19:義弟と義兄の関わり方 - 5/10

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 東眞はXANXUSの濡れた髪を拭きながら、ふぅと溜息をつく。そしてXANXUSといえば、東眞がタオルで髪を拭くのを黙って受け入れながら、手元の本をはらりと捲った。
「XANXUSさん」
「却下だ」
 まだ何も言ってないんですけどね、と東眞は苦笑してドライヤーのスイッチを押す。ごうごうと鈍い音が鳴って、少し声量を上げなければ互いの耳にその声は届かない。温風で髪を撫でつつ、東眞は柔らかな髪に櫛を通した。
 修矢の髪もよくこうやって拭いてやったことをぼんやりと思いだす。今は自分で拭いているのだろうかとそんなことが気にかかった。ごぉ、と音が紙を捲る音を打ち消していく。
 指先に触れる髪がぬれた感じをなくして、東眞はようやくドライヤーをオフにした。また静けさが返ってくる。使い終わったドライヤーをしまって、東眞はとすんとベッドの端に、XANXUSの隣に腰掛ける。一人分、シーツが沈みこんだ。
「あんまり、修矢を目の敵にしないでください」
「あいつが勝手に俺を目の敵にしてるだけだろうが」
「仲良くしてくださいとは言いませんけど、でも、あんまり邪険にしないでください」
「知るか」
 そう吐き捨てたXANXUSに東眞は困ったように眉尻を下げる。
 仲良くしてくれ、というのは無理な願い事だろうから、せめて睨みつけるのだけはやめてもらいたい。折角イタリアにまで来てもらったのに不愉快な思い出をつくって帰るのはあまりにも気の毒だ。
 明日、と東眞はほんのりと話しかける。
「修矢と哲さんと一緒に観光に行きたいんですけれど」
 返事はない。今回返事がないのはあまりいい意味とは言えない。駄目ですか、と東眞はもう一度頼んでみる。だが、やはり返事はない。しかしようやく本の文字を追っていた目が、東眞の方に向いた。ほっと、東眞は胸をなでおろす。そのほっとした表情にXANXUSは僅かに顔をしかめて、また視線を逸らし、ばたんと音をたてて本を閉じてしまう。どんとそのまま背中をベッドの上に倒して、白い天井を見上げた。
 東眞はベッドに仰向けになったXANXUSの上に僅かばかりに影を落とし、再度尋ねた。俯いたことによって流れてきた黒髪をXANXUSはその武骨な指で弄びながら、不機嫌そうに言い返す。
「いつまでも餓鬼扱いしてんじゃねぇよ」
「そういうわけでも…ないんですけど」
 甘やかしている、というわけではなく、ただ姉と弟としての関係を忘れていないということである。東眞にとっては修矢はかけがえのない弟であるし、肉親である。それだけは一生変わらない。自分を訪ねて来てくれた義弟を嬉しく思わないはずがない。当然、嬉しい。XANXUSと修矢の仲が普通に会話をしてくれる程度になってくれることが一番ではあるが。とはいえ、先程からも思っているように、それは到底無理な相談である。XANXUSは兎も角、修矢の方に大元の原因はありそうだ。
「XANXUSさんも一緒に来られますか?」
「…おい、何行く気になってやがる」
 すこし体を起こしてXANXUSは眉間に皺をよせて、不愉快な表情を作る。ち、と舌打ちの音が口内に響いた。それに東眞は怒らないでください、と柔らかく告げた。極力、怒らせないように。
「ざけんな」
 傍を離れるな、というのは口に出しては言わない。
 肘で体を支える体勢でXANXUSは、遊んでいた東眞の髪をぐいと強めに引っ張る。痛みで東眞はもう少しだけ体を下げて、痛いですと言うが、XANXUSは当然の如く髪を放すことはしない。互いの瞳が見える位置で、東眞は少しばかり悲しげな顔になった。一方でXANXUSは機嫌の悪さをちっとも隠さないまま、その赤い色で東眞をしっかりと覗き込んだ。
 しかしXANXUSはぱ、とその髪を捕えていた指を離して、まだどさりと背中をシーツに埋もれさせる。顔はそっぽを向いていた。
「―――――――――どこがいい」
 その了承の言葉に東眞はぱっと表情を明るくさせる。構わないんですか、という確認の言葉の代わりに、有難う御座いますと礼を告げた。それにXANXUSはとっとと言え、と東眞の要望を求める。
「イタリアなんざどこも一緒だ」
「そんなことありませんよ」
 綺麗ですよ、と続けて東眞は机の端に置いてあった観光書をXANXUSの隣に置いて、無論それをXANXUSが見ることはなかったが、どこがいいかを丁寧に語り始めた。そしてXANXUSは東眞の話を目を閉じたまま、まるで眠っているかのような格好で、けれどもその声には耳を傾けていた。
 時計の針は午後十一時を指していた。

 

 ぴん、と鉄線が冷たい空気の中をまるで蜘蛛の糸のように伸びる。鉄線と言っても絹糸のように細いそれは、暗闇の中に置いては月の光の反射を頼りにするしかない。だが、今日は月の一つも出ていなかった。さらに言えば、室内でその月の光を求めるのは無駄なことに等しい。
「Bitte…..!(お願いだ)」
 懇願する声を金色は嘲笑った。明るい青空の瞳はゆっくりと細められて、そして柔らかな笑みを作った。
 誰かが何かを言うことはない。ただ、金色の、ヴィルヘルムという名前の暗殺者はゆっくりと口元の笑みを顔全体に広げただけだった。手袋をした指先が手首のリング、そこから伸びている三本の鉄線の上に添えられた。その鉄線の先には一人の男の体がある。男の目が大きく、これ以上ないほどに大きく見開かれた。
『Tschüs(バイバイ)』
 親しみのさようなら、が初めて青年の唇に乗せられる。尤も、そのさようならは声に音になることはなかったが。
 ヴィルヘルムの指は、無情に躊躇いなどいっさいすることなくその鉄線を強くはじいた。三本の、それは体内にあることによって見えない鉄線の先は男の心臓へと続く大動脈を捉えていた。細すぎるが故に大事に至っていない傷である。だが、震えた鉄線は気の毒なことにその傷を抉り飛ばした。
 Wart(待て)、と男は言おうとしたのだろうか、少しばかり唇を噛んでいたその口からはその音の代わりに血が吐き出された。音もなく痛みすらなく、三本の鉄線は男の胸から引きずり出されてヴィルヘルムのリングの中に戻った。口元の穏やかな笑みを崩さないまま、ヴィルヘルムは一礼をした。
 ごぽ、と血の泡が男の口からあふれる。
 心臓が潰された人間は残念だがそうそうすぐには死ねない。かすれていく意識の中で、自分の死を確認する。
 深い色をした瞳がヴィルヘルムを見上げた。倒れたことでうつ伏せになった男からの視線だった。しかしその視線に青年が頓着することはもうない。最後に、ヴィルヘルムは腕を上か下にひょん、と振った。まるで肩のコリをほぐすかのように。だが、それだけの仕草で男の首は、胴から離れた。どぱっとまさにそんな表現がよく合う血が噴き出した。噴水のように吹き出した血液は絨毯を薄汚い赤に染め上げた。ヘモグロビンは急速に空気中の酸素と結合して、酸化を起こし、どす黒い色へとどんどん姿を変える。その上からまた鮮血がのしかかる。目を見張るほどの色の移り変わりは至極悲しいことに部屋の暗さゆえによく見えない。日の下で見れば明るい色をした青年のブーツも、おそらくはその色からまた別の色に変わっていることだろう。
 ヴィルヘルムは男の生死を視認して、それから部屋の大きな窓に手をかけ、ぱっと開く。すると外からは大層強い風が流れ込み、カーテンを音を立てながら揺らした。ばたばた、と揺らめくカーテンには始めはなかった模様がしっかりと絵がれている。
 良い風だ、とそう考えているであろうヴィルヘルムの視界には一面の銀世界が広がっていた。それは決して雪ではない。針の山である。階下から見下ろす地面には大量の、一体どこから運んで来たのか不思議なくらいの針が突き刺さっていた。突き立っているのは地面のみならず、脂肪をうっすらと引いた人の筋肉にも立っている。柔らかな眼球にも、突き刺さっていた。
「Ich kann nicht auf Erde stehen, Wol.(地面に立てないじゃないか、ヴォル)」
 そう、ヴィルヘルムは木の枝の上で、幹に背を預けている青年に告げた。
 ヴォルフガングは木の上から兄に視線をやる。木の影のためか、ヴォルフガングの深い深海の色をした瞳はさらに深い色に見える。その深海の瞳は空色の瞳からすいとはずされて、Tut mir Leid(ごめん)、と告げた。
「Kein Problem. Alles ist fertig?(問題はないけどね、任務は終了?)」
「Ja(ああ)」
「Perfekt! Jaja, zu Hause gehen.(最高だね、じゃ、家に帰ろうか)」
 ja、とヴォルフガングはそれに答えた。
 ヴィルヘルムは窓枠に足をかけて、どん、とそこを足場に弟が立つ木の上まで飛ぶ。ぎりぎり、足が届いてほっと笑った。ヴォルフガングはヴィルヘルムがその気に足をつける前に次の木へと飛び移っている。
「Wart, Wol!(待てよ、ヴォル!)」
 ヴィルヘルムの呼びかけにヴォルフガングは答えない。唯唯先へと帰路を急ぐ。しかし、はた、とヴィルヘルムは立ち止まって、そして先程からあれほどの異変にもかかわらずうんともすんとも言わない屋敷をちらりと振り返った。
 開け放たれた窓からは外から流れ込む風によって、ばたばたと内側に向かってカーテンが揺れている。その部屋中には一つの死体。
 ヴィルヘルムはするりと胸の前で十字を優しく切った。敬虔なキリスト教徒ではないものの、こうしてしまうのは幼いころからの癖なのかもしれない。
「Guten Nacht.(よい夢を)」
 胴体から離れてしまった鼓膜を震わせることはできても、それを脳まで通達する器官はすでに死んでいる。
 Wil、と呼びかけられてヴィルヘルムは、振り返るのをやめた。そして木の枝を強く踏んで、その場から姿を消した。
 上から見た屋敷はきっと綺麗な銀色をしていた。しかし月は出ておらず、またその銀色を美しいと感じる人間もその場には同様に―――――――――――もう、いなかった。
 たっぷりと人の血を吸った地面だけが、外気にさらされて冷えることを覚えていた。