21:父と子 - 7/8

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「雨、降りそうですね」
 東眞はまな板の上で動かしていた包丁を止めて、窓の外を眺めたままそう呟いた。隣で野菜を洗っていたルッスーリアがそうねぇとぼやく。そして溜息を一つついた。
「何だか気分も今イチのらないし、やっぱり雨は嫌ね。せっかく決めた髪型も台無しだわ」
 んもう、と頬を膨らましてルッスーリアは今朝方から気にかかっていたことを東眞に尋ねようと口を開いた。それはあまり大したことでもないのだが、非常に珍しいことなので誰しもが気になっていた。が、東眞の機嫌が悪いというわけでもないのでどうしてそうなっているのかがさっぱり分からないのである。
 なんですか、と東眞はルッスーリアに笑顔で返した。
「今日…は、ボスと一言も話してないわよね…?ボスったら部屋にこもったままで、誰とも会おうとしないし」
 XANXUSがVARIAの人間に会おうとしない日は少なからずあるものの、東眞に会おうとしないという日は少ない、というよりもない。それどころか傍にいないと不機嫌になって腹を立てるし、そんな時に迂闊に部屋に入りでもしたら血を見ることは明らかである。
 だが、今日はXANXUSが東眞を呼びだそうとしていない。むしろ遠ざけているきらいがある。ああまで一人にしろという雰囲気を纏っている姿は久々に見た。それに多少なりとも不安を感じないというのは嘘である。
 ルッスーリアの言葉に東眞は目線を手元の包丁に戻して、また手を動かし始めた。
「知ってるの?」
「…知っているといえば、知っていますが…でも、私がそれを口にする権限は、ないんです」
「…」
 こちらも珍しい答えにルッスーリアはあら、と驚きを隠せない。秘密です、と軽く笑ってかわす事はあっても、こうまではっきりと口にしないことを公言することもない。
 二人して一体どうしちゃったのかしら、とルッスーリアは頬に手を添えて小さく溜息を再度こぼした。

 

 灰にした紙片に書かれていた内容は、いくらかき消そうとしても瞼の裏にくっきりと焼き付いて消えてくれない。どこにもぶつけようのない苛立ちを込めて机を強く叩きつけて、下を向く。
 今更どうしろと言うのだ。自分を裏切った老いぼれに一体何と声をかけるべきなのか。
 てめぇは悪くねぇ、悪いのは俺だ。馬鹿な。てめぇが俺を息子として認めていたのは分かっている。くだらねぇ。俺はもうてめぇを憎んじゃいねぇ。ふざけんな。俺は、てめぇの息子だ。言えねえ。血も繋がっていない人間が息子であるはずがない。
 無償で吐き気がするほどの愛は、所詮ただの自己満足にしか過ぎないに違いない。
 あの老いぼれは自分が父と呼ぶたびに一体どんな気持ちでいたのだろうかは、想像もしたくない。憐れみか。そんなものは欲しくねぇ。くだらねぇ。馬鹿にすんな。俺は気の毒でも可哀そうでもねぇ。見下される人間ではない。見下す側の人間なのだ。
『九代目は血も掟も関係なく、誰よりお前を―――――――――認めていたはずだよ』
 沢田綱吉の言葉が頭の奥でちらついている。あの時瞬間的に脳裏をよぎったのは、憎らしいことにあの老いぼれが寒さで凍えていた首筋にマフラーをかけたところだった。あのマフラーは、温かかった。人の、ぬくもりが
「くそ!」
 苛立ちと燻ぶり続ける焦燥を声に出して吐き出す。
 無償の愛など欲しくはない。無償の愛などありはしない。無償の愛を裏付けているのはただ一つの優越感だ。他人よりも自分の方が勝っているという感覚から、弱者と判断した人間に手を伸ばすのだ。自分はそんな人間ではない。弱くなどない。強い。絶対的な、力を持っている。どうして自分に手などのばしたりしたのだ。情けなどかけたりした。放っておけばよかったのに。妄想に取りつかれてしまった自分を生んだ女に向かって、こいつは自分の子供ではないとはっきり言ってやればよかったのに。何故だ。
 惨めだ。
 たまらなく、惨めにさせる。血が繋がっていないことよりも、自分が一時でも父と呼んだ人間が、自分を憐れんだというその事実に。激しく打ちのめされる。父だと信じた人間に、自分が信じた人間が、自分に「嘘」を吐き続けていたというその事実に。
 初めから教えれば良かった。血が繋がっていないと教えていれば、それで良かった。期待などしなかった。血が繋がっていなくても、自分はあの老いぼれを「父」として、否、父ではなくとも養父としては認められた。
 なまじ期待などさせたから。
『せめて、わしの手で』
 あの後に続く言葉に、ああやはりと思った。
 優越感を抱くための子供が反旗を翻したから。自分はこんな惨めだった子供を育ててあげたんだという優越感が得られなくなったと思ったから。だから――――――――――――――、やはりこの老いぼれは自分を愛してなどいなかったと、思った。思い知らされた。
 人に言われたから殺さずに済まそうとしたのか。殺さずに済んだら確かに自分は「心の優しい、あんなみすぼらしく愚かな子を救った」人間になるのだから。称賛と尊敬のまなざしを周囲から集め、そして自分は高見からこちらを見下ろすつもりだったのか。
 誰かを見下す愛などいらない。見下される愛もしたくはない。
『信じます、XANXUSさん』
 電話越しの声はそう言った。そして自分も信じろと言った。知らなかった。聞いたこともなかった。そんなことを相手から要求されたのは、初めてだった。
 信じたい。信じたい。裏切られたくない。もう、あんな屈辱と――――――――――切なさを、味わいたくない。
 憤怒で覆っていた奥底の感情を一瞬で掬われた。嬉しかった。
 そんな彼女からすれば当然のことを自分は今まで一度も与えられなかった。自分を信じてくれなど、今の今まで一度も言われたことがなかった。信頼は与えられるものであって、与えるものではなかった。

(与えかったのに。本当は)

 ぱつ、と背後のガラスを雨が叩き始めた。俯いていた顔をあげて外に視線をやる。ぱつぱつと小さな音だったそれが、次第に大きく長くなっていく。今日の雨は降り始めたら長そうな雨だ。
 紙片の文字が脳裏に浮かぶ。ぐっと唇を強く噛みしめる。
 雨の音はだんだんとまして、まるで自分を責めるように音楽を作り出していく。耳から入り込んでくる音を遮断したくて、両手でその耳を塞ぐ。指先に触れた傷跡にぎち、と奥歯が鳴った。
 と、扉が開いた。入っていいとは誰も言っていない。視線を上げたが、誰も立ってはいなかった。閉め方が甘かったのかはたまた風が吹いたせいか。
 開けたままにしておくのは気持ち悪く、椅子から立ち上がり扉を閉めに行く。扉を閉めようと取っ手に手をかけて、ふと扉の端に置かれていた傘に目が行く。東眞が先日持っていた傘だった。
 雨が降ったからどうせ、と思う。やるせない。
「――――――――――――――――――、くそ」
 手はその傘を掴みとって、閉めた扉を再度開く。足は外に部屋の中から外に出た。車を出せ、と手近なものに命令させて玄関まで行く。
 そして、外への扉に手をかけた。
「行ってらっしゃい」
 自分の想像よりも聡い女は多分粗方のことを知っているのかもしれない。だが、何も聞かない。普通ならば、聞きたいと思うのが普通ではないのだろうか。
 XANXUSはそこで初めて動きを止めた。行ってらっしゃいとだけしか言わない意味を考えた。そして一つの答えに至る。ああそうか、と。
 この女は、東眞は、彼女を信じている俺を信じているのだ。
 だから何も聞く必要がない。信じていると言ったから、信じられているのだ。ただ相手が無条件に信じているだけではない。だから、決して、裏切らない。
 ああと口からは二つの音がこぼれ、その答えに温かいもの用意しておきますと返ってきた。そして不思議なほどに軽くなった心で、扉の下をくぐった。
 外の雨は、少し、弱くなっている気がした。

 

 肌を打つ雫は酷く冷たい。一体どれくらいこのベンチに座っていたのか、もう、覚えていない。
 紙に書いたのは、ただ今日待っているという言葉だけだった。だがそれだけでも十分に伝わることは分かっている。
 降り注ぐ雨は自分に対する罪だと思う。
 せめて、と言った後に吐き出されたXANXUSの言葉を思い出せば今でも胸が詰まる。何故と問うのは間違っていた。それは愚かだった。この身をとしてでも、愛していると伝えるべきだったのだ。
 長引かせた、重ねた分の嘘だけXANXUSは確実に傷ついていた。どれだけ辛かっただろうかと思う。十代目になれないのは自明なのに、十代目として呼ばれるのは。自分を父と呼んだその分だけ深くその心は打ちのめされたことだろう。裏切られることの悲しみを植え付けたのは自分だ。
 雨は、それでも冷たかった。この雨が氷にでもなって我が身を貫けばと自虐的な思考に陥る。
 分かっている。こんな所で雨に打たれて濡れ鼠になりながらベンチに座り続けたところでXANXUSが来ないことくらいは。VARIAのボスとしての用事がなければ声すらも聞きたくないのであろうことも。それでも、座らずにはいられない。
 自分は待っているのだ、と。
 自分に対する気休めなのかもしれない。こうやって打たれ続けることで懺悔の代わりになるならばいくらでも打たれてみよう。それであの子の、深くえぐれてしまった傷を少しでも埋めることができるならばと思う。この行為に大した意味などなくても。
 ほう、と吐き出した息が白くなったように見えた。五月にもなってそんなはずもないのだが。ただ、雨に打たれ続けた体だけは驚くほどに冷めていた。包みを抱えている手は雨でふやけてしまっている。元から皺でいっぱいだった手に、さらに多くの皺が刻まれていた。
 と、雨が途端に止んだ。そして雨の代わりに声が降ってきた。
「ボンゴレファミリーのドンが、みすぼらしい恰好晒してんじゃねぇよ」
 ぱつん、と上に雨をよけるようにさされた傘が落ちてくる雨をはじいた。濡れた体に雨が、かかってくることはなくなった。ただ、目の前に立っている男にはばつばつと雨が降り注ぎ始める。
 整えている髪の毛が雨でべとりと顔に張り付いていた。
「XANXUS」
 老人は、ボンゴレ九代目は、そしてXANXUSという男の父は、その名前を呼ぶ。XANXUSは老人を、ボンゴレ九代目を、そして自分の父であったはずの男を見下ろした。睫毛が雫をはじいた。
 先に口を開いたのはXANXUSだった。
「くだらねぇことしてんじゃねぇ」
 吐き捨てるように言われた言葉に老人は視線を一度落としかけたが、それを持ち上げた。そして、喉の奥から絞り出すようにして言葉を発する。
「家光が―――――――――、教えて、くれだのだよ」
「…」
 その、と九代目は手に持っていた包みを一度強く握る。ベンチに座っている今にも倒れそうな体は、そうしたせいか余計に小さく見えた。
「五月五日は、日本では、子供の成長を、祝う日だ…そうだ」
「…それが、どうした」
 XANXUS、と九代目は初めて、あの日から初めてXANXUSの目をまっすぐに見た。その視線をXANXUSは目を細めて、それでも逸らすことなく受け止めた。
 折れそうな首の喉仏が僅かに上下に動く。
「私に、お前の―――――――成長を、祝わせて、くれないか」
 XANXUSは返事をしなかった。九代目はそれでも口を、肺を動かして言葉を続ける。
「もう、子供の日からは随分と過ぎてしまった。だが、私は祝いたい。お前の成長を、祝いたい。私達の止まってしまった時間を――――――――――、動かそう」
「どの口が、言ってんだ。俺を裏切った、その口か」
 裏切った、との言葉に老人の言葉が止まった。XANXUSはそれにぎゅぅ、と目を細めた。流れ落ちているのは雨か、はたしてそれとも。
「俺を偽り続けたその口か、つってんだ」
「…私は、おまえを愛しているよ」
「ただの自己満足だろうが」
 雨が降り続く中、XANXUSは短くそう切り返した。老人はそれでも視線をそらさずにXANXUSを見つめる。
「お前を、息子として、愛している。認めている」
「信じられるとでも思ってんのか。騙して、欺いたのはてめぇだ」
 ぎり、と雨音に混じって、歯を噛む音が鳴った。
「それでも!お前は――――――――私の息子だ!」
「世迷い事言ってんじゃねぇ。血の繋がりもねぇのに息子も糞もあるか」
「血の繋がりなどなくても、お前は私の息子だ。私を――――――――――――――、XANXUS、
 ぐ、とXANXUSは米神に力を入れた。許してくれと続くのかと、体が僅かに震えた。もう、謝罪など、欲しくはないのに。
 謝罪を聞くたびにこの男が自分を高見から見下ろしているような感覚に襲われる。すまないすまないと謝り続けられるたびに、惨めになる。どん底に突き落とされる。謝ることが徳かのように謝り続ける男が憎い。
 また謝るのかと、自分を突き落すのかと、這い上がるたびにその一言で自分の足元を突き崩される。自分はこの男の   で、あることが謝罪される。それは   でないことと同じ事だ。
 またか、とXANXUSは傘を持っていた手を放そうとした。だが。
「信じてくれ」
 雫が、頬を伝った。雨なのか。
「私を、信じてくれ。お前は私の息子だ。私はお前の父親だ。父だ。私はXANXUS、あの時に、お前の父になったのだよ。お前と会ったあの日に、私は、おま
「うるせぇよ―――――――――――――、何度も、言ってんじゃねぇ」
 何度も、とXANXUSはもう一度繰り返した。
 強い雨は髪の毛を皮膚に落とし、その肌にいくつもの雫の筋を作っていた。眦からその雫が伝う。唇が無音の言葉を紡ぐ。強い破裂音の後に、小さな破裂音が一つ。B、a、b、b、o。XANXUSは唇を噛みしめた。老人は、父は息子の名前を呼ぼうとした。だが、XANXUSは視線を逸らして、静かに続けた。
「…ボンゴレのドンが風邪でぶっ倒れるなんざ、情けねぇ話流すんじゃねえ」
 立て、とXANXUSは父の上に傘をさしたまま命令した。そして、立った老人に傘を押しつける。
「てめぇのだろうが」
 そして背を向けて雨の中歩きはじめる。しかし、まだベンチの前に立ったままの老人に苛立ちを含めて振り返って怒鳴る。
「濡れ鼠で帰るつもりか、老いぼれが」
「…いや、しかし」
「るせぇ、くだくだ抜かすな」
 がつがつとXANXUSは老人を置いて再度歩きはじめる。少し先には黒塗りの車が待っていた。後部座席の扉が開き、XANXUSは無言でその中に乗り込む。運転手がタオルを一枚差し出して、それを乱暴に受け取る。
 そして、開けられたままの扉の前で立ち尽くしている男をXANXUSは睨みつけた。
「轢かれてぇのか」
「…いや、乗る。乗らせて、もらう」
 開いた傘を畳んで、九代目は車に乗り込んだ。そしてXANXUSから投げつけられたタオルを戸惑い気味に受取って、ありがとう、と笑った。XAXNUSはもう一言も話さなかった。

 大きく開けられた扉をXANXUSは今日で二度目になるが、そこを通った。九代目も仕事であればよく訪れているそこを、しかし私用では初めての扉の前で立ち止まった。それにXANXUSは米神に青筋を立てて、振り返って怒鳴りつける。
「ぶち当てんぞ、この老いぼれが!」
「す、すまない」
 どことなくぎこちないが、それは以前の関係とは違っていた。軒先が長いので雨が降り込むことはないが、スーツはすでにびしょぬれで、ぽたぽたと雫が床に落ちている。二人揃って濡れ鼠である。
 そこに声がかかった。
「お帰りなさい」
「帰った」
 どうぞ、と東眞は大きめのタオルをXANXUSに渡す。それで髪を拭いながらXANXUSはまだ立ち止まったまま、九代目に背を向けている。東眞はすたすたと普通に歩いて老人の前に立った。どき、と九代目は何を言うべきか言葉に詰まる。
 結局彼女も騙していたことになるのだ。焦っていると、東眞が先に口を開いた。
「初めまして――――――――、お義父さん」
「…気色悪ぃ呼び方すんな。老いぼれで十分だ」
 差し出されたタオルを呆然としながら受けとって、老人は、ティモッテオはその言葉を反芻した。そして胸がどうしようもなく熱くなった。情けない話だったが、ぼろぼろと涙が眦から零れてくる。だが、止まらない。
 東眞はそれに取り立てて何かを言うこともなく、優しく続けた。
「アッサムのミルクティー持って行きますね。その前に濡れた服着替えて下さい」
 風邪をひかれますよ、と言われた言葉の後に、XANXUSが部下の一人に案内するように命令する。
「XANXUSさんも着替えた方がいいですね。びしょぬれじゃないですか」
 傘持って行ったんじゃないんですか、と笑った東眞にXANXUSはうるせぇ、と行って歩きはじめた。そして数歩歩いて来い、と告げられて東眞は紅茶をと言いかけたが、分かりましたと言い直してその背中を追った。
 出て行った時よりも一つ増えた足音が、部屋の壁に響いていた。