27:自覚と覚悟 - 3/10

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 かちんと針が動いた。少し離れた時計が小さな振動を見せていた。二人分の、四つの瞳がそちらを向いていたが、時計は早すぎることも遅すぎることもしていない。ただ正確に時を刻んでいた。
 ディーノはXANXUSの隣で当たり前のように、遅いなと呟いた。尤もな一言だったが、XANXUSはそれに反応しない。しかしディーノはにっと楽しげに笑って、XANXUSをその肘でつついた。
「なんだよ、心配じゃねえのか?」
 そのからかいをXANXUSは然程気にとめた様子もなく、視線一つ動かすことなく、ただカス、とまず答えた。そしてその後に、くだらねぇと言外に言いながらXANXUSは伸ばしていた足を組み直した。
「『ここ』で指輪してるやつに声かけるカスがいるか」
 XANXUSの返答にディーノは成程と笑う。
 確かに、マフィアランドにおいて結婚指輪をしている人間に声をかける男など居るはずもない。尤も自殺願望者であれば話は別だが。遊びに来る人間にそんな人間など考えづらい。
 スクアーロから聞くに、極度の過保護なXANXUSが彼女を自由に動き回らせているわけだ、とディーノは頷いた。しかし、声を掛けられていないにせよ少しばかり遅い。ディーノは座っていたベンチから立ち上がった。
「でもまぁ、遅いだろ。道に迷ってるかもしれないし、俺が探しに行く」
 部下もつけない跳ね馬が、とXANXUSは言いかけたが、別に見つけてこようがこまいが大差はないので勝手にしろ、と言葉を放り投げる。
 それにディーノは行ってくるとひらりと手を振って、そして一歩踏み出した瞬間に華麗にこける。見なれたもので、XANXUSはもう反応すらしない。ディーノはおかしいな、と頭をかきながら立ち上がると、何事もなかったかのように人ごみに消えた。
 鷹揚にベンチに腰掛けたまま、XANXUSは流れていく人を、ただ眺める。男、女、老人、子供、家族、恋人、友人。名前をつければ様々な関係の人間が目の前を通り過ぎて、消えていく。そこにふらりと小さな子供がこちらに向かって走ってきた。その子供は目の前ぎりぎりで曲がって、そしてベンチを回り込んで過ぎていく。その後ろからそれよりも小さな少年が、弟だろうか、待って、と言ってその後を追いかけて行った。
 通り過ぎた二つの影を眺めながら、ふとXANXUSは今頃ルッスーリアの腕に抱かれているであろう小さな子を思い起こす。
 産まれたばかりの時に、青白い顔をして腕に抱き抱えていたその姿は鮮明に思い出せる。一瞬死んでいるのかと思った。だが、東眞はゆるりと微笑んでこちらに赤子を、まだ本当に小さな命を差し出した。抱いてくださいとの言葉に従って、その小さな体を抱き上げたはいいものの、それはあまりにも小さくて弱弱しくそして今にも散りそうだった。しかしその小さすぎる命は、あらゆるものに逆らってその小さな口から言葉を漏らした。
 ああこれが命なのだと人を殺す職業に就きながら、それを改めて実感した。そしてこれが自分の息子だということも。血の繋がりの有無で子供と父になることは断じてないが、それでも初めて、生まれて初めて(それは至極当然なことだ)父を感じた。
 セックスをして、妊娠が分かって、次第に大きくなる腹と、その中でまだ母の体の一部だというのに命を主張してくる赤子。初産のせいもあってか、出産においては肝が冷えた。あの青白い顔は、僅かに背筋が凍った。だがそれでも、生きていた。
 生きて、そう、生きていた。
 微笑む女は生きていた。そして自分とそれから自身の命を産んだ。もし、東眞が死ねばどうなっていただろうかと酷く冷静に考える。泣きもしないだろうが、立ち会っていた人間は殺していたように思う。当然だ。自分の妻の命を救えぬカスに用などない。失敗は死へと直通している。
『お前は私の息子だ。私はお前の父親だ。』
 何よりもその形を嫌う自分がまさか父親になるとは思わなかった。しかし、父親であるということは難しい。何をすべきかよくわからない。母は、愛情を注いでいる様子だが。ならば父である自分は何をすればいいのだろうか。
「―――――――――父、か」
 誇張する気はないが、もしも産まれている子供が自分を「父」と呼ぶ日が来たら、それはやはり嬉しいのかも、しれない。人並みの、一般的に言う幸せとやらがこれなのだろうかと、XANXUSはそう思った。
 側にいるだけでいい。
 するりとXANXUSの瞳が流れていく人にもう一度向けられる。その先には家族連れの姿があった。
 そしてXANXUSはらしくもなく思った。次訪れるとすれば、今度は餓鬼も一緒に連れてこようか、と。所謂、家族で。そんな考えが脳裏をよぎった後、何故だか無償に笑いたくなって、XANXUSはその口元に浮かんだ笑みに小さく肩を揺らした。

 

 吐き気が全身を襲った。
 シャルカーンの治療から一週間程経っているので、今の体調は完全である。それでも、吐き気がした。シャルカーンがいじることができるのはあくまでも肉体的な部分であって、精神的な部分ではない。
 建物の陰で東眞はジュースをつっている鞄に押し込んだ。もう戻らなくてはいい加減心配をかけてしまうであろう。帰らなければと東眞は足を踏み出そうとしたが、動かない。それは多分動かないのではなく、動かしたくないだけなのだ。
 今、彼の、XANXUSの顔を見たくない。
 罪の意識で押しつぶされそうになる。どうして産めないのだと自分で自分を殺したくなる。産まれてすぐ、赤子を抱き上げた時にXANXUSが浮かべた表情を東眞ははっきりと覚えている。まぶたに焼き付いたその表情。「自分の息子」を見た時の、あの、嬉しそうな、顔。もうその表情をさせてあげることは叶わない。新しい命の喜びを分かち合うことはできない。
 苦しい。苦しい。苦しい。息が詰まって、肺が押しつぶされ、喉が真綿で締め付けられていく。鼻の奥がつんと熱く、目頭が壊れそうになる熱を持つ。
 自分は頑張った。最善を尽くした。このたった一度の奇跡に賭けた。そして、自分の、もう育むことの叶わぬ命を生み出した。そしてこれからは、XANXUSと一緒に、その命の成長を眺めて喜び、小さな家庭を作ろうと思っていた。思っていたのだ。
 だが所詮、それは思いにすぎなかった。
 月日を重ねるごとに、次第に重みを増して手足を戒めていく、この命をはぐくむことのできない体。自分の命でさえもまともにつないでいくことのできないからだ。誰かに助けられて、ようやく生きつないでいるこの体。皆の話題に次の命が上がるたび、まざまざと思い知らされる。突きつけられる。期待をさせているだけだと。
 産めてよかった。生きていてよかった。しかし、人は欲張りだ。
 こうなることを承知で了承したのに、それだというのに、思いはただまだ先へと縋りついている。触れることもかなわないその夢に。もう一人子供ができたら、もう二人子供ができたら。そんな、夢がどんどんと湧いてくる。できないからこそ湧いてくる。
 頬を生ぬるいものが伝っていく。手の甲に一滴落ちて、そこで初めて、ああ泣いているのだと気づいた。声を喉もとで殺せば、涙だけが止まることを知らずに落ちていく。一つ二つ三つ四つと。
 出産後、一歩も家の外には出ておらず、あの閉鎖的空間の中で生活をしていた。それが幸いしていたのかもしれない。外の世界に出てきて、「幸せな家族」を見て、自分でも嫌になるほど理解した。見せつけられた。自分が産んだ子供には、もう弟も妹もできないのだと。そして次の子を喜ぶ父親の姿も、誰の姿も自分は喜べないのだと。
 気づいてしまった。一番気づかなくてもいいことに、気づいてしまった。気づかなければ、それでもまだやがて消えゆく記憶になるかもしれなかったことに、気づいて、しまったのだ。気づいてしまったからにはもう知らないふりはできない。幸せの陰に隠し続けておくこともできない。尤もそれが、「幸せ」であるのかどうかはもう分からない。
 押し込んで詰め込んで覆って、その上に成り立つものを幸せと思えるのか、本当にそうだと言えるのかは、もう、分からない。いつか、言葉の期待に押し潰される。望む心に圧死する。
 黙っていようと誓った。あの人と幸せを築いていこうと決めた。しかし、触れられるたびに悲しくなり、見つめられるたびに心が冷える。それでも黙っていたい。余計な心配をかけたくない。自分の体を駄目にしたのは自分の決断であるから、いらぬ思いをさせたくない。でも。
 東眞の、腹の上に添えている手が震えていた。ただそこにあるだけの、命を育めない腹に乗せられた手が、震えた。あの妊婦の顔が、嬉しそうな顔が、新しい命に、愛しい人との新しい命に喜んだ顔が―――――頭から、離れない。それに重ねて、XANXUSが赤子を初めて抱いた時のあの目が脳裏をよぎる。
 息を吐き出す。短くはいて長く吐いて。涙が、どうしても止まらない。指の間から涙があふれて袖を濡らす。
「どうして」
 もう、自分はあの人の子供を授かれないのだろうか。
 胸が、軋むほどに、痛んだ。
 その時、ふと自分を呼ぶ声が角から聞こえる。視線をあげかけて、それが誰の者が視認する。かすれた声がその男の名前を呼んだ。ディーノさん、と。
 ディーノは東眞を見て、始めは一体何をしているのかよくわからなかった。壁にもたれかかって、その顔を両手で覆っている。それ以上動かない。ただそこでそうやってじっとしている姿が焼きついた。そして名前を読んだときに持ちあがった目に涙がたまっているのに、気付いた。
「…どうしたんだ?」
 東眞は首を小さく横に振った。これは誰に言っても理解できることではないし、言っていいことではない。そう、秘密なのだ。幾重にもかかった鍵付きの箱の奥底にある。口元を必死で東眞は笑わせる。
「目に、ゴミが、はいって」
 そんな子供でも分かるように嘘にディーノが気づかないはずがない。それでも東眞はそう言うしかなかった。
「ゴミ、が…あ、すみませ、ん。探しに、きてくれたんです、か」
「東眞」
 話をそらそうとした東眞にディーノはそれを許さず、ゆっくりとその名前を紡ぐ。東眞は喉を詰まらせるように息を飲んだ。
 ディーノは東眞の肩に両手をおいて、そして心配していた。それは、分かっていた。
「よく、分からねーけど…誰かに何か、されたのか?」
 兄貴分としての生活が長い分ディーノのその心配の仕方はもっとも優しいものであった。だが東眞は頭を横に振る。何度も、何度も小さく。ただ横に振る。すみません、と小さな声で謝った。
「先に、もど、ってください。すぐに…私も戻り、ますから」
 大丈夫ですと、しかし顔はその両手にうずめたままに呟いた東眞にディーノは一体何をどうしていいのかよくわからなかった。