La madre mia - 3/3

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 抱きしめて、縋りつく母親にドンは硬直していた。何をどうしたらいいのか分からない。母親のぬくもりに、マンマ!と言って抱きつくべきか。だが、もうそんな気持ちは残っていない。母親が自分にした仕打ちを、忘れたわけではない。今更何の用と冷たい声で引きはがそうとしたが、言葉も声も、全て喉元で止まってしまって、時間は止まったままだった。
 女はドンの両頬にその痩せこけてがさがさの指先を愛おしそうに這わせる。ドンドンと自分の名前を繰り返す母親から涙があふれかえる。目の前に広がる優しい「母」の頬笑みにドンは喉を詰まらせた。
「私の愛しい子、ようやく、ようやく会えた…ドン…ごめんなさいね、本当にごめんなさいね。マンマは全然分かってなかったの。やり直しましょう?もう薬も止めたわ。あんな最低な男とも別れたの」
 最低は二人ともだった、とドンは頭の奥でそう返す。
 だが、ようやく会えたという言葉と彼女の姿に心が揺り動かされる。抱きしめられ、頬からこぼれ落ちる涙の数に強張っていた心がようやく溶けだす。求めていた、本当は、求めていた。優しい母親、誇れる父親。母親も父親も、それは望んでどうにかして手に入れるものではないのは分かっていたので、諦めていた。だが、今。今、とドンは震える指先をゆっくりと動かして、母親の背中に手を添えようとした。抱きしめれば、何もかもが溶け落ちるような温もりに全てを任せていいような気がして。
 喉を震わせながら、熱くなる目の奥に眉を下げながら、今まで誰にも言えなかった名詞をその口に乗せようとした。
「Ma、」
 mma、と。madreではなく、mamma。一生口にすることはないと、そう思っていた、最もあたたかな、ことば。
 だった。
「その、ね。それでね、あなた、今どれくらい都合つくかしら?」
 思考が全て止まった。今何と言ったのか、ドンには理解できなかった。
 この母親は、何と言ったのか。自分にすがりついて息子との再会を喜んだ母親は、何と、言ったのか。
「今ね、とても大変なの。その、お金が必要なの。あなたがそっちで成功してるって話を聞いたのよ。ねぇ、マンマを助けて?あなたのマンマを助けて?私の可愛い可愛い
 ドン、と名前を呼ばれて、全てが壊れた。
 ふつりと脳味噌がわいたような怒りに襲われる。背中にまわそうとしていた手が、突き放すように拳を握りしめる。憎い。憎い。憎い。自分が―――――、情けない。
「ドン?」
「呼ぶな―――――呼ぶな、呼ぶな呼ぶな呼ぶな!近寄るな!触るな!」
 今すぐ、この女を自分の前から消し去ってしまいたかった。全てを裏切り裏切られ。もう懲りたはずだった。世界は自分に対して冷淡だということは、分かっていたはずだった。世界が与えるものは冷たく、痛いものばかりで。だから自分で自分にふさわしいものを与えるようにしたはずだった。友達、社会、環境、全てを。
 うろたえる女は、もはや薄汚い女の一人でしかなかった。
「ドン?可愛い子、私のバンビーノ?怖い顔しないで?ね。そうね、そうよね。すぐは無理よね」
 いいのよと訳の分からない単語を並べ立てる女の手をドンは強く振りはらう。短く吐き捨てた息が、横隔膜を引き攣らせる勢いで繰り返される。匣兵器はある。タランチュラの、毒殺などたやすい。
 常備しているリングを指にはめて、匣兵器を押し付けようとした。だが、その炎をともした指輪が匣兵器に押し付けられる前に、それは止まった。大きな掌が、自分の腕を痛いまでに締め付けているのにドンは気付いた。いつの間に扉が開かれたのか、そんなことも分からなかった。銀朱の冷たい瞳がまっすぐにこちらを見ている。ドンは青年の名前をゆっくりと口の端に乗せかけた。それは、女の言葉で押しつぶされる。
「あなた、ドンのお友達、かしら?私のドンが」
「お前のじゃない」
 感情を一切削ぎ落とした声が、空間を支配する。本来の赤に錆びれた色を混ぜたことによって彩度が落ちたその瞳は、冷たい。高い上背も手伝って、見下す瞳はどこまでも冷たく、凍えるようであった。
「お前のドンじゃない。お前は、ドンの何者でもない」
「私は、ドンの」
 そう言って、こちらに伸ばされた手は、氷の言葉とその腕で強くはじかれた。ドンは、聞いたことがなかった。セオの言葉にこれほどの怒りの感情が乗せられたのを。
「Non gli toccare――――porca puttana(ドンに触るな、雌豚が)」
 セオはそのまま、そのはじいた手で机の上に置かれていた金のペン立てを取りあげると、それを女の目の前で灰にした。ざらざらと一瞬で燃え尽きたそれに、女は喉を震わせて尻もちをついた。
「二度とドンに近づくな。行くぞ」
 ドン、と強い力で引きずられてそのままドンは扉の向こうへと引っ張られる。最後、閉められた扉の向こうにいた女の顔を、もうドンは思い出せなかった。
 歩けば歩くほど、その自分よりも大きな背中にドンは情けなさを覚える。暗い廊下に二人分の足音が響く。
 セオは何も言わなかった。何もかける言葉を持たなかったというのが正しい。自分の母親はあんな人でなしではない。だから、何も言えなかった。無言に押しつぶされそうになったころ、背中からドンの声が響く。
「信じられないよねー。出会ってすぐに金の無心とかさ。ホントなっさけない。あんな人間の股から生まれたとか信じられないや。よくまぁ、俺のこと調べたっていいたいけどね。ところでさ、セオ。君いつまで俺の腕握ってるわけ?自分の馬鹿力分かってて握ってる?痛いんだよ、折れる」
「悪い」
「しっかもさ、あんなきったない言葉使って。俺の綺麗な耳には全く信じられないね」
「そうか」
「そうだよ。馬鹿だしアホだし、普通親子の対面邪魔するやつっている?だからデリカシーないって言われるんだよ。もう少し空気読む練習した方がいいんじゃない?あーそれともあれ?セオってそういう機能が備わってないマシーンとか」
「ああ」
「言い返しなよ。馬鹿みたいでしょ、俺」
「そうか」
「言い返しなよ、何か」
 ごすんと背中に人の額の感触が付く。ふ、ふと笑い声と一緒にブラウスが濡れて行った。
 ジーモが待ってる、とセオは小さく告げた。それにドンは笑って、どうせ寝てるよと返した。寝てるだろうなとセオは青空の下ですやすやと寝ている大男を思い出して、ならもう少しこうしていようと、足を止めて背中を貸した。