27:自覚と覚悟 - 5/10

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「くぁ」
 けぷ、と離乳食を食べ終わったセオがげっぷを一つする。その可愛らしい姿にレヴィは感激しながら手にしていたスプーンをかちかちとかすかにふるわせていた。感激のあまりの雄叫びは流石に我慢しているようだったが。
 ベルフェゴールは腕の中からマーモンが任務に行ってしまって、つまらないとばかりにテレビの電源を切って、離乳食を食べていたセオを眺めていた。そんな光景を眺めながら、ルッスーリアは微笑ましくその様子を眺め、軽食にと作ってきたクッキーを机の上に置く。
「は、ぁーい!みんなー!ルッスーリア特製クッキーよぉ!」
 その明るい声とともに、部屋の豪壮な机の上に山に積まれた芳しい香のするクッキーの皿が置かれた。ルスーリアは二三枚を小皿に分けて、セオを抱いていて身動きの取れないレヴィに差し出す。それにレヴィはすまんな、と一つ礼を言ってから、片手でそれを受け取った。ココアとバニラのマーブルクッキーをスクアーロは指先でつまんで口に放り込む。甘く優しい味が口の中に広がった。
 全く呑気な集団になったもんだぜぇ、とスクアーロは軽く溜息をついて小さくその口元に笑みを刷いた。顎を動かせば、その分だけ甘い香りが口の中に広がっていく。
 窓の縁に肘を乗せて、小さな集まりを目にしながら、そのただ一人が加わったが故に(今では二人なのだろうか)穏やかな空間に心を落ち着ける。今頃、あのでこぼこ夫婦も楽しんでいるだろうかとスクアーロはふいと窓の外に目をやった。しかしそれは玄関先にとまった黒い車に吸い寄せられる。
 今日は誰かがここに来るなどと言う話は一切耳にしていない。誰だ、とスクアーロはその身を僅かに固くした。だが、その緊張は出てきた人間の影によってあっさりと解かれた。
「ボス?」
 ぽつりとこぼした名前に、ひょいと言葉が入り込む。
「オヤ、随分とお早いお帰りデスネ」
 そういう割には、シャルカーンの声は少しも驚いていない。むしろそれを予期していたかのような響きさえある。スクアーロやシャルカーンの言葉にルッスーリアたちも反応を示した。
 レヴィはセオを抱いたまま、ルッスーリアは小指を添えて、ベルフェゴールはクッキーを銜えて、窓の方へとよる。彼らの視界に入ってきたのは、大きな黒い影と、それからそれに引きずられるようにして車の中から引きずり出された女が一人。その場にいた全員が彼らが誰であるのか知っていたし、それにその彼らは笑顔でマフィアランドへ行ったことも知っていた。
 真逆の雰囲気にその場の空気が凍りついた。ただ一人、その様子を細い眼で眺めていた男を除いては。

 

 痛いほどに腕を掴まれて、東眞は車の中から引きずり出される。二三歩躓いて、転げかけたが足をもつれさせないようにして前に出し、どうにか踏ん張る。前へ前へと進むその大きな背中は無言で、何も語ろうとはしない。背筋をぞぁりと冷たいものが稲妻のように走った。
 XANXUSは乱暴に玄関を蹴り開けて、東眞を引きずるようにして歩く。そして東眞はそれに引きずられるようにして付いていく。涙を止めるために強くぬぐった目尻は赤くはれて、しかしそれでも溢れそうになる涙をこらえ続ける。自責の念が東眞の四肢を縛り付けた。
 怖くもなければ恐ろしくもない。ただ、悲しい。たまらなく悲しい。
 掴まれている腕のその強さを、東眞は日本で覚えていた。あの時も、こんな強さで握られた。わけがわからないままに怒り、突き放し、それでもそれは、時間をおいて解決できる問題であった。しかし、これは違う。時間をおいても子供はもう産めない。一年経っても二年経っても十年経っても―――――何年経とうとも。
 だから謝る。ごめんなさい、と。
 自分で決めてしまった。何もかもを一人で決めてしまった。決断して子供を産んだ。生きて、ここにいて、それでも――――――もう、産めない。
 東眞は一度喉を引きつらせてから、口元を掌で押さえる。どんな言葉も、今ではただ謝罪にしかならない。
 XANXUSは目の前を塞いだ扉を忌々しげに蹴破った。その先には、ひどく驚いた表情をしたルッスリーアたちが呆然とその光景を眺めていた。しかしXANXUSはそれに構うこともなく、ずかずかとブーツを鳴らして歩くと、東眞をソファに放り投げるようにして突き飛ばす。足がよたついて、東眞はソファの背に自身の背を打ちつけるようにして、座らされた。そしてXANXUSは向かいのソファに腰を下ろす。睨みつける瞳はそのままに。
 緊迫した状況の中で、誰も言葉を発することはできない。ただ、それを持ち込んだ男だけは別だった。
「こっちを向け」
 短い命令だったが、東眞は顔を上げることができない。指先が小さく震えて、固く拳を握る。視線を合わせない東眞にXANXUSは腹を立てて、側にあった机を蹴り飛ばす。机の上にあったルッスーリアのクッキーが床に散らばった。それによって発生した音にびくりと東眞の肩が震える。XANXUSは再度命令を飛ばした。
「向け」
 強い命令に奥歯を噛みしめて、東眞はゆるりと視線だけを持ち上げる。喉が小さくなった。目の前にある赤い瞳のその強さに胸が痛む。
「言うことが、あるだろうが」
 俺に、とXANXUSは強い口調のまま、強制以外の何物でもない話しかけを行う。話せと命じるよりももっとずっと強い言葉であった。東眞は唾を一つ二つと飲み込む。
 今までずっとため込んできたこと、黙ってきたこと、本当に申し訳ないと思っていること。ずっと――――――――――――言えずに、これからも秘密にしていようと思っていたこと。もうできないこと。黙っていればそれは膿になり腐敗し内側から体を殺す毒となること。
 また黙り込んだ東眞にXANXUSはもう一度机を強く蹴る。
「言え」
 苛立ちを含んだ言葉に東眞は口を開いた。喉が震えて上手く言葉が出てこない。
 何を一番最初に言えばいいのか分からない。言っても、どうしようもどうにもならないことである。お互いを苦しめるだけならば、一人で腐ったほうがずっといい。自分が大切だと思う人を苦しめることは、ない。
「言え!」
 XANXUSは机の上のクッキーがすべて落ちた皿をつかむと、それを東眞に投げつけた。
勿論それは本人に当てるつもりなどなく、足元ぎりぎりに叩きつけられただけだったが。
 外に出て、家族を見て、東眞はもう気づいていた。これからも外に出ていくのであれば、否、外出などせずともあのまぶたに焼き付いた景色は、間違いなくこれからも心を縛るだろうと。思い出すたび、XANXUSをセオを見るたびに、それが苦しみとなって牙をむくことを。笑えないことも。それでも。
「――――――――…っ!」
 首を横に振った東眞にXANXUSは銃を取り出して、その銃口を目の前の女に固定した。躊躇うことなく引き金を引けば、銃弾は銃口から飛び出して東眞の耳横をかすった。切れた髪がはらりと手の甲に落ちる。
 そしてXANXUSは三度目になる命令を下した。
「言え」
 その声は、先程二回の声とは違っていた。本人ですらどこか、苦しげな。東眞はそれに気づいた。そして首を垂れた。喉もとからせり上がってきた痛みに東眞はごめんなさい、と小さく謝った。
 舌打ちが響き、そして東眞はこぼした。とうとう、その秘密を落とした。
「もう、産めないん、です」
「あぁ?」
 全く脈絡がなく、XANXUSはその細い声を聞いて眉間に皺を寄せた。東眞は繰り返した。
「もう―――――――――XANXUSさんの、子供、が、産めないんです」
 その言葉にXANXUSの頭は一瞬だけ白く染まる。短絡的な思考回路を一瞬で巡ってはじき出された答えは、全身を怒りに縛った。音を立ててソファから立ち上がり、XANXUSは東眞の胸倉を強くつかむ。足先が軽く浮いて、東眞は呼吸を忘れた。
 赤い瞳が、底知れぬ怒りに染まっていた。
「てめぇ…っ、他に男でも作ってやがったのか…!」
 どうやら子供が産めない=他の男がいると認識してしまったようで、東眞は首を横に振る。
 そんなはずがない。自分が愛しているのも体を許すのもただ一人なのだから。
 しかし、そんな東眞の想いがXANXUSに伝わるはずなどありはしない。一旦しまった銃がXANXUSの指にかかる。それを見て、ルッスーリアとスクアーロが慌てて止めに入った。
「ボ、ボス!待って頂戴!東眞が何か言いかけてるわ!」
「話は最後まで聞いてやれぇ!」
 二人の制止を無視したXANXUSだったが、東眞を絨毯の上に放り投げた。怒りの瞳はそのままに。ルッスーリアは倒れこんだ東眞の背をさする。喉が詰まっており、東眞は数回咳をして呼吸を落ち着ける。
 そして、唇を噛んで話を続けた。喉が震えて、歯が鳴った。
「…から、だが…もう、産めな、くて」
 う、と東眞は小さく呻く。ルッスーリアがさすってくれるその手が温かく、また辛い。期待をさせて裏切って。それを黙り続けていた自分が、憎い。
「だから、も、あなたの、子ども…っ、うめ、
 ない、と言おうとしたが、その前にXANXUSの言葉が遮った。ただ一言、くだらねぇ、と。東眞はその一言に視線を上げた。もうすでに怒りが肌から溢れてはおらず、XANXUSは静かにそこに立っていた。それが、東眞には、余計に悲しかった。
「餓鬼孕ますために、てめぇをおいてるわけじゃねぇ。餓鬼なんざ、一人いれば十分だ」
 その言葉にレヴィは感激の涙を流し、ベルフェゴールはかっきーと賞賛を送る。スクアーロは小さく笑って、ルッスーリアもぽんと東眞の背を大丈夫と叩いた。XANXUSは一度視線をそらしてから、ぶっきらぼうに続ける。
「俺が欲しいのは餓鬼じゃねぇ。そんなくだらねぇことで、悩んでやがったのか」
 そうXANXUSは言った。全くくだらない、とXANXUSは肩の力を抜いた。怒ったのが馬鹿みたいだった。だがしかし、XANXUSの目が捉えたのは、安心した東眞の瞳ではなかった。やはり悲しげな、そんな目。今の答えは違うのか、とXANXUSは怪訝そうに眉を寄せる。周囲の緊迫はとけて、人の気配が動き始める。その中で、東眞の時間だけが止まっていた。震える唇が、言葉を紡ぐ。それに、溶けた空気がもう一度張り詰めた。
「――――――――黙って、たん、です」
「あ?」
 東眞は喉を震わせた。それにXANXUSはよくわからないまま、母音を一つ返す。
「セオを、産んだら、子供が、産めなくなること、わかって、た、んです」
 どういうことだ、とXANXUSは思考を止める。東眞はうつむいて自身の腹を押さえた。そして黙っていたことを、口から一つ二つとこぼした。
「から、っだ、が、分かった時点で、駄目に、なるって、」
 だがそれらは一切脈絡がなく、XANXUSは東眞が何を言っているのかよく分からない。東眞を支えていたルッスーリアが言葉の端々をつないで、東眞の言葉を分かるように言い直した。
「…つまり、その、Jrの妊娠が分かった時点で、産むと子供が産めなくなるってわかってたってこと?」
 かしら、と続けた言葉にXANXUSは余計に分からなくなった。
 XANXUSは東眞が未だそこまで悲しむ理由が分からない。子供は別にそこまでして欲しいとは思わない。彼女が生きているならば、生きて側にいるならば、それで構わないのだから。
「だから、どうした。餓鬼なんざ別に、」
 その言葉が痛かった。東眞の胸や体に容赦なく突き刺さった。自分を大切に思ってくれているその言葉こそが、辛い。そうやって想ってくれていたのに、気付けなかった。
 だから謝る。今気づいた。
 黙っていたのには理由がある。XANXUSの言葉が東眞にはひどく遠かった。
「二人も三人も欲しかねぇ。言っただろうが、餓鬼産ますためにてめぇをおいてんじゃねぇよ。餓鬼なんざ産まなくてもかまわねぇから…くそ」
 言葉を選びながら、XANXUSは東眞にそう告げる。最終的には気恥しくなったのか、言葉を濁す。東眞は喉が潰れそうになった。
 そして、してきた選択と自分の行動の間違いに―――――――――気付いた。
「ちが、です」
 口元を両手で押さえて、東眞は言葉を発した。
 理性と感情がごちゃ混ぜになって、冷静な判断が一切できないこの状況で、否、その状況だからこそ東眞の口からは続きがこぼれた。
 何がだと理解不可能だとばかりにXANXUSは首をかしげた。周囲も理由が分からない。XANXUSが子供のことを気遣うなと言った以上、もう子供ができなくても東眞がそれを気にすることはないはずなのだから。
 私、とかすれた声で、東眞は告げた。
「命を、かけました」
 時間が止まった。
「セオを産んだら、死ぬかもしれないって、言われました。でも、私、産みたくて。子供も、私も、死ぬかもしれないの、分かってて、それでも、うみ、ました。産みたか、った」
 東眞の告白を、XANXUSは赤い瞳を大きくして、聞いていた。まだ言葉が脳内で整理されていなかった。
「産んで、もし、無事でも、私の体は、もう、ぼろぼろ、で治療を受けない、と…日常生活も、送れない、ってことも、分かって、て。今こうやって、生きてるのは――――――…奇跡、のようなもので」
 こぼれていく言葉がXANXUSの耳を通過した。黙っているXANXUSの隣にいたスクアーロは東眞の言葉を整理する。
「…自分の体、分かってて、危険にさらしたのかぁ」
「…産み、たかったん、です…もう、これを逃したら、産めないことも、分かって、た
 から、と続けた言葉は背後の椅子が蹴り飛ばされる音で消し飛んだ。東眞は深い怒りのともったその瞳に見下ろされていた。隣に立っていた男のそれにスクアーロは総毛立つ。
「ふざけんじゃねぇ」
 一つ、XANXUSはそう言った。それだけで、十分に怒りが伝わった。
「死ぬつもりだったのか」
 冷たい言葉に東眞は咄嗟に首を横に振った。そんなつもりは毛頭なかった。
「違います!死んだりしないって、決めて」
 顔をあげて東眞は訴えた。死ぬつもりなどなく、絶対に生きてXANXUSの隣にいると誓っていた。だがXANXUSにとってそれは理想論にすぎない。
「死ぬかもしれねぇと分かってて産んだんだろうが!同じことだ!なんで、餓鬼なんざ産んだ!」
「…っもう、産めないって…っ!これが、貴方の子供を産む最後の機会だったから…っ!」
「てめぇの体駄目にしてまで、餓鬼なんざ欲しかねぇ!」
 東眞はそれに言葉を詰まらせた。そうだった。そう、XANXUSは言うであろうと分かっていたから、黙っていた。産みたかったから、黙っていた。間違いなく堕ろせというだろうから、黙っていた。でもそれは、相手の気持ちを無視した行為ではないだろうか。
 黙っている東眞にXANXUSはさらに苛立ちを叩きつける。
「生きてる、だ?もし死んだらどうするつもりだった!死なねぇなんざただの希望だろうが!力もねぇやつが、戦場で武器持って生きて帰るって特攻かけて帰ってくるとでも思ってんのか!」
 分かっている。そんな現実は東眞とて知っていた。そういう世界で、東眞も生きてきた。それでも感情で動いた。奇跡をつかみ取りたかった。その可能性がほんの数%でも構わないから、それに縋った。そんな気持ちの方が、先に東眞の中で動いた。
「駄目だって――――――…っそう言われるのが、分かってたから、黙ってたんです!産みたかった!だって、もう二度と産めない…、だから、絶対に産みたかった…っ。」
「ざけんな!そのせいでてめぇが死んだら――――――…っそんな餓鬼欲しくもねぇ!!」
 それはほんの一瞬だった。
 思考が停止して、東眞は手を振り上げていた。渾身の力を込めて、その手を振りおろす。XANXUSの瞳はその動きをとらえて、その振りおろされた手を止めるつもりで反対側の手を挙げたが、その動きは止まる。叩きつけられた瞳に滲む、ほとんど初めて向けられた彼女の「怒り」という感情に体がほんの僅かに強張った。
 高い音が、響く。
 東眞は腕を振り切って、XANXUSを睨みつけると、呆然としているレヴィの腕からセオを奪い取る。そして一度閉められた扉を押し開けて、その場から走り去った。