」
「何故。怪我はしてないはずだ」
 怪我はしていない。確かにそうである。しかしそれは外傷の話である。フランカは小脇にカルテを抱え直し、青年の母親へと同意の視線をやった。話していいのか、という意味を込めたが、母親はそれを理解したのか、首を軽く下に傾け頷いた。尤も、話さなければ、実力を持って青年は自分に答えを求めることだろう。末恐ろしい子供、青年である。ぶるりと身震いがフランカを襲う。
 小柄な体に見合った足を両に開いて、体を安定させる。そして、指先で喉を自身の喉をつついた。ここがな、話し始めはそれである。
「ひどい状態や。損傷だけやったから、晴の炎による治療を今やっとるけど、あの子の炎タイプは嵐やからな。ゆっくりや。それに、うちのオッタ使うて急激な再生を図った場合の副作用がしれん。他の人間と違うわけやから、徐々に、や」
「晴の炎の治療がそんなに時間がかかるとは聞いていない」
「うちの言葉が理解できんかったんか?ラヴィーナは、他の人間とは、違う。見た目が例え酷似しとっても、な」
 青年は言葉を止める。その目尻が僅かに引き攣ったのをフランカは見逃さなかった。
「別に、あんたのせいやない。これはただの、結果や。ラヴィーナもあんたも、弱かったからそこにおるだけ。他に理由なんかない。自分の体の限界と引き際を無視した。あんたがどうこう思う必要なんてないし、そんなんあの子にとっても重いだけや」
「…いつ、起きる」
「分からん。傷が治り次第起きるかもしれへんし、そうでないかもしれん。希望的観測を言わせてもらうんやったら、肉体的な数値に異常はない。脳波も心音も、なんもかんも問題あらへん。重症なのはその喉だけや。気にかかっとった体の異常な成長も、医学的見地からは現在は問題ないよ。ただ、成長しただけやった。十数年の時を、たった数時間で」
「それは」
 セオの追及にフランカはひらりと手を振って応えた。
「筋繊維の分断もあったみたいやけど、それを上回る速度で回復成長しとる。薬品反応はあったけど、これが特殊調合されとるやつで、本人に聞かんと詳細がわからへん。薬なんてモンは、調合次第で同じ材料を使うとっても別のもんができあがるからな」
 けど。そう続いた言葉をセオは確かに聞き取り、そしてああと納得した。
「始末したのか」
「した、ようやけど。ボスとジェロニモが出向いてな。何も帰ってこん辺りみると、まあ、餌になってもうたんやろな」
 何が何に、とまではフランカは口にしなかった。セオはそれをフランカが口にせずとも、気付いていたし、凡そ二歳の子供がジェロニモの拷問を覗いて発狂しなかった伝説にも近い噂は今も流れている。自分がその年の頃は一体何をしていただろうかとフランカは考えたが、思い出せるのは両親の温もりばかりで今はもう記憶にない。
 フランカの言葉にぼつりと反応が返される。
「そう。そう、か」
 ただそれだけの言葉は、清潔にされた部屋の中にしんみりと響いた。
 視線がベッド上のギプスに落ちる。その横顔は沈鬱で、あまり見ていて気持ちの良いものではない。フランカは心療内科ではなかったが、彼の表情は大層分かりやすかった。普段では考えられないその表情の差は傍にいる母親のせいであろうか。
 その母親が、二人の会話が止まったのを見て、ようやく口を開いた。
「着替えますか、セオ」
「え?」
「服を、着替えますか?」
「…うん、うん」
「彼女の言う通り、」
 母の言葉にセオは合わせられなかった視線を母へとやった。心に残る蟠りかはっきりと覗けるような顔つきをしている。
「貴方に非はありません。ただ気に病むのもわかります。それでも貴方のせいではない。貴方の弱さは貴方のせいだけれども、ラヴィーナが負った傷は貴方のせいではありません」
「でも、俺が」
「もっと強かったら、ですか?」
 そう、とセオは大きな体を小さくして頷いた。母は咎めるわけでもなければ、諭すこともしなかった。反対に、突き放すようなことも、しない。
「貴方はきっと責めて欲しいのでしょう。ラヴィーナが怪我をしたのは自分のせいで、それは自分が弱かったせいで。ですがセオ、それを後悔してどうなります。こういう戦い方があった、こうすれば勝てた。彼らは、そういう相手でしたか。自分をただ責めることは簡単です。とても」
「それでも」
「それでも?」
 言い渋った息子に母親である女は重ねて問うた。言葉が続かず、セオは口籠り、視線をそらす。目の前の現実から逃げるように、ぼそりと小さく言葉をこぼす。
 俺が、弱かったせいなんだ。
 後悔の塊のような言葉は重く白いシーツの皺の中に埋もれていく。俺、と続けようとした時、その視線が思い出したように金髪の女性へと移った。フランカはそれに気付き、首筋をかき、そして安静にしているよう告げると部屋を出た。もう少しばかり、彼の物珍しい一面を覗いてみたかった、という気持ちも無きにしも非ずだった。
 閉められた扉と、遠ざかった足音と気配を確認し、セオは母へと視線をやる。言葉が上手く出てこない様子で、最初は口籠り、言葉を必死に探している様子が見て取れた。母は待ち、子供が言葉を見つけ出すまで黙っていた。
「手も、足もでなかったんだ。逃げる、しかなくて。でも逃げ切れなくて。ラヴィーナも、逃がしたのに帰ってきて、俺、どうしたらいいか分からなくて。俺を、庇って」
 ラヴィーナは。最後の言葉は口の中に消えた。
 母の助言を息子は求めたが、返されたのは視線だけであった。ただ母は聞いていた。どうしたらいい、とは、セオも聞かなかった。
「立てるようになったら、ラヴィーナを見舞いに行きなさい」
「い、今!」
「安静に、と言われたばかりです」
 セオ。
 名を呼ばれた青年は、叱られた子供のような顔をした。責められているわけではなかった。だからこそ、息苦しい。何を求めているんだとセオは下唇を強く噛んだ。血が滲み、口内で鉄錆の味がじわりと広がる。
 着替えはここに置いてありますと引き出しから取り出された服を横目で見、小さく頷いた。その時、母の眼の下に隈ができてるのに気づく。やはり心配させたのだ。頭の上に細い手が乗せられる。気のせいだろうか、その手は、幼い時分の時に触れてもらった手よりも、ずっと細く頼りなくなっているようにセオは感じた。華奢、ではなく。
「心配は、かけるものです。私は貴方の母親なのですから」
 いくらでもと続けられた言葉にセオは確かに頷いた。Scusami(ごめんなさい)と小さな謝罪が零れる。
「貴方が生きて帰ってきて、私は、本当に嬉しいです」
 かけられた母親の言葉は胸に温かく沁み渡り、セオはずずと鼻を啜って小さく首を縦に動かした。

 

 それはまた、とルッスーリアは頬杖をついて溜息を乗せた。
「随分と荒れてるわねぇ」
 ティーカップの中はアールグレイがかぐわしい香りを揺らしている。ルッスーリアは傍にあった皿の上に置かれている焼けたクッキーを摘み口に放り込んだ。あら美味しいと口元を綻ばせる。
「ナッツがいいわね」
「有難う御座います。チョコチップは右側ですよ」
「…貴女も随分と心ここに非ずって感じだったよう」
 ルッスーリアは飲んでしまった紅茶にティーポットからもう一杯とそそぐ。半分程なくなっていた東眞のカップにも同様にそそいだ。落ち着く透明感の強い茶色を眺めつつ、東眞はそうですねと短く返した。
「ボスもどこで何してるのかしら。珍しくジェロニモを連れ出しちゃって」
「ああ、そういえば珍しいですね。…ジェロニモが地下室から出てきたのなんて、かれこれ…二年ぶりくらいですか?」
 仕事の時は常時地下室にこもっている男であり、東眞も思い出したように頷いた。久々にその顔を見たような気がする。それ以上に見かけないのはジャンであるが。パソコンを心の底から愛している男は今頃どんな風にニコラとイザベラを愛でているのだろうか。想像するだに恐ろしい。
 表情が少し明るくなった東眞にルッスーリアは口元を笑わせる。
「ラーダなら私が見ておくから、あなた少し寝なさいな。疲れた顔してるわよ。それに、もう年なんだからお肌には気を付けないと」
「…痛いところを突きますね」
「んふふ、乙女の悩みは乙女にしか分からないってのはよく言われるでしょ?まあどちらにせよ、貴女にも休息は必要よ。ここ最近あまり寝てないでしょう?ボスが帰ってきたときに倒れられたら、満身創痍になるのはスクアーロよ」
 その光景はあまりにも簡単に想像できて、東眞は思わず笑みを漏らす。十分に、ではなく確実に起こり得る出来事であろう。仮に、自分が倒れたりなどすれば。
 そこで東眞はふと気付いて首を回した。ルッスーリアはそれにどうしたのと首を傾ける。
「そういえば、ここ…三日か四日スクアーロを見かけませんね」
「…あー…のね、スクアーロは。ハウプトマン兄弟の軌跡を調査してるの。どういう経緯で彼らがここまで来たのか、私達に害はないのか。連中がドイツから出ることはあまりなかったから」
 ルッスーリアは少しばかり名前を言い澱んだ。何しろ目の前の女性とハウプトマン兄弟は知り合い、友人とでも言う仲であったからである。その関係はXANXUSの妻となっても、子が生まれても変わることはなかった。手紙をやり取りする程度の間柄は最低でもあった。
 その視線に気づいたのか、東眞は小さく苦笑を零した。
「今日はよく心配される日です」
 掌に柔らかく温かなティーカップを持ち上げ、ルッスーリアが淹れた紅茶を飲む。口に入れば、ふわりと優しい味が広がった。
「気にしていないと、そう言えば勿論嘘になりますが…彼らも全て承知の上でその職業に就いていたんでしょう。それは言葉の端々から、態度の一つ一つから分かっていました。なければいい、それでも、完全にないとは言い切れない。互いに殺される可能性があることを、私も彼らも、よく、知っていたはずですから」
「いつも思うんだけれど、淡泊ねえ。大助かりよ」
 ひら、とルッスーリアは手を振って柔らかなモヒカンを軽く抓んで笑った。東眞はそうですか、と疑問符をつけて問う。その返答は、そりゃそうよと穏やかに流れた。
「知っている状態と知らない状態。どっちがいいのか判断はつきかねるけれど、東眞のようだったら、そうね、知っている方が幾分か楽だわ。知っていて、それで狂う女もいるくらいだから、一概に知っている方がいいとは言えないけど…特に身内を殺された時は、女はよくよく注意しておけっていう通説がある程よ。分からないでもないけれど、それでも、そう、邪魔ねぇ。鬱陶しいわ」
 爪にはみ出ることなく丁寧に薄く塗り上げられたマニキュアを眺めつつ、ルッスーリアは続ける。
「特に子供は大変よぉ。殺されたりでもしたら母親の方が手に負えないわ。色々面倒でたまらないもの。特に私達は身内がした始末は最も近しい人間がすることになってるのよね。だから、」
「はい」
 東眞はそこで自分の手をぼんやりと見る。ラヴィーナの「ため」に拳銃を一時は握った手である。
「よかったわねぇ、本当に」
「ええ、本当に」
 またこの手は、拳銃を愛しい娘に向けなければならない日が来るのだろうか。来ない方が、いい。
 ラーダはいつになったら起きるかしらね、と何気もなしに投げかけられた問いかけに、東眞はいつかは起きますよ、とベッドの上で白い顔をして横たわっていた、驚くほどに大きくなった娘の姿を瞼の裏に思い出し頷いた。部屋の天井に吊るされている柔らかな光がぼんやりと波立ったティーカップの中に落ちて、そして揺らいだ。