27:自覚と覚悟 - 7/10

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 車が停車して、一軒のアパートの前で止まった。小ぢんまりとしたアパートの一室に東眞は通されて、その少しばかり古ぼけたソファに座るように言われる。走りすぎたせいか震える足で東眞はそのソファに腰を落ち着けて、そこでようやく息をつく。
 シルヴィオは息をついた東眞の前に麦茶を差し出した。
「まぁ飲め」
「…どうも」
 有難う御座います、と返事をしつつ、他に行くあてもなかったのでついてきてしまったあたり、随分とせっぱつまっていたのかもしれないと東眞は振り返る。しかしながら、あの状況で頼れる人はシルヴィオしかいなかったし、東眞は結局それに従った。
 胃に優しい程度に温められた麦茶を喉に通せば、さめざめと冷え切った体がほんの少し温まった。セオは車内の揺れに揺られて気持ち良くなったのか、すっかり眠ってしまっていた。
 東眞が麦茶を全部飲んだのを確認すると、シルヴィオは何か食べるかどうかを尋ねた。しかしそんな気分でもなく、東眞は丁重にそれを断った。
「あの」
「ん」
 目の前で暢気に新聞を広げたシルヴィオに東眞は声をかける。
 聞きたいことは山ほどある。どうしてああもタイミング良くあの場に現れたのか。何故かくまってくれているのか。いつまでここにいていいのか、などなど。
 シルヴィオは東眞の表情から読み取って、ああ成程と笑う。そして新聞から目を離して、東眞と向き合った。
「情報が欲しいのか?」
「情報、が」
「勿論ただじゃない」
 その言葉に、ああそうだったと東眞は思い出す。彼は情報屋なのだ。
 目を丸くした東眞にシルヴィオは自分の職業を思い出したことを悟り、軽く肩をすくめて示す。
 東眞を助けたのは、ただ大地の爺さんからよろしく言われているからである。そして頼まれてもいる。無論その分の対価はもらっている。結構な高値を提示したが、何しろ彼女は「あの」暗殺部隊ボスの妻であり、それと関わることは一つ間違えば死を招く。相応だ、とシルヴィオは笑ったとはいえ、大地が東眞の手助けをするようにシルヴィオに頼んでいるのは、別段特別な理由があるわけでもないだろう。
 ただの、目の前の女の半生を確実に狂わせていたその償いとでも言うべきか。彼が彼女に絡まなければ気づかなければ、彼女は恐らく今頃日本で平穏な人生を送っていただろう。裏社会とは関係のない世界で。
 あの爺さんも年老いたものだな、とシルヴィオはそんな風に思った。一昔前ならば、平然と素知らぬ顔をしていただろうに。
「どれくらい」
 東眞はゆっくりと唇を開いてシルヴィオを見つめる。それにシルヴィオはわざと悩むようなふりをして(それはばればれなのだろうが)首を傾けた。そして、口端をゆるぅりと歪めると、人差し指と親指で顎鬚をなぞる。
「そうだな、なら――――――――――暗殺部隊の情報。勿論全部なんて言いやしない。それじゃぁかなり俺の取り分が多くなる。例えば誰か一人の戦闘情報。隊内における人間関係。そんなところでいい。どれを選んで俺にくれるかは、嬢ちゃん次第だ。金を提示すると、流石に払えるとは思えないからな。確実に支払える人間にしか後払いは提示しないのがポリシー」
 どうする、と言われた東眞は首を横に振った。話してはいけないことを、東眞はもう気づいている。周りの人間は、それはXANXUSからレヴィに至るまで全員、自身の職業のことを口上に上げたりはしなかった。誰一人として。
 横に振られて、シルヴィオはなら、と話を変える。
「何があったのか聞かせてくれれば、それでも構わねーぜ?」
「、」
 それなら、と自分のことなので口を開きかけた東眞だったが、一瞬喉もとで言葉を止める。そこでふと自分の立場を思い出す。今に至った、何故自分がここにいるのか、その原因も。もう、自分が気軽に誰かに自分のことを話してはいけない人間であるかを、思い出す。自分のことは、もう自分だけのことではない。
 黙りこくった東眞にシルヴィオは話さないのか、と情報をちらつかせる。
「いいのか?」
「…いい、です。話せません」
 そんな東眞にシルヴィオはふっと眼の色を穏やかにした。そして薄い唇から言葉を漏らす。
「いい女に、なったな」
 それは過大評価ではない。彼女は確かに一皮むけた。自分の立場を分かっている人間になったのだ。以前から確かにその傾向はあったが、それは周囲の枠組みがあってこそのものだった。だが、今は違う。マフィアの妻は基本的にその情報を与えられない。話してはいいこといけないこと、それらは自分で察知しなければならないことである。ボスの妻であるということ、それが一体どういう意味を持ち、どう行動しなければいけないのかを自分で考えなければいけないのである。
 シルヴィオのぼやきに東眞は視線を下に落とした。
「ま、大体聞かないでもわかるが」
 東眞の行動にシルヴィオはそう続けた。ぱちりと目を見開いてこちらを見た東眞に、シルヴィオはくつりと笑う。
 大体あのXANXUSが彼女をただの一人で出歩かせることなど考えられないのだ。妊娠してから、一度たりとも町で東眞の顔を見た人間がいない。と、いうことは、XANXUSが外に出さなかったということである。マフィアランドに行ったという情報もあるが、それはXANXUS同伴である。
 つまり、妊娠から今の今まで一人で出歩くことのなかった女が、一人で寒そうにベンチに子供と座っている、ということはあり得ない。あり得ない、ということは今までの関係ではと言うことに繋がり、つまり二人の間に何かがあったということである。逃げ出す、程の。
「兎も角、ここには好きなだけいて構わない。そうだな、まぁ、嬢ちゃんの気持ちの整理がつくまで、ってことで」
「気持ちの整理」
 どこまで知っているのだ、と東眞の瞳が揺れたのにシルヴィオは気づいた。<それに口元を笑わせてから、ひらりと手を振る。
「そーいうことだ。結果、御曹司の手から逃げたいって思うなら力を貸すし、戻りたいなら戻ればいい。ボンゴレ情報網も結構なすごさだが、俺には劣るね。望むならば、どこにだって逃がしてやれるぜ?まぁ、あっち方もプロだから、ここが見つかったら他の場所に移ることになるが、その場合はそれでよろしく。臨機応変にな」
 まずは食いもの買っとかねーとな、とシルヴィオは立ち上がって冷蔵庫を開けるとそうぼやく。空っぽの冷蔵庫には何も入っていない。
 ふとそこで東眞はあることに気づく。
「煙草、やめられたんですか?」
 日本にいた時は始終吸っていたその姿が、今日は一本も口にしてない。東眞の問いにシルヴィオはからりと笑って、胸ポケットから煙草の箱を取り出した。だが、それはまたしまわれる。
「赤んぼがいるのに吸ったりはしねーよ。晩飯は食べられるか?リゾット辺りが無難か。オムツとかも買わねーとな」
 ミルクは母乳だろ、と言われて東眞は頷く。シルヴィオは手を伸ばして、すいと東眞の頭を撫でた。髪の毛をぐしゃりとかき混ぜて、シルヴィオは扉の方へと足を向ける。
「そいじゃ、買い出しに行ってくる」
 扉が音を立てて開けられて、閉められた。一人になった東眞は、眠ってしまっていたセオの頬をそっと、指先でなでた。

 

 そろそろ日が落ちてきていた。
 ルッスーリアは足を止めて、通信機に話しかける。
「ベールー聞こえてる?」
『聞こえてるっての』
 あらそう、とルッスーリアは隊員に指示をして探させながらも、自分も東眞の姿を探す。が、一向に見つからない。本部周辺はベルフェゴールに任せているので、そちらの情報を聞きたくて連絡した。
「見つかった?」
『見つかんねー。そんなに遠く行ってねーだろ、東眞ってこっちに知り合いいねーし』
「そうよねぇ。東眞の足なら大体この辺辺りまで何だけど」
 それが見つからないのよ、と肩をすくめる。
 足をへし折ってでも、とは言われているが、実際に東眞は抵抗するような愚かな真似はしないとルッスーリアは踏んでいる。今回逃げ出したのも流石に感情高ぶってのものであることは明白である。
 東眞にも勿論非はあるが、女性としての一面を考えれば殴られるのも当然かと思われる。何しろ産んだ子供を要らないとあっさり言われてしまったのだから。もう少しXANXUSも言葉を選んでしかるべきだったと思わざるを得ない。大切に思っているのに、どうにもすれ違う二人である。
 そういえば、とルッスーリアはふと思い出す。
「前にもこんなことあったわよねぇ。あの時もマーモン不在だったわ」
『肝心な時に役にたたねー』
「そんなこと言わないのよ。任務だし仕方ないわ」
 ベルフェゴールの言葉からマーモンを擁護しながら、ルッスーリアはぴたりと屋根の上で止まった。見つかったという報告はまだ来ない。時間がたてば戻ってくるとは思うが(逃げられるとも思わない)それを許さないのは自分たちの上司らしい。
「スクアーロやシャルカーンたちの方はどうかしらね」
『知らね。まだ見つかってねーじゃん、こっちに連絡きてねーし。つかさ、東眞戻って来んじゃね?自分で』
 尤もな答えにルッスーリアは私もそう思うわ、と返した。実際にその答えしかない。何しろ彼女は一文無しで行くあてもない。マフィアの女を匿うほど、このイタリア市民は愚かでもない。
そうなれば、東眞は結局XANXUSのもとへ戻ってくるしかないのだ。日本に帰れることもないだろうし。
 東眞のシスコンの弟の姿を思い出して、ルッスーリアはぽつりとこぼす。
「弟君怒るわよねぇ、今回のこと知ったら」
『どーでもいーし、そんなの。東眞なんでボスから逃げたわけ?』
「…大人の事情ってやつよ」
 その答えにベルフェゴールはふぅんと、興味がなさそうに返答をした。ナイフを揺らす音が通信機を通じて、ルッスーリアの耳まで届く。
『ボスも過激だよな』
「ボスはいつだって過激じゃない。過激じゃないボスなんて想像つかないわよ、私。それに私たちってそーいうものでしょ?自分の女を黙って逃がすほど甘くないわよ」
 妻ならばなおさら、といったところである。ベルフェゴールも当然そのあたりはしっかりと理解しているようで、反論する様子はない。
「殺せって言われなくて安心してるの?」
 ひょっとして、とルッスーリアは笑う。
 ベルフェゴールは東眞に随分と懐いていたようだったし、少しならばそんな感情もあるかもしれない。XANXUSの命令は絶対とはいえども、そのような個人的感情は個々に確かに存在する。
 しかしながら、ベルフェゴールはいつぞやのように違えよばーか、と返した。
『あーでも、東眞強くねーし、殺してもつまらなそーではある』
「そうよね」
『連れて帰ってどーすんだろ』
 そんな素朴な疑問にルッスーリアはさあ、と返した。閉じ込めるか和解するか殺すか、見事に三択しかないのだが。
『東眞いなくなったら、美味しい料理お預けかー。あ、本も読んでもらえねーんだ』
 それは詰まらない、とばかりにベルフェゴールはぼやく。彼は懐いていないというが、彼なりに懐いているのではないだろうかとルッスーリアはそんな風に思った。
 実際自分たちは彼女がいる生活を心地よいものとして受け入れていた。
「そうねぇ、寂しくなるわね」
 それがなくなっても、やることもすることもすべきことも変わらないが。
 ほんの少し、ルッスーリアはそんな些細な日常が戻ってきてくれることを望んでいた。彼女がもたらした日常は、異質なものではあったが、心地よいものであったことには代わりない。そんな日常が、今では一人増えて三人になっているが、戻ってくればいいのに、とルッスーリアはそんな風に思った。