21:父と子 - 5/8

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 目の前に突き出された生臭い物体にXANXUSは一歩下がりかけた。それを押しとどめて、笑顔でそれを持っている東眞を魚を通して見下ろす。
「確かスクアーロってマグロのカルパッチョ好きでしたよね」
「…」
 ここまで来てあのどカスの話を聞く羽目になるとは思わなかったとげんなりしつつ、XANXUSは目だけで肯定を示した。東眞は、ああでも作り方を知りませんと小さく笑った。
「XANXUSさんは作り方御存じですか?」
「…マグロ切って、野菜乗せるだけだ。食いたくねぇ」
 その言葉に東眞は食わず嫌いですかと尋ねるが、XANXUSは違ぇとそう短く返した。XANXUSの表情を見てから東眞は小さく笑って、じゃあルッスーリアに今度作り方を聞いておきますとそう答えた。話を聞いていなかったのかと一瞬XANXUSは思ったが、そんなはずはない。
「今日は何にしましょうか。昨日はパスタにしたんですよ」
 マグロを返して東眞は少し先を歩きながら、そうXANXUSに尋ねる。少なくとも暗殺部隊のボスがする会話ではないと思いながら、XANXUSは肉、と単語を返した。すると、じゃあサラダは何にしましょうかと、また話が返ってくる。
 こんな会話をしながら街を歩いているなどと、誰に言っても到底信じられない話かもしれない。
「サイコロステーキにして、あとポテトサラダと…スープもつけましょう」
「サイコロステーキ?」
 聞いたこともない名前にXANXUSは怪訝そうに眉を寄せる。東眞は御存じないんですか?とXANXUSに問うた。知らぬ、と答えるにはXANXUSのプライドが高すぎて、知ってると答えるしかなかった。けれどもそんな嘘はすぐにばれたようで、東眞はくすくすと笑っていた。
「何笑ってやがる」
 少しばかり機嫌が悪そうにそう睨みつけると、東眞は笑うのをようやっとやめて(それでも口元に柔らかい笑みが残っていた)いいえ、と答えた。
「晩御飯楽しみにしてて下さいね」
 こんな会話は日本語でやりとりしているので、隣を歩くイタリア人や店の人間には九割がた伝わって無いとみていい。ふん、と短く鼻を鳴らしてXANXUSは東眞の横に出る。
「肉はこの間スクアーロが買いだめしてましたからいいとして…ポテトサラダにジャガイモときゅうりと…それからスープの材料ですね」
 そう言って東眞はもう店の位置を覚えているのか、するすると人混みの中を歩き、こちらが大柄な体の所為で飲まれてしまうことなど忘れた様子で歩く。待て、とXANXUSは人の波に消えかける背中に声をかける。すると、一寸先の体がぴたりと止まって、笑って振り返る。
 そして、ああそうですね、と細い手が差し出された。
「XANXUSさんはこう言ったところにはあまり来られないんですね」
「…」
「迷子になったら大変です」
 ふ、と脳裏に一瞬だけ過去の記憶がフラッシュバックする。
 こうやって人混みの中を歩いて、欲しくもなかった飴を差し出したオイボレとの記憶だった。自分よりも大きな手、固くて骨ばった、しかしながら温かかった手。微笑みの――――――――――――、
「XANXUSさん?」
 声をかけられて、はっと我に帰る。くだらねぇことを思い出していた、と思いつつ伸ばされた手に触れる。やはりそれは、温かかった。この女の手に比べて、自分の手のなんと冷たいことか。くだらねぇ、とやはりその考えも一蹴した。先日から少し調子がおかしい。その原因は東眞が話していた「老人」によるものであることはもう分かっている。らしくもなく、動揺しているのだろう。
 そう考えていると、東眞が何故自分の肉親について何も問うてこないのかまで気にかかってきた。多分理由は自分が考えているよりももっとずっと単純なところに違いないのだが、もしも、と考えると少しばかり寒気がした。
 自分が自分を育てた男を自分を裏切ったことで本気で殺そうとしたことを話せば、どんな顔をするだろうかと。
 無論それで彼女が自分を拒絶したところで、もう手放すつもりは毛頭なく、そうなれば力で完全な服従をさせるしかないのだが。誰よりも肉親を大切にするこの女が、かつて自分がしたことを知った時にどう返すのかが、馬鹿馬鹿しくも恐ろしく感じている。  尋ねないから言わない。言わないから尋ねない。果たして真相はどちらなのだろうか。
 俺を、愛していると東眞は告げた。九代目の実子でも暗殺部隊のボスでもなく、そう告げた。ならばその「俺」が自分を育てた男を殺そうとした男ならばどうなるのか。
 ぐだぐだ悩むのは性質ではないが、不気味なまでに根幹に据えられている。けれども、あの男は自分に殺すと思わせるほどの裏切りを自分に与えた。今でも―――――――、それは。自分の手よりも一回り小さくて、そして随分と柔らかな手がこちらの手を握っている。不思議と不快ではない。心地よい。
 誰がそんなに食べるのかと思えるほどの野菜を購入しているので、片腕でそれを奪い取る。ありがとうございます、とさも当然のように礼が返ってきた。
「…」
「どうしました」
「…何でもねぇ」
 そしてそれからまたもう少し野菜を買い、今度は東眞自身で持ったので、繋いでいた手が離れる。人混みも抜けたので確かに手を繋ぐ必要はなくなったが、なくなった温もりに、手が少しばかり寂しさを感じた。
公園の中を二人で歩きながら、取りたてて大した会話をするでもなく、歩みを進める。中ほどまで行った時に、あれ、と小さな声が東眞の口からこぼれる。何だと尋ねてみれば、今日はいないみたいです、と答えが返された。
「あ?」
「ほら、お爺さんですよ」
 傘も持って来たんですけど、と東眞はそう言って傘を少し揺らした。雨も降っていないのに傘を何故持っていたのかの理由がようやっと分かる。
 少し座りましょう、と東眞はそこに腰かけた。XANXUSは一瞬だけ動きを止めたが、その隣に腰をおろした。固い。
「沢山買いましたねぇ」
「誰が食うんだ」
「そうおっしゃいますけど、結構皆さん食べますよ」
 そうだったか、と東眞の言葉にXANXUSは考える。確かにピザならばあっという間になくなるが。
「ベルは育ちざかりなんですかね。あんなに食べているのにちっとも太らないから羨ましいです」
「…てめぇはもちっと食え」
 と、XANXUSは東眞の方をちらりと見やる。その体つきはイタリア人女性と比べて随分と細く頼りない。もう少し食べてもいいくらいではないかと常々そう思っている。その言葉に東眞は標準体重なんですけどね、と答えた。
「細ぇんだよ」
「…細いですかねぇ…?」
 へたへたと体に触れながら東眞は小さく首を傾げる。
 そこまで言われるほど細くはないつもりである。確かに胸の肉付きはこちらの女性と比べて非常に残念な感じではあるが。修矢にはよく着やせしてるといわれるから、それもあるのだろうと東眞は頷いた。
 抱いている時折れそうな気がする、というのはXANXUSは言わなかった。まぁ太りすぎよりかはいい。
「ルッスーリアたちはいつ帰ってくるんですか?」
「…もう帰ってんじゃねぇか」
 ただの遠出の任務なだけなので、観光等々寄り道さえしていなければもう帰って来ていてもいい。難しい任務を任せたわけでもなし、二人の相性から言えば昨日の夜に帰ってきてもおかしくはない。仮眠後に任務終了報告が来ていたので、どうせ観光でもしている。
 そういえば、とXNAXUSはふと気付く。先程からちっとも自分の話が出てこない。スクアーロやルッスーリア、それにベルフェゴールの話は出てきたが、自分の話が振られない。意図的に外しているのかどうなのかは分からなかった。いつものことなのだが、このベンチに二人で座っていると、妙にそれが気に障った。
「てめぇは、」
 そうして、自分の考えている範囲の言葉とは全く違う言葉が口からこぼれた。
「俺のことは聞かねぇのか」
 何言ってやがると心が騒いだが、口にしたものは仕方がない。出た言葉は戻ってこない。視線を向けるのも何故か決まりが悪くて、視線は前方にある池に注がれていた。答えはまだない。
 しかし一拍二拍と置いたのちに、そうですね、と小さな答えが返ってきた。
 自分に興味がないとそれが一瞬で認識されて、ふつりと視界が怒りで染まった。けれどもそれは、微笑む女を見て一瞬で冷めた。東眞は柔らかい色を湛えたまま、XANXUSの問いに答えた。
「聞いて欲しいこと、ありますか?」
 まるで触れて欲しくないことを知っているかのようにそう聞き返された。
「あるなら聞きます。でも、それはXANXUSさんが話してもいいって思った時でいいです。何を聞いても。私は、目の前のあなたが、好きなんです」
 こだわったりしませんよ、と笑った東眞にXANXUSは言葉を一瞬だけ喉に詰まらせた。向けた瞳を再度逸らし、XANXUSは小さく、ねぇ、と呟いた。
 何だかその一言ですべてが片付いたような気がして、XANXUSは薄く口元に笑みを浮かべた。

 

「九代目」
「家光」
 公園が一望できる場所に立っていた老人に家光と呼ばれたスーツの男は声をかけた。九代目と呼ばれた男は、老人は、東眞が先日まであっていた男は、二人の男女が座っているベンチを遠く離れたこの位置から眺めていた。振り返らない老人に家光は一歩二歩と近づいて、最後の一歩だけの距離は空けたままにその歩みを止めた。
「…私は、弱い人間だ」
「九代目…そんなことは、ありません」
「いいや、私は弱い人間だよ。あの子を我が子として愛しんでやることもできない」
 それは決して彼だけの所為ではない、と家光は言いかけたが、その言葉は出過ぎたことと飲み込んだ。男は自嘲じみた笑みを少しばかりこぼして、ああ、と漏らした。
「私は――――――あの子が、XANXUSがああやって笑っているのを、一度も見たことがない。過去も今も。あの子は、あんな顔をして笑えるようになったんだね」
 知らなかった、と下を向いた男に家光は何と言葉をかけるべきか迷った。
「結局私が、あの子にしたことと言えば…無為に悲しみを教えただけだったのだろう。してやれたことの、何と少ないことか」
「…ですが、それは昔の話です。今はもう―――――違うのではないですか」
 九代目、と付け加えられた言葉に老人は一寸動きを止める。そして小さく、おまえも彼女と同じことを言うのだね、と笑った。
「XANXUSが選んだと聞いたから一体どんな女性かと思っていたが、実際に話してみると何のことはない、普通の女性だった。ただ彼女はとても優しいし――――――そして、自分を殺さない覚悟がある」
 ハウプトマン兄弟をけしかけたのは申し訳ないが、と口の先で小さく謝ってから男はまたベンチに目を向けた。男が立ち上がって、女に手を伸ばしていた。女はその手をしっかりと取っていた。
 それを見て、男の瞳は柔らかく細められる。少しなりの寂しさも含めて。
「XANXUSに彼女のような女性がいてくれて、私は本当に嬉しい。彼女は、息子を殺そうとした父をどう評価するのだろうか。そんな父を持つXANXUSを嫌ったりは――――――しない、だろうか」
 私の所為で、と続けようとした言葉を家光が止めた。
「あのXANXUSが選ぶ女性が、それを気にするとは…思えません。九代目、あれは仕方のないことでした。そして実際には殺さなかった」
「だが殺そうとした。きっとお前が殺すなと言ってくれたからだ。そうでなければ、」
「違います!それでもあなたは殺さなかった…あなたは、XANXUSを子として、愛していたではないですか…っ」
 だがそれは憎しみを生んだ、と男は小さく区切った。
 この二人は互いに背を向けているためにお互いが見えておらず、また互いに対する罪悪感から向かい合えないだけではないのだろうかと、家光はそう思った。だからどちらかが振り返ればそれが叶うのではないのかとも。
 そして家光はゆっくりと、一つの日本文化を男に教えた。