42:狼煙 - 5/7

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 冷たい床へ頬がぺたりとつく。
 吐き出した息は冷たく白く凍え、肺腑を満たす空気は身を震えさせるほどの冷気であった。
 冷たさに目をうっすらと開けた視界は、不恰好に切り取られ歪んでいた。それが眼鏡が罅割れ、破片がいくつかなくなっているからだと気付くのには、少しばかりの時間を要した。
 脳味噌の覚醒はそれからもう暫くかかる。頭の中の靄が完全に晴れたのは、苦痛を混ぜた悲鳴と、それを追うようにして骨がへし折れる音がしたからである。
 床と平行になっていた視界に虚ろな目玉がぎょろりと転がった。半開きになった唇から血がしたたり落ち、耳、目といった部位からもどろりと赤色が溢れている。
 その顔にははっきりと見覚えがあり、少なくとも気を失う数秒前に見た顔であった。
「うっげぇ、きったねー。早く片付けろ、オルゲルト」
 オルゲルト、という名前は聞き覚えのないものであったが、確かに、確かに耳に届いた声には覚えがあった。
 我儘で自身を王子と称する、鮮やかな金髪の巻き毛の青年。
 起こそうとした体は軋み、顔が自然と歪んだが、東眞はようやっと顔を上げた。一筋二筋、目にかかる黒髪が視界をいくらか遮ったが、眩しいばかりに透き通らんばかりの金色は知り合いのそれのようにくるりと可愛らしく巻いてはおらず、首筋まですとんときれいに落ちていた。
「ベル」
 思わず、そう零した。それほどに似ていた。
 東眞の言葉に王の如く豪奢な椅子に腰かけていた青年は口を開けて乱暴に答える。はあ、と。
「一緒にしてんじゃねーよ、ごみクズ。クズがクズ連れてきて、オレは全員殺せって命令したぜ」
 それに返事をするはずの人間は、既に東眞の隣で事切れていた。ベルフェゴールと酷似した容貌の男は豪奢な椅子に踏ん反り返り、明らかな溜息をもらす。
「つっかえねーよなァ。クズはどこまで行ってもクズで困んだよ」
「ジル様」
 隣に立つ肌色の濃い厳つい面をした男、オルゲルト、と呼ばれていた男が王座に座る青年の名前を呼んだ。それに億劫そうにジルは視線だけ、金髪の下で動かして答える。なんだ、と。
 腕に下げた白布を微動させず、オルゲルトはゆっくり口を動かす。
「その女、独立暗殺部隊VARIAのボスXANXUSの女かと」
「あ?」
 従僕の言葉がにわかには信じられず、ジルは首を傾げ、オルゲルトを見つめた。主の行動に僕は従順に一礼をし、確かにと答える。
「間違いありません。女の名前は桧東眞。あの暴君と名高い男の唯一の傍女です」
「これが?」
 両腕で上半身を支えている女を嘗め回す様にジルは見た。だがそれも数秒のことで、すぐに飽きて視線を外し、椅子の背凭れに体重を預けた。
「冗談も大概にしろよ、オルゲルト。こんな薄汚ェ女傍に置く意味が分からねーっての」
 あきれ果てたジルの言葉にオルゲルトは、恐れながらと謹んで言葉を申し伝える。
「事実でございます、ジル様。我が王。その女は乞食のようななりをしておりますが、確かに、あのXANXUSの妻です」
「妻!妻、ね。へえ」
 ジルは細い指で己の顎を一撫ですると、口元を大きくそれはさぞかし楽しげに歪めてみせた。嗜虐性を覗かせた笑みに東眞はぞっと背筋を冷やす。
 ならさァ、とジルは床に転がる女の黒髪を引っ張り持ち上げる。自然と女の顔は苦痛に歪んだ。
「ボロ雑巾みてーになった最愛の女見たら、どんな面してみせてくれんだろーな」
 男が何かの行動に移る前に東眞はもう一歩早く行動に出た。
 結わえた髪の毛、項の辺りに隠していた薄い小刀を空いている手で抜き放ち、掴まれていた髪の毛をばつんと切る。肩より長く伸びていた髪の毛は肩にかかるかかからないかの長さまで短くなり、繋がれていた女の身体を自由にする。
 ジル様、とオルゲルトが叫ぶよりも早く、東眞は腕を振るう。
 濃い灰色の瞳は、相手の驚きの表情を確かに捉えた。それは当然の帰結なのかもしれない。格下どころではない、ごみのように扱っていた人間が突如歯向かえば一瞬の隙は生まれる。
 薄氷のような小刀が空気を裂く。
 捕まったにも関わらず、脇のところに確かに銃の感覚がある。
 大きな部屋に似合いの大きな窓。外の景色から察するに一階。逃げられない距離ではない。総合的に判断し、東眞はジルの掌を刃の切っ先で裂いた。
 指輪などない。匣兵器も持ち合わせていない。死ぬ気の炎もない。
 しかし。しかし、と東眞は思う。自分に強さは必要ない。自分に必要なのは、ただ一つ。
 XANXUSの許へ、帰ることである。
 掌を切裂いた小刀を腕の勢いのまま放り投げ、もう片方の手でホルスターに収まったままの銃を抜き取る。相手が何かしらの行動に移る前に、相手に背を向け駆け出す。銃口の先は窓ガラスへ。用心がねに入れた人差し指へと力を込め、引く。
 ガラスに蜘蛛の巣状のひびが入り、千ゝに割れたガラス片が散らばる。
 外へ。外へ。
 足が前へと確かな一歩を進む。
「あークッソムカツク」
 低音で温かみを一切含まない、苛立ちを隠そうともしない声音が空気を叩いた。
 血が、沸騰するような音が鼓膜を内側から叩いた。
 目の前に、赤錆の色が充満する。肌を伝う液体が一体なんであるのか、東眞は瞬時に判断することはできなかった。窓へと伸ばした手が、その指先から赤い物が関節へ、手首へ、腕へと伝い床を汚す。口内に鉄の匂いが香りが広がった。食道を押し上げるように、血液が舌へ乗り、白い歯を赤くする。掌で口を押さえるも、大量に出た血液はその指の間から飛び散る。血は口からだけではなく、鼻からも滴る。最後に三半規管を奪うように、両耳から何かが滴ったのを東眞は感じた。ぐらりと大きく視界が揺れ、体がぶれる。統率を失った体は冷たい床へと倒れこんだ。
 ごつ、と床を踏み音が近付く。
 足を振り上げる音、空気を裂く音。そして、腹部へとブーツが強烈にめり込んだ。体が区の字に曲げられ、東眞は痛みに歯を食いしばった。
「クッソ!この、カス!クズ!」
 喚き立てる男は自身の手に引かれた一文字の傷から溢れるものを止めようともせず、ただ地面に転がった女の腹部を執拗に蹴り続けた。ある程度腹を蹴れば、その足は全身に及んだ。肩、腹、脚。蹴る、踏む。
 血液、吐瀉物、胃液。全てを吐き出して、吐くものすらなくなり、その細い体が微動だにしなくなった頃、ようやくジルは女を蹴るのをやめ、顔面を強く蹴り飛ばした。
「キッタネ。ゴミがオレに歯向かうなんていい度胸じゃん。ぜってー殺す。殺す。マジ殺す。オルゲルト」
「かしこまりました」
 自身が手を下すまでもないとばかりにジルは手を軽く振り、椅子に戻り越しかけた。
 大きな黒い影が近づいてくる。東眞は確かにそれに気付いていたが、既に指先一つ動かせない。大きな足が頭上に現れたのは、視た。確かに見えた。
 ああ。
 ふと、思い出したのは、ただただ赤い、あの美しい宝石の瞳だけだった。

 

 皿を投げる。
 XANXUSは目を瞑った状態で、本日何枚目になるか分からない皿を割った。いい加減に割りすぎだと、いつものように東眞が居ればそう応えただろう。しかし、今この場にはいない。
 安全を考えCEDEFに護衛を依頼したが、連れ去られるという失態である。どちらにせよ、依頼した自身に落ち度があることをXANXUSは認めていた。安全を一番に考えたのであれば、己の手元に置いておくのが一番安全なのである。言うまでもなく。
 それでも、ここにいては限りなく邪魔となることを東眞は察していた。故に、女はCEDEFとともに避難した。
 賢いが故に愚かでもある。
 くそ、と小さく漏らすがそれに答える存在は部屋にはいない。新しい肉を探しに出て行った部下を最後にこの部屋に入った者はいないのだ。
 頬杖を突いた状態で、XANXUSは扉を見つめた。
 助けに行くことは可能である。
 しかし、それをしないのは己の立場を理解しているからであるし、それ以上にそれをあの女が一切望まないからである。
 生きていろ、とXANXUSは思う。セオにはああ言ったものの、圧倒的戦力差ばかりは東眞でも埋めることはできない。殺される時は、殺される。間違いなく。ここは、そういう世界であるし、一切の躊躇がない。
 背凭れに体重を完全に預ける。
「」
 女の名前を口にしようとしたが、それは喉元で止まってしまう。今はまだその時でない気がした。
 耳につけている受令機から喧しく響いてくる戦況に状況を頭の中で整理する。未だ六弔花と邂逅した班はない。小競り合いはあるようだが、その分ならばVARIAの雑魚でもどうにかなる範囲である。セオでも十分に相手にできる。
 現在はルッスーリアが待機班。スクアーロとシャルカーン、レヴィとジェロニモ、ベルフェゴールとフランの大まかに分けで三班。このどれかが、六弔花とあたる。
 相手の実態が分からない以上、どこに当たっても勝算は変わらない。
 尤も、ここに直接乗り込んでくるようならカッ消すつもりで、XANXUSはいた。指先によくなじむ銃をその手で確かめる。
 どれに来る。どれに、どこに。
『スクアーロ隊長ー。六弔花南に来ました――』
 無線が入る。南か。
 フランの無線にスクアーロが配置換えを命令するも、レヴィ・ジェロニモ組は北の爆発に出たばかりであるし、ルッスーリアは次々と担ぎ込まれている負傷者の手当てに配置させている。スクアーロ・シャルカーン班も手元の屑の相手にかかりきりで動けない。
 援軍はなしである。後は、連中がどう捌くか、の話。
 こちらに来てくれれば、叩き潰すのみ。XANXUSは目を瞑り、喧騒を遮断した。

 

 宙に浮かぶ椅子に座る死んだはず、正しくは殺したはずの兄をベルフェゴールは口元を引き攣らせ、その双眸に映し出した。
 癖のある髪の隙間から、癖のない髪が覗く。見間違いなどでは、ない。
 ベルフェゴールは隣で平坦な、しかし神経をどこか逆撫でするようなフランの言葉遣いに口元を引き攣らせた。
 援軍が来ないことは想定内ではあった。故に一切の問題はない。そして何より、この兄に負ける気はしない。
「それにやり残したことは、しっかり自分で清算してやるぜ」
 弟の言葉に兄はしし、と噛み合わせた歯の間から不敵な笑みを零す。目が髪の毛に隠れているため、その不気味さは一層深いものになっていた。
「それはこっちのセリフだぜ、失敗作の弟ちゃん。きっちりここで片付けてやるよ」
 ぴりと震えた空気にベルフェゴールは肌が泡立つのを感じた。
 一触即発の空気の中、オルゲルトとフランを含め、各々の匣兵器を取り出す。フランはそれに合わせてヘルリングを取り出したことにより、ジルとオルゲルトの目が驚きで見開かれたが、それは些細な事であった。
 匣兵器が主流の今、当然ベルフェゴールも自身の匣兵器を右掌で転がし、しっかりと掴んだ。
 開匣しようと、ベルフェゴールは左指に嵌る指輪に死ぬ気の炎を灯そうとし、しかしそれを中断した。視線の先にあるのは、オルゲルトその人、が、持つ麻の袋だった。大体人一人入っているような印象を持つ。
「それ、何だよ」
 ベルフェゴールの口から洩れた素直な疑問の言葉にジル含め、その場にいた人間が動きを止めた。
 それ、とは何を指すのがジルは一瞬把握できずに、言葉を返しかけ、すぐさまその言葉の意図を理解し、オルゲルトへと視線をやった。
「これ、か?」
 素朴な、あまりにも素朴過ぎる疑問にジルは口元に刷いていた笑みを一層深めて返した。
 嫌な予感がする。ベルフェゴールは本能的にそう感じた。内臓が奥から絞られるような、不吉にも近い感情を覚える。何故だろうか、その人一人はいるほどの大きさの麻袋に詰まっているものは、覚えがあるようなものだとベルフェゴールはそう直感していた。
 中身を見ずとも、見せられずとも、それは。その中身は。
 ベルフェゴールは、何だよ、と急くように口にした。知りたいようで、知りたくない。
「手土産だよ、手土産」
 なんてことはない、とジルは続けてししと歯の隙間から笑いを零す。
「てめえ等不良集団のボスが大喜びするような、手土産だ」
 ボスが、つまりVARIAに君臨する男が喜びそうな。この強かで小賢しい兄の言葉からすれば、それは激怒しそうなと言い換えるに正しい。
 ベルフェゴールは微動だにしない麻袋から目が離せなかった。先まですっぽり隠されているために、中に何が入っているのか、外側からは視認できないが、しかしその大きさ形からすれば、その中身は人間でないかと推測される。
 生唾を飲み込む。
 麻袋の中身が仮に想像通りのものであるとするならば、あの男の逆鱗に触れることは、間違いない。逆鱗で済むかどうか、ベルフェゴールは常に横暴で怒り狂っている男が、本気で怒った瞬間を思い出す。背筋が凍りつく。
 おおこわ。口の中で言葉を濁らせ、ベルフェゴールは死ぬ気の炎を指輪に灯す。開匣と同時に、肩にミンクが乗る。
 互いの匣兵器が対峙した。相手方は蝙蝠、象。こちらは、ミンク。一つ足りない事実にベルフェゴールは隣に立つ新米幹部へと視線をやった。彼の手元には何も発現していない。
 巨雨象の攻撃をミンクの嵐の炎で防ぎ、フランの心のこもっていない感謝を罵倒する。
「…お前の匣兵器はどうしたんだよ」
 もっともな疑問をベルフェゴールは口にするが、それに対したフランの回答は至極真っ当なものであったものの、現状においては全く不適切なものであった。変身ポーズなどと。馬鹿げているにも程がある。
 意図的に開匣しなかったのではなかろうかと疑えるほどの下らない理由である。
「ってことで、これ脱いでいいですか?」
「ぜってーダメだ!!かぶったまま死んでろ!!」
 ふざけた回答にふざけるなと返したい気持ちを堪え、ベルフェゴールはフランの被り物を平手で叩いた。中身のない音がした。
 そのやりとりを見ていたジルは愚鈍な弟への視線を変えない。
「大丈夫なのか、ベル。ししっ」
 馬鹿にした無用な心配に憎たらしさを覚えながら、ベルフェゴールは問題ないと返答する。だが、その一瞬フランからの視線を感じ、咄嗟に身を地面に隠す。突然両耳から響いてきた音波にベルフェゴールは顔を顰めた。ひどく、気分が悪い。
 どこかでこの感覚をとベルフェゴールは思い出し、それは足元まで髪の毛あるあの小さな化け物だと思い出す。声を発するだけで、その音で人間の身をスプラッタにするあの小柄なちょこまかと動く、東眞の娘であるあの生き物である。
 ベルフェゴールとフランが地面に伏せてからの幻覚を見ている男の様は無様というか、いっそ滑稽にすら見えた。
 一人で笑い、一人で腹を抱え、嘲笑を響かせる。勝ち誇った笑みは、頭でも打ったのかと心配したくなるほどであった。
 正常な場であれば、弟を殺した兄の反応ではないが、自分たち兄弟に限ってそんなことはなく、全く正常な、おそらく自分が兄を殺しても同じような反応をしたであろうと、あそこまで馬鹿笑いはしないが、ベルフェゴールはそう思った。
「このまま一気に城を落とすのが吉かと」
 ジルの傍らに控える執事は慇懃な態度で進言した。
「しししっそーだな。お前やっていいぞ」
 主の虚かに一頭でも十分に圧迫感のある象が二頭増やされ、城へとその巨体を駆けた。それを追うようにして、ジルとオルゲルトもその場を後にした。
 幻覚を解いたフランは泥に汚れた身体を叩きながら立ち上がる。ベルフェゴールは咄嗟に地面に伏したため、口に付着した土を唾と共に下に吐き落とす。虚空を眺めれば、三頭の象と小さくなる兄とその執事の姿が城へと向かっていく姿だった。
 戦わずして敵を通した新米の横っ腹を蹴り飛ばし、ベルフェゴールはその理由を問うた。
「仕方がないじゃないですかー。実際センパイコウモリの炎喰らって、グロッキーだったんですしー」
 フランの言葉を否定はしないが、そこまで弱っていたつもりもなかった。
「てめーが匣兵器出さねーからだろが」
「ミーのせいですかー?」
「ったりめーだろ!!」
 戦闘の意思を欠片も見せなかった新米をベルフェゴールは当然の権利と罵る。再度殴りつけとうとベルフェゴールが手を上げかけた時、フランはまーいいですけど、と視線を外す。
 何がいいのか分からず、ベルフェゴールは手を止める。
「正直、見てみたいと思ったのは確かですしー」
「何がだよ」
 フランの言葉を理解できずに聞き返したベルフェゴールに対し、フランは頭からひらりと落ちた木の葉を払い、うちのボスですよと返す。
「ヴァリアー内暴力すさまじいし、いつも威張ってるけど、本当に強いのかなーって思うんですー」
「弱かったらオレがとっくに寝首かいてるっての」
 もっとも、殺気を伴って寝室に踏み込もうなら、スクアーロのように飛んでくるのは陶器だけでは済まないに違いない。入った瞬間に消し炭なのは確定事項だった。少なくとも、彼の男の寝室に無断で入って許されるのは彼の妻だけである。その妻も、おそらくはとベルフェゴールはオルゲルトが持っていた麻袋を思い出す。
 隊服の土埃を叩き落としながら、フランは興味があるとばかりに強弱のない声音で続けた。
「でも、センパイのアホ兄貴とどっちが強いか見てみたいじゃないですか」
 確かに、とベルフェゴールはしかしと思い悩む。どちらが強いのかと、あの兄と鬼のような暴君と。
「ししっ、同感♪」
「そーいえばセンパイ。あのデカ執事が持ってた袋に随分と興味あったみたいですけどー」
「あー、あれ。中身がな」
 自身の想像通りであれば、とベルフェゴールは城に座す男の顔を思い出す。
「…ま、今回はボスに軍配あがるんじゃねーの」
 あの男が自分の所有物に手を出されて、許すわけがない。
 フランがまだVARIAにいなかった当時の怒り狂った男の様が脳裏に蘇り、ベルフェゴールは寒気を覚えて腕をさすった。ただ、恐ろしかったのを覚えている。
 中身が生きていればもしかすると手心を加えてくれるかもしれないが、と考えたがその思いはすぐに打ち消した。あの麻袋の中身が死体だろうが、瀕死の生殺し状態であろうが、どちらにせよ兄がボスの逆鱗に触れることは間違いない。生きて帰すはずなどないのである。消し炭になるか、それとも。
「バカ兄貴」
 哀れ兄の末路をベルフェゴールは口元に笑みを刷いて喜んだ。

 

 オヤと片言の言葉がスクアーロの耳を突いた。
 眼前の敵を薙ぎ払い、シャルカーンの視線の方向へと顔を向ける。小さな、炎を纏った物体が三つ。城の方へとその歩みを進めている。進行方向の逆はベルフェゴールたちが配置されていた地点である。
 スクアーロはあからさまに舌打ちをした。耳につけた無線から近くにいた隊員から報告がなされる。
『3機の巨大匣兵器と思われます!城に向う模様!!自分は特攻をかけます!!』
「特攻待て!」
 スクアーロの制止は間に合わず、短い悲鳴と共に無線機の音は砂嵐へと変わった。
「チッ…無駄死にをぉ!」
「マアマア、そんなにプリプリしてると禿げマスヨ」
「禿げるかぁ!!くっ…緊張感のない奴めぇ」
 本日は長い袖のある装いではなく、ノースリーブで身体にぴったりと張りつく機動的な服装である。色は黒で、肌の色地と相まって、森の闇に深く溶け込んでいた。糸のように細い目は相変わらずである。
 のらりくらりとした男にスクアーロはげんなりとしながら、溜息をもらす。
「溜息一つニ幸せ一つデス」
「うるせぇえ!!」
 苛立ちの頂点に低い沸点が達しそうになっている男をからかうようにシャルカーンは笑う。
 両掌にもった掌大の輪刀を投げれば、それは綺麗な弧を描き周囲に群がる敵の喉を的確に切り裂いていく。防護服のようなものを纏っているが、それを意もせず簡単に敵の命を奪っていく。
 今日はお得意の催眠術は使わないのかとスクアーロは思った。その思考を読み取ったのか、シャルカーンはエエといつも顔に張り付けている笑みを全く崩さずに言葉を発する。
「使ってもイイんですケド、外からの音遮断してるデショ」
 倒れ伏した敵の防護服をブーツで踏んでシャルカーンは答える。
「使えないワケジャないデスケド、音使えないの結構面倒ナンデスヨ」
「…そうかぁ…。ベルとフランは殺られたかぁ」
「死んじゃいまセン。チョット見たくなったんジャナイデショウカネ」
 確信を持ってそう答える同僚にスクアーロは眉を顰めた。その確証はどこから来るのか。
 スクアーロの怪訝そうな顔を見、シャルカーンはソレハ、と一拍おいて説明した。
「ベル、フランと一緒デショ。少シ、早すぎマス。オソラク、幻覚でも使っテ、行かセタト思いマスヨ」
「ボスのところへ、かぁ」
「ボスのところヘ。ワタシも興味はアリマスガ。ボスガ、どれだけ強イカ」
 見てみたいデスネ、とシャルカーンは弧を描いて返ってきた血塗れの輪刀を口元に添え、不敵に笑んだ。そんなことを確かめずとも、XANXUSは強いとスクアーロは思う。確かに、VARIA内暴力は筆舌に尽くし難く、横暴っぷりも凄まじい。前線に出ることも稀にあるが、本当に稀であるがゆえに、その強さは計れない部分がある。
 あいつらは、とスクアーロは一人ごちた。迫り来る敵を薙ぎ払い、アーロが殺し残している敵を喰い散らかす。汚いデスとシャルカーンはうんざりしたように顔を傾けて見せたが、流石に無視をした。
「遊びに来てるんじゃねえぞぉ。てめぇもだぁ!匣兵器開匣しろぉ!!」
 がなり立てるも、シャルカーンには届かない。浅黒い肌の男は肩を竦めて見せ、大厭ダと口元を隠すことで、嫌悪を露わにした。
「イヤデス。ネコサンにこんな血腥イ場所ヲ歩かせるナンテ」
「何言ってやがる…」
「ソレニネコサンは攻撃主体でハアリマセン。ネコサンは補助でスカラ」
「なら攻撃を補助させろぉ!!」
「モウモウスクアーロも知ってのトオリ、ネコサンの能力ハ保管デスヨ。戦闘向きデハアリマセン」
 ダカラワタシが戦ってるジャアリマセンカとシャルカーンは口をへの字に曲げ憤慨する。コントのようなやりとりにスクアーロは非常にこの上なくうんざりしながら、もう溜息も零せなかった。

 

 目を潰すほどの閃光が夜の森を一瞬照らす。
 その煌々とした雷を放った男は十分光の強さには慣れていたし、男と共に行動している片割れは盲いているため、光の強さなど全く意に介さなかった。
 おお、と吠えるレヴィに耳だけは異常に鋭い男は、やれやれと肩を竦めた。岩に腰かけた姿は、傍目から見ればサボっているようにしか見えないが、そうではないことをレヴィは知っていたので、男の姿勢に文句をつけることはなかった。
 雷撃を食らった敵は地面に無数に落ちるが、白い防護衣を着ているはずのそれらは黒い塊へと変貌し、不気味に蠢いていた。
 遠くから見れば黒い塊が動いているようにしか見えないが、接近すればそれが無数の蟻であることが認められる。蠢くそれは、貪っていた。防護衣を、悲鳴を肉を生きたまま、あるいは死体を。
 見慣れた者でなければ、昆虫に体を食われるという異常な光景に嘔吐し嫌悪し顔を歪める。
 レヴィも決して見慣れているわけではなかったが、それを許容できるだけの場数は踏んでいる。
 咀嚼する音もない。ただ、蠢く音だけが鼓膜を叩く。
「レヴィよぉ」
 岩に腰かけた男は、雷撃を飛ばす男へと声をかけた。その問いかけに何だジェロニモ、とレヴィは律儀に返事をする。
「もうちょいと雷撃はコントロールできねえのかい。俺にまで当たりそうだ」
「ム、貴様ならば避けられるだろう」
 面倒だとレヴィは口をへの字に曲げて応答した。実際、コントロールはしているが、ジェロニモの位置まで把握して雷撃を飛ばすことほど面倒なことはない。
 素っ気ない返事にジェロニモはそうかい、とあっさり引き下がった。引き下がったように見えた。頬杖をついた男は、それなら、と口角をつり上げる。
「俺の食い気しかない蟻共が誰かの耳に間違って入っちまって、鼓膜を食い破る可能性もあるわけだなぁ」
「…善処する」
 やりかねない。
 レヴィはジェロニモの気配を背で感じながら肩を二三度震わせた。
 ミルフィオーレの連中を的確に雷エイの雷撃で仕留めながら、レヴィはそういえば、とこともなげに聞いた。
「貴様の属性は雲だったな。ボスから雲のヴァリアーリングは拝していないのか」
「そんな話も一度あったが、断った」
「断っただと!!」
 ボスからの!とレヴィは失神しそうな勢いで激昂した。レヴィがXANXUSを信奉していることは周知の事実であるので、ジェロニモは今更ながらに驚くことはない。ただ、断ったぜと諦めを覚えた声で答えた。
 何故とレヴィに追撃を食らう前にジェロニモは理由を答える。
「そりゃ、俺ぁもう単独で一線では役に立たねえからさ」
「だが、お前は耳がいい」
 それでカバーできるだろうとばかりに言われた言葉にジェロニモは喰われていく敵の小さな声を聞きとるように首を傾げた。
「そりゃ一線でなけりゃ俺もまだまだ使えるさ。けどよぉ、一線じゃあ使いモンにゃなんねぇよ、俺ぁ。反応がどうしてもワンテンポ遅れる。レヴィ、お前さんが相方で仕留め損ねた連中を俺が始末するのは丁寧に、もれなくできるがよ。…俺達の仕事にゃ万が一があっちゃなんねぇ。俺は、それがもうできねえのよ」
 だから断った、とジェロニモは敵を食い散らかして髪の毛一筋も残さない光景をその目に映すことなく、緩やかに微笑んだ。
「俺の目はもう何も映しゃしねえ。どんな闇より深い黒だ。俺の世界に残ってんのは音と匂い、触感だけだ」
「…そうか。ならば、」
 ならば。
「ならば、仕方ない」
「だろ」
 そこまで会話を続け、ジェロニモはふと空を見上げた。見る行為はしていないのだが、敏感な耳は確かに空気を切り裂く音を掴んだ。
 ジェロニモが顔を上げたことにつられ、レヴィも視線を上げる。そして、ジェロニモでは捉えられないその光景を確かに見た。
「なんだ…あれは…」
「何がいるんでい、レヴィ」
「巨大な匣兵器が三体と人間が二人だ!しかも、城の方へ…ッXANXUS様のもとへ向かっている!」
「レヴィ」
 ああ、とジェロニモは岩から立ち上がった。
 耳と触感、それに臭いはジェロニモに敵の新たな襲来を告げていた。レヴィの視線はただ城へと、彼の信奉するボスが坐するその一点へと注がれている。
「こりゃ、忙しくなるぜ」
 最後の一欠けを食べてしまった蟻は再度地面を埋め尽くすように黒く大量に増殖する。
 駆けだそうとしたレヴィの周囲に敵が群がる。空中の敵はジェロニモには瞬時に相手にはできない。せいぜい木々に蟻を這わせ、上から落としたところで一気に増殖させて喰わせるのが関の山である。
 雷撃と、そして吠えられた主の名がざわめいた空間に轟いた。

 そして、城は瓦解した。