La madre mia - 2/3

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「ドン。ドン・バルディはいるか?」
「いますよ、先生」
 なんですか、と開いていた本を閉じてそちらに目を向ける。上辺だけの笑顔の作り方はとても上手になった。図書館にいるので、セオやジーモたちはいない。彼らは外で、のんびりと日向ぼっこでもしていることだろう。
 眼鏡をかけた教師は、おおいたかと柔らかな笑顔を浮かべる。優等生には甘い、古今東西この仕組みは変わらない。ドンはどうしましたかと教師に対しては敬語をしっかりとさせて、笑顔で対応する。それに教員はそれがだな、と初めは少し困ったような顔で、それから声をワントーン落として話を続けた。
「その…お前の母親だと名乗る人物が、学校まで来ていてな。今、空き部屋に通してある。保険証も持っていたし…だが、お前の母親は」
 書類上はといいかけて、教師は言葉を止めた。大きく見開いた目が、そちらを見つめていたからである。教員はそれを喜び故の驚愕と取った。そして、ああと微笑んでドンの強張った肩をポンと優しく叩く。
「下校時刻までもう少しだったんだが、残っていてよかった。見つからなかったらどうしようかと思っていたんだ。いらっしゃったお母様だがな、お前を探して色々と手を尽くされたらしい。同姓同名の生徒が居ると言った時の喜びようは…おっと、すまんな」
 泣いてしまった、とその頬に涙が伝う。だが、ドンの俯きがちの表情はひどく強張っていた。それが誰かの目に触れることはない。
 こつんこつんと革靴が廊下を叩く音だけが喧しく耳に飛び込み、そして脳味噌をかき混ぜる。
 確かに母親は死んではいない。ちなみに父親も。しかしながらもはや安否不明であるし、「彼ら」が自分を探すことなどないと思っていた。それが、探して、追いかけて――――――――泣いた?ドンは、狼狽する。その単語と状況を理解できない。薬中毒で虚ろな目をして自分を殴って勝手におびえて、包丁を持ち出して殺そうとした母親が、自分を探しに来た。何故、と問いただすが、答えは全く分からない。喜び、分からない。
 ドンは教員が部屋の前に止まり、ノックをする音で顔を上に上げる。ドン・バルディですよ、お母様、と教員の声はどこか遠くに響いていた。
部屋の中、来客用の柔らかな皮張ソファの上に一人の薄汚れた女がら、顔をハンカチでぬぐっていた。寄れた服、くしゃくしゃの髪。だが、その顔も姿も、確かにドンが、知っているものであった。母親、間違いではない。
「ドン!!」
 私の息子、ときつく腕に抱きしめられる。教師は雰囲気を読もうとしたのか、ぽんとドンの肩をたたくと、そっと扉を閉めてしまった。背中に響いた音に、ドンは何かしら絶望にも似たそれを感じた。

 

 遅い、とセオは草につけていた体をもっそりと起こす。隣ではジーモがのんびりとした様子で腕を組み、すやすやと眠っていた。上から落ちてくる暖かな日差しは確かに昼寝をするにはちょうど良いだろう。
 借りたい本があるから、とドンが言ったので、本を借りるだけならば暫くここで待っていようと寝っ転がっていたのだが、待てど寝ても(寝ても、はおかしいか)帰ってこない。あのドンに限って迷子などとそんな馬鹿な話はないので、何かあったのだろうかとセオはうんと軽く唸って立ち上がった。はらぱらと背中についていた草の欠片が空気に揺れながら地面に戻って、緑を形成する一つとなる。尤もそれは、すぐに黄色になり腐り果てることだろうが。
「セオ?」
「あー、ちょっと見てくる。遅い」
「ん。俺、もう少し寝てる」
「食って寝ると牛になるぞ」
「大丈夫。牛は凄く役に立つし、美味しいから」
 誰もそんなことを言っていないと思いつつも、突っ込むのを止めてセオは図書館へと向かって歩き出した。乾いた空気は影に入ると随分とひんやりする。もうそろそろ下校時間も近い。まばら、どころではなくほぼ誰も廊下は歩いていなかった。
 帰宅したら、マンマが美味しい料理を用意して待っているだろうとセオは思いつつ、廊下に足音を響かせる。だがそこで反対側から鼻をすすりながら響く足音に、こちらの足音を止めた。数秒待てば、曲がったところから教師が姿を現す。
 男の目尻は擦りすぎたせいか真赤になり、ハンカチを鼻に当ててびーんと噛んでいる。感動映画でも見た後かのようだった。セオの姿を認めて、教師はああセオと朗らかに微笑んだ。名誉ある男の息子だと言うことで、虐められる子供も多い中、自分の環境はよくよく恵まれている。
 子供は無邪気で単純で、だからこそ残酷な生き物である。誰よりも何よりも。
 そしてマフィオーゾたるもの、降りかかる災厄、虐め程度の問題は自分で解決するのが筋というもの。反対に黙らせる程度でなくてはならない。とはいえども、自分は小学の時分に虐められることはなかった。遠巻きにされてはいたのだが、それはマフィオーゾの息子というよりも目付きの悪さと態度が問題だったように思うが。人の顔色をうかがう友人など欲しくはなかったし、それなりに付き合う程度のクラスメートもいた。陰鬱な小学校生活を送っていたわけではない。充実した小学校生活だったのではないか。
 流石に小学中学は完全義務教育のために、完全に全てが自分の周囲が「同じ」人間であるということはない。尤も、それでも自分と「同じ」人間が半数以上を占める学校に通っていた、通っていることは否定できないのだが。
 意識を教師に戻しつつ、セオは泣いている教師にたいして返事をした。
「Buongiorno, professore(こんにちは、先生)…泣かれてますけど、どうかしましたか」
「あ、ああ。いや、感動的な場面を見てね…うっ。そういえば、セオはドンの友達だったな」
「Si, professore」
「ドンの母親が、あ、いや…これは言ってもいいのか…いや、しかし嬉しい知らせだし伝えておこう」
 一人で話を進めつつある教師にセオは首を傾げた。ドンの母親は、死んだとドン本人から聞いていた。彼の両親に対しての興味は薄かったので、その時は軽く流していたのだが、まさか生きていたとでも言うのだろうかとセオは眉間に軽くしわを寄せた。
「今、奥の応接室で親子二人の対面をしているところだ…いや、本当に感動的だったなぁ」
 この教師の欠点はぺらぺらと口が軽いところかとセオは判断した。二枚舌ではないが、うっかり話をこぼすに値しない教師である。優しさから人望はあるものの、優しさと信頼は並立しない。
 そうですか、とセオは一言断って一礼すると足を進めた。隣を通り過ぎたセオに教師は鼻を噛みながら反対方向へと行ってしまった。
 感動的場面を演出したいならば、普通自分を止めるものではないかとセオはうんざりしながら廊下を歩く。どうでもいいか、と頭の中から先程の出来事を他の考えで塗りつぶしてセオはゆっくりと言われた、応接室へと足を進めた。