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耳に、届いた声にほっと息を吐いた。
全身がただただだるく、気を抜けば意識を持って行かれそうな感じがしていた。それでも、耳に届く元気のよい泣き声に促されるようにして、眦から涙が零れ落ちる。一瞬、もういいだろうかという考えが脳裏をよぎった。
東眞サン、と呼ぶシャルカーンの声がどこか遠くで響いている。もう指一本動かせそうにない。
体が、どんどんと寒気を帯びて冷えていく。一つ一つが体から、心の臓から切り離されていく感覚だった。瞼が――――――――、重い。
「東眞サン!」
浅く短い呼吸を繰り返して、意識が混濁している東眞にシャルカーンは呼びかける。
赤子は無事に産まれ、産声も上げた。気の流れも正常で、赤子の方はもう心配いらない。だが、母体の方が危険な状態に陥った。出血の量も多かったせいか、体温がどんどんと下がっている。出産が済んだことで、輸血を開始しているが、なかなか体温が戻ってこない。また、一気に体内の気を移動させたため、その反動によるものも大きい。
ぱち、とシャルカーンは軽く東眞の頬をはたく。
「東眞サン!シッカリしてクダサイ!」
現時点において、施せる全ては全て手を尽くしている。気をこれ以上コントロールすることは好ましくない。後は本人の気力次第なのである。それこそシャルカーンが手を出せる分野ではない。
私は、死にませんから。
その言葉に嘘がないことを、シャルカーンはただ祈るばかりである。これで、後数分意識が戻らなければ、命を失う危険性が出てくる。
使いたくなかったが、とシャルカーンはその両指を東眞の頭に添えた。一つ、一つ、指先で東眞の側頭部を押していく。ぐ、と東眞の顔が顰められた。シャルカーンはそのタイミングを見逃さずに、東眞に語りかける。
「ボスを残しては、死なないのデショウ」
はっきりと、しかしその言葉は東眞の僅かに持ちあがった意識に溶け込んだ。死なないのだと、残しては決して逝かないのだと。
東眞の顔色にようやく血の気がゆっくりとだが、戻っていく。荒い呼吸が静かなものに変わっていった。
「長く、ゆっくり、呼吸を繰り返してクダサイ。ソウデス」
目の焦点が合い始めて、シャルカーンは胸をなでおろす。瞳がこちらを見て、唇がかすかに動いた。顔色も戻ってきたとはいえ、まだ青白い。
「赤チャン、無事に産まれまシタヨ」
そう言って、シャルカーンは東眞に産着を着せた赤子をそっと差し出す。まだ手に力が入っていないのか、腕が震えていたので、シャルカーンは東眞の手が赤子を抱くのを手伝う。
そして、東眞の腕の中に小さな命が抱かれた。ほろ、と涙が頬を伝って、くしゃくしゃの赤子の顔に落ちる。
わっと体調が戻ったことに、周囲がわいた。そしてシャルカーンもぱちぱちと手を叩く。しかし、その拍手がどうにも変った拍子を打っている。ぱち、ぱちぱち、ぱ、ち、ぱちち、ぱちん、ぱちぱち。
「シャルカーン様、それはどこの国の拍手ですか?」
一人の男の言葉に、シャルカーンはにっこりと微笑んだ。そして、
「ワタシと東眞サンの会話をアナタ方は何も覚えてまセン。一切合財、スベテ」
その部屋にいた、今まさに扉を開けて報告に行こうとした者の足すらも止まる。一秒二秒、それから五秒たって、シャルカーンは一際大きく手を打ち鳴らした。すると、その場にいた人間は何事もなかったかのように動き始めた。
動き出した空間、そして開けられた扉の向こうに見えた己の上司と満身創痍の部下の姿に、シャルカーンはヤレヤレ、と肩をすくめた。
「XANXUS様!お産まれになりました!」
開け放たれた扉から出てきた男の言葉にXANXUSは誰よりも早く反応して、修矢など完全に無視をし、部屋に一歩踏み入れた。そして、赤子を抱いて泣いている女の姿に言葉を無くす。腕からは輸血用の管が生えていた。
小さな子を抱いて、微笑んでいたその瞳がゆっくりと移動して、こちらを見る。色の悪い唇が言葉を紡いだ。
「―――――XANXUSさん」
その声を、もうかれこれ何カ月も聞いていないような感覚にとらわれながら、XANXUSはようやく東眞の隣に立つ。見下ろしたその姿は、随分と弱弱しく見える。しかし、腕の中に抱えられている子供、自分の子供は小さな手を振っていた。
「抱かれマスカ、ボス」
シャルカーンは呆然としているXANXUSに一声かけてから、動きもままならない東眞の腕から一度赤子を受け取ると、それをXANXUSに差し出した。目の前に出された子供を受け取ろうとしたXANXUSの動きが、一度ぴたりと止まる。殺してはしまわないだろうか、と思うかのように。それを東眞はどことなく察知したのか、柔らかい声でXANXUSを促した。
「抱いて、ください」
「…」
細い言葉に促されて、XANXUSは産着を纏った赤子をその手の中に抱き締める。危うく落としかけて、しっかりとその胸に抱き直した。小さい、というのが一番初めの感想だった。猿のような顔をして、しかしそれはしっかりと生きて、生きようとしていた。
片腕で抱き直して、顔に触れようとすると、その小さな口がちゅぅと指を吸った。ぎょっとしてそれをはずそうと体が動き始めたが、迂闊に動くと赤子を取り落としそうで恐ろしい。指を吸われた状態でXANXUSは動きを止めた。
そこにひょいとティモッテオが隣からのぞきこむ。
XANXUSと東眞を囲うようにして、他の面々もXANXUSの腕の中の赤子を覗き込んだ。
「おお、可愛いなぁ…」
「う゛お゛ぉ゛おい!!小せぇじゃねぇかぁ!」
「ちょっと、うるさいわよ、スクアーロ!」
「うっわ、猿みてー」
「赤ん坊なんてそんなものだよ」
「…ぼ、ボスの子供…っ!!」
ベルフェゴールは手を伸ばして、抱かせてとXANXUSにせがむが、XANXUSもどうやって渡したらいいのか、分からないようでそのままの状態から動けない。表面には一切出していないが、明らかに狼狽しているXANXUSにティモッテオが助けを出して、その腕からゆっくりと赤子を受け取る。
そしてあやすように一二度ゆすって、幸せそうな顔をして、その後にベルフェゴールに差し出した。
「しっかりと、落とさないように」
ティモッテオの手から赤子を受け取ったベルフェゴールはその軽さに驚きを見せる。それにマーモンがしっかりと説明を入れた。
「ししっ…うっわ、軽!」
「赤ん坊の平均体重は3000gと言われてるんだ。ところでシャルカーン、男と女どっちなんだい」
マーモンの質問に、未だ動きを見せなかったXANXUSがようやく我に返った模様で、シャルカーンに視線をやる。シャルカーンは相変わらずの笑顔で男の子デスヨ、と軽く手を振った。
「早産デシタシ、3000はありまセンネ。でも十分デスヨ」
男、との言葉にまたレヴィは感涙の涙を流す。東眞に向かってよくやったぁああ!と叫ぼうとしたらしいのだが、シャルカーンはレヴィの握りしめた拳、手首辺りをそっと握りしめた。すると、レヴィの体はあっさりとぐらついてその場に倒れる。
「ハイハイ、妊婦サンは安静にさせてあげてクダサイネ。大変だったんデスカラ。ホラ、キミもデスヨ」
そうシャルカーンは東眞の手を握りしめて離さない修矢に声をかけた。ぐすぐすと泣いて強く手を握りしめている修矢に、東眞は動きの鈍いもう片方の手を伸ばして優しくその頭をなでた。
「よかった…っ、よか、った…っ!」
「…」
しゃくりあげて、東眞の無事を喜ぶ修矢に東眞はただ頬笑み、わざわざ日本から飛んできた義弟に有難う、と声をかけた。そして、一つかかった影に顔をゆっくりと動かす。まだ体の動きはひどくのろく、上手く動いてくれない。
頬に大きな手が添えられて、赤い瞳が距離を縮める。
何を言うべきか、何を言ったらいいのか、酷く思いつめたような顔で、しかし最終的には口から付いた言葉をXANXUSは東眞に告げた。
「――――――よく、やった」
「はい」
その一言に東眞は目を細める。頬に添えられている手が優しく温かく、心が落ち着く。
にしても、とスクアーロは周囲を見渡しながら、その真赤な景色にう、と喉を詰まらせた。床にも血が飛び散っているし、トレーの上は血で染め上げられた布が大量に置かれている。
「…まるでスプラッタ工場だぜぇ…」
「出血が多かったデスカラネ。大変だったんデスヨ?ナンデスカ?任務で見なれてるデショ?」
ワタシは嫌いデスケド、と付け加えたシャルカーンにスクアーロはまぁなぁ、と曖昧に返事をする。
だが、命を生み出す場で、このように大量の血を見ると気分がすぐれない。小さく呻いたスクアーロをベルフェゴールはだらしねーの、と揶揄する。それにスクアーロがなんだとぉ!と大声をあげかけたが、な、の一文字目で飛んできた医療器具に頭を吹き飛ばされた。激しい音と共に、スクアーロは部屋から転げ出る。
「な、何す、
んだぁ、と続けようとしたが、赤い瞳の鋭さにスクアーロは言葉を詰まらせる。XANXUSは瞳だけで、先程までのあの命を見下ろすような優しさは一切含まれず、スクアーロを睨みつける。そして、いつもの一言を吐いた。
「るせぇ…」
てめぇ、かっ消すぞ、と暗に言っており、スクアーロはそれを敏感になる必要もなく察知した。普段よりも低く、抑えた声で、スクアーロはう゛ぉ゛いと返事をした。
ルッスーリアは赤子を抱きしめて、可愛いわねー!と大喜びする。
「んもう、女の子だったら、私が服のコーディネートとかしてあげるのに!あ、でも男の子ででもコーディネートしてあげてもいいかしら?ね、ボス!」
「……勝手にしろ」
そしてXANXUSは今度は自分から進んでルッスーリアの手から自分の子供を抱き上げた。小さな、あまりにも小さすぎる命の塊を見下ろした。
その時の表情に、周囲の者は一瞬だけ言葉を失う。すぐに消えてしまったその表情に。
XANXUSは東眞に赤子を返す。そして、短く、大変短くある言葉を口にした。
「セオ」
餓鬼の名だ、と続けたXANXUSにティモッテオが隣から、私につけさせてくれないのかい、と酷く残念そうに肩を落とした。それをXANXUSは一睨みして、ふざけんじゃねぇ、と一蹴した。
東眞はそんなやりとりを見ながら、ゆっくりと口元に笑みを添える。
「いい、名前ですね」
その言葉に、XANXUSは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。シャルカーンはそこでようやく二人の会話に割り入った。
「ボス」
「何だ」
振り返ったXANXUSにシャルカーンは一礼して、その両手を合わせてみせる。
「今日明日、東眞サンは寝かせておいてあげてクダサイ。体全体の気を動かしましたカラ、それが定着するのに時間がかかりマス。無理に動かすト、気の流れが壊れて大変なコトにナリマス。一月に一度は気の流れを固定し直しマスカラ、お願いシマス」
「…いつまでだ」
「体に無理をさせずニ、完全定着させるのには時間がかかりマス」
「…許可する」
アリガトウゴザイマスとシャルカーンは頭を下げた。そして、ベッドを用意させまショウとゆっくりと背を向けた。
奏でた足音は、その場には不自然なほど、不釣り合いであった。