27:自覚と覚悟 - 8/10

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 閉ざされた一室で東眞はセオに乳をやっていた。目が覚めた後、腹をすかしているのかぐずり始めたので、ああ成程と今に至る。
 ちゅ、と皮膚に吸いつく感触と命の源を一生懸命に吸う可愛い子。たった一人の、子。それをあの人は自分が最も愛する人はいらないと言った。それが悲しい。大切にしてくれるのも愛してくれるのも、痛いほどに分かった。分かっていたからあの言葉は胸をぐっさりと貫いた。
 でも、と東眞は振り返りながら考える。XANXUSは決して「セオ」を要らないと思っているわけではないと。口から飛び出した言葉は、あれはきっとそうとした表現できなかった結果なのだろうと。他に表現を知らないからである。
 XANXUSはもとより、そういった言葉の表現には欠ける一面を持つ。それを東眞は知っていたし、知っていたから、少ない言葉を汲んでいた。だが今回はそれをしなかった。できなかった。がたがたに崩れた精神状態で、言葉の表面の意味だけを救い取ってしまった。
 満足したのか、乳首から口を離したセオの背中を数回たたいてげっぷをさせる。服を直すとセオはことんと東眞の胸の、心臓のあたりに頭を乗せた。心音が心地よいらしい。
 今更いくら謝罪の言葉を並べたところで、XANXUSに伝わるとは東眞も思っていない。それに、まだ会いたくない。自分がしでかしたことの大きさに足が竦んでいる。怒るのも尤もだ、と唇を軽く噛みしめた。
「自分勝手」
 本当に、と東眞は項垂れる。心底自分が嫌になる。
 命をかけている、という事にいつの間にか目が行ってXANXUSの気持ちを少しも考えなかった。振り返れば妊娠中もいつも自分の体を気にかけてくれていた。それはまぁ、時にいきすぎなこともあったが。初めて触れる出来事に彼は彼なりに一生懸命模索して苦労して、それで一つずつそれを自分に与えてくれていたのだ。
 それを、自分は「死」という事実をひた隠しにしていた。絶対に生きていると決めて。言われてみれば、生きている確証などなかった。死なないと決めても、時に死というのは容赦なく人の命を奪い取る。無情に非情に。どれだけ本人が生を願っても。
 父も母も、自分をおいて死にたいとは思わなかったに違いない。それでも死は人に等しい。だから奪われた。
 心臓を銃で撃てば人は死ぬし、出血が多くても人は死ぬ。死はあまりにも簡単にやってくる。それを、忘れていた。そして、彼は誰よりも人の生のちっぽけさを知る場所に立っている。そして死の容易さも。だからこそ、怒った。
 泣いて頼んでも、叶うはずのないことを知っているのだろう。散っていく小さな命を大きな命を。消した命の数だけ、その人の命の儚さを数えて消す。
 修矢も、自分の弟も同じ存在である。だからこそ彼らは人の命を知っている。殺すからこそ知っている。奪うからこそ知っている。
 この腕の中の命の小ささも、知っているのだろう。一番初めに抱くのを躊躇ったのだから。あまりに小さい命に。
 東眞はセオの背を撫でながら、その柔らかな瞼が下に落ちていくのを見下ろす。
 死なないことこそが、何もできない自分ができることだと思っていた。だが、それを一度自分は放棄した。勿論死ぬつもりなど毛頭なかったが、それでもそれを一度は享受した。死と隣り合わせになることを受け入れた。
 それはXANXUSからすれば、東眞が死を受け入れたも同義である。隣にいる死神はいつでも簡単に手の鎌を振りかざす。
「―――――――ごめん、なさい」
 その後に呟いた名前はかすれて消えた。
 頬をほたほたと涙が伝って、腕の中の白くてやわらかな頬に落ちた。それに気付いたのか、小さな手が上に持ち上がる。紅葉のような指先が東眞の頬に触れて、涙を指先に含ませる。慰めているつもりはないのだろうが、そうともとれる。
「ありがとうございます」
 セオ、と東眞はその小さな体を抱き締める。愛しい我が子を抱き締める。涙をぐいと袖で拭って、東眞は笑う。無理矢理ではなく、心から、ただ愛しいと思う気持ちを乗せて。
「ありがとう、ございます」
 繰り返した言葉を、一番に告げたい人がいる。
 誰よりも愛して、誰よりも大切で、誰よりも恋しい人。自分を見つけてくれて、自分に手を差し伸べてくれて、自分を抱き締めてくれて、自分を支えた人。
 目尻に涙がまたたまる。声か震える。愛しい人の名前を口の中だけで繰り返す。そして、ようやく空気を震わせる音になった時、その繰り返した分だけ、東眞の想いが名前に乗った。
「――――――――――XAN、XUSさん」
 会いたい。見たい。抱きしめて欲しい。抱きしめたい。声を聞きたい。話したい。触れたい。触れられたい。
「あなたに、」
 謝りたい。
 ほと、と落ちた涙は腕の中にいたセオの瞼に落ちた。

 

 時間がたって、少し冷えた頭でXANXUSはテキーラを飲みながら思考する。冷やされたアルコールが喉を通り胃に落ちて、それは肝臓で分解されて体の外に排出される。
 何も、自分が間違ったことを言ったわけではない。腹が立ったのは紛れもない事実である。「死」は誰しにもただ一つ平等な事柄だ。その前ではどんな屈強な意志も薄弱な意志も全てが同等となる。だから、それの目の前に自分から進んで立ったのが、忌々しい。自分という存在を忘れてその前に立ったという事実が憎い。
 子供を取り立てて欲しいと願ったことはない。口に出したこともない。一度そういう話になった時は、授かりものだという話にした。なのに、何故そこまで彼女が、女という生き物が子供という存在に固執するのか分からない。自分の母親然り。
 確かに産まれた子は、まぁ、可愛いだろう。小さくてまるくて、ともすれば壊してしまいそうだが、自分という父親を求めてくるのは、愛しい(かもしれない)いまだそのあたりの感情の整理はついていないが、あの子供が自分の子供であるという事実認識はある。だが固執はしていない。だから、子供が欲しいならば別に養子でも構わない(当然子供には最初にそのことは教えておくし、周囲にも知らせておく)そうなのだから、命をかけてまで、死と隣り合わせにまでなって自分の子を産む必要などどこにもありはしなかった。
 自分に相談の一つもせず。
 かちんとグラスの中の氷が鳴って、その形を崩す。グラスの底の方にテキーラが漂っていた。
 相談されれば、当然答えは堕胎だったろうし、それ以外の選択肢はない。泣いても何を言われても、自分は子供よりも彼女を取っただろう。言ったように、子供はいるならいるで愛しいが、いないならいないで構わないのだ。子供がいないことを非難するカスがいれば黙らせればいいだけの話。そもそも子供がいないことで彼女の価値が、意味が落ちるわけでもない。
 ただ自分のそばにいればいいのである。側にいて、笑ってさえいればいい。そこに、在ればいい。それだけだ。それだけを望んで、隣に据えた。他に理由など、一切ない。
 XANXUSは東眞に叩かれた頬に手を添える。もうそこの赤らみは既に引いているものの、その感触は残っている。
 らしくもなく、あんな遅いビンタを受けてしまった。受けたというよりも動きが止まったところに叩きこまれただけなのだが。瞳に押された。あんなにまっすぐ、ただ純粋な怒りだけを叩きつけられる事自体が滅多にないので、戸惑った。
 悪いことを言った記憶は、ない。要らないからいらないと言っただけで、他意はない。別に産まれた子供をどうこうしようというわけでもなし。嫌うわけでもない。産まれた命は大切に扱うし、愛しいと思っている。だから殺すつもりなどない。ただ、もし死んだらという仮定で話しただけだ。
 なのに、怒った。言葉の表層しか掬い取らず、勝手に怒って逃げ出した。
 自分の側から消えさるなどと、許しはしない。自由など与えない。彼女の空は、ただ一つ、自分だけなのだから。今までそれでいいと言ってきたし、体を預けてきた。今更、何故逃げる。
 そういえば、とふと数か月前のことを思い出す。
 自分の腕のすぐそばで泣いていたことがあった。セオが夜泣きをしてぐずっていたころに、泣いていた。思い返せば、あれは育児疲れで泣いていたのではなかったということなのだろうか。あの時から、否、産まれたその瞬間、妊娠が分かったその時点から、自分にこの事実をひた隠しにしてきたということなのだろう。
 泣くほど、であれば話せばよかったのにと思う。勿論、腹は立てたが。だが、一人で苦しんでずたぼろになる前に、助けてと一言言えば、助けてやった。話くらい、聞いてやった。あんなに泣いて傷ついて、そこまでして自分に負担をかけなかった事実が許せない。信用、されていないのかと思えば、憎い。
 もっと自分に縋ってもいいのに。あんなところで一人蹲っていないで、胸の中で泣けばいいのにと。
 胸の一つ貸せない度量の狭い男だと思われていることなのだろうか。そう、ならば今まで自分が彼女のためにかけた時間は一体何だったのだろうか。
 無性に腹が立って、半分ほど中身の残っていたグラスを壁に叩きつけた。叩きつけられた固いグラスは固い壁にぶつかってあっさりと割れて、中身を壁にぶちまけて床に破片を撒き散らした。
 その時、机の上に無造作に置いていた無線機から、耳障りな声が響く。
『う゛お゛お゛おぉい!ボス!』
 声だけを聞いて返事をしない。相手もそれは承知なのか、無視をして話を進める。
『足で行ける範囲を探したが、猫の子一匹見つかりゃしねぇ。ルッスーリアとベルの方も同じだぁ…そっちに戻ってきてねぇかぁ』
 戻ってきているわけもない。そこまで、馬鹿な女ではない。戻ってこれば殺されるような状況を自分で作り上げた、その場に戻ってくるなんてことはあり得ない。だからこうやって探している。
 無言の返答を肯定と取ったのか、スクアーロは話をゆっくりと続ける。
『もうこの時間帯だぁ、子供一人と女一人で出歩く時間でもねぇ。…ボンゴレに敵意を持ってる奴等はごまんといる。あまり考えたくもねぇが、こうも探して見つからねぇとなると、最悪の事態を考えといた方が…いいんじゃねぇか』
 スクアーロの言いたいことは、XANXUSにも理解できた。
 敵対ファミリーが相手を侮辱するために効率的として取る、もっとも多い手段と言えば、そのファミリーの女を奪い強姦することだ。ボンゴレということでわざわざ踏みつぶされにくる馬鹿もそうそうはいないが、全くいないとも言い切れない。地位が高ければ高い程その危険性は、当然、増す。
 XANXUSは同じ言葉を繰り返した。
「探せ」
『街中探してもいやしねぇんだ。あいつ金は持ってねぇだろぉ。ならどっかの橋の下や駅のホーム、公園、探せるとこ探したがいねぇ。こうなったら、誰かが匿ってるか、誰かが連れ去ったか、そう考えるのがまともだぁ。かといって、一軒一軒扉叩いて探すこともできねぇ』
「――――――あいつに手を出すカスは殺せ。体を簡単に許す女じゃねぇ。探せ。草の根分けてでも見つけろ」
『…Si』
 スクアーロは二つ返事をして通信を切った。
 どこにいても銃だけは常に携帯しているので、相手が油断さえしていればそう簡単に手を出せることもない。少なくとも、東眞は自分の妻であることを自覚はしている。自覚はしていても、その役割についての認識が足りなかったわけだが。
 グラスが割れてしまったので、瓶を逆さにしてアルコールを摂取する。
『ボス』
 ぷつ、と今度は別の声が通信機に入った。地下室の、引きこもりパソコンおたく。XANXUSは返事をせずに言葉の続きを待つ。そうすれば、ジャンはあっさりとその続きを口にした。
『僕が探そうか。一日あれば探し出せるけど』
「引きこもってるカスに何ができる」
 XANXUSは馬鹿らしいとばかりにそう吐き捨てる。それにジャンは軽い口調で心外だ、と返した。通信機は一切の雑音なくその声をXANXUSの耳に届けた。
『僕にはニコラがいる。奥さんが現時点での時間での行動範囲、電車自転車車徒歩、それら全てでの範囲を割りだす。それからその範囲内の監視カメラを全てハックする。そのカメラ情報から彼女の場所を割り出すことが可能になる。このご時世、カメラに映らない生活なんて不可能だからね。どこをどう通ったかまでの割り出しは不可能だけど、どこにいるかまでは絞り込める。それに彼女にはボスの息子がいる。少なくともかくまわれている場合は誰かにその子のオムツなどを買ってきてもらわなくちゃいけないわけだ。 店情報も全部潜り込んで、さらにどこにいるかの確立も挙げられる。ボス、命令一つあれば、僕は動く』
 どうすると答えを聞くまでもなく、XANXUSは冷たく言った。
「半日だ。探せ」
『O.K.ボス。まぁ、半日で頑張ってみよう』
 ぷつんと通信は切れた。

 

 うぅん、と機械的な画面が大量に並ぶその真ん中に座る男が一人。こきりと指を鳴らして、キーボードの上にそれを乗せて笑う。眼鏡には目の前の愛しのパソコンがそのまま映し出されていた。
「さぁ、僕の愛しのニコラ――――――――」
 エンターキーが音を立てて叩きならされる。ジャンはうっすらとその口元に笑みを含ませた。
「鼠探しの始まりだ」
 ずらりと一気に並んだ理解不能な言語に、ジャンは笑ってキーボードを叩いた。