19:義弟と義兄の関わり方 - 4/10

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 ドルチェ、つまりはデザートを目の前にして一人異質なまでに空気に花を飛ばしている人間が一人。ほわほわと浮かぶその可愛らしい花は所謂幻影ではあるものの、いっそ不気味なくらいに飛んでいる。その花の中心にいるのは、切り捨て二十歳、繰り上げ三十路の一文字の傷を顔に負った男である。
 もし、とスプーンにすくわれた、甘くて優しいそれから冷たくて美味しい、ぷるんとした感触がたまらない食べ物を口に含む。顔いっぱいに幸せが広がっている様子には誰も口をはさめない。
 何とも言えないほど強面の男がプティングを幸せいっぱいの顔で食している光景にVARIA幹部一同は言葉をなくした。
うぷ、と修矢は口元を押えて、哲に声をかける。
「俺のもいるか?」
「え!あ、いえ、そんな坊ちゃんのを頂くほど自分は食い意地がはっていることはありません」
すでに一つ食べ終わっている哲は苦笑しながらそれを断った。だが、修矢としては目の前の強敵を食べてもらい所である。流石にあの量は多すぎた。
 前菜、パスタに肉料理。姉の手前食べきったが、腹は今にもはちきれんばかりでともすれば口から出そうな感じまでしている。今腹部を誰かに押されでもしたら、内容物が食道を通って外に出るのは間違いない。喉までがまるで胃に感じられる。
 修矢は一つ息をついて、それからプティングを哲の前に差し出した。
「食べろよ。お前、好きだろ…?」
 言葉だけとれば、哲を思いやる修矢だが、実際のところは食べきれないだけであったりするというお笑い草だ。しかし、幸いにも哲がその事実に気付くことはなく(というよりも目の前の好物に思考を奪われたというべきだろう)目をきらきらと輝かせている。
 しかし何を躊躇っているのか、まだ手は出していない。ある程度の見当は付いていたので、修矢はそれを哲に付きつけてみる。どうせその躊躇っている理由というのは本当に大したことがないのである。まったくもって馬鹿らしい。
「…別にお前がプリン好きなことくらい知ってるよ…全員」
「じ、自分は、」
「大体こいつらがうちに来た時、お前自分のプリンが半分になるってしょげてたじゃないか…今更だろ」
 尤もである。
「でもそこまで好きだなんて、可愛いわねぇ…フフ」
「…そこまで好きというわけではありません」
 ルッスーリアの言葉に精一杯の見栄をはっているようだが、もう遅い。無意味である。哲の必死の抵抗(と呼べるかどうかは甚だ疑問だが)は、ベルフェゴールの愉しげな声で奪い取られた。
「なら王子がもらってやろうか?」
「いただきます、坊ちゃん」
 プライドも何もかもかなぐり捨てて、哲は光の速さを超えて返答した。その素早さはハチドリが羽をはばたかせる速度よりスピーディーであった。哲はまたとろけるような笑顔を(嗚呼なんて不気味な光景だ!)プリンに向けて、スプーンでそれを食す。
 そこに人数分のコーヒーを東眞がトレーに乗せて持ってくる。ピンと背筋が伸びて、綺麗に運んでいる姿はどうにも手慣れているので、毎日やっているのかとさえ思えてくる(実際にやっているのだろう)最初はXANXUSに、そして修矢と東眞はコーヒーを渡していく。ただベルフェゴールと修矢、それからマーモンにはコーヒー牛乳を渡しておいた。それにむ、と修矢は不機嫌そうに唇をへの字に曲げる。
「姉貴、俺コーヒー飲めるよ」
 その言葉に東眞はえと驚いたように目を丸くして、数回の瞬きをする。
「そうだっけ?」
「…飲めるように、なったんだ」
 視線を白いテーブルクロスの上に落して、修矢は囁くように少しばかりの悔しさを混ぜてそう呟く。かちゃり、とXANXUSの手がコーヒーカップを持ち上げて、いつものように、手なれたように、さも当然のようにそれを飲んだ。
「そっか…知らなかった」
「…」
 その一言に修矢は胸に強い痛みを覚える。
 もう、姉は自分だけの人ではないということをあらためて突き付けられたような気がした。今まで自分の全てを知って、言わなくても自分のことを理解してくれた人は、もういないのだ。今、目の前にいる姉は、自分ではなく他の誰かの、誰かというのは勿論認めたくない男だが、その男の全てを理解している。理解しようと常々努力している。それはかつては自分に向けられていた感情であり、優しさである。手が欲しいと望んだときは、いつもそこに手があった。
 本当に欲しいものを、その時一番欲しいものを与えてくれた、人。
 修矢の視線を受けて、東眞は一拍言葉に詰まる。
「…でも、寝る前には飲んじゃ駄目だよ。眠れなくなるからね」
「受験生だから、勉強するときに便利なんだ」
「来年高校生か…もうそんな年なんだね…こんなに小さかった頃が嘘みたい」
 東眞は微笑んで、修矢の頭をくしゃくしゃと撫でる。与えられる優しい手のぬくもりに修矢はその頬をやんわりとゆるめた。
「姉貴、」
「なあに?」
 「自分だけ」に向けられた笑顔に修矢は心を躍らせて、その優しい頬笑みにこたえた。にっと笑って、ずっとずっと会えなかった日々の中で、顔を見て言いたかった言葉を告げる。たぶんまた当分言えなくなる言葉。
「――――――――――大好き」

 俺の世界を変えてくれた人

 東眞は修矢の笑顔に目を細めて、ありがとう、とそれに返した。
 が、次の瞬間凄まじい音がし、それから悲鳴が轟いた。見れば、スクアーロが頭からコーヒーをかぶって、下には陶器の破片が散らばっている。
「う゛ぉ゛お゛おい!!何しやがる!!」
「…」
 がなりたてたスクアーロをXANXUSはその赤い双眸で睨みつけて、それだけで黙らせた。相当不機嫌なことは誰が言わなくても分かる。もともと不機嫌だったのに、火に油を注ぐような一言で一気にあおられたようだった。
 カップのなくなった小さな皿の上に、スプーンだけが乗っている。
 東眞は取敢えずタオルを持ってきて、それをスクアーロに手渡した。幸いなことに火傷にはなっていない様子である。よかったですね、と告げるが、スクアーロはよくねぇぞぉ、と溜息をついた。
 ようやくそこで東眞はXANXUSの方に振り返る。美しい二つの赤が、しっかりととらえていた。困ったものだ、と思いつつも東眞は決してそれが嫌ではない。XANXUSの非常に不器用な愛情表現。とはいえども、義弟にまでやっかみを抱かれるのは問題であるが。
 二つの瞳が来いと呼んでいた。大きな手が伸びて、一回り細い手を掴みとる。指輪をはめた手同士がゆったりと重なって強い力で引き寄せられれば、二三歩と足はXANXUSの方へと寄る。
 周囲の目はお構いなしで(VARIAの皆はもう見慣れた感じではあるが)XANXUSは東眞を抱き寄せた。至近距離で瞳が交わり、東眞はそれに思わず飲みこまれそうになる。近い。
 修矢はその光景を目の当たりにして、全思考を停止させていた。目の前の光景は幻想である、と思考はそう望んでいる。だが、ちらりと動いた赤い瞳にそれは粉砕される。
 かっと頭に血が昇った。
「て、め…っ!!!!」
 見せつけるかのような動作に修矢の元からそうそう長くもない堪忍袋はたったの一秒も持たなかった。殴りかかろうとした修矢だった――――――――――――が、しかし。がごっ、ん、と、鈍い音が響く。
 修矢はぐら、と体から力を落してそのままぐったりとテーブルクロスに倒れこんだ。幸い手元の飲み物はすべて飲んでいたのでシーツに染みがつくことはなかった。不幸中の幸いとはまさにこのことである。
「う゛お゛ぉぉ…い…、平気かぁ…?」
 スクアーロはすっかり気絶している修矢に恐る恐る声をかける。その隣の椅子では哲がどこからともなく取り出していたフライパンをまた椅子にたてかけて戻した。そして、にっこりと爽やかな笑顔で気絶している修矢に告げる。
「食事時に暴れるのは感心しませんよ、坊ちゃん」
 一番恐ろしいのはこの男だ、とスクアーロたちはそう直感した。
 東眞はXANXUSの手から離れて、修矢に声をかける。相当強く殴られたのか声をかけても起きる様子は一切ない。哲は仕方ありません、と苦笑して(殴った張本人だというのに)修矢をひょいと軽々と抱き上げた。
「坊ちゃんを寝かせて来ます」
「あ、哲さん、私も行きます」
 その言葉に哲はちらりと王者のいすに座る男に目を向けて、いいえ、と断った。此処にいる限りの不文律を決めるのは自分たちでないことを哲はよくよく知っている。
「構いませんよ、お嬢様。また明日にでも起こして差し上げて下さい」
 喜びます、と笑った哲に東眞はその言葉を察してはいと頷いた。<もう、自分は修矢の姉だけではないことは、分かっている。そして自分が一番にしたいことが何であるかも。
 ああ、と哲はそれに付け加えた。
「お嬢様、明日はタートルネックの服にしてあげて下さい」
「?」
「…見えて、おられますよ」
 坊ちゃんが見つけたりしたらまた暴れます、と一つ笑って哲は食卓を後にした。
 東眞は哲の言葉を飲み込み理解して、ばっとXANXUSの方に視線を向ける。XANXUSと言えば、素知らぬ顔でルッスーリアが入れ直したコーヒーを飲んでいる。ぱく、と東眞は言葉にならない声で口を開閉させる。
 ベルフェゴールはそんな二人を見ながら、珍しく楽しげに笑いながら発言をした。
「ボスやるじゃん」
 かっきー、と揶揄したベルフェゴールに東眞は怒鳴ることもできず、どこにあるのか分からない華を手で押さえた。マーモンは素知らぬ顔をしてコーヒーを嗜んでいる。スクアーロはそんな様子を気の毒そうに眺めつつ(勿論気付いてはいたが発言できず)、ルッスーリアはあらまぁと口元に手を添えて、レヴィは嫉妬の炎に燃えた。耳まで赤くした東眞にXANXUSはようやく口を開いて声を発した。
「虫よけだ」
 ああもう、と東眞はそんな一言に結局何も言うことができなかった。

 

 どさ、と哲は乱暴に修矢をベッドに放り投げる。そして、動かないままの修矢に声をかけた。
「いつまでそうやって気絶したふりをされておられるつもりですか、坊ちゃん」
「……なんだよ、気付いてたのか」
「お嬢様以外は気付いていたでしょうね。スクアーロ氏はどうか分かりませんが」
 むくりと上半身を起こして、修矢は哲と向き合う。ベッドの端に腰かけているとその分だけ人の重さ加わり、器用にベッドは沈んだ。修矢はがしがしと頭をかいて、口さきを尖らせる。
「…俺が入るとこなんて、ないじゃん。なんか、悔しい」
「仕方無いでしょう」
 全く、と哲は椅子を引っ張って来てそこに腰掛ける。修矢は仕方がないなんてあるか、とむすくれる。
「見せつけられたって感じ」
「見せつけられましたね、見事に」
「アイツだって俺と大差ないじゃんか。姉貴独り占めにしやがって」
 ぽろりとこぼれた本音に哲はくっくっと笑いをこぼす。それに修矢は不機嫌そうに頬を膨らませた。哲はすみません、と一つ謝って、尚も笑い続ける。
「笑うなよ」
「そうですね、失礼しました」
 坊ちゃん、と告げて哲はようやく笑うのを止める。
 灯りがともされた部屋で床には二つの影が真っ黒く落ちている。そんな静かな部屋で会話がゆっくりと続けられた。
「姉貴はなんであんな男がいいんだろうな」
「自分に聞かれても困ります。惹かれるところがあったということなんでしょう」
「だって見たか?あの…幸せそうな、顔」
 一度も見たことがない「女としての幸せ」を得た顔に修矢は流石に驚いた。そして、同時にXANXUSという男が心底憎らしくなった。あれほどに姉に想われている男が、たまらなく羨ましい。
「哲」
「はい」
 修矢は空にポツンと浮かんだ月を眺めて、そしてベッドに倒れこんだ。もす、と柔らかな感触に体が一気に包みこまれる。なんて上質なベッド。
「―――――――――――寝る」
 歯磨きをしてください、との小言に修矢は分かってるよ、と告げた。