21:父と子 - 8/8

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 冷えた体に熱いシャワーを頭から浴びて、体を適当に拭いて下着とズボンを履いた。外に出てどっかりとベッドに腰を落とした。濡れたままの髪からはたほたと生乾きの肌の上に雫が一つ二つと落ちていく。ふぅ、と短く息を吐いた。ちらりと視線を動かして机のグラスに冷水を注いでいる背中を見やる。
 東眞はグラス一つに氷の入っていない水を入れてXANXUSに差し出した。XANXUSはそれを無言で受け取る。
「…見た目さっきと変りませんね」
「濡れてるからな」
 整えておらず、しっとりとしている髪は皮膚にへたりと貼りついている。男前が上がってますよ、と笑った東眞にXANXUSは一度言葉を失って、しかし、ああと肯定を返した。
「乾かしますか」
「ああ」
 そう返事をすると、ベッドの背中側がぎしと人一人分の重みを持って沈み込む。そして、頭にごうと温かい風があたって髪を乾かし始めた。細い指先が髪に風が当たるようにと動かされる。瞳を閉じればその感触が良く分かった。
 疲れた、とふっとそんな言葉が脳裏をよぎった。体の力が抜ける。
 指先の動きが流すようなものから、梳くような感じにに変わっていく。髪が次第に軽くなってきていた。耳元の喧しい音がかちんという音と一緒に止んで、髪に触れていた手が消えてしまった。この髪のまま出て行くのは憚られるので、ワックスを手にとってふわりと乾いた髪を大雑把な動きで整える。そしてハンガーにかけてある乾いたワイシャツに袖を通した。ネクタイしますか、と聞かれてくるりとXANXUSはそちらに足を向ける。
 東眞はふわりと笑ってXANXUSにネクタイを差し出した。だが、XANXUSは動かない。じ、と東眞を無言で見下ろしている。
「?」
「…」
 暫し無言で見つめあって、東眞はああ、と笑った。XANXUSは小さく鼻を鳴らして視線を逸らす。少し背伸びをしてネクタイをまわすと手慣れた様子で東眞はきゅと締めた。そしてきっちり締められたネクタイをXANXUSは指で軽く崩す。別の隊服を肩にばっとかけて、ごつりとブーツを鳴らして部屋を出る。東眞も部屋から出て応接間ですよね、と一度確認してから台所に向かった。
 その方向と反対方向にXANXUSは歩きはじめる。ごつ、ごつ、と重たいブーツの音が廊下に響く。珍しいことに誰ともすれ違わない廊下は非常に広く感じる。考えたら誰の顔も見たくなかったので、ルッスーリア以外は幹部全員任務に叩きだしたのだ。そうだった、と思い出しながらブーツを鳴らす。
 一寸前の扉の前では老いぼれを案内した隊員が一人きちっと番犬のように立っていた。そしてXANXUSが到着すると、扉をわざわざきっと中に押して開く。XANXUSがそれに対して礼など言うはずもなく、無言でその中に足を踏み入れる。行け、と通り過ぎざまに扉を押した部下に命令を下して、その場を離れるように睨みつけた。
 足を踏み入れた室内にあるソファには一人、白い髪を生やした老人がしっくりと腰を下ろしていた。その隣を無言で通り過ぎて向かいのソファにどっかりと腰を下ろして、机の上にどっかりと足を乗せる。
 XANXUSもティモッテオも、一体何から話すべきなのか言葉が浮かばずに無言のまま暫くの時間が過ぎる。やはり、先にその沈黙を破ったのはXANXUSの方だった。
「何だ、そりゃ」
「?」
「…てめぇがもってやがったやつだ。老いぼれ」
 視線すら合わせずにXANXUSはむすくれながらそう苛立ち半分にそう告げる。それにティモッテオはああ、と傍に置いていた袋を持ち上げる。
「いや、結局何がいいのかよく分からなくて…」
「は!くだらねぇ」
「これでも一生懸命選んだんだが…」
 どうだろうか、とティモッテオは小さなクマのぬいぐるみをその袋から取り出した。さしものXANXUSもその物体に絶句して米神辺りを小さく痙攣させる。
 その様子に気付いているのかいないのか、目の前の老人は恥ずかしげに笑ってこちらにその醜悪とさえ取れる愛らしいクマのぬいぐるみを差し出した。
「欲しがっていただろう?」
「―――――――――…っ!いつの話だ、この老いぼれが!!!!」
 強い音をたてて机に乗せていた足を踏み鳴らす。だがそのくらいのことで驚くようなティモッテオなはずもなく、少し残念そうにいらないのか、と尋ねてきた。
 やはりあのベンチで見捨てていくべきだったとXANXUSは酷く後悔した。
 そんなどこぞの糞餓鬼が喜んで抱きつくような形態を模した布と綿でできた物体を誰が欲しがるのか。少なくとも独立暗殺部隊VARIAのボスたるこの自分に向けて差し出すものでないのは確かである。
 ちっと盛大に舌打ちをかまして背中をソファに預ける。いらないのか、としょんぼりした老人に腹立たしさを感じながら視線を他所へと向けた。これ以上この老人に視線合わせていると三秒以内にこの応接間をぶち壊すだけの自信はある。
 残念だ、と言いながら自分の膝にその熊を乗せて、時折ちらっとこちらを窺ってくるその視線にブチ切れそうになった。だが、完全に堪忍袋の緒が切れる前に、失礼しますという声と一緒に優しいアッサムの香りがした。
 どうぞと東眞は二人の前にミルクティーが入ったカップを置く。そしてXANXUSの隣に腰をおろした。
「XANXUSさんアッサムのミルクティーお好きなんですね」
 その一言にXANXUSは危うく飲みかけた紅茶を吹き出しかける。げほ、とむせるだけで済んだ状態で、ぎょっと東眞に目を向ける。東眞はにこにこと笑って、聞きました、と答えた。誰がというのは言わなくてもすぐに分かる。この老いぼれ、とXANXUSはティモッテオを強く睨みつけた。そしてふと東眞はティモッテオの膝に乗せられているぬいぐるみに気付く。
「可愛いですね」
「でしたら差し上げよう。XANXUSはいらないようだから。欲しい人の手にあるのが一番だからね」
「…これ、XANXUSさんにお渡しするつもりだったんですか…?」
 差し出されたぬいぐるみを受け取りながら、東眞はティモッテオにそう尋ねる。まぁ、とそれに短い答えが返ってくる。
 ふざけやがって、とXANXUSはぎりっと歯を噛んで、紅茶を一気に飲み干した。いります?と東眞がポットを差し出したので、XANXUSは一つ頷いた。東眞は空になったカップに注ぐ。
 だがそこでふ、とXANXUSは不思議なことに気付いてティモッテオに目を向けた。あのクマのぬいぐるみはどう考えてもあの雰囲気の中渡せるようなものではない。何故そんなものを持ってきていたのか。
 XANXUSの視線に気付いたのか、ティモッテオはほんのりと微笑んだ。
「いや、お前と仲直りができるなら、渡せるだろう?出来なかったら、結局渡せないわけだから…」
「…て、てめ……っ!」
 ふざけんじゃねぇ、と紅茶をぶちまけようとしたが、まぁまぁという仲裁に辛うじてそれはやめた。しかしカップを持ったその瞳に真剣な色が宿り、それはすいとXANXUSに向けられる。
「だが、あの時の言葉に嘘はない。お前は私の息子だよ、XANXUS」
「…」
 否定も肯定もせずにXANXUSは黙りこんだ。そして一つ鼻を鳴らしてそっぽを向く。ティモッテオはその反応に本当にうれしそうに微笑んだ。そして東眞の方に膝を向ける。
「…XANXUSが、お世話になっているようだ」
「…くたばり損ないが、一丁前に親面してんじゃねぇ。カスが」
「むしろ私の方がお世話になっていますよ。桧東眞といいます」
「東眞さんか…良い名前だ」
「着替えたらとっとと帰れ。車なら貸してやる」
 XANXUSは不機嫌さをどんどんと上げながら、ティモッテオを睨みつける。それに老人は小さく笑って、肩を落した。これを飲み終わるまではいいだろう、と軽くカップを持ち上げるとXANXUSは眉間に皺をよせて黙り込んだ。それに有難う、とティモッテオは礼を述べる。
 一口飲んで、おいしいと素直に東眞に感想を述べる。
「有難う御座います。え、ぇと…」
 初めて口ごもった東眞に老人は、ティモッテオだ、と名前を告げる。東眞はそれにティモッテオさんですね、と笑って返した。それに老人は少しばかり残念な顔になったが、東眞はそれに気付かなかった。
「は」
 ただしXANXUSはその微妙な表情の変化に気付いて、ざまぁねぇとばかりに鼻で笑い飛ばした。ティモッテオはそうやって笑うXANXUSに柔らかな目を向けて、カップをソーサーの上にゆっくりと置いた。
「服も借りたし、体も温まったから、私はそろそろお暇するとしようか」
「居座るつもりなら蹴り出すぞ、老いぼれ」
 やれやれ、とティモッテオはXANXUSの言葉に小さく笑った。お見送りします、と東眞は玄関まで付いて行く。XANXUSも不服気味ではあったが、取敢えず、かなり取敢えずと言った様子で玄関まで一緒に来た。
 外の雨はまだ降っていた。外には待たせておいた車が扉を開けて待っている。階段を降りかけたその背中に低い声が投げつけられる。ティモッテオは前を向いたままで足を止めた。雨粒に消されないように、その声に耳を澄ませる。

「――――――もう、謝んじゃねぇ」

 次謝ったらかっ消すぞ、とその背中に言葉を投げつけてXANXUSは外の老人に背を向けた。そして、ああ、と短かな返事をしっかりと耳にしてから老人とは反対側に歩きはじめ、そして角を曲り、隊服の先が切れて消えた。
「東眞さん、XANXUSを――――――宜しく、頼んでもいいだろうか」
 ティモッテオは一度振り返って東眞にそう告げた。東眞はぱちりと瞬きを一度して、はい、と確かに返事をした。その返事に老人は柔らかく、見るだけで落ち着くような笑顔を浮かべて、有難うと告げた。
「貴女という女性に出会えて、XANXUSが貴女を選んで、本当に良かった」
 有難うともう一度告げると、ティモッテオは車の中に消えた。東眞はその車が見えなくなるまで見送っていた。

 

「あ、」
「あぁ?」
 東眞は応接間に戻って、小さく声を上げた。一足先に戻っていたXANXUSは声をこぼした東眞に怪訝そうな視線をやる。その視線は壁際に立てかけられているものに注がれていた。
「ティモッテオさん、傘、忘れられてますね…」
 取りに来られるんでしょうか、と言った東眞にXANXUSの脳裏に人の好い(とみせかけた)老人の顔がよぎる。
「―――――――――――――…っあの、」
 大きな手がソファに置かれていたクマのぬいぐるみを鷲掴み、老いぼれが!!!と、ものすごい勢いで傘に向かって投げつけられた。

 くしゅん、と小さくくしゃみをして体を小さく震わせる。
「風邪でも引かれましたか、九代目」
「…いや、誰かが噂でもしているんだろう」
 くすくすと笑いながら、老人は家光に微笑んだ。そして、また傘を取りに行こうとそんなことを、思った。―――――――――間違いなく、あのどら息子は眉間に皺を寄せるのだろうが。