それは簡単なこと

 少年は馬鹿だったが、愚かではなかった。
 少年は馬鹿だったが、頭が足りないわけではなかった。
 少年は馬鹿だったが、残忍ではなかった。
 少年は馬鹿だったが、自分のことしか考えないわけではなかった。
 少年は馬鹿だったが、

 

 お兄ちゃん、と響いた声に、少年は目を丸くして手に持っていたカバンを取り落とす。買ってきたパンが床の上に転がった。
 ドミニクと妹の名前を呼んで、今にも泣き出しそうな妹の側へと駆け寄った。家のガラスは粉々に割られ、室内には拳大の石が幾つも転がっている。ひどい、と少年は単純にそう思った。しかしながら、ひどいといくら喘いで泣いて叫んだところで、助けてくれるものはどこにもいないことも、少年は知っていた。
 国家権力でさえも「彼ら」の前には無力であることも、少年はまた、知っていた。
 「彼ら」は恐ろしく、強大で、残忍かつ冷酷で容赦がない。そして、「彼ら」の存在を知る者は誰もいない。誰も見ず聞かず言わず、その存在を否定しつつ肯定する。確固たる存在と足跡を残しながら、彼らは一切の存在を無くす。光あるところに影があり、その影の奥深くで彼らは背筋が凍りつくような笑い声を響かせながら生息している。
「大丈夫。きっと今日はもう、来ないよ」
 大丈夫、と小さな妹の背中をさすって涙をぼろぼろとこぼす妹を落ち着かせる。五分近くそうやっていると、ようやく妹の呼吸が落ち着いてきた。
 しかし、誰も訪ねてはこない。ガラスが割れる音も石が投げ込まれる音も妹が泣く声も、きっと聞こえたはずであろうに、自分の家には誰も訪ねてはこない。関わりたくないのであろうことは、少年にもよく分かった。関わるとロクな目に会わない。例えば酒場で誰かが「彼ら」に撃ち殺されたとしても、誰もそれを知らないふりをする。死んだ男に救急車を呼ぶことはないし警察も呼ばれない。ただ、椅子に座って頭を不幸にも撃ち殺された男は存在しなくなる。いなくなるので、ある。
「ドミニク。下、危ないから掃除をしよう。箒を持って、ほら。俺は塵取りを持ってるから」
 そう言って少年は床に転がされた真っ二つになっている箒を妹の手に渡し、自分の手にはひびが入っている塵取りを手にとり、妹が掃いたガラスの欠片を集めて中に入れて行く。じゃりじゃるとしたガラスがこすれ合う音が、二人しかいない部屋に響く。少年は妹に、ゆっくりと、何も変わらないかのように問うた。
「そういえば、バッボとマンマは?今日はまだ畑かな。お昼は、俺が何か作ろうか」
「…」
「ドミニク?」
 どうしたの、と少年は動きを止めて、箒を持った妹を見上げた。そこにいた妹の手はがたがたとまるで効果音がつきそうなくらいに震え、そして顔は真っ青になっていた。ああと少年は嫌な予感を全身で味わった。
 妹は色の抜けた唇でかたかたと噛みあわない歯の根で言葉を紡ぐ。
「バッボ、と、マンマ…っびょう、院…っ!きょ…っ、こわ、ぃ人が…っき、て…っ!私、マンマが、床下に」
「…そう。そう、いいよ、ドミニク。いいんだよ。分かったから」
 もういいよ、と少年は妹の小さな体を抱きしめた。叫ぶような泣き声が、その胸の中に消えていく。
「私!救急車、呼んだ、けど!でも…っ一緒に、いくの、こわくて!一人も、怖くて!だから!だから…!」
 あの血の痕はそう言うことだったのか、と少年は今更ながらに気付く。どうして、とドミニクは叫んだ。
「どうして!なにも、してないのに!マンマも、バッボも…!」
「――――何もしてないことは、ないんだろうけど」
 妹の耳には届かない声で少年は呟いた。
 「彼ら」は愚かではなく馬鹿でもない。利潤を求めて行動はするのだろうが、不利益になることはしない。そして自分の父親が「彼ら」に何をしたのかは、少年もうすうす感づいてはいた。ある晩、父親がひどく酔っ払って帰ってきたあの日から、周囲が冷たくなった。何かがあったのだろうと少年は思ったが、しかし、それを追及したところで答えが返ってくるとは、少年は思わなかった。
 何か食べたら病院に行こう、と少年は妹の背中を叩いた。誰も、家には来ないであろうから。
 パニーノにトマトや野菜をはさんで少年とドミニクはぱくぱくと空腹を満たした。そして、両親が搬送されたと思われる病院へと足を運ぶ。自動扉が開いたその下をくぐりぬけ、受付まで行くと少年は自分の名前を告げた。そうすると、二人は両親がいる部屋番号を教えられて、少年は妹と手をつなぐと、その廊下をゆっくりと歩いて行った。
 部屋に入ると、そこには両親が横たわっていた。暫くそこで呆然としていると、後ろのドアから医者が状況説明のために現れた。医者の言葉に、はぁ、と少年は間抜けな答えを返した。それは決して、少年が馬鹿だから医者の言った単語が理解できなかったというわけではない。ただ、納得してしまったのである。
 少年は父も母も大好きで、勿論妹も大好きで、詰まるところ家族が好きだった。だから、家族がこんな目に遭って酷く悲しくたまらなく辛く、しかしながら、少年はその悲しみと同時にこれからをどうしたらいいのかを考えていた。復讐をしようとは思わない。そんなことをしても自分が死ぬことは少年には分かっていた。自分一人だけならまだしも、自分には妹もいる。小学四年生の妹が一人だけで生きていけるのか否か、答えは否である。自分がいなければなるまいと少年は思った。親戚はいないこともない。だがしかし、「彼ら」の陰に怯えている者が、自分たちを引き取ってくれるだろうかと少年は考え、答えはやはりNoだと気付いた。
 院内の椅子に力なく腰掛ける妹の姿を眺め、少年は医者の言葉にもう一度頷いた。
「そうですか」
「当たり所が悪かったのか…不幸な偶然と言うしかない」
「そうですか」
「…それと、申し訳ないのだが…意識が回復したら…出て行っていただけると」
「分かりました。車、出してくれますか?」
「ああ、すまないね」
「いいえ」
 不幸な偶然。少年はベッドに眠るように横たわる両親を悲しげな眼で見つめた。父は全身不随、母は下半身不随。それが言い渡された結果だった。命があってよかったと少年は思ったが、やはりこれからを考える。自分は力もあるし、人よりもずっと大きい。きっと介護もできないことはない。料理もそこそこにできる。随分とまではいかないのだが、蓄えもそこそこにある。節約に節約をして生活をすれば、当面はどうにかなるだろうし、自給自足の生活もある程度までなら、できないわけではない。
 ただ少年には心配事が一つあった。「彼ら」がまた来たらどうするか。それに、蓄えもいつかはやがて尽きる。「彼ら」が自分たちに目をつけている限り、きっと自分を雇ってくれる人は見つからないだろうし(厄介事は抱え込みたくないものである)おそらく野菜も買ってもらえなくなるだろう。収入がなくなれば、色々と問題が出てくる。
 少年はドミニクの隣に腰を下ろした。お兄ちゃんと心配そうな目で見上げたのを、大丈夫と少年は微笑んだ。
 そして馬鹿ではあったが、決して愚かではない少年は考えて。
「ドミニク。俺、マンマとバッボが家に帰ったら、少しすることがあるんだ。暫く家を空けるけれど―――その間は、頑張ってくれるかな?」
「どこ行くの?帰ってくるよね?」
「そうだなぁ」
 少年は微笑む。
「大丈夫。帰ってくるから」
 その頬笑みにドミニクはしっかりと頷いて、待ってると言葉を返した。

 

 少年は椅子に座っていた。何時間その椅子に座っていたのか、少年には分からない。ただずっと座り続ける。何も言わずに何も問わずに、何もせずに、ただ、じぃと少年は椅子の上に文句一つ言わずに座っていた。床下から外の明かりがこぼれ、畑仕事を毎日手伝ってきた少年には、大体の時間がその光の差し込み加減で理解できた。体で覚えたことは、無駄にはならない。
 もうそろそろ夜の時間になる、と少年が思った時、少年と外界を隔てていた扉が蝶番の悲鳴を上げながら開いた。少年がそちらに瞳を向けると、暗い色に慣れた瞳はいとも簡単に入ってきた人物の外見を捉えた。すらりとした背、目立つ長髪、銀色。
「よく、待ったなぁ」
「待ちます。いくらでも」
 朗らかに笑った少年に入ってきた男は軽く眉間に皺を寄せた。この状況下において、屈託なく笑える少年が信じられないとばかりの表情であった。しかし、それは今の少年には全く関係のない話で、男は少年を見下ろしてゆっくりと口を開いた。
「後戻りは、できねえぞぉ」
「分かってます。全部、マフィアがどういうものか、知ってます」
「…ああ、てめぇらは、そう呼ぶんだったなぁ」
 マフィアという「彼ら」の総称を口にした少年に、男は懐かしい単語を耳にしたかのように笑った。そして少年はゆるりと続ける。
「俺には、必要なんです」
「一つ言っておくが、俺たちはまた違うぜぇ」
「最強が、欲しいです」
 少年は分かっていた。分かって、言った。
 そして少年は、知っていた。「彼ら」が最も恐れるものは「彼ら」自身であると。毒を以て毒を制す。食物連鎖の体系をよくよくしっていた少年はだからこそ、ここに、その場に座っていた。「彼ら」を遠ざけるにはどうすればいいか、「彼ら」が二度と手を出さないようにするにはどうすればいいか。王者に牙をむく者は、いない。
 少年は、穏やかに笑った。
「俺は、何だって出来ます」
「…少し、てめぇのことを調べさせてもらったが…復讐でなら」
「興味、ないです。俺は、どうでもいい。俺にとって大切なのはこれからです」
 やめておけ、と言おうとした男の言葉を少年は笑顔で断った。
「俺は馬鹿ですけど、それが一つもいいことにならないのは分かります。俺には、妹もいますし」
「…それだがなぁ、仲間になると言うことは、恨みも買う可能性も、ある。狙われるのは、てめぇじゃなくて、てめぇの身内になるかもしれねぇ。もしも、てめぇが家族を守りたいと思うなら『俺たち』の組織に入るのは間違ってるぜぇ。俺たちは、本来守るものも違う」
「いいです」
「あ゛ぁ?」
 男の驚いた顔に少年は続ける。
「仕方ないです。『おまけ』に期待をしてもしょうがないです。家族を守れるのはおこぼれです。でも、そうするしかないそれしかない。そうしなければ俺たちは死ぬしかない。今日よりも少しでもいい明日があるなら、俺はどんなものにだって平気でなれます」
 少年の言葉に、男は多少の間言葉を失う。失いかけている少年は、それでも変わらぬ困ったような、お人よしの馬鹿のような顔で言葉を連ねて行った。
「俺が生きているこの瞬間を、大切な一瞬を守るためのものになれるなら、泥まみれになったって、いいです」
 男は思う。ひょっとして、この少年が自分たちの上の組織にではなく、自分たちの組織に志願したのは、自分たちが間接的にその大きな組織の一端を守っていることを知っているからではないかと。直接的に守るのではなく、間接的に守る。そして、それを利用する。馬鹿だが、この少年は愚かではない。
「どんなことでも、するのかぁ」
「人を殺すことでも。できます。俺が帰る家を守ってくれるものを守れるものになって、俺の家族を気に食わない連中も、俺がそうなれば手が出せないから」
「そういうのはなぁ、恩恵にあずかるって言うんだぁ」
「難しい言葉、あんまり分かんないです。でも、そんな感じです―――本当の一番の強さになったら、誰も、手が出せないから」
 知っていてなのかどうなのか、少年は恐ろしいことを口にした。
 男は少年を上から眺めて、同情ではないな、と自分の気持ちを判断する。この少年は天秤に自分の家族と自分たちの本来守るべきものをはかりにかけた時、どちらを取るか、きっと少年はと男は、今までの問いを振りかえって、その結論をあっさりと出した。この少年は、組織を取る、と。
 少年にとってきっと家族は大切なもので、守りたいものであるに相違ない。けれども、少年にはそれを守るだけの力がなく、知恵もない。だから、少年はこの道を選択した。利用する道、を、である。ただし、相手に利用されることも少年は忘れていなかった。その結果何がどうなるのかも、少年はやはり理解をしていた。
 馬鹿なのだ、と男は思う。この少年は、悲しいほどに馬鹿なのである。馬鹿だからこそ、この状況下における最善の策しかとれない。なまじ頭が良い奴であれば、もう少し打算的な解決策を取る。自分の身を危険にさらし、家族の命を危険にさらす方法はきっととらない。下半身不随の母と全身不随の父をどこへなりとも預けて、それこそ遠すぎるほどの親戚に頭を下げるか、状況を知らない孤児院に入ることを考えるのだろう。
 だが、馬鹿な少年にはそれができない。父も母も見捨てられず、妹を放ってはおけず、逃げることもまた、選択できない。だから、馬鹿な少年は、全部を全部背負う道を選択した。もしもそれがどういう意味になるのか知らないのであれば、男も少年をこのまま放って家に帰れと出て行ったことだろう。だが、少年はその意味を知っていた。馬鹿だから、直感的にそれを理解していたのだろうか。それは、男が知り得るところではない。
 そして男は少年に言った。
「ジーモ・ゾフ。本気で、いいんだなぁ。後戻りは、もう一生できねぇぞぉ」
 凄んだ声に、少年は小さく微笑んだ。そして、はい、とそのまま、答えた。

 

 ただいま、と穏やかな声がして大柄な青年が部屋の扉を開けて入ってくる。少し小さめの扉は、青年が身をかがめないと入ることができない。じゅぅと湯が噴きこぼれる音がして、青年は慌ててキッチンコンロの火を止めた。
「ドミニク?マンマ?」
「わ、わぁ!お兄ちゃん!ごめん、火止めてくれたの!?」
「駄目だよ、ドミニク。料理してる時に離れたら危ない」
 青年の言葉にドミニクと呼ばれた女の子はごめんなさい、と少し首をひっこめた。
「今、丁度面白いテレビやっててね。あ、そうそう!バッボが指動かせるようになったんだよ!」
「わぁ!それはすごいなー。あ、マンマは?」
 花のように咲いた笑みに青年はにこやかに微笑み返し、己の母の姿を探す。すると、お帰りと穏やかな声が空気に乗った。車いすに乗ったふっくらとした女性が通路の向こうから声をかける。それに青年は、ただいまマンマ、と笑顔を向けた。そして、少し恥ずかしそうに成績表を母親へと差し出す。
「頑張ったんだけどなぁ…セオとドンも手伝ってくれたんだけど、どうしてかなー…?ちょっとよく分からなくて」
「まぁまぁ。これは…」
 そう言った母親は困ったように青年の成績表を眺めて眉尻を下げる。それをドミニクもひょいと上から覗き込んで、うわぁと悲惨な声を上げた。
「お兄ちゃん…ひどい」
「えー…うん。うん、いや、だって…難しいんだ、すごく。でもほら、イタリア語の成績は悪くないよ?」
「イタリア語はお前、普段から話してるだろう?」
 母の言葉に青年は言葉に詰まり、うんうんと唸ってから、でも他のよりはいいだろうと首を傾げる。困り切った青年の姿に母と娘は笑って、成績表を机の上に畳んで置いた。
 鍋一杯に沸騰していた湯をもう一度火にかけて、ドミニクはちょっと待っててねと笑う。
「今日はパスタ!」
「パスタ?ドミニク…ゆで過ぎないで…」
「そうだよ、ドミニク。お前のパスタはゆで時間が長すぎるんだよ。あと塩味もちょっときついねぇ」
「そう?」
「ああ。パスタソースとの兼ね合いも考えないと」
 ころころと車いすを転がした母の姿と、キッチンに再度挑戦しているドミニクに青年は声をかける。
「俺、バッボに声掛けてくる」
 そうしておいで、との母の言葉に、青年はうん、といつものような笑顔で答えた。