42:狼煙 - 2/7

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 そう重くもない段ボールを抱え直し、スクアーロは歩く。
 人間死ねばこんなものだというのが、再認識される。使われなくなればしまわれ、いつかは記憶の底へと沈み誰にも思い出されなくなる。扉を肩で押し開け、スクアーロは倉庫の片隅に段ボールを置いた。手を叩いて埃を落とす。小さな段ボール一つに思い出の全てを収められてしまったマーモン。
 死ねばそうなる。
 それもそれで悪くないのかもしれないと思いつつ、スクアーロは開けていた扉を閉めて施錠した。電子ロックではあったが、がちん、と古い音が鳴る。
 重要なのは死後のことではなく、死ぬまでに送ってきた人生の方である。とは言えど、己はどれほど山程の戦いを経験しその頂きにたどり着いたとしても、やはり満足することはないのではないだろうかとスクアーロにはそう思えて仕方ない。死ぬ間際も、いい人生だったなどと、小さな笑みを浮かべて死ぬようなことはなく、考えてみれば、死ぬ時は敗北の時だけであって、可能であれば、剣士としての最期を遂げたいと願うのは我儘だろうかと頭を悩ます。少なくとも、XANXUSが投擲した花瓶に殺されるのは御免である。
 すっかり軽くなってしまった腕を振るいつつ、長い廊下を歩く。天井は高く幅もそれなりにある。天井に等間隔に揃えられている電灯は部屋の暗さにあった明かりを灯していた。
 ブーツの音だけが静かな廊下に響いて落ちる。その音にもう二つの足音が混じった。お、と聞き慣れた生意気な声がスクアーロの耳に入り込んだ。
「スクアーロじゃん、あ」
「…何だぁ?」
 振り返れば、銀色の隙間に金色の髪と、不細工な張りぼてを被らされた少年の姿があった。軽い溜息が、ベルフェゴールの隣に立っていた少年、新幹部の口から零れた。相変わらず不愉快な少年である。
 しかし、その不平不満をスクアーロが口にすることはなく、一つ、睨み付けるに終わる。
「ミー、睨まれましたか?今」
「そう、思いたいなら思ってろぉ」
「なースクアーロ、Jr.見たらボスが呼んでたって伝えといてくれよ。どうせラーダも一緒なんだろうしさ」
 二人の会話など全く興味がない風にベルフェゴールは片足をひらと持ち上げ、頭の後ろで手を組み、軽く体を反らした。どうして俺が、と否定しようとしたスクアーロだったが、その前にベルフェゴールの手がスクアーロの肩を数度叩き、言葉を止めさせる。
「どっちが伝えたって一緒なら、別にいーじゃん。グチグチこまけーことつっこんでんじゃねーよ。カース」
「…ッこの!」
 言いたい放題、とスクアーロは拳を振り上げたが、その前にベルフェゴールはステップを踏んでスクアーロの手の届かない位置まで下がる。両手には目にも止まらない速さで大量のナイフが挟まれていた。
 あ、とそれを横目で見たフランが小さく声を上げた。
「悪趣味なナイフの登場ですかーセンパイ。ミーは自信満々にそれ出すのやめたほうがいいと思いますよー」
「うっせ」
 すとん。ナイフが被り物に突き刺さる。暴力反対ですーと間の抜けた、全く緊張感のない声がだらけて通る。小さな体が踊って逃げた。ベルフェゴールは腕を再度振るってナイフを投げる。じゃあ任せたぜ、とそのくるりと跳ねた金髪も動きに合わせて揺れる。
 待てと負う背をスクアーロは追いかける気にもなれず、嘆息した。ポケットに入れてある小型の通信機で画面を動かし、Jeanと記されている文字を指先で叩いて耳に当てる。はいはい。明るい声が電話の向こうから飛び出た。
『何の用かな、スクアーロ。ちなみに要件は手短に済ませて欲しい。何しろ僕のニコラが甘えて甘えてもう可愛いのなん』
「黙れこのジャンキー。ボスとJr.がどこにいるか分かるかぁ」
『OK.OK.僕のニコラに不可能はないよ』
 通信機の向こうでパソコンのキーボードを高速で叩く音が響く。あいつはパソコンの目の前にいるだけでエクスタシーを感じられるのではないかとすらスクアーロは疑った。それが事実であれそうであれ、その趣味はそして理解できそうにはない。
 かちん。ものの三秒と掛からず、返答はあった。
『二階の突き当りの部屋にボス。一階の暖炉のある中央の部屋にJr.がいるよ。ラーダも多分いるんじゃないかな』
 Grazieと礼を一言述べ、スクアーロは手早く通信機を切った。お望み通り手早く済ませてやったとスクアーロは通信機をポケットに押し込み、地下の倉庫から地上一階の暖炉のある部屋へと向かう。
 そう長い距離でもなく、目的の部屋には一曲歌い終わるかどうかの時間に到着する。部屋の両扉は既に押し開けられており、中では少年と少女が向かい合って座っている。
 少年の手が積み木を重ねている。一つ二つ、三つ。城のように組み立てられたそれを目の前に、髪の毛の塊にしか見えない生き物が、小さな両手をその隙間から出して嬉しそうにはしゃいでいた。少年は、少女の兄にあたる黒髪の、面は父親に瓜二つな彼は妹の嬉しそうなさまを眺め、そして同様に嬉しそうに破顔した。小さな手は床に転がる積み木を一つ持ち上げ、積み上げられた城の上に恐る恐る乗せる。端と端をきっちり合わせたそれは、危なっかしさもなく安定した状態で一つ、高さを上げた。
 ラヴィーナ、すごい。少年の声は二人の会話で聞こえるが、少女の声は一つも聞こえない。部屋の中で、声を上げているのは少年だけである。その傍らでは、大型の犬がゆったりとその体を絨毯の上に横たえさせていた。
 大きな欠伸を一つすれば、狼を倒すことができると言われる鋭い牙がのぞく。小さな少女の頭など一噛みだろうとスクアーロは思った。しかし、少女がその口に興味を移し、開いた口の中、鋭い牙を興味深そうになぞり触ったが、犬は左程気にする様子もなく、大人しく触らせていた。XANXUS曰く、躾はしてあるから、それでも噛まれるのであればそれは被害者のほうに非があるとのことであった。怪我は高い授業料ではあるが、腕の一本でも持って行かれそうになれば、あるいは持っていかれれば、自分の失態に気付くという彼の考えは、少々表現が過激ではあるものの、それでも十分に理解できるものである。それでも気付かずに同じことを繰り返す脳無しはいらないということだろうか。厳しいようだが、最も手っ取り早い教育である。
「スクアーロ」
「お゛ぉ、ボスが呼んでたぞぉ。二階突き当りの部屋だぁ」
 いち早く反応したセオにスクアーロはお前もだ、とラヴィーナにも声を掛ける。くくと頭が傾げたが、ラヴィーナもだよと兄に言葉を掛けられたことにより、嬉しげに頭を上下に振って差し出された手を掴んだ。非常に微笑ましい光景だが、彼女は生物兵器であるし、彼は暗殺者である。
 寝転がっていた犬が二人の子供に付いて行こうと立ち上がったが、スクアーロがその首輪を掴んで止める。体高が高いために、軽く手を伸ばせば、腰を屈めずとも首輪に手が届く。ぐい、と強めに引っ張られるが、力で押し留める。東眞が犬の散歩も担当しているのだが、この力でこけたりしないことを考えると、やはりしっかりと躾られていることが窺えた。
 スクアーロの足元に、犬が台無しにしてしまった積み木の城の残骸が散らばる。あの子供たちはそれに気付いていただろうか。
「スィーリオ」
 ああ。スクアーロは非難の色を含めた声を、そう名付けられている犬に掛ける。低い声がわふ、と答えた。それなりの知能を持った犬は、足元に散らばった積み木を眺め、尻尾をだらんと下にしまう。悪いことをした、怒られたという意識はあるようで、窺うようにスクアーロを見上げる。スクアーロは散らばった積み木を指さし、そして積み木が本来入っていた箱を指さした。その動作に犬は反応し、大きな口で二三個の積み木を咥え、箱の中にがらがらと入れ始めた。
 傍にあった椅子を引いて腰かけ、スクアーロは犬がそれら全てを片付けるまで眺めた。絨毯の上が綺麗になると、犬は尻尾を盛大に振って、スクアーロの腹に鼻を擦り付ける。その請いにスクアーロは犬の頭をガシガシと撫でる。はっは、と犬は嬉しげに舌を出し、右前脚をスクアーロの腿の上に乗せる。頭を撫でていた手を耳にやり、首筋を撫で回す。犬は大層気持ちよさそうに目を細めた。大きな尻尾が左右へと振れる。
 犬と戯れるスクアーロの背に丸みを帯びた声がかかった。それが一体誰のものなのかといえば、スクアーロは容易に答えが出せた。それでも一応確認のため、首を回す。
「油なんて売っちゃって、どうしたの?」
「…別に油売ってるつもりはねえぞぉ」
「何言ってるの。皆大忙しじゃない。ミルフィオーレのお蔭でね」
 それでも楽しいのだとその態度でルッスーリアは示した。鮮やかな色をしたモヒカンがふわりと揺れる。犬はスクアーロの膝から手をおろし、大人しくその脇に伏せた。
「あら。私には媚を売ってくれないわけね。なんて犬」
「なんても何も…てめぇは世話の一つもしてねぇだろうがぁ」
「ボスもしてないわよ」
「あいつはボスだからじゃねえかぁ?リーダー、か」
 言われてみれば、とスクアーロはXANXUSがスィーリオの世話をしているところなど欠片も見たことがなかったことを思い出す。突飛な思い付きで犬小屋を作っていたことは記憶していたが、それ以外の世話を彼がしていたことを思い出せない。実際していないのだろうとスクアーロは思う。躾ばかりは、あの威圧感と眼光で黙らせてきたようだが、東眞の献身的なそれが大半ではなかろうか。
 また大きく欠伸をした犬を下に向けた視線で捉え、スクアーロは軽く息を吐いた。犬の耳がそれを捉えたためか小さく振れたが、スクアーロは既に顔を上げた後だった。ルッスーリアはスクアーロの反対側にあった椅子を引き寄せ、足を組み座る。飾った足元が滑らかなラインを描いた。
「家族会議かしらねぇ。東眞をどうするのかしら?ボス」
「…どうするもこうするも、そりゃ一つしかねえだろぉ。足手纏いだ」
 正論を述べたが、どうにもしっくりこない。納得がいかないわけではなく、ただ、腹の底に気持ちの悪いものがたまった感覚を覚え、スクアーロは閉口した。かつ、とルッスーリアの彩られた爪先が机を叩く。叩いたところで何が出るわけでもないが、その音は高く上の天井に当たって鈍く反響した。
「まあ」
 そうね。ルッスーリアは全面的にスクアーロの言葉を肯定した。むしろそれ以外の答えなど存在しないという返答である。
「足手纏いにしかならないわね。守りながら戦うなんて、そんなことは不可能だし。何より、私達も東眞本人もそれを望まないでしょうねえ。それとも、何?スクアーロ」
 不機嫌な顔をして、とリップを強調してルッスーリアは問う。不機嫌などではないと言い返そうと思ったが、腹に澱んでいる不愉快な感情は確かにあるわけだから、スクアーロは口をへの字に曲げた。
「守りながら戦うの?ボスの大切なものは全部自分が守るとでも、言うの?」
「…俺が、そういう人間に見えるかぁ?」
「見えないわね。あんたが忠誠を誓っているのはあくまでもボスであって、東眞でもJr.でもないもの」
 肘をつけば膝まで伸びる銀髪の隙間から瞳だけ泳がせ、スクアーロはルッスーリアのサングラスを見つめた。その奥は、色が濃いために見ることはかなわない。
 答えることさえ馬鹿馬鹿しい質問であったそれを律儀に答えたルッスーリアは、スクアーロの視線から顔を背け、誰もいない扉へと目をやる。さこは先程子供が二人、出て行った場所であった。
「積極的に殺したくないなら、私達から離すのが得策よ。私達が生み出すものは常に死であって、他の何物でもない。その死の上にボンゴレは安寧を作り出す。ボスは、東眞を暫く避難させるつもりだと、思うんだけれど」
「尤も、俺達には関係のねえ話だがなぁ」
 ゆっくりとスクアーロは下ろしていた腰を上げ、剣を添えつける方の腕を撫でた。伏せていた犬が顔を上げ、スクアーロを窺い見る。振られていた尻尾は力なく床に垂れた。気のせいではなく、犬の顔には緊張が走っている。
 男は凶悪に笑っていた。
 どこまで行っても自分はこういう生き物なのだとスクアーロは再認識する。そして、この部屋にいるもう一人の人間もどうしようもなくそれである。殺人が好きなわけではない。純粋に命の駆け合いが好きなのである。張りつめられた糸の上で綱渡りをするあの感覚が、堪らない。そして、その場を惜しみなく提供してくれるこの場にどうしようもない愛着がある。ミルフィオーレとの戦いも心の底から楽しめそうな気も、する。
 戦いが待っている。死の戦場が大きな口を開けて自分を誘っている。飛びこまない馬鹿はここにはいない。
「ルッスーリア」
「どうしたの、スクアーロ。随分と楽しそうに見えるわ」
「楽しくない馬鹿がいるか?この状況を喜ばない奴は、いるか?」
「いないわねぇ」
 私もそうだもの、とルッスーリアも立ち上がって、体を大きく伸ばす。柔らかで伸縮のある筋肉が、嬉しそうな声を上げた。
 誰もいない扉をくぐり、スクアーロは思う。しかし彼女はこの戦いを楽しむようなことはないだろうと。ただ待つばかりである女は大人しく待つだろう。ただ、待つだろう。そしてやはり待っている間は、辛いのだろうと思う。無事に帰れと望んだところで、それが叶うかどうかは分からない。XANXUSならばとそういう過信もあるが、現実とは常に残酷な結果を生み出す可能性を孕んでいる。待つばかりはおそらく苦しいばかりではないだろうか。息がつまり、窒息しそうになるのではないだろうか。それに何年も耐えてきたあの女は強い。
 変わらず、待つのだろう。一人になっても。一人だからこそ。
 スクアーロは腕に剣を添えつけた。重たく冷たい感覚が腕をズシリと引っ張る。しかし、それは言葉にしようもない高揚感を与えた。XANXUSも、おそらく彼もそうだろう。スクアーロはそんな男を待つ女ははたして幸せなのかとちらりと思ったが、どうにも下らない考えであるとそれを振り切った。その問いは自分たちに戦いは嫌いかと聞く程の愚問である。女は、幸せだ。そうでなければ、あのように笑うまい。
 鉄錆と銃声、殺し合いの臭いに誘われるようにしてスクアーロは扉を後ろ手に閉めた。

 

 革張りの椅子は体を大人しく受け止める。
 東眞は重厚な家具、柔らかな絨毯と装飾の施された天井で埋められている一室に大人しく座っていた。その対面には、夫である男が高級な机に乱暴に足を乗せ、体を寛がせている。腹の上で組んだ手には指輪が二つ、嵌められていた。
「痩せたか」
 ぼつ、とXANXUSは女を視界に入れずにそう問うた。視線は腹の上で組んでいる指先へと注がれている。その質問に、女はいいえと答えた。
「そんなに。痩せたように見えますか?」
 返事はなかった。東眞は苦笑を零し、大丈夫ですよとXANXUSに柔らかく声を掛ける。
「シャルカーンの治療で随分良くなりました。確かに、出産前と比べれば疲れはたまりやすいですが、年を取れば人間そうなるものです。そう思えば、普通でしょう?それに私、幸せですよ。今までも、今も、とても。貴方と出会えた日から、ずっと」
「…分かってんだろうな」
「分かっていますよ」
「なら、いい」
 肝心な部分をXANXUSは言葉にしなかったが、妻がそれを理解することを知っていて、敢えて口にしなかった。穏やかに微笑む女は、出会った当時と比べれば、顔色は優れないものの、一時期に比べれば随分と良くなったように記憶していた。賑やかにはしゃぐ子供を傍に、倒れるわけにはいかないといった心持ちも多少手伝っているのではないかと、XANXUSは踏んでいる。
 机一つ挟んだその先の体に、XANXUSは触れようとしなかった。普段であれば、どこか必ず触れ合うように座っていたが、東眞はその動作にああとどこか一つ、遠いところで納得した。
「待って、いますよ」
「知ってる」
「貴方の帰りを、待っていますから。ちゃんと。XANXUSさん」
「…知っている」
 腹で組んだ指先が僅かに動いたが、それが解されることはなかった。
 赤い瞳が一度瞬きするとほぼ同時に、バッビーノ、と子供が二人、叫んだのは一人だが、部屋に扉を押して入ってきた。ノックはどうしたとばかりに、XANXUSは睨みを利かせたが、子供二人の興味の対象は既に母親へと移っていた。マンマ!とセオはきらきらと目を輝かせ、ラヴィーナも嬉しそうに養母に駆け寄り、その膝へするりと上がる。セオは一瞬悔しそうに唇を尖らせたが、そこはぐっと堪え、大人しく母の隣に席を陣取った。東眞はそれに穏やかに微笑み、両の手で我が子を撫でた。それに気持ちよさそうに目を細める。ラヴィーナは髪の毛で一切顔の表情は見えなかったものの、体を嬉しそうに揺らして表現した。
 そんな家族団欒の光景の中、セオの頭が後方へと仰け反る。見事直撃したのは万年筆であった。幸か不幸かインクが漏れることはなく、赤い血ならぬ黒い血を滴らせる羽目にはならなかった。
 それでも十分に万年筆の攻撃は痛かったようで、セオは額を押さえて、仰け反った姿勢から体を句の字に曲げ、言葉にならない苦痛を零す。微かな呻き声も聞こえ、東眞はちらとXANXUSに非難の視線を送ったが、本人はどこ吹く風で飄々としている。
「…って…ばっび、ぃの」
「うるせぇ。遅ぇ」
「遅いことないよ!スクアーロから伝言聞いて、すぐに来たんだから!」
「るせぇ!口答えすんな!」
「っお、わ」
 怒号と共に放たれた銃弾を間一髪で避け、セオは焼け千切れた一本の髪の行方を目で追って体を震わせた。無駄な口答えは、ただでさえ機嫌の悪い父親の怒りを上げることを理解し、大人しく座った。背中のソファには銃弾がめり込んでいたが、そっと腰を下ろす。何も、言うまい。
 セオが席に膝を揃えて座ったのを確認し、XANXUSは肝心の話に入る。
「東眞、CEDEFに護衛をさせる。一時避難しろ。沢田の女達と合流しろ」
「そんな!」
 声を上げたのは、出された名前の人物ではなく、その息子の方だった。座った矢先に立ち上がり、父親を見下ろす。
「バッビーノ、ここは安全だよ。俺達もいるし」
「座れ」
「だって、マンマがいないと」
「座れ」
「外は、危ないよ」
「聞こえなかったか。座れ」
「バッビ」
「座れ」
 銃こそ向けないものの、その威圧感に負け、セオはしずしずと元の位置に腰かけた。ちらりと母を窺い、その手を不安げに握る。ごそりと、膝の上の存在が奥に腰かけたのに東眞は気付き、小さい笑みを零した。
 子供の様子を無視してXANXUSは話を続ける。
「ガキとチビは前線に駆り出す。準備はしておけ」
「はぁ、」
 い、と言いかけた言葉は喉元で止まった。セオはごくりと唾を飲み込み、迂闊な返事をしたことを後悔した。銃口は既に煙を吐き、セオの右側ぎりぎりの位置には銃弾がめり込んでいた。じり、と布が焼けている。
 いやでも、父親が怒っていることが理解できた。
「油断しろ、と、俺はてめぇに教えたか?」
「No, babbino…」
 ごめんなさいとセオは頭を下げる。それでも母親がいなくなることに対しては完全に納得していないようで、口先は軽く尖らせたままであった。
 握られる手への力が強くなり、東眞は苦く笑んだ。大丈夫だと確信できる程安定した状況でもなく、不安要素は多々ある。しょげた、下げられた小さな頭の上に乗せた手で落ち着かせるように軽く叩く。
「私は、貴方達の方が心配です」
「だい、大丈夫!俺達は大丈夫だよ、マンマ。ラヴィーナは俺が守るし、それにそれに、負けないから。マンマ、心配しないで。大丈夫だからね」
「本当ですか?」
「うん。約束する!えぇと、日本ではこうするんだったっけ」
 そう言って、セオは小指を母へと差し出し、小指同士をくると絡める。それに、ラヴィーナも不思議そうに首を傾げ、自分もと小指をそこに絡めて増やした。
 セオは緩やかに歌う。ゆーびきーりげんまん。
「うーそつーいたーらはーりせんぼんのーます、ゆび、きった!」
 セオの歌にラヴィーナは慌てて小指を解き、クロッキーを取り出すや否や、ざかざかと文字を書いてセオと東眞に提示した。本当に指を切るのか、針を飲ませるのかの旨が単純な言葉で書かれており、それに東眞とセオは吹き出す。ラヴィーナは二人が何を楽しそうに笑っているのかに分からず、ただただ首を傾げるばかりである。
 東眞はラヴィーナの頬に手の甲を添え、愛おしげに撫でる。髪越しではあったが、その小さな頬は不思議そうな口元で絞られていた。
「本当に、飲ませたりはしませんよ」
 殴りもしません、と東眞は頬から頭へと手を移動させ、ラヴィーナの頭をくしゃりと混ぜた。長い髪故にそれで顔が見えることはなかったが、ラヴィーナは手がのけられた頭に嬉しげに自身の小さな両手を撫で、体を揺らし喜びを表現した。彼女はひょっとしたら、誰よりも表現豊かなのかもしれないと東眞は思いつつ、目を細める。
 口を挟まなかったXANXUSは変わらず不機嫌そうに眉間の間に皺を寄せ、口を噤んでいた。母との離別を嫌がる子供に多少の理不尽を強いている認識はあるようで、寄せられた皺は、深い。しかしそれでもXANXUSの見解が変更することはなかった。
「今日の夜に迎えが来る」
「必要最低限でいいでしょうか」
「生活に必要なものは向こうが取り揃えてある。身一つで十分だ」
「分かりました。準備をしておきます」
「そうしろ」
 マンマ、とセオの指が東眞の手にかかったまま、縋るような視線が向けられる。東眞はセオに頬を合わせ、すぐですよと安心させるようにそう囁いた。そして、ラヴィーナを膝から降ろして立ち上がる。
 準備をしようと扉に手を掛けた時、おいと背中から声がかかり、東眞は振り返った。
「どうされましたか」
 赤い、宝石をそのまま埋め込んだかのような瞳が黒髪の隙間から覗いていた。妻は夫の言葉を待つ。顔に残る傷痕が口の動きに合わせて歪む。
「何でもねぇ」
 喉まで出かかった言葉をXANXUSは咀嚼し飲み込んだ。
 この選択が最善であることをXANXUSは誰よりも承知だった。邪魔になれば、それこそ見殺しにしかねない状況に陥る。そうならないよう、自分たちは常に先手を打っていく。守りたいものと、守れるものは常時一致するわけではない。障害になれば、容赦なく引き金を引く必要も出てくる。
 そうですか。そう、短い言葉が返され、まるで自分の心を読んだかのように女は笑み、失礼しますと一言落として扉を閉じた。子供二人と取り残された父親は机の上で乱暴に組んでいた足を反対側に組み直し、母が出て行った扉を名残惜しげに眺めている子供の注意を戻すために、音を大きめに立てた。
「ガキ共」
 低く唸るような声に、セオとラヴィーナは背筋を伸ばした。

 

 部屋に戻り、東眞は最低限の、常に身に着けてある拳銃の整備を行った。いざという時に弾丸が出てこなければ意味がない。予備弾倉を二つほど詰める。一度完全に分解した後、丁寧に組み立てていく。
 指先のその冷たい感覚を覚えながら、東眞は昔を思い出す。ミルフィオーレが台頭し始めて、長らく連絡は取っていないが、彼らは無事だろうかと最後のピースを嵌め負え、銃を構える。弾丸は装填していないので、引き金を引いても弾が発射されることはないが、かちん、と引き金を引き終えた銃は、問題ない音がした。念のために、後で装填してから下の練習場で撃たせてもらうことにしようと、東眞は銃をホルスターにしまう。
 桧はボンゴレと完全な共闘態勢はとっていないものの、どちらかといえば、ボンゴレに近い位置にいる。凶報が届いていないということは、心配する必要もないのだろうがと携帯電話に視線を走らせる。メールの着信を報せないそれは、大人しく机の上に収まっている。銃の使い方を自分に教えたのは哲であり、彼の料理の腕も最後のメールでは相変わらずのようで、進展はない様子だった。
 窓の外へと視線を移せば、どんよりと重たい雲が広がっている。雨が今にも振りそうなほどに、雲は暗く、雨粒を大量に抱え込んでいるように東眞には見えた。
 部屋の外はどこか慌ただしく、ぎりぎりに張りつめられたような糸がそこここに張られており、隊内の雰囲気はぴりりとしている。マーモンが殺されてからは特にだろうか。東眞は射撃場に向かうために携帯をポケットに押し込んでから扉を開ける。押し開けた先に立っていたのは、褐色の肌を持つ男だった。頭の模様は以前見たときとまた違っていた。オヤ。男は常に三日月を描いている口でそう発生する。
「奇遇デスネ。体ノ調子はどうですカ?」
「すこぶる。問題ありません、シャルカーン」
「コレカラ忙しくナリマスからネ。当然ワタシも駆り出されまス。意味ハ、分かりまスカ?」
「ええ、よく。その時はその時です」
 長い袖が東眞の答えに満足げに揺れた。彼が最優先すべきは東眞ではないことを、シャルカーンは暗黙の内に告げた。
「ワタシも死ぬかもシレマセン。ラジュハ居ますガ、ワタシ程の腕デハナイことを、承知しておイてクダサイ」
「人は、いつか死ぬものです。遅かれ早かれ。いつかは」
「アナタが苦しんで死なないヨウ、祈っていまスヨ。イエ、祈っテテくだサイ」
 不敵な、常に男の顔に張り付いた仮面のように浮かべられている笑みは変わらずそこにある。シャルカーンが死ねば、自分もそう長くはないことを、東眞はよく知っている。彼の手によって生かされているようなこの体は、すでにポンコツである。
 シャルカーンの長い袖と、裾が揺れる。裾から伸びている二つの黒いブーツを履いた足が動き、床を柔らかに蹴る。
「腹部への衝撃ハ、特ニ」
「先生」
 東眞の呼称にシャルカーンは擽ったそうに笑う。今から人を大量に殺そうという時に、言われる「先生」は意味が違う。クスクスと袖先で口元を覆い隠し、シャルカーンはナンデスカと問うた。
「御無事で」
 それが、彼女の命を長らえさせるための一言なのか、それとも単に己を案じての一言なのかは、シャルカーンには区別のつけようもなかったが、糸のように細い目で女の表情を捉え、努力シマスと笑った。
「アナタモ」
「はい」
 デハデハとシャルカーンは足取り軽くその場を後にする。東眞は踊る洋服を眺めながら、反対方向にある射撃場へと歩き始める。
 あらゆるものは転がり始め、止まるには坂が終わるか、あるいは転がるものが壊れるかしかない。廊下では騒がしく黒服の男たちが走り回っている。幕は引かれたのである。東眞は銃の重さを再確認し、目を閉じた。