27:自覚と覚悟 - 6/10

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 張られた頬を呆然とした様子で押さえていたXANXUSだったが、その手がゆっくりと下りる。周囲の者は緊張に緊張を重ねて、誰一人身動きできない状態で自分たちのボスの一挙一動に気を払っていた。髪一筋、吐息一つ漏らせば今にも殺されそうな、そんな恐怖感を根底に抱きながら。
 その赤い瞳がゆるりと動いて、一人の男を捉える。
 いつも薄い笑みを口元にたたえている男は、シャルカーン・チャノはその視線を向けられてもなお、その表情を崩すことはしなかった。唾を飲み込む動作さえも憚られるこの状況で、スクアーロたちはその光景をじっと凝視していた。
 XANXUSの腕が動いて、シャルカーンの胸倉をつかむと壁に容赦なく叩きつける。細めの体は何なく宙に浮いて、背中から激しい音を立てて痛みと共にぶつけられた。けほ、とシャルカーンの口から咳がこぼれる。
 赤い瞳が恐ろしいまでの怒りをともしたまま、胸倉をつかまれた部下の方へと向けられる。誰一人話さなかったその静寂を、地を這う様な怒りにまみれた声が切り裂いた。
「…てめぇ、知ってやがったな」
「エエ、知ってましたヨ」
 当然デス、とシャルカーンは痛みなど感じていないといった様子で平然とそう答えた。それはXANXUSの苛立ちを確実に煽り、その大きな掌にXの印が入った銃が握られると、その銃口を入れ墨の入った頭へと押し付けられた。シャルカーンはやはり口元の笑みを崩さない。爪先立ちの姿勢で、XANXUSと向かい合っていた。
「何故黙っていた」
「彼女に関してのみ、ワタシはお医者サンですカラ。ボスは医者としてのワタシに東眞サンを任せられましたカラネ」
 ひょいひょいとその大袖で隠れている手をゆらつかせてシャルカーンはXANXUSの問いに答える。さらに強く銃口が押し付けられて、シャルカーンはイタイデス、と軽く笑った。
 その細い細い目が緩やかにXANXUSを見下ろして、笑みを目元に刻み込む。
「ワタシはシルヴィオみたいな情報屋サンじゃないデス。そんな患者の情報を売るなんてクズ、医者の風上にも置けなイようなモノになり下がったりはシマセンヨ。ダカラ、ワタシは患者本人の意思がナイかぎり、その医療情報は一切洩らしマセン。デモ、ソンナワタシだかラ、ココにいるんデスケドネ」
 その返答にXANXUSは忌々しげにその胸倉を離した。シャルカーンはつま先立ちから足を全部つけて、ぱたぱたと服をはたいて直す。
「嘘じゃナイデスヨ。東眞サンが言ったこと」
 そう言ってシャルカーンは東眞が言った言葉を手短にまとめる。
「妊娠が分かった時点で彼女の体はすでにイッパイイッパイでシタ。あのまま放置しておけば子供はモウ産めない体になってたデショウ。子供を産むにしても一人が限界。出産に関しては死亡の危険性の方が高かっタデス。出産後は、月に一度治療シナイと駄目な体デスヨ。先週したばっかりデスカラ、今は平気でショウケド。マ、彼女は全テ分かっテ、子供を産むことを選びマシタ」
「てめぇのそれは情報開示じゃねぇのか、カス」
「東眞サンが話したコトデスカラ」
 コレハ、とシャルカーンは肩を軽く竦める。XANXUSは静かに言葉を切った。赤い瞳が据えられて、東眞が出て行った扉へと向く。
 そして重く、静かに、その唇から言葉がこぼれた。
「連れ戻せ」
 誰を、というのは言われなくとも、その場にいた全ての人間が分かっていた。
 低く唸るような響きと、背筋を凍らすような怒りをないまぜにした声にスクアーロたちは言葉を詰まらせる。XANXUSは冷酷に残酷に続けた。それは命令であった。
「抵抗するようならかまわねぇ」
 赤い瞳の奥底で、全てを破壊するような怒りが揺らめく。

「足の骨へし折ってでも、俺の前に引きずりだせ」

 本気で言っていた。スクアーロをはじめとした幹部はその言葉に身を震わせた。しかしながら、誰もそれに反論しようとする者はいない。ただボスである男の言葉に二つの返事を返した。Siと。
 XANXUSはその分かり切った返答に一度瞬きをする。そしてレヴィに今度は視線を移す。さしものレヴィも今回の命令には僅かな動揺が走っていたが、XANXUSに向けられた視線によって背筋を正す。
「てめぇは日本へ飛べ」
「…は?」
 言葉の意味が分からずにレヴィはきょとんと珍しく聞き返す。XANXUSは背中を向けて扉の前に立つ。
「俺の命令があり次第、あいつの親家族―――――――――――…一人残さず根絶やしろ。電撃隊を連れていけ。許可する」
 根絶やし、の一言だったが、それはそう珍しいものでもない。レヴィは首を垂れて、再度Siと告げた。ボスである男の言葉に逆らう者も逆らおうとする者も存在せず、スクアーロですらその選択はできず、XANXUSが扉の向こうに消えるのを黙って送った。
 扉が閉じられる音がやけに大きく響き、Xの男の威圧感が一気に消えてなくなる。シャルカーンはサテ、と袖をはためかせる。
「ジャ、東眞サン探しに行きマスカ」
 マーモンいないと不便ですね、とシャルカーンは溜息をつく。その溜息にスクアーロはかっと眦を吊り上げて、シャルカーンを問い詰めた。
「う゛お゛お゛おぉおい!待てぇ!」
「ナンデスカ」
 スクアーロが怒鳴る理由が分からないとばかりのシャルカーンにスクアーロは奥歯を噛みしめた。苛立ちを腹の底に隠して、スクアーロはシャルカーンに怒鳴る。
「てめぇ、知ってて東眞に産ませたのかぁ!」
 その質問にシャルカーンは面倒くさいとばかりに軽く溜息をついた。ひらりと大きな袖を眼前で合わせて、スクアーロと向き合った。
「産ませタ、なんて誤解しないでくだサイ。アクマでもあれは、東眞サンが取った選択デスヨ」
「…だが、止めることもできたはずだろうが。何故止めさせなかったぁ…ボスならなんて言うか、分かってたはずだろぉ」
「エエ、分かってましたヨ。でもだから何だと言うんデス?」
「!て、
 めぇ、と言いかけたのだが、スクアーロは一瞬シャルカーンの気配にのまれた。薄い瞳が僅かに瞳を見せて口元の笑みだけがやけに浮いているという奇妙さに、ぞわりと背筋が冷える。
 シャルカーンは静かに続けた。
「彼女はボスの妻なんデスヨ」
 いつぞや言った言葉であると、ルッスーリアはふとそれを聞いて思った。体のラインを完全に隠した東洋の服が風を飲み込む。
「彼女はボスの妻である以上、それを前提に全ての物事を考えなくてはならないデスシ、それに沿った行動を取らなくてはナラナイ。そして彼女は取るべき選択を誤っタ。ソレダケの話デスヨ」
「…だが、それを忠告するくらいのことはすべきだったんじゃねぇのかぁ」
「ドウシテ」
「どうしてってなぁ」
 てめぇ、とスクアーロは反対にわけがわからなくなって、唖然とする。
 そんなことは当然ではないのかとスクアーロから言わせればそうなのである。大体、今回のことはシャルカーンが東眞に出産をやめるようにさえ言っておけば起きなかった問題である。それを勧めた(かどうかは定かではないが)どちらにせよ、止めさせるどころか手伝ったのがどう考えてもおかしい。
 しかしシャルカーンはひらりと袖を揺らしただけだった。
「言いまシタケド、彼女はボスの妻デスヨ。ワタシたちが意見することはナイ。彼女はそれだけの責任を求められてマス。モシモ、彼女がボスの女であれば話は別でシタヨ。側女程度がワタシたちに危害を及ばすのは避けたいデスシネ。デモ、彼女は違ウ。マァ、東眞サンが子供を産む産まないというのは大した問題じゃナインデス」
「どういうことだぁ」
 シャルカーンの言葉の渦についていけずにスクアーロは怪訝そうに尋ねる。それにシャルカーンは口元の笑みを少し元に戻して、返答した。
「子供を産まないなら、それでイイデショウ。ボスもそれで納得したでしょうシネ。デモ、彼女は産む方を選択シタ。ナラバ、東眞サンがするべきことハ、それを秘密にすることではナクテ、ボスに全て話した上で説得すべきダッタンデスヨ。どんなに反対されてモ、怒りを買っテモ殺されそうになってモ、東眞サンにはボスを説得する必要があったンデス。デモ彼女はそれをしなカッタ」
 ソウデショウ、とシャルカーンは一つ息を吐く。
「ボスが怒るのも当然デス」
「…東眞が怒るのも当然じゃねぇかぁ…?命かけて産んだ餓鬼要らねえって言われたらなぁ…母親だったら怒るだろうが」
「一人ヨガリですヨ、ソレ」
 すぱんと切られてスクアーロは面食らう。シャルカーンはひどく冷静に続けた。
「ワタシは医者デスカラ、東眞サンがそう決めたのであレバ、子供が産めるように最大限の助力をシマスヨ。デモ、ボスとの関係は東眞サンの問題であり、失態デス。ワタシが関与すべきところではナイ。命をかけると言うのに、秘密にされたボス。自尊心が高いだけあっテ、余計に傷つくとワタシは思いますケドネ」
 それもそうかとスクアーロは何故だか納得させられた。エベレストよりも高いあの男の自尊心は驚くべきものである。
「ワタシもボスなら堕胎させる方法を選ブとは思いマスケド、東眞サンはワタシじゃないデス。一人で抱え込んでイイ秘密とイケナイ秘密がありマス。彼女はそれを見誤ッタ。全部自分一人でボスに相談せずに決めちゃっテ、それが命にかかわることであれば尚更、ソレハ、もう彼女ダケの問題じゃナインデスヨ」
 東眞サンは、とシャルカーンは静かに告げた。
「自分の発言と行動に責任を持たなくてはイケナインデス。自業自得、デスネ」
 残念ですケド、と告げたシャルカーンの隣をレヴィが扉を開けて出ていく。日本へ、行くために。そしてルッスーリアとベルフェゴールも命令されたことを果たしに出ていく。シャルカーンは引いていた扉にもたれかかってスクアーロを見た。ゆっくりとした様子で、あくまでも口調の可笑しさは変わらないまま、語りかける。
「ソレデ、アナタも行くんデスカ?スクアーロ」
 ボスの命令を遂行しに、の意味が潜められた言葉にスクアーロは銀色の髪を揺らした。ごつんとブーツが鳴る。勿論選ぶ答えも選べる答えも、ただ一つなのである。
 シャルカーンは押さえていた扉から手を離した。音を立てて扉が自動的に廊下と部屋を遮断していく。閉められた扉の向こう、先程まであった大勢の気配は、一つたりともなくなっていた。

 

 どれくらい走っただろうか。セオを抱えた状態で東眞は息を切らしていた。何故逃げているのか、もう分からなかった。ただ、逃げなければという思考から足は動いていた。
 いつぞやの公園のベンチにまでたどり着いていた。一つ二つ息を吐いて東眞はそこに腰掛ける。どっと疲労が体を襲った。あまりきつい運動は体に負荷をかける。いくらシャルカーンの治療が一週間前だとはいえ、無理な運動は体を破壊する。
 外はもう薄暗く、夕日が陰っていた。
 これからどうしようか、と東眞は今更ながらにそんな風に思う。飛び出してきたはいいが、財布もないし泊るところもない。まさに着の身着のままで出てきてしまった。
 誰かに頼ることもできない。誰にも頼れない。携帯電話も忘れてきた。どくどくとなる早すぎる心音に腕の中の赤子がぱちぱちと瞬きを繰り返している。
 東眞はゆっくりと微笑んで、その頬を指先でそっと撫でた。
 はたいてしまった、自分の手を眺める。とんでもなく高い破裂音が響いていた。悪いのは自分なのに、感情の方が先に動いてはたいてしまった。
 会話の途中から、自分のしてきたことの間違いに気づいていた。
 産むにせよ産まないにせよ、本当は自分はXANXUSに相談すべきだったのだと。大切に思ってくれているならば、尚更相談すべきだったのだ。それを怠った。
「…でも、」
 要らないと言われて、頭に血が上った。命をかけて産んだというのは一番の理由ではないが、我が子をそうもあっさりと要らないと言われて、怒りに頭が真っ白になった。
 この世界のことは、もううっすらと分かり始めている。連れ戻されるのだろうと東眞は腕の中の子供に目を落とした。子供を要らぬと言った人の側でこの子を育てるのだろうかと、東眞は俯いた。
 そんなことは、したくない。まだ帰りたくない。会いたくない。一緒にいたところでどちらにとってもいい結果になるとは思えない。だがそんな甘いことが許される世界ではない。けれども、戻りたくないという思いだけが募っている。愛してる。愛しているが故に戻りたくない。
 ふとぶるりと体が震えた。随分と暖かくはなったかが、それでも日が落ちる頃になると冷えてくる。
 セオが風邪をひいてはいけないと東眞は自分が纏っていた上着でセオをくるみこむ。すると余計に自分の体が冷える。くしゅんとくしゃみをして鼻を一つすすった。どこか寒さをしのげる場所を、と思って立ち上がりかけた時、その肩にスーツが掛けられる。
 ぎょっとして、東眞ははっと後ろを振り返る。だが、そこにいたのは、東眞が想像していた人物とは関係のない人間だった。
「よう、嬢ちゃん」
 そんな恰好してると風邪ひくぜ、と青緑の瞳が見下ろしていた。そして東眞は懐かしの人物の名前を呼んだ。
「田辺さん」
 呼ばれた男はにかと笑って、赤子とその母に手を差し出した。