43:柔らかな屍 - 2/2

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 夕暮れ時に烏がなく。
 藤堂は廃ビルの一室から暗殺対象の行動を注視していた。
 死神の藤堂は仕事を選ばない。勿論、自身の能力で遂行不可能な仕事はそもそも受理しない。ただし受けた依頼は完全に遂行し、暗殺対象が生きて日の目を見るなどということはかつて一度もなかった。
 ここ一週間ほど対象者の行動を観察した藤堂は、本日帰宅後が最も暗殺に適していると判断していた。
 対象者の行動は規則的でわかりやすい。
 独身、会社勤め。ブラックリストに入っており、消費者金融で首が回らない状態。返済できもしない借財を恐喝の材料に、犯罪に加担した哀れな28歳男性。
 まだ年若いこととトカゲの尻尾のような利用価値があったために自分の墓穴を掘ることにはならなかったが、藤堂は、この男が犯した罪の被害者家族から依頼を受けた。
 位牌を固く握りしめた老齢の女は、皺に潰れた眼から大粒の涙を大量に溢し、藤堂の前に金を積んだ。
 もう後は棺桶に入るだけといった老女は掠れ、怨念のこもった声を発した。その声は、藤堂の耳の奥にいまだにこびりついている。
 殺してくれ。
 ただその一言は、耳について離れない。
 藤堂は二つ返事をした。
 死神の藤堂は、仕事を選ばない。
 日が、ゆっくりと山際に消えていき、電信柱に付属している蛍光灯だけが足元を照らす。羽虫が光に寄せられ蛍光灯の光を僅かに陰らせる。
 帰宅までの道のり、次第に男とすれ違う人が減っていく。
 一人、二人。消えていく。
 よれたスーツが外灯の下で影を作る。
「こんばんは」
 藤堂は、人生に、何もかもに疲れ切った、男の背中に声を掛けた。
 男がゆっくりと振り返る。疲れ、倦み淀んだ瞳が物憂げに死神の姿を捉える。驚きも、感情もなく。日常で生活を繰り返していた男が非日常という水面に頭を押さえつけられ、溺れ死にかけている残骸がそこに残っていた。
 背に負う柄に手を掛け、音もなく引き抜く。
 蛍光灯の光源が抜き身の刃に映し出されている。翁面をかぶっている男が路上に立って、声を掛けているという異質な状況を正確に判断するに至るまで、男はわずかに数秒を要した。
 虚ろな瞳が状況を認識した瞬間収縮し、恐怖に染め上げられる。顔面の筋肉がこわばるその時には遅く、男の瞳は自らの胴体を見ていた。逆さまに映し出された胴体と、噴き出した鮮やかな血液を脳味噌が処理し、地面に頭を打ち付ける感触を実感するころには、男の意識はすでに放棄された。
 頭部と胴体が二つに分かれた、人間の死体が路上に転がる。
 死体を見て叫ぶ通行人そのものがいない。
 この時間に人が通らないことは、藤堂は調べていた。
 通行人は通らないが、丁度そこに白塗りのバンが止まる。中から出てきたのは男が二名。ゴム手袋をはめ、帽子を被り、マスクをしている。黒色の作業着を身に着けた男二名は無言のままバンから降り、藤堂の目の前に転がる死体一つを手際よく厚手の、防水加工がしてある袋に移動させ、路上に流れ出ていた血液を手際よく片付ける。転がった頭部は胴体の上に乗せられ、チャックが閉められた。
 藤堂が声を掛けてから、死体がバンに詰め込まれ、路上が綺麗になるまでの間、僅か5分と満たない。
「支払いはいつもの手順で」
 そこで、バンの運転席に乗った男が、窓を下げて藤堂にそう言葉を放った。
「分かりました」
 藤堂は武器をしまいつつ、二つ返事で了承し、それを聞くと男たちは何事もなかったかのようにバンを走らせ立ち去った。
 誰もいない路地に藤堂は影を落とす。
 足音一つなく、人の気配すら遠く。
 そのはずであったが、藤堂の耳はその幕間に人の声を拾った。
 小さな、悲鳴のような。
 普段であれば、意図的に無視をして、立ち去るだけのその事象を拾い、足先を向けたのは、たんにその悲鳴がまだ未発達の、大人ではない、こどもの声であったからに他ならない。
 そうでなければ動きなどしない。
 息を三つ吐き出し、藤堂は足を止め、その光景を眼下に収めた。
 無慈悲な光景である。
 マフィアの間で流通していると思われる兵器、匣兵器と通称されるそれは小さな光源を揺らめかせながら、空き地の住みに立つ男の掌に納まっていた。
 視線の先には小さな、まだ小学にも上がっていないと思われそうな子供が、植物の蔓に巻き取られ、四肢の自由を拘束され、胴体から引き千切られそうになっている。
「大人の体はこの間もうやったんだよねぇ、子どもの体だとー、どれくらいでー引き千切れるのかなぁ。あ?知ってた?体からもげるって、そんなに簡単じゃないんだよー。まーずーはー関節が外れるでしょ?それから筋肉がぶちぶちーって千切れていくでしょ?それで最後に皮膚がちぎれてもげるんだ。ボーヤの意識はどれくらいまで持つかなー?あっでも安心して。ボーヤの体を引っ張ってるそれね?最初にちくってしたでしょ?それはねー、ンー、気絶できない成分なの。でねぇ、声も潰しちゃうすぐれもの!あ!分かった?分かったよね」
 一人、ただ一人、しゃべり続ける。
 藤堂は足場としていた屋根を蹴った。
「つーまーり、ボーヤは、心臓が止まって、ノーミソが駄目になるまで、ずーっと、手足がもぎとられる痛みが続くわけェ。フ、フフエヘ」
「それは、是非ご自分で試されてはいかがでしょうか」
「エヘ?」
 蔦を全て断ち切り、藤堂は重力に従って、落ちた子供の体を抱きとめる。
 関節はすでに外されているのか、ぶらりと動きに合わせて揺れた。
 男の服は白く、胸章には見覚えがあった。
「ミルフィオーレの方でいらっしゃいましたか」
 丁寧な敬語に男は唇を大きく歪ませ、深く頷いて見せた。
「そう!そーそー。分かった?今を時めく、ミルフィオーレ。今は、白蘭サマに賜ったこーの!匣兵器!の動作確認ちゅーなわけ。わかったらぁ、その芋虫おいて、消えろよォ。あーいやいややっぱいろ。やっぱいろ。いろってェ。お前でも試してみるから。豚肉みたいなゴロゴロ太ったやつはこないだやったんだけど、ちょっと筋肉のついたやつはやったことねーから。な?お前もいろ」
「さあ坊や。こちらに座っていなさい」
「おい」
 声なく泣きじゃくる少年の頭を優しくなで、藤堂はその小さな体を壁にもたれ掛けさせた。
 その恐怖は心中察するに難くない。
 男の額に青筋が数本浮き上がり、声には苛立ちが滲む。しかし藤堂の声音に変化はなく、平常を保ったままであった。翁面の下の表情すら、変わらない。
 指にはめた質の悪い指輪から炎が迸る。
 三流品なのは見て取れた。賜った、というよりは捨てられた、というにふさわしい逸品である。匣兵器に再度炎が注入されているところを見ると、男が纏う炎の質もそうよろしいものではない。質が悪い故に燃費も悪い。したがって、適宜エネルギーを注入しなければ動作不良に陥る。
「三流ですね」
 藤堂は一度はしまった武器を再度外気に晒した。

 

 遅い、と修矢は時計を見た。
 藤堂の仕事は時間を指定するものではない。しかも、彼は「少し」出てくると言った。藤堂の少し、はその日中ということを意味し、その上午後十時にはすでに帰宅するというものである。
 もうすでに時計の針は十時を回り、十一時に差し掛かっている。
 遅い。遅すぎる。
「坊ちゃん。もう休まれては」
 時計とにらめっこをしていた修矢の背中に哲が心配そうに声を掛ける。
 聡い側近は、修矢が眠らない理由も、その心配の種が何であるかも熟知していた。
「確かに、少々遅いですが、子供ではないどころか、もう棺桶に足を踏み入れてもおかしくない年です。何より、あの死神に迂闊に手を出せば、その手の方が持っていかれます」
 心配は無用ですよ、と哲は繰り返し、眉間の皺を薄くすることで、修矢の不安を消そうとした。
 しかし、滲むような不安が修矢の背をにじり焼いていく。それは不安というより予感に近い。
 今日最後に会った藤堂の希薄な、常日頃存在感が強い方ではなかったものの、拭いきれない何かが焦燥となり、神経を炙っていく。
 いや、と修矢は己の愛刀に手を掛けた。
「坊ちゃん」
「少し出てくる。一回りしていなかったら、もう寝る。お前はここの守りをしていろ」
 立ち上がり、長い回廊を音を消しながら歩く。どうにも、ぞわぞわと不気味な感覚が指先まで浸透している。
 藤堂に随分と長い間間借りさせている部屋の前を通る。少し障子をずらせば、壁一面に能面が下がっている。事情を知らぬ人間が見れば大抵は腰を抜かす。昼日中ならまだしも、夜に覗き見ればそれはそれは恐ろしい。
 人の面であるのに、一つの面に感情を様々にうつすそれは、不気味である。
 修矢は藤堂の面にいまだ慣れない。
 仕事に出て行く時は、壁の面に一つ穴が開く。持っていかれた面は翌日には埋まっている。
 人とすれ違うことなく、道を行く。
 いつの間にか、気付けばあの男は自分にとって、当たり前の存在になっていた。
 近すぎず、遠すぎず、分からなければ問い、それを教える存在になっていた。
 哲は近すぎる。姉は遠すぎる。近いが一線を引いた存在は、ひどく心地よく、未熟だった己を成熟したものへと導いてくれた、恩義のあるものとなった。
 だから。
 できれば、可能なら。
 修矢は願う。
 ただ願う。

 

 三流だと侮った。
 老い故の油断だ。
 藤堂は肺に突き立った植物を両断して、血を吐いた。右の肺が駄目でも左はまだ生きている。
 相手は嗚咽を悲鳴に交えながら体を引きずり、ガス欠気味の匣兵器を胸に握りしめている。
 指輪のはまった腕を藤堂は地面に投げ捨てた。ぬくもりを残したそれは、地面に転がると、一度だけ小さく跳ねて動きを止めた。
 息を吐けば血が混じる。
 地面に唾を濁った血ごと吐き捨て、藤堂はとどめを刺すために柄を握り直す。
 背後には子供がいる。
 まだ、幼い、としはのゆかないこどもが、いる。
「ひ、ぃ!」
 相手の悲鳴は心に全く響かない。
 僅かに空気を震わせただけの命乞いは、藤堂の鼓膜を震わせることはなかった。
 代わり、藤堂の眼前に微量に炎が残された匣が突き出される。ガス欠の匣兵器から攻撃を受けるほどは衰えてはいない。藤堂は蔦の動作を視界に止めた。
 そして、それと同時に今にも命を終わらせようとしている男が汚く笑ったその顔が、眼窩に映った。
 はぁ。
 踏み出した一歩を逆転させる。
 体を反転させた先には、痛みに喘ぐ子供がいた。そのさらに先、数本の束になった蔦が幼い子供に襲い掛かろうとしている。
「あ、ひゃ、ゃ」
 背後の笑い声が、まるで排水溝に流れていく水音のように聞こえた。
 真っ白な、排水溝にとどまった、生まれてもない胎児を洗い流す、水音のように。
 裂かれた妻の胎から、落ちる、水音のように。
 地面を足が抉った。生まれてこの方、一番速く動いた。
 藤堂は渾身の力で持って、子供の命を奪おうと伸びた蔦を断ち切り、蔦と子供の間に自らの体を滑り込ませた。そして、断ち切ると同時に、自らの心臓に肋骨の隙間から蔦が潜り込んだのを知った。
 男が匣兵器を開き、薄く笑っている。炎の灯は消えた。あひ、と男は最期にもう一度笑い、事切れた。
 蔦は突如枯れ、藤堂はその場に倒れ伏す。
 雨が降り始めた。
 雨が、水音が鼓膜を叩く。
 痛みと恐怖で子供が傍で声なく泣いている。いうことを聞かない体を叱咤し、体を這わせ、老いた手を伸ばす。翁の面が外れた。内側に雨水がたまっていく。
 子供の、頬を伝う雨なのか、涙なのか分からない滴をぬぐう。
「だい、じょうぶ、ですよ」
 泣かないで。
 泣かないで。
 泣かないで。
 己の命の灯が今にも消えそうなことは、死神が、最期を看取りに来たのを、藤堂は感じ取る。
 妻と子は、この冷たい絶望の中で息絶えたのかと、かつて風呂場で見た絶望が脳裏をよぎる。
「きみは、たすか、る」
 藤堂雅は絶望の淵で生きてきた。
 どこかを破綻させて生きてきた。
「きみは、これからを、いきる」
 雨が体温を奪っていく。
 貫かれた心臓が息を止めて、死んでしまった肺が緩やかに喉を閉めていく。
 こどもは、たからもの。
 ぱしゃんと思考を僅かに遮る音がした。しかし藤堂にそちらに注意を払う力は残っていない。
「藤堂、さん」
 聞きなれた声がした。
「藤堂さん」
 そんなに悲しそうな声をしないで。
 放り出された傘が雨を打ちながら転がっていく。
 冷たい体に触れる手は火傷しそうなほど熱い。今助けをと耳元で聞き覚えのある声が緊張を孕みながら、僅かな希望と共に叫ばれる。
 それでも藤堂は己の影を踏むのは誰なのかよく知っていた。
 ほうら。
「なかないで、ください。わたしの、かわいい、こ」
「藤堂さん」
「こどもが、ないている。わか、る、でしょう」
 教え子に何をすべきか藤堂は言外に伝える。
「さあ」
「でも」
「さあ」
 藤堂の声に修矢は痛みに喘ぐ子供を抱きかかえた。放り投げた傘を手に取り、唇を噛みしめる。
 分かっているのだと。
 もうどうしようもないことを、弟子が理解したことを藤堂は理解した。
 遠ざかる足音に藤堂は最後の力で携帯電話をいじり、コールした。3コール。相手が出る。雨水が混ざった息を取り込みながら、藤堂は言葉を発する。それが、最期の一言となるように。
「むかえを、ねがいます。それから」
 ああ、と藤堂は薄く笑う。
 ミントガムを頼むのを、忘れていた。

 

 スクアーロはマグロ漁船で、電話を受けた。
 大波と嵐の中、通話はよく聞こえない。だが、その部分の通話だけはやけに明瞭に聞こえた。まるで、嵐が一瞬収まったのかと錯覚するほどに。
 死神が、死んだ。
「…う゛おぉおおい、嘘にしちゃ笑えねーぞぉ」
『嘘なんぞ、俺が言った記憶なんぞないだろう?』
 そうだとスクアーロは口を引き絞る。
 そもそも生粋の情報屋であるこの男は嘘は言わない。冗談は言っても。
「そうかぁ」
『死神の最期の依頼だ』
「なんだぁ」
 電話越しの言葉は、いつもと変わらない。何分この業界に生きているなら、人の死には慣れている。
『出来の悪い弟子を、よろしく願います』
「そりゃ、」
 随分と。
 スクアーロは、嵐に顔を真向に向け、勝ち逃げ野郎がと大声で吠えた。

 

 それは葬儀と呼べるものではない。
 葬儀と呼ぶには遺体もなく、墓すらない。 はじめから、その男は、「藤堂雅」という「死神」は存在しなかった。
 雨が降る。しとりしとりと、雨が、降る。乾いた地面を湿らせ、雨足が強まるにつれ、水は地面に染み込むことができず水たまりとなり、水滴を激しく散らす。
 縁側に、青年は一人腰かけた。
 何も握っていない手を開いたり握ったりし、十回ほど同じ動作を繰り返すと、手をきつく握りしめた。手首に筋が強く浮く。
 塞ぐもののない耳から滑り込んでくるのは激しい雨音だけである。
「坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろ」
 哲、と修矢は斜め後ろに控える男の言葉に返した。
 広い屋敷に修矢は目を細める。
「人は」
 雨音にかき消されながら溢された声を、哲は一言一句聞き逃さぬつもりで全身に力を込めた。
 ここには誰もいない。自分たち以外の、誰も、である。呟きを零す青年の顔は見えず、ただ形のよいスーツの背中だけが柱にもたれかかっている。
 修矢は一度息を吸い込み、そして吐き出した。
「死ぬんだな」
「はい」
「親父を殺したときは」
 声に嗚咽が混じる。涙をこらえるのか、言葉が一度詰まる。
「平気だった、のに、なあ」
「はい」
「遺体はさ、田辺さんが持っていってて、もうなかった。何も残ってなかった。あの人、ここで生活してたわりには部屋になにも残ってなくて、本当にいたのかどうかさえ、疑うくらいだ」
 握りしめていた手をゆっくりと放す。爪の痕が掌に残っていた。
「俺、あの人のこと、好きだったよ」
 ぽろりとこぼされた言葉に返事をするものはいない。後ろに控える男さえも返す言葉を持ち合わせていなかった。
 は、と自嘲を零し、修矢は背筋を伸ばした。正しくは、伸ばそうとした。眼前に飛んできたマグロを紙一重で避けるために体を完全に倒さなければ。  雷鳴にも似た大声が雨を切り裂く。修矢はそれが誰の声なのかよく知っていた。
 豪雨にも変わらず、その中を泳ぐように流れる銀糸。名前など、言わずとも知れている。
 振り回されたマグロは遠心力を伴って庭に転がる。一尾で十分に重たいそれは雨水を跳ね飛ばしながら地面を抉った。泥が飛ぶ。
 う゛。
 音が、水滴の合間を、水滴を弾き飛ばしながら修矢の鼓膜を突き破った。
「う゛ぉお゛お゛おお゛おおい!!なに腑抜けた面していやがる!」
 独立暗殺部隊VARIA幹部、スペルビ・スクアーロその人であった。