25:新しい命 - 6/6

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 気に食わない、という表情で修矢は椅子に腰かけていた。
 姉が寝付いている部屋には憎たらしいことこの上ない義兄(現在その立場の男)が内側から扉を閉ざして誰も入れないようにしている。
 チャーターを出してくれた自分の、伯父に当たるべき(義兄の父なのだから)ティモッテオがまたチャーターを出してくれるというので、その言葉に甘えることにした。先程、哲に連絡を入れると落ち着いたのかどうなのか、がたがたと物が崩れる音がしていたので、少しそれが心配である。とはいっても、学校はあるし、このままここに居座るわけにもいかない。姉の無事が確認できた今、もう帰るべきなのだろうが。
 が、しかし。
「…あの野郎」
 部屋の鍵を閉めるのはいくら何でもやりすぎである。
 お陰で帰るに帰れず、ここに居座っているはめになっている。扉を数回叩いたが、返事は一切ない。中で側についているのだろうから、別に倒れたとか意識がないだとかの心配はいらないのだろうが、不服である。
 とっとと出てこい、と修矢はがつりと靴を鳴らした。その時、目の前に一つの、他の連中よりも一回りほど小さな影が伸びてきて、落ちた。
 一体誰だと思い、修矢が顔を上げると、そこは鮮やかで絹糸のような金糸の髪が目のあたりまでかぶさっている少年、おそらくは自分よりも少し年上の青年が立っていた。敵意、とすら感じられる気配に修矢は顔をしかめた。
「何か用か」
「とっとと帰れよ」
 唐突に告げられた言葉に修矢は苛立ちを表情に見せる。そして、口を一度引き結んで、ベルフェゴールの言葉に噛みつくようにして返した。
「帰るに決まってんだろ。どこかの誰かがここの扉閉ざして中に入れないから帰れないんだよ」
 文句ならそいつに言えよ、と修矢は瞳の見えない髪の奥を睨みつける。ムカツクと、修矢の言葉にベルフェゴールは完全に忌々しそうにそう吐き捨てた。
「お前もう用ないだろ。東眞とボスの間に入ってくんなよ」
「…姉貴は俺の姉貴だ。姉貴はアンタのボスだけのもんじゃないんだ」
「マジ邪魔。死ねよ」
 お前、とベルフェゴールのその手にじゃらりとナイフが姿を現す。それに修矢の体は思考が脳に達する前に、電気信号が体を動かして刃を抜き放った。
「東眞は『俺たち』の東眞なんだ、よっ!」
「―――――っ、姉貴は俺の姉貴だ!誰がアンタらの姉貴だ!ふざけたことぬかすな!」
 飛ばされたナイフを修矢は刀で弾き飛ばし、床を強く蹴って大きく後退する。もっとも下がったところで、飛行距離を稼げる武器には大した意味もないが、それが到着するまでの時間を稼げる。
 じゃり、と切先がタイルをひっかいて嫌な音を立てる。
「なんつーかさぁ。こっち来ても、東眞、何かとお前の話ばっかするし、なんなワケ?ウザイんだよ。前来た時もさー東眞にべったりして、今だってうっとーしく待ってたりするしさー。帰れよ」
 右手にそろえられたナイフの数に修矢は刀を構え直す。攻撃を仕掛けられる理由はよく分からないが、こちらに攻撃を仕掛けてきた以上、取るべき行動はたった一つである。
 修矢はするりと一度抜き放った刀を鞘におさめ、そして抜刀の構えを取る。
「来いよ」
「王子に勝てるとか勘違いしてんの?バッ
「ちょ、何してるのよ!二人とも!!」
 慌てふためいたルッスーリアの声にベルフェゴールの口元が不機嫌そうに歪む。その仲裁の声にも拘わらず、ベルフェゴールの持つナイフとその指先の動きから視線をそらすことはなかった。
 もう、とルッスーリアは二人の間に入って、ベルフェゴールを先にとめる。
「東眞が寝てる部屋の前で暴れちゃ駄目よ。ボスに殺されるわよ」
 その、ボスという単語にベルフェゴールは口先をとがらせてからナイフをしまう。納得していない様子に、ルッスーリアは一つため息をついて、ベルフェゴールに続ける。
「二人で戦ったりしたら、東眞悲しむわよ」
「だってコイツムカツクし」
「俺としちゃ、アンタの方が忌々しいと思うけどな」
 は、と吐き捨てた修矢にベルフェゴールは再度ナイフを取り出しかけたが、ルッスーリアがまぁまぁとなだめる。
「どうしてそんなにムカツクの」
「さっき、東眞の手握ってさ。チャノが危ないから放せって言ってたの無視してたじゃん。コイツ、東眞の弟の資格ねーよ。自分のことしか考えてねーし」
 冷たく言い放たれたベルフェゴールの辛辣な言葉に修矢はぐっと言葉を詰まらせる。
 確かに、振り返って考えてみれば今のその言葉は間違っておらず、むしろ正しい。だが、あの時は本当に心配で、何かその体温が確かめられる方法でなくては安心できなかったのだ。この手が覚えている、姉の体が冷えていくその感触は未だに鮮烈に思いだせるから、余計に。
 唇を噛みしめて、視線を下にした修矢にルッスーリアはそんなこと言わないのよ、とベルフェゴールをやんわりと叱る。
「るせー、オカマ。兎も角、帰れよ。東眞にはボスや俺たちがいるから、お前なんて必要ねーんだよ」
「…お、れ、だって、姉貴のことが心配で!」
「心配してるやつが、あんな行動とんの?信じらんねー」
「あれは!」
 あれは、と修矢は持ち上げた視線をまた斜め下の床に落とされた。かちりと鍔が鳴る。ベルフェゴールはそんな修矢に追い打ちをかけるようにして、あれはなんだよ、と続きをせっつく。
「――――――…あれ、は…」
「帰れって。お前、マジいらねーから」
 帰れよ、と再度続けようとしたベルフェゴールだったが、その言葉はのんびりとした調子の声に遮られた。
「ナニしてるんデスカ」
 病人の部屋の前で、と溜息交じりの声が届く。シャルカーンはルッスーリアを真ん中に挟んで、戦闘態勢の二人にがっかりと肩を落とした。それに修矢は殆ど言い訳じみた様子で、姉貴が心配で、と告げる。
「ダッタラ、大きな音を立てるのは止してクダサイ。そのために扉を閉じてもらってるんデスカラ。ベルもそんな危ないモノしまってクダサイネ。ハイハイ。それにベル、間違ってマスヨ」
「は?」
 一体どこから聞いていたのか、聞いていてそれを止めなかったのかは定かではないが、シャルカーンは困りマシタネ、と小さく笑った。そして、にっこりといつもの貼りついたような笑顔で二人に告げる。
「ボスの、東眞サンデスヨ。他に誰の東眞サンがいるんですか?」
「…っな、ち、」
「違わなくないデスヨ、弟クン。彼女はボスの女であり、ボスの妻なんデスカラ。他の誰のモノになることも許されマセン。東眞サンだって、それは承知のはずデスヨ?今更一体ナニ言ってるんデスカ」
 マッタク、とシャルカーンは笑顔でさらりと残酷な言葉を告げる。ゆるりと流れるゆとりのある服が、静かな空気を孕んで揺れた。ぞくり、と修矢の背筋が泡立つ。
 表情が強張った修矢にシャルカーンはやりすぎたかとばかりに軽く肩をすくめた。
「マ、オネエサン思いなのは結構デスケドネ?ベルも気をつけないト、ボスに消されちゃいマスヨ」
「るっせーっての。東眞がボスのなんて知ってるし。つか、それがいーんだよ。こいつがしゃしゃり出てくんのがムカツクだけ」
「ベル、もうやめなさいよ」
 と、ルッスーリアが再度止めに入った時に、鍵が回る音がして、扉が内に開かれる。ぎょっとして一斉にそちらに目が行った。酷く不機嫌そうな顔をした王者がそこに立っている。しかし、腕に赤子を抱いているとその威力も半減である。
 やっべ、とベルフェゴールは三歩ほど後退する。流石に騒がしくしたことに対しての自覚はあるようで、口元の笑みが引きつっている。しかしXANXUSはそれを咎めることはなく、床に視線を落としている修矢にその赤い瞳を映した。
「入れ」
「…何で、アンタに命令されなくちゃ…っ、」
「るせぇ、入れ。誰がてめぇなんざ入れたいと思うか、カスが」
 その言葉はつまるところ、東眞が修矢と話したいと言っていることに他ならない。修矢の視線はその言葉に、XANXUSの大きな体の隙間からのぞいた、ベッドに横たわらっている東眞に向いた。しかしながら、修矢としてもXANXUSに礼を素直に言いたくもなく、分かったと一言言ってから、その横を通り過ぎた。
 そして扉は再び閉ざされる。中にいる人間が一人増えた状態で。
 空調設備が完璧にされた部屋の中で、修矢は東眞の方にゆっくりと、できるだけ足音をたてないように近づく。わずかな振動ですらその体には大きな負荷がかかるのではと心配しながら。それに東眞は小さく笑い声を立てる。
「大丈夫だから」
「…」
 その顔色は幾分良くなってはいるものの、やはり普段の顔色よりも悪い。
 備え付けの椅子に腰かけて、修矢は東眞と視線を合わせた。
「…大丈夫じゃ、ないだろ。まだ、しんどいんだろ。わかるから、嘘、吐かなくていい。吐かないで」
 顔を俯かせてそう呟く修矢の頭に東眞はそっと手を乗せた。その手がゆっくりと動く。温かくて、柔らかな、久し振りのその感触とぬくもりに修矢はくっと軽く唇を噛む。
「心配かけたくないんだよ、修矢には」
「そんなに頼りない?」
「そうじゃなくて」
 違う、と東眞はその短い髪をくしゃりと混ぜて、その下にある瞳をしっかりと見る。まっすぐな瞳に修矢はほっと安心感を覚えつつ、しかしどこか不安におびえてそれを見返す。ベルフェゴールの言葉が、まだ突き刺さっている。
「私が、修矢に笑っていてほしいから。姉として、ね。だから、そんな悲しそうな顔しないで」
 どうかしたの、と東眞は修矢に問う。それに修矢は一度口を開いて、また閉じて、それから膝の上の拳をぎゅぅと握りしめて、ごめんと言った。東眞は修矢のその癖をよく知っていたので、それから先に言われる言葉をのんびりと待った。一二秒、それからもう少しの間を持って、修矢は口を開いた。
「―――――――俺、自分のこと、しか…、考えて、ない?でも、安心したんだ。姉貴が無事で、良かったって。『あの時』みたいに、体が冷えて、なくて…ほんと、に…安心、した。姉貴のから、だ…、冷たかったら、俺…っ!」
 おれ、と憤った修矢だったが、次の瞬間温かな感触に包まれたを知る。とくりと耳元でなった心音と、柔らかな人のぬくもり。修矢の頭を抱えて、東眞は赤子を抱き締めるように、大丈夫と繰り返した。
「生きてるよ、修矢」
 『あの出来事』は確実に修矢の心に消せぬ影を残したのだな、と東眞は深くそう思う。
 あの時に比べれば修矢は確かに成長した。だが、やはり死の影からだけは抜け出せそうにない。何よりも、己の目の前で散りかけた命である。それがもし、桧と天秤に賭けなければならない出来事であれば、修矢は桧を取っただろうし、躊躇なく決断しただろう。しかし、あれはまさに過失である。己の過失が招いた喪失。だからこそ、それは深く、より深く影を焼きつけていった。
「だから、大丈夫。それに修矢が守るべきものは、もう私じゃないでしょう?」
「…ん」
 うん、と修矢は東眞の体に手を回そうとしたが、その瞬間にもういいだろうとばかりにXANXUSがその首根っこを引っ付かんで無理矢理ひきはがす。上から落ちてきた鋭い視線を修矢は反対に睨み返して、放せよとXANXUSの手を振りほどいて立ち上がる。
 修矢は東眞の顔をしっかり見て、笑う。
「俺、明日学校あるからさ、帰るよ」
「うん」
「無理しないで、姉貴。それから、メール出すから。体の調子よくなったら、返事くれよな」
「うん。気をつけてね」
「ん。じゃぁ――――――――また、な」
 姉貴、と手を振った修矢に東眞はひらりとその手を振り返した。修矢は嬉しそうにはにかんでからその部屋を退出する。不機嫌そうな顔をしたままのXANXUSは腕に抱えていたセオを東眞に返す。クソ餓鬼が、との呟きに東眞は苦笑する。
「邪険にしないでくださいね」
「知るか」
 つっけんどんに返したXANXUSに東眞は苦笑を再度こぼしてから、腕の中の小さな命に目を落とす。それは、まさに命をかけて産んだ存在。奇跡の証。頬を指先でなでれば心地よいのか、あぁ、と小さく声が上がった。
 幸せだ、と東眞はそう思った。
 一つ大きな秘密を抱えたが、それを相殺できるほどの幸せである。話す必要もないその秘密はもう、きっと誰の口にも上ることはないだろうから、この幸せに埋もれて、きっと忘れてしまうだろうと。そして秘密は秘密でもなんでもなくなって、始めからなかったこととなる。これが、最善の方法だった。
 もしもあの時にXANXUSに全てを告げていれば、この幸せはここにはなかった。腕の重みは存在していなかった。XANXUSが父親として心配したり、色々と苦労したりする姿も見ることもなかった。命の重みをこれほどに感じることもなかった。胎動に二人で耳を澄ませて、産まれてくるであろう命にわくわくすることもなかった。
「―――――――――セオ」
 東眞はその名前を、XANXUSがつけたその名前を呼ぶ。
そして東眞は、隣に座っているXANXUSに、どんな子に育ちますかね、と微笑んだ。

 

「でも、ベルがそんなに東眞好きだなんて意外だわ」
 ルッスーリアのその言葉にベルフェゴールはちげーよ、とそれを否定する。何が違うのかよくわからず、ルッスーリアは小さく首を可愛らしく傾けた。それをベルフェゴールはキモイ!と顔を顰める。
「東眞はボスのだし、んなこと知ってるっての。ただ」
「ただ?」
「今のこーいうの、嫌いじゃねーから。前みたいなボスもカッキーけど、今のボスもいいって思う。それに面白れーし。東眞の作るケーキも旨いし。暖かいし」
 だから、とベルフェゴールは、それを当然のように口から言葉にした。自分を偽ることをしない王子の言葉はまさに真実である。
「じゃぁ、面白くなくなったら、ベルはどうするの?」
「―――――――知らね。その時になったら考える。どっちにしろ、ボスは絶対だし」
 『ボスの』東眞であるから、ベルがつまらなくなったからと言って玩具のように壊すことは叶わない。成程、とルッスーリアは納得した。もし、それが崩されることがあるとすれば、ベルは躊躇なく東眞を殺すことだろう。そんな日が来るのであれば、の話だが。
 だが自分はどうだろうかとルッスーリアは考える。そして結局行きつく思考は同じなことに対して、小さく笑った。そこに幾許かの躊躇いが存在するとはいえ。勿論、自分とて今のこの現状は気にいっているし、好ましいとも思っている。けれども、それは間違いなくボスが東眞を愛しているが故で、そしてそれも東眞がXANXUSを惹きつけるだけの何かを持っているからである。
 XANXUSが東眞を殺せと命じる時が来るのかどうかは分からない。けれども、それがもしもくるのであれば、
「そうね、ボスは絶対だわ」
 最後に首を垂れるべき存在は、言わずもがなである。
 その思考をシャルカーンの呟きが遮る。
「ボスの、東眞サンなんですヨネ。結局」
「ええ、その通りだわ」
「―――――――――――そして、」
 まるで何かを含んでいるかのような言葉にルッスーリアは疑問を抱いたが、それに対して質問をすることはなかった。恐らくそれを聞いてもわからならいだろうし、聞く必要もなかった。
 シャルカーンは続けた。
「ボスの妻、なんデスヨ」
 その言葉は閉ざされた扉の向こうに届くことはなかった。