26:振り回されて三回転 - 3/5

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 温かな腕の中は心地が良い半面、自分の心の蟠りのせいか、どこか居心地が悪かった。眠ることも中途半端に東眞はただ瞳を閉じていた。それがどれくらい続いたのか分からない頃、ふぎゃ、と片耳の鼓膜をその小さな音が震わせて、東眞は閉じかけていた瞼を持ち上げる。
 もうそれもどれくらいかわからないほど経験した、所謂「夜泣き」である。
 体は自然に赤子が泣くのを嫌い、起き上がりかけるが、二つの腕がそれを妨害する。どこにも行くなと言うように。酷く強い力で抱きしめられており、少しばかり息が詰まった。思い起こせば、こうやって抱き締められて眠るのは久方振りである。
 つい三日ほど前までほぼ寝たきりで、ただ体の回復を待つばかりの日々を送っていた。
東眞の体を慮ってかどうか、XANXUSも必要以上に東眞に触れるようなことをしなかったし、部屋に来てもただ椅子に座っているだけだった。シャルカーンがようやく、もういいの言葉を発してからは、まるで壊れ物を扱うかのように頭や頬に掌で触れていた。だから、今のこの感覚は久し振りであり、どこか遠い感覚である。
 しかしながら、セオが大声をあげて泣きだす前にあやしてやらねば、と東眞はその腕の拘束をどうにか潜り込むようにしてほどこうとする。けれども一向にそれは逃す隙を与えない。腕をXANXUSの胸に押し当てて、距離を取ろうとしたが、内側に締め付ける力には到底かなわなかった。
 ふぇ、と大声を上げる前の兆候の声が耳まで届く。掛け布の下でその声は多少くぐもって聞こえるが、きっとそれなりに空気を震わせている。もう少しだけ待って、と東眞は服の上をずるりと滑らせてから、どうにかこうにかでその上の腕をすり抜けた。腰にまわされた手はまだ退かない。起こすのも申し訳なくて、ゆっくりと足をばたつかせたりするがその腕の力は弱まらない。上の手は逃げ出した体を探すように、腰の方へと移動した。その前にどうにか東眞はXANXUSの指を引きはがして、そこにクッションを押し入れてから腕から逃れた。
 何という格闘をしているのだろうか、と東眞は肩で息をしながら、布の下で両手両膝をついてがっくりとした。そうしていると、思わず、口元が笑った。泣きそうになる。
 ごめんなさい。
 涙が、零れ落ちそうになる。こんな近くにいるのに、こんなにも遠い。こんな温かいのに、こんなにも冷たい。寒い。凍えそうになる。生きていると誓った、側にいると誓った。信じると、裏切らないと、愛し続けると、誓った。
 それなのに、今、何をしているのかと。
 たまらなく、苦しい。この人のそばにいるのが、苦しくてたまらない。向けられる愛情を素直に受け止めることができない。ほんの少し自分の方に蟠りがある、ただそれだけで。
 思わず泣き声がこぼれそうになって、両手で口を塞ぐ。うずくまって、愛しい人の手から少し離れたところでシーツを濡らす。ばれないように、ひそかに。
 すぅ、と穏やかな寝息が胸を締め付ける。
 子供を産んで、成長していく姿と優しく見守る周囲と、そんな温かくて幸せなその空間の中で。自分だけが、異質に悲しんでいる。申しわけない。申しわけなくて、この腹を切り裂きたくなる。もう何も生み出すことのないこの腹を。命を分かつこともなく、育てることも叶わず、ただただただれていくこの腹を、体を。
 怒るだろうか、とこんな時にでさえ自分の心配をしているのが厭わしい。憎らしい。
「ふぁ、ぁ」
 ふつりと思考を遮断した幼い声に東眞は意識を持ち上げて、そして夜泣きのことを思い出す。ちらりとXANXUSが起きていないのを再確認して、ベッドを抜け出す。借りたままのコートは、やはり、重かった。これを身につける資格など自分にはないというのに。
 目を固くつむってから、東眞はその隊服を脱ぐと、XANXUSの上にあるシーツの上にそっともう一枚とその隊服をかけた。そして、自分には音を立てずにクローゼットから厚手の肩掛けを持ち出して羽織ると、ベビーベッドのもとへと足を進める。のぞきこめば、泣き顔でもうすぐ泣きだすであろう幼い子供の顔が目に入った。ゆっくりと二つの手でその体を持ち上げて胸に抱く。
 このままここにいて、泣きだしでもしたら起こしてしまうと思い、東眞は部屋を出るための扉をゆっくりと引いて、そしてできた隙間からするりと外に出る。扉は後ろで、小さな音を立ててぱたりと閉まった。
 長く冷たい回廊を赤子を抱えてゆるりと歩く。そしてさらに冷たい外へと足を進めた。庭にぽつんと置かれている白い机と椅子。広がる花壇は、自分が休んでいる間きっと誰かが世話をしてくれていたのだろう、きちんとされていた。尤も冬のこの時期は土の中に隠れているだけだが。
 ショールで赤子と自分を包み込み、細い息を吐けば、吐いた息は真白になって眼前で消えた。しかし消えない白がちらりと視界を揺らす。
「―――――――――あ」
 雪だ、と東眞は空を見上げた。ちらちらと降ってくる。
 白い雪は、その白さとは見せかけに実際のところは空中のごみを拾っているので汚いものだ。今の自分のようだ、と東眞は小さく自嘲気味に笑った。
「あぁ、うー」
 頬に当たったのか、それとも視覚でとらえて興味深くなったのか、セオはその小さな両手を伸ばしてそれをつかもうとする。しかしながら、子供の体温ではそれが指先に触れた瞬間消えてなくなってしまうのは自明である。
 ああ寒い、と東眞はショールを少し引き上げて首元を隠した。それでもまだ、中に入る気にはなれなかった。
 雪のように自分の秘密が消えてしまうことができるならば、とそんな風に思う。
 産まなければよかったとは、産んだ後も一度として思ってはいない。思ってはいないが、苦しい。だがいくら考えても、妊娠発覚した時点でXANXUSに事実を言ってしまっては、確実に帰ってくる答えは「堕ろせ」だったろうし、それ以外にはないだろう。
 だからこの道を選んだ。黙って秘密にして、ひた隠しにする。しかしそれは、あまりにも重い。重たく、痛い。
 子供を産むために結婚したわけでも側にいるわけでもない。しかし、その能力が欠如した人間が、そして壊れた足手纏いにしかならない人間が。もとより役に立つ存在ではなかった。しかし、手を差し伸べられて、その手を取れるだけの健康体ではあった。だが、今はどうだろうか。手を差し伸べられるに値する人間であるだろうか。そして、その手を自分はとれるだけの人間だろうか。スクアーロたちとは、違う。
 何もできない。側にいることしかできない。帰ってきたあの人に、「お帰りなさい」と笑顔で声をかけることしかできない。殺伐としたその世界の中に、ほんの少しでいいから、それを望んでいるかどうかは分からないが、ほんの少し、気を張り詰めないでいい空間を。
 ただそれだけが自分のできることであり、したいことだった。だが、上手く笑っていられるかどうか、笑っても、それは偽物のそれである様な気がして仕方ない。そうなれば、それは何の空間でもなく、ただただ空虚の虚構でしかない、いるだけで苦痛になる空間になり果てる。いっそないほうがいい。
 誰にも言わない、言えない秘密。口に出すことも、面に出すこともできない、その塊。
 赤子はその東眞の表情を見て、不安になったのかどうなのか、くしゃりと顔をゆがめた。それに気づいて東眞は、目を細めて笑顔を作る。抱き締める。
「ごめんなさい。私は、平気」
 平気だから。
 鼻の奥がつんと、熱くなる。泣いてはいけない。それは誰のためにもならない。
 ちらほらと降る雪は、肩と頭を白く染め上げいっていた。だが、それがぴたりとやむ。視界の白さが少しばかり消えて、東眞は顔を上げる。一つの声がふるりとまるで雪のように降ってくる。
「奥さん、風邪ひくよ」
 まばゆい太陽の色を模したオレンジが白と黒の中で浮かび上がった。その中に鮮やかな春の色が一つ。片手にはノートパソコンのイザベラが抱えられていた。
「ジャン、さん」
「どしたの、こんな雪の中」
 大きな蝙蝠傘で東眞へと振りかかる雪を防いで、ジャンは東眞を見下ろしていた。ノートパソコンには防水用のカバーがしっかりと掛けられていた。
 地下室からは滅多に出てこない彼がどうしてここにいるのだろうか、と東眞はふとそう思った。それを顔から見てとったのか、眼鏡をかちゃんと鳴らして、ジャンは笑った。それはもう、幸せそうな顔で。
「いや、イザベラが雪を見たいって言うからさ。ちょっと上がってきた」
「パ……いえ、イザベラが?」
 パソコンが話すのか、とそんな馬鹿なと思いつつも彼にとってはそれが真実に他ならないので、否定することもなく、東眞はそう尋ねる。するとジャンはそうそう、と恋する乙女のように笑った。
「そう!本当はニコラも見たがってたんだけどな。でもニコラは動けないから、イザベラと来たわけだ。彼女たちは雪を滅多に見ない。いつも僕と地下室で一緒だから。そういうわけで、折角だし湿度も…まぁ、少しあれだから保湿防水カバーをかけて連れてきた」
「喜んでいますか」
「ああ、当然。今年の初雪だからな。それで、奥さんはなんでここに?」
「セオが、夜泣きを」
「部屋にいたって構わないだろうに」
 東眞は苦笑をこぼして、疲れてますからとそう答えた。するとジャンはそれにふぅんと納得したようなしないような、そんな答えを返して頷いた。
「ボスの息子ね」
 東眞の腕の中をのぞきこめば、いつ間にかセオはその瞳を閉じて眠っていた様子で、ジャンはその顔をまじまじと見て、ボス似と呟く。
「そうですか」
「目元とか、ね。まぁ、監視カメラで見てる分からしても似てるとは思ってたさ」
「…監視カメラ…」
「あ、部屋じゃなくて、廊下とか庭とか。セキュリティ全般取り扱ってるから」
 別にのぞきが趣味じゃない、ときっちりとジャンは断っておく。
 雪は、そんな会話の中にも傘の上に一つ一つと降り積もっていく。言葉が静かな雪に座れて消えていく中で、ジャンはまるで思い出したように東眞に語った。
「君が来てから、ここは少し面白いことになったよ」
「面白い」
 言葉をそのまま返した東眞にジャンはそう、と肯定した。
「そう、面白い。いつこれが壊れるのかどうかは僕には分からないけれど、きっと壊れてもどうしても僕のすることは変わらないんだろうけどね。でも、今はとても面白いよ。監視カメラの映像で、ボスが怒ったり笑ったり拗ねたり、それにレヴィが慌てたり、スクアーロが怒鳴ったり、ルッスーリアが踊ったり、ベルフェゴールが悪戯したり、マーモンが金勘定を一つ二つ休んだり、そこに異質物である君が平然と違和感なくいるのが面白い。
 僕は心理学に然程興味もないんだが、この現状は面白い。血生臭いこの独立暗殺部隊が、まるで普通の家のように機能しているこの姿が。面白いし、可笑しい。まぁ、以前からもそういう光景は目にしていたけど。でも、それはなんだろうな、ああ、そう、そう。そうさ」
傘を一度揺らして上の雪を降り積もっている雪の上に落として、ジャンは笑った。
「皆、根本的に同じ生き物だからさ。事情はどうあれ、同じ志を持ち、ボスのもとに集っている。その中においての、仲間同士の戯れであり、遊びだ。
 だが、君は違う。そうじゃない。僕たちとは違う生き物だ。ああ、それは君がきっと想定している通りのものだ。僕たちは同じものを共有し合うが、君は僕たちと全く別のものを共有する。それが、面白い。違うのに、どうして共有できるんだ?それはプログラミングか何かに関係しているのかな、どうだろう。でも君は機械じゃないし、ああでも人の脳味噌って言うのは電気信号で」
 そこから先の会話は東眞にとって難しすぎて、よく分からなくなっていった。ただ彼が言いたいことだけは、分かった。
 ジャンは言うだけ言って、それからこほんと咳を一つした。
「兎も角、君は僕たちとは違うけど、違うからって言って誰がそれを非難するってわけでもないことさ。別に、悲観することもない。こんな雪の中、今までの君からしてみれば考えられない行動だろ。気でも滅入ってるのは、誰だってわかるさ。育児疲れ?」
 その一言のために、ジャンはここまでの長ったらしい言葉を続けてきたということになる。普段顔を合わせない彼に出さえ、分かってしまったのか、と東眞はぱちりとまたたく。それにジャンはさらりと笑った。
「君は頑張ってると思うよ、僕たちのテリトリーの中で。でも気張る必要はない。君にはボスがいる」
「――――――――――――、」
 その人は、頼れない。もたれかかれない。
 東眞は喉から出かかった言葉を飲み込んだ。重石のような秘密は誰にもばれないように押し隠して生きていかねばならない。
「ただね、」
 そう続けられて、東眞はこわばりかけた表情を元に戻した。
「君は、自分がどういう存在であるかを忘れてはいけない。そしてその選択を誤ってはいけない。選択自体で異質物である君は即座に排除される。それは僕たちが僕たちであるが故だし、君はそれを責められない。僕たちは、僕たちが僕たちであるために僕らの暴威を容赦なく振るう。躊躇なく、だ」
「知って、います」
「ならいいんだ。君の選択は、君は僕たちではないが、僕らに影響を及ぼせる存在であるから、勿論それは少ない微々たるものであって、君は自分の選択に自分の意志持って選択しなければならない。そしてその選択は常に自分だけではなく、僕らの状況も考えたものでなくてはならない。
 君は、そこにいる。僕らもそこにいる。その場は僕たちの場であり君の場だ。僕らが守る場を、君は君の全力を持って守らなくてはならない。既に君はただ遊ばれて捨てられるだけの存在ではなく、一つの言葉に責任を持つ立場にある」
 だから、とジャンは東眞の肩に傘を預けた。
「君は風邪をひいてはいけない。自らを放棄してはいけない、だろう?」
「…はい、そうです、ね」
「そう、君はそうでなくてはならない。君の自由意志も確かに存在するだろうが、それはすでに『君だけの』意志だけでは済まないこともある。たとえば、翌朝君に熱が出たらスクアーロの頭には大きなこぶができるだろう?」
 笑ったジャンに東眞は口元を微笑ませた。
「知って、います」
 もう一度東眞は同じ言葉を繰り返した。その言葉の重みを確認する。指にはまった指輪の、その重みを。
 途端、びび、と小さな音がジャンが抱えていたパソコンからなった。
「おっと、レヴィが帰ってきた」
「レヴィさん、任務だったんですか」
「そうそう。あーと、今日は怪我なし、救護班も呼ぶ必要ないな」
 うん、とジャンはイザベラを開いて、かちかちとキーを凄まじい勢いで打ちながら、その状況を確認する。それを終えてから、閉じた。そして、さて、と東眞を見下ろす。
「ここにいたら、レヴィが心配すると思うが、どうする?」
「部屋に、戻ります。それからホットミルクでも飲んで、眠ります」
「それがいい」
 じゃあ先に、とジャンはイザベラを胸に抱え直してその場を去った。
東眞は足跡が消えていく様をじっと見つめながら、自分も足跡を雪の上に作っていく。
 胸のしこりに目を向けるその痛みを、覚えながら。

 

 暗闇の中で、腕の中にいないその存在にXANXUSは目を開く。
 泣いていたのか、と少し先に触れたシーツの湿り気に目を細める。
 何故泣くのか分からない。時折見せる悲しげな瞳の色が、分からない。幸せでない理由が分からない。何が辛いのか分からない。ただ子供と共にいるときは嬉しそうにしているし、落ち着いた表情をしている。しかし、時々、瞬間的に、それはもう誰にもわからない程度のその一瞬に口元に小さな躊躇が浮かんでる。笑っても、いいのかという風に。
 だが問い詰めても何も言いそうにないし、言わないことは、分かっているような気がする。
 扉が開いて、足音が近づいてくる。それは手前で止まって、椅子に腰かける音へと変わった。ほのかなミルクの香りが鼻をくすぐる。静寂の中で、液体を飲む音が響く。それが終わるとベッドの反対側軋んだ。眼は閉じたまま、動かさない。
 頬の上を細い指がなでる。そしてこつりと額が重なった。暫くそのままで相手は動かない。キスでもするのかと思ったが、口元の空気がゆるりと動いただけで、何かを言っているのだろうが、目も開けていないし声も出ていないので何と言っているかは分からない。
 そして掛け布団が少し持ち上がって、外にでもいたのか、随分と冷えた体が入ってきた。何故か側によることはなく、少しだけの距離をあけてそこで動かなくなる。それが気に食わなくて、腕を動かして引き寄せ、抱き締める。
冷めきった体に己の体温を分けるようにしてきつくきつく抱き締める。
 一瞬、息をのんだ音が聞こえたが、抱き締めるだけに終わらせておけば、その緊張はすぐに解けて消えた。
 ルッスーリアかスクアーロが育児は大変だと言い、本を渡してきた記憶がある。多分それなのだろうと思い、明日にでも本に目を通してみることにする。そうすれば、きっとあの瞬間的な瞳の色も消えるだろうと、そう思いながら。胸に預けられた頭に満足して、意識を眠りへと導いた。