27:自覚と覚悟 - 4/10

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 いくらなんでも遅すぎる、とXANXUSは時計を睨みつけた。飲み物一つ買いに行くのに、三十分もかかるものではない。それに、跳ね馬は兎も角(部下がいなければただのカスだ)、東眞が戻ってこないのはおかしい。地理には自信がある女だ。
 奇妙に思いつつ、XANXUSはディーノが立ち上がってから随分たった今、ようやく腰を上げた。
 ポケットに手を突っ込んで、遊びを楽しむ人間の間を歩いていく。多くの人が目をくらますほどに存在するが、どうせすぐ見つける自信がXANXUSにはあった。別段特別美人なわけでも、背が高いわけでもない。それはもう普通の人間と一緒だ。だが、見つけられる。
 それは誇張でもなんでもなく、確信である。
 どれだけの人の中にいようと分かる。それは手に取るように。二つの瞳は簡単に見つけ出す。どこにいるのか、ときょろりと目を足を動かす。だが、見つけられる。
 黒髪を、柔らかな体のラインを、優しげな口元を、そして、自分だけを見つめるそのひと、み
を。
 見つけた。が、それは両手で覆い隠されていた。指の間からは、ほろほろと滴が落ちて袖を濡らしている。頭の中が空っぽになった。肌を震わせる怒りでそれが一気に脳内に浸透する。
「―――――――――――――…ってめ、ぇ…!」
 誰が泣かせたと眦がつり上がる。
 泣かせてよいのは自分だけだ。傷つけていいのも自分だけだ。笑わせていいのも自分だけだ。喜びを与えていいのも自分だけだ。触れていいのも自分だけだ。――――――自分、だけだ。
 腕は涙をこぼす女の前でうろたえる男の胸倉をつかみ取り、そのまま壁に叩きつける。ディーノはそれに息を一瞬詰めたが、待て、と怒りに声を震わせたXANXUSに制止をかける。しかしディーノの言葉など、今のXANXUSに届くはずもない。怒りに震える男の腕が瞬時に動き、ホルダーの銃にかかる重たい金属音にディーノは息をのんだ。
「ま、て!待て、俺じゃない!!誤解だ、XANXU
 S、と最後の言葉まで言わせずに、XANXUSは凍えるような冷たい炎を瞳の奥に滲ませて銃口の先をディーノの米神に押し付けた。銃口が米神の骨とカスって、ごりと音を立てる。殺される、とディーノは本能的に察した。この男ならばやりかねない。
「落ち着け…っ、XAN
 喉から絞り出すように発された言葉は、あまりにも静かな怒りの声で消された。たった一言、その一言の重みは全ての命を蹴散らす言葉であった。
「―――――――――かっ消えろ」
 死ね、と短い言葉の後にXANXUSの引き金に掛けられたその指がゆるりと動く。冗談だったなど言うことがXANXUSに当てはまるはずもなく、ディーノは背筋を駆け上がった恐怖に一瞬身を竦めた。
 この場で武器を取るのは好ましくないが、やむなしとディーノは自身の鞭に手をかけた。否、かけようとした。
 細い、この場にはあまりにもふさわしくない声でXANXUSの動きが止まる。ディーノは足をつらせた状態で声のした方に視線を向けた。視線の先には目尻から無理矢理涙をぬぐったせいでほんのりと赤く肌を荒らした東眞が立っていた。
 東眞は声を絞り出す。違うのだと。
「ちが、ん、です」
 何が違うのかXANXUSには分からない。目に飛び込んだ光景は、泣かされていた光景にしか見えない。それ以外に何があるのか分からない。
東眞は唇をかみしめて、そして声をこぼした。ただ、ごめんなさい、と。謝られる理由も分からない。少しも分からない。
 XANXUSはディーノの胸倉から手を離した。つま先立ちだったディーノは足の平をつけて、ほっと体を落ち着ける。
 東眞が泣いている理由も、ディーノを殺そうとしたのを止めた理由も分からず、XANXUSは引き金から指をはずして銃を下に下ろした。
 そして東眞は謝罪と否定の言葉を繰り返す。ごめんなさいと違うんですと。首を小さく横に振ってうつむいて、目が見えない表情が見えない。だから余計に分からない。分からないから腹が立つ。自分だけが分かっていればいい存在なのに、それすら分からないから忌々しい。
「―――――――――…っごめん、なさい…っ」
 絞り出されるように謝るその声は、他の誰にでもない自分に向けられている。だが謝られるようなことは何一つされていない。気晴らしにと遊びに来たはずではなかったのか。それを楽しんでいたのではなかったのか。観覧車で笑っていたあの笑顔は一体何だったのか。海が綺麗だと朗らかに細められた瞳は一体何だったのか。
「ごめ、な、
 さい、と東眞の言葉を最後まで言わせずにXANXUSはその腕を無理矢理つかんだ。あまりにもそれが強い力で、東眞の顔は痛みで歪む。しかし東眞はそれを引きはがすことをしない。せない。
 みしと骨が軋むような感触に東眞は目をつむった。流石にそれはディーノも感じ取ったのか、XANXUSに制止をかける。
「おい、XANXU
「黙れ」
 たった一言、それだけだったが、ディーノの背筋には電流のような寒気が走った。睨みつけてくるその赤色に飲み込まれる。脂汗が首筋を伝った。固まったディーノの隣をXANXUSは東眞の腕を無理矢理ひいて歩かせる。引きずられるようにして東眞は歩く。痛いと声を上げることすらかなわない。どうしたらいいのか分からない。
 もう黙っていられない。言うしかない。言わなくてはいけない。でも言いたくない。言ってしまえば何もかもが終わりになる恐ろしさがそこには残っている。セオとXANXUSを目の前にすれば、もう自分がひとかけらも笑えないことを東眞は気づいていた。
 はやる気持ちは謝罪となって口から零れ落ちていた。
 掴まれている腕の痛みは自業自得である。しかし、きっと彼はなにもわかっていない。何故自分が泣くのかも、謝るのかも、多分分かってない。それでも怒っている。肌で目で力で、全身で。
 チャーターに押し込まれて、やはり腕は強くつかまれたまま、東眞はXANXUSの顔を見ることができなかった。肌に痛いほどに伝わる怒りが機内に充満していた。出せ、と短い命令に操縦士は機体を命令どおりに浮かせた。
 機内で、XANXUSは一言もしゃべらなかった。ただただ東眞の腕を鬱血するまで強くつかみ、無言のまま、驚くほどの空の色を映し出した海を眺めていた。綺麗だと、そう、東眞が観覧車で言ったその海を、ただ眺めていた。

 

「XANXUS!」
 取り残されたディーノは飛び立った機体に向かって叫んだ。勿論それが引き返されることはない。幸い船でも帰ることができるので大した問題もないのだが。
しかし、ディーノには分からなかった。涙の理由も怒りの理由も。とはいえ、この件は自分には関係のないことだし、関係してはいけないことであることは分かっていた。
 XANXUSと東眞の、あの夫婦間の問題であるならば、自分は口出しはできない。確かに気になりはするのだが。
 ディーノは押し付けられた銃口の先に指先を滑らせる。余程強い力で押しつけられていたのか、少しへこんでいた。彼女を「泣かせた」というそれだけで、このように怒る。赤い瞳に底知れぬ怒りがともる。強すぎる愛という名の独占欲。彼女はきっとそれを受け止めていた。だから、ここにいたのだろうが。
 そんな彼女が泣いていた。壁にもたれかかり、両手でその顔を押さえている姿を見て、一瞬何かどこか別の世界を見ているような気分にさせられた。何と言うべきか、彼女は泣かない人間のように感じていたのである。否、あの大きな手と体が隣にある限り、誰も彼女を泣かせることができないと、思っていた。
 人を愛することを知らないXANXUSが初めて隣に据えた女性。冷たい怒りしかその身にない男が選んだ女。
 桧東眞、という人間性に関してディーノはその程度の認識しかなかった。
 ハウプトマン兄弟に襲わせた(というのは正確ではないが)その時見せた彼女の強い目に、瞬間、XANXUSが隣に据えた気持ちがわかった。強いと、そう感じたのだ。勿論それは腕っ節の話ではない。腕だけで言うならば、彼女は一般人よりも少し上くらいである。この世界においては下の下に間違いない。それでも強いと感じた。折れぬ心が、曲がらぬ心が。そして、広がる心が。「あの」XANXUSの手を取れるだけの、取っただけの人間であった。そして手を差し伸べただけの。
 けれども、泣いていた彼女は違った。ぐずぐずに崩れ落ちた柱のなかで、一人うずくまっていた。あまりにも弱弱しい姿だった。何が彼女を変えたのは分からない。それでも何かが、知らぬ何かが彼女の足場を崩した。
「…XANXUS」
 ぽつりとディーノは、もう一度その名前を呼ぶ。どうなるか分からない彼と彼女のその先に、そして自分では解決しようのない問題に、大きな不安を残して。

 

 どちらも話をしなかった。
 ぎりぎりと締め付けられる腕がもう折れるのではないだろうか、と東眞は痛みに麻痺してきた腕でそんな風に思った。怒っているのが、空気を通して肌から伝わる。
 もう涙も出ない。流した涙は袖に吸われて、冷たく濡れていた。
 怒っているんですか、など聞かなくても怒っているのは分かっている。十分すぎるほどに。ただ胸は締め付けられるほどに痛い。痛くて苦しい。
 黙っていられると思っていた。が、それは無理だということが分かった。今、どうにかごまかしたとしても、部屋の中で外を見ずに暮らしたといえど、今日の情景が脳裏に焼き付いて離れないだろう。
 幸せそうな家族。新しい子を産む幸せ。愛しい人の子を産む、幸せを。
 笑えていない自分のことなど、すぐに見透かされてしまうことは、東眞にだって分かった。それが続けば――――――――――答えはすぐに出る。
「ごめんなさい」
 東眞は謝った。謝られたXANXUSはそれに答えず、それは普段のように肯定の意味ではなく、ただ答えたくないという意思の表れだった。けれども今の東眞には謝る以外の方法は分からなかった。
 もう、貴方の子供を産めなくて―――――ごめんなさい。
 そんな小さな叫びがXANXUSに届くはずもなく、ごめんなさいの意味は表面上の謝罪の意味しか汲み取られない。謝るな、とXANXUSは言いたかったが、今口を開けば何を言うかわかったものではない。忌々しくて腹立たしくて。
 自分の知らないところで涙を流す彼女が腹立たしい。自分の前で泣けば胸の一つくらい貸してやるのに、それをさせない女が憎らしい。こんなに泣くまで人前で泣かなくてはいけないくらい、何かを自分に黙って隠していた彼女が忌々しい。話せば聞いてやった。それなのに、それをせずに無理をしていた女に怒りを感じる。
 隣にいたのは、隣に置いたのは、相手を理解することを求めていたのは、自分だけなのかとそう思えば腹の底から黒い怒りがわいてくる。何をしたらいいのか分からないから、手探り状態でそれでも、何かをしてやろうと必死になった自分が馬鹿馬鹿しい。踊らされた気分になる。
 自分の隣で、一番の笑顔を見せていればいいのに、それをしない女に、彼女に、東眞に――――――、腹が立つ。
 窓の外で移り変わる景色だけが時間の経過を告げていた。機内の静けさはただただ重苦しく、互いの息の根をゆっくりと止めていっていた。ただ、静かに。