21:父と子 - 2/8

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 隊服をベッドの上に落とせば、白の中にやけに目立つ黒になった。
 気にすることなく、たるんだネクタイをほどいてさらに放り投げる。ブラウスをどうするか一度迷ったが、それも脱ぎ棄ててしまった。肌に乗るのは春が過ぎていく温かさをもった外気だけで、窓から覗く空は少し澱んでいた。雨でも降りそうな天気である。
 とは言っても出かけると約束した手前もあるし、それに普段はそれなりに忙しくてなかなか時間が持てない。今日は時間もあるし、出かけるには随分としみったれた天気だが、傘の一つでも指せばいいし、どうせ雨宿りでもすればすぐに止む。
 洋服棚を開いて、服を音をたてて選んで行く。下も変えてしまうかとも考えたが、雨が降るならばこちらの方がいい。シャツを手に取った時、喧しい声が思考を妨げた。鬱陶しげにそちらに視線を向けると、開けるぞぉ、とまたが鳴るような響きの声が空気を震わせる。出会いがしらに備え付けのランプでも投げつけてやろうかと考えてしまうほどだ。扉が音をたてて開き、銀色の髪の男が姿を見せる。
「う゛お゛お゛ぉい、ボス。さっきFAXで任務変更願いが来たぜぇ」
「あぁ?変更だと」
 ふざけんな、と思いつつXANXUSはスクアーロが差し出したFAX用紙を手にとって、その書面を難しい顔をして見下ろす。そしてそれを斜め読みした後、盛大に舌打ちをかました。手の中の紙が燃えてなくなくなる。
 スクアーロもうんざりとした様子で、やってらんねぇぜと顔を顰めた。
 今更任務変更などと馬鹿げたことである。だが請け負った仕事は100%の確率でこなさらなければならない。もう一度作戦を練り直し、割り当て隊員も変更しなければならない。万が一、の失敗は許されない。
 片手に持っていたブラウスをベッドの上に放り投げて、一番初めに放った白いブラウスに袖を再度通して、ネクタイを緩く締める。白の中に落ちている黒い隊服をひっかけて、肩に羽織った。
「出かける予定だったのかぁ?」
「るせぇ」
 がつがつと床をブーツで踏み鳴らしながら歩き出す。
 折角の休暇が見事に潰れた。任務変更願いなど出した奴は後でぶっ潰してやる、とそんな物騒なことを考えながら廊下を歩く。連絡しとくか、とポケットに入っている携帯電話を取り出してボタンを押す。耳に押しあてて待つ。数回のコール音がしてから電話が取られた。
『はい』
「急用が入った」
『…そうですか、じゃぁ、またの機会にしましょう。今日は一人で行ってきます。仕事頑張ってくださいね』
「…ああ」
 失礼します、と断りの言葉が入ってから電話が切られた。切られてしまった電話に少し立ち止まってから、電話に視線を落してそれからまた歩き始める。
 仕方ないのだが、腹が立つ。先程まで許せていた天気が、今では無性に忌々しく鬱陶しいものに感じられた。後ろから追いかけてくる足音が彼女のものでないことも、やはりそれも同じように感じた。
 とっとと終わらせてしまおう、と今頃電話を閉じたであろう東眞の姿を脳裏に思い描きながらXANXUSは少しばかり足を速めた。

 

 仕方ないことだ、と東眞は噴水の端に腰かけて、切ってしまった電話を眺めながらそう思った。待ち合わせをしていた噴水からの視界には思ったよりも人通りが少ない。天気の悪さも影響しているのだろう。珍しくスカートをはいて来たのだが駄目になってしまった、と苦笑してからそこから腰を上げる。
 XANXUSの仕事は忙しい時は忙しいのを知っているし、先程のようなことも当然考えられることである。だが、少しばかり寂しいのは否めない。それでも仕方がない。願わくば、彼が怪我をしませんように、と東眞は左薬指の指輪に触れてそう願う。
 周りからすれば、願わずともあの男が怪我をすることなどそうそう考えられないといわれそうではあるが。スクアーロなどはいの一番にそう発言しそうだ。それでも心配くらいはしてもいいだろう、と東眞は目を細めてそう思う。
 修矢や哲の時もそうだった。自分は前線に出て戦うこともできないし、そもそも戦場に出れば確実に足手まといになる。後方支援としても、戦闘の場に行けば足手まといにしかなりはしない。だからこうやって、帰って来る者の無事を祈ることしかできないのだ。けれどもそれが無駄だとは決して思っていないし、帰ってくる人を笑顔で「お帰り」を迎えることこそが自分がすべきことだと思っている。人はそれぞれ担う役割が違うのだから、自分にできることを精一杯すればいいだけの話である。
 晩御飯の具材を一緒に選ぼうと思っていたのだが、今日は一人で選ぶしかない。少し歩いたところにあった野菜市でトマトやナスを見ながら、東眞は片言のイタリア語でそれを購入する。
 ずっしりと重くなった紙袋を抱えて昨日と同じ帰り道をたどっていく。腕がいい加減に疲れたころ、昨日老人と出会ったベンチが見えてきた。そして、やはりそこには昨日と同じ老人が同じように腰掛けていた。老人は昨日と同じように挨拶をした。
「こんにちは、お嬢さん」
「こんにちは」
「今日は生憎の曇り空だね」
「そうですね、でも曇り空も悪くはありません」
 隣をどうぞ、と老人はベンチの空いている部分を数回叩いた。東眞は一つ礼を言ってから、叩かれた場所に腰をおろした。重たい紙袋を一旦下に置いて腕を大きく伸ばす。少しばかり痺れていた腕が伸びをしたことでそれが取れる。
 老人は興味深そうに東眞が置いた紙袋を見やった。
「今日の晩御飯の材料なんです。みなさんよく食べるので」
「皆さん…というとひょっとしてお子さんでもいるのかな?」
「い、いえ、ま、まだです!」
 東眞は頬を少し赤らめてそれを慌てて否定した。いつかできればいいなとは思っているが、結婚前でもあるし実際にはまだ、である。そんな慌てっぷりに老人は朗らかに微笑んで、でもいつかは?と尋ねる。東眞はそれに小さく頷いた。
「さぞかし可愛い子が生まれるんだろうねぇ」
「…でしたら、連絡先を教えていただいてもいいですか?子供がもしできたら連絡します」
 会いに来てください、と言った東眞に老人は動きを一瞬止めてから首を横に振った。何かしらの事情があるのだろうか、と察して東眞はそうですか、と話を打ち切った。
 老人はところで、と話を切り換える。
「今日『も』彼と一緒ではないようだが…」
「あ、はい。急な仕事が入ってしまって」
 駄目だったんです、と東眞は少し寂しそうに笑う。老人は寂しいのかい、と尋ねた。東眞はそれに一度目の前の小さな池に視線を向けて、わずかに首を縦に動かした。指は左の薬指を撫でていた。でも、と小さく逆説の接続詞が続いた。
「でも?」
「でも、いいんです。帰って来てくれますから」
「…帰って、」
「はい、帰って来てくれます。だから私は待てるんです。待って、お帰りなさいって言えるのが…嬉しいんです。私があの人の帰る場所になれるなら、それ以上嬉しいことはありません」
 柔らかな瞳でそう言った東眞に老人は僅かに表情を落とした。それこそ、誰にも分からぬ程度に。
 東眞は老人に尋ねた。お孫さんはいらっしゃるんですか、と。それに老人の顔色がふっと落ち込む。何か悪いことを聞いてしまっただろうか、と東眞ははっと気付いて慌ててすみませんと謝罪した。だが老人はいいや、と首を横に振った。
「息子が一人―――――――い『る』んだが…ね」
「息子さんが」
「ああ、だが私は彼に本当にひどいことをしてしまった。何をしても償いきれない罪を犯してしまった。いくら謝罪したところでもう私の言葉は息子に届きはしない。彼は私を決して許さないだろう」
 ぎゅ、と骨が良く見える指が組み合わされて力がこもる。落ちた視線に東眞はまだ何も言わない。老人はまるで罪の告白をするかのように言葉を続けた。
「そして私はたった一度――――――たった一度だが、息子を殺そうとした」
 その一言に東眞はぐっと息をのむ。老人はそれに気付いているのかいなのか、それでも口を動かした。
「もう―――――私はあの子に父として向ける顔はない。そして、あの子も、私のこ
 とは、と続けた言葉が女声で遮られた。老人はとつとつと語り続けていた話をそこで途切れさせて、隣に座っている女に目を向けた。東眞はひどくゆっくりとして調子で、一つ一つ言葉を選びながらそれを口にした。
「詳しい事情はわかりませんが…修復できない関係なんて…ないと思います。その人が生きている限りは。息子さんがどういう方なのかは知りません。でも、あなたが…向き合えないと諦めていたら、それはきっと息子さんにも伝わります」
 赤ちゃんは、と東眞は小さく口元に笑みを浮かべる。
「周囲の人の不安をとても敏感に感じ取るんだそうです。お母さんが笑えば、泣いていた子は泣きやむって聞きました。私には弟が一人いるんですけど、初めて出会った時に私は、この子は泣いたことがないんじゃないだろうかって、思いました。私を見上げてくる瞳がとても無機質で、誰と重ねているのか、「こいつもか」ってものすごく言いたげな顔をしていたんです」
 そう言って、東眞はその時の修矢の顔を思い出す。哲に引き合わされた修矢の目は、ひどく冷めていた。誰も信じない、誰も必要としていない。そして、「自分」を誰一人として必要としていない、と、そう目で語っていた。だから東眞は修矢を求めた。桧修矢を求めた。
「でも、そこで私が理解しあえないだろうって決めつけて背中を向けてしまえば、相手も背中を向けることしかできなくなるんです。絶対に、なんて言葉はありません。どこにだってほんの少しでも可能性は転がってるんです」
 自分も、諦めかけていた。選択を自分ですることで、諦めていた。それでいいのだと、思っていた。
 今思えば、どうしてあんな風に思っていたのだろうと考える。自分の行動は間違いなく修矢を傷つけていた。恩義のためだと言っても、自分はそこから最善の道を探すことをやめていた。悲しませたくない人を、悲しませていた。姉貴、と自分のために必死になっていた義弟をある意味で突き放していた。そうやって諦めを選択としてすり替えることで納得していた自分に手を伸ばした人がいた。赤い瞳で制した人だった。きっと彼はその時、「自分のために」行動したのではないのは、自分が一番よく知っている。欲しいから、手を伸ばしただけの話なのだ。だが、自分は彼の、XANXUSの行為で変わった。
 伸ばされた手を掴みたいと思った。その大空の下で飛んでみたいと感じた。一つ二つと会話を交わして、自分と彼の関係が少しずつ穏やかなものに変わるにつれて、互いに尊重というものができてきた。興味関心から好き、愛するという気持ちの変化が現れて、そして今現在に至る。
 あの人でなくては駄目なのだ。
 東眞はそう思っている。
 あの人の傍にいたい、あの人の支えになりたい、あの人と共に歩みたい。
 かつての自分からは考えられないことである。もしあの時にXANXUSに会わなければ今の自分はない。そしてこれは傲慢かもしれないが、あの時自分に会わなければ、今のXANXUSもいないのではないだろうかと思う。手をのばして良かったと、出会えたことにこれほど感謝している。
「諦めないでください。言葉で無理だと言ってしまったら、そこでおしまいです。私は―――――――変わることができました。あなたを大切に思ってくれている誰かのために、頑張ってください。きっとその人たちは…あなたが、心の底から笑える日を願っていると思います。疲れた時は少し休んで、それからまた歩けばいいんです」
 その言葉に老人は目線を上げて、東眞を見た。東眞もその瞳に応えて、ゆっくりと微笑んだ。
「息子さんは、きっと、あなたを待ってますよ」
 そう、笑った。それは唯の気休めの一言なのかもしれないが、老人の胸には深く沈んでしっかりと刻み込まれた。
 他の誰でもない―――――――――「彼女」の言葉であるが故に。
「…憎まれていても、取り返しのつかない過ちを犯しても、もう私があの子を愛する資格がなくても、―――――――――――――あの子は私を待っていてくれるだろうか」
 老人の言葉に東眞は答えた。あなたが待っていてほしいと心から願うのならば、と。
 その答えに老人は、そうか、と瞳を閉じた。そしてふいと空を見上げる。
「お嬢さんは、不思議なひとだ」
 だからあの子も、と呟いた子は降り始めた雨で東眞の耳には届かなかった。老人は傘をさして、東眞に差し出す。
「持って行きなさい」
「え、でも…」
「私には迎えの車があるから、気にしないで」
 そう言って老人は東眞に傘を持たせて、やんわりとその手を包み込んだ。そして心を温かくするような優しい笑顔で、旦那さんと仲良く、と告げて小ぶりの雨の中に消えていった。