13:嫉妬深いカレ - 8/8

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 ふっとXANXUSは視界を暗闇から白に取り戻して意識を浮上させた。
 背中に感じているのは体を飲み込もうとする悪意すら感じさせているベッド。寝てしまったかと思いつつ体を起こせばかけられていた毛布がずり落ちた。寝ぼけ頭に武骨な指を突っ込んでかきまぜる。一回二回と瞬きをして、それから大きくあくびをして。そして気付く。
 いねぇ。
 思い返せば目の上にかかっていた細い手がない。ちっと舌打ちをしてXANXUSは立ち上がってごつごつとブーツを鳴らしながら扉を開ける。大体どこにいるのかくらいは見当がついている。
 大きく縦に伸びる窓からはまだ朝やけの薄ぼんやりとした光しか差し込んでこない。しかし、それは確実に長く伸びている回廊を照らして、模様のない単調に伸びた道にアクセントを与えている。ごつりごつりと靴が鳴って、そして止まる。やはり縦に大きな扉を片手で押し開けば、暖められていた空気が冷えていた。息を吐いても白くはならない程度の寒さではある。
 そして以前と同じように同じ道を同じ経路を辿って、絨毯の上に無造作に置かれているソファに近づき、そして凭れて覗きこむ。覗きこめば、やはりそこには同じように同じ女が同じ顔をして同じソファの上で丸まっていた。残念なことに机の上にあったのは水ではなく飲み干された酒だったが。
 ゆっくりと手をのばして、その頬に触れる。陶器のような滑らかな皮膚を指先の固い皮膚がなぞる。摩擦が生じる。ぐるりとソファを回って、正面に向かって腰をどっかりと下ろす。以前と同じ位置、以前と同じ行動。デジャウなどそんな不確かなものではなく、確かなもの。閉じられている瞳は警戒心を現すことなく、それを閉じ込め下に押しつぶしている。誰一人として彼女に手を出すような人間はここにはいない。いないのだから問題はない。だが気に喰わない。
 少しだけ身を乗り出して、両肘で挟み込むようにしてその上半身で覆いかぶさった。二人分の重みにソファが沈む。
 覗き込むようにして眠っているその顔を見ていれば、それは大きな己の影にしっかりと覆い尽くされている。黒髪が肌にかかって、細い川をつくっていた。眠り姫は目を覚まさない。ゆっくりと距離を詰めて傾いているその米神に唇を落とす。目尻に、頬に、首筋に。ようやく気付いたのか、落されていた瞼がゆっくりと数回の瞬きをして持ちあがった。瞳は渇きを防ぐためにもう二三回瞬きを繰り返す。目の前にある自分の腕ではない腕の檻に東眞は気付いた。そしてはっと上を見上げる。見上げた瞳をXANXUSは見下ろす。
「――――――――――おはよう、ございます」
 開口一番、東眞はそう告げた。そしてXANXUSは挨拶の代りに唇を奪った。優しく触れるだけのそれ。気恥ずかしさを覚えながら東眞は檻の中で体の向きを変える。蓋が開いているので、そこから逃げるように体をずるずると上にずらしていく。東眞の行動をとがめるかのようにルビーが動いた。しかしそれはすぐに消えてなくなった。体にのしかかった重みに東眞はう、と思わず息を吐く。
 空間を保っていた檻は鎖に姿を変える。鎖は東眞の体をぎぃうと締め付け、そして鎖の先の重石は東眞の体を押しつぶすようにして倒れている。抱きしめられて押し付けられて、ソファの上で東眞は動きを完全に封じられた。これで呼吸ができて骨が折れていないのはXANXUSの力加減故なのだろうと東眞は理解している。しかし重い、と東眞は思う。一体どれほどの体重があるのかはわからないが、押し潰される。けほ、と小さく咳こんだ。すると胸の上の体が僅かに動いて肺を圧迫する形ではなくなる場所に移動する。移動しただけではあるが。寝ぼけているのだろうかと東眞は思う。日本で一晩滞在時も異常と言えるほどに寝起きは悪かった。
東眞はその時の修矢の修矢の顔を思い出しながら、うぅんと唸った。幸いここに流血沙汰に持ち込む様な義弟はいないから良いものの、このままでは身動きがとれない。ただ静寂の中、ぱきんと薪が折れて煉瓦に当たり音を立てた。
 覆いかぶさられている部分が吐息で僅かに震えた。くぐもった声が、空気に振動をもたらす。
「大人しくしろ」
「…」
 はぁ、と東眞は何とも言えない曖昧な返事をする。他に何と返せばいいのかよく分からない。毛布の上にスクアーロとレヴィの隊服。さらにその上に大きな体が一つ。暖かく、寒さは感じないのだが、如何せん重い。それにお腹も空いた。
 暫く、弱い日差しが次第に強さを増してきたころ、ようやっと重みが体の上から退き、鎖が外された。抱きしめられていた体は随分と痺れてしまっている。腕を突っ張って立とうとしたが、絞められ過ぎていたせいかカタカタと震えている。体重を乗せると肘のあたりからかっくりと折れてしまった。
 XANXUSはソファの端に移動してゆたりとした様子で背を凭れかけさせ、肘かけに肘を乗せた。そして東眞の方にちらりと視線を向ける。ようやく痺れがおさまって、東眞はソファに乗せていた足を絨毯の上に戻す。そしてぷっと吹き出して、くすくすと笑い始めた。笑い声が冷たい空気を解き、XANXUSはその笑い声を聞きながら心地よさそうにゆっくりと瞼をおろした。柔らかな笑い声がようやくおさまって、東眞はのんびりと尋ねた。
「お腹空きましたね。何がいいですか」
「…」
 その問いかけにXANXUSは落した瞼をもう一度押し上げて東眞を見据える。東眞の問いに返事はない。ただその二つの瞳を向けてくるだけである。五分ほど待ったが返答がないので、東眞はゆっくりと立ち上がった。
「じゃぁ、サンドイッチでも作りますね」
 沢山作った方がいいですかね、と微笑んだ東眞の腕は大きなごつりとした手に掴まれた。東眞は視線を振り返らせて、なんですか、と尋ねる。当然ながら返事はない。強く引きずるようにして引き寄せられて、足が絡まり思わずこけそうになった。東眞は倒れこむのを防ぐため、ソファに掴まれていない方の手をつける。向けられた瞳の近さにこくりと唾を飲み、東眞はあの、と戸惑いの言葉を向ける。XANXUSはその言葉を聞くこともなく、細い体を抱きよせる。柔らかな体。
「座ってろ」
 心地よい声を耳元で聞きながら東眞は壁に掛けられている時計に目を向ける。そして、ちいさく口元を笑わせた。
「はい」
 東眞の返事にXANXUSは満足したかのように息をついた。

 

 東眞がイタリアに行ってしまって早一週間。
 はぁ、と深い溜息が一つ。小鉢に盛られた野菜を箸がつつく。
「坊ちゃん」
 それを咎めるように低い声が響く。修矢はちらりと視線を上にしてさらに深い深い溜息を吐く。
「なぁ哲」
「なんでしょうか」
 修矢は振り返った哲にもう一度溜息を吐く。もう一体この溜息を何度吐いたことか数えるのも面倒くさい。それもそのはず。振り返っている哲と修矢は目を言ったん合わせて、そして背けた。その視界に入っているのは大柄で顔に深い一文字の傷がある男。見慣れているはずのその姿形なのだが、修矢はすぐに視線を落して小鉢をつつく。それに哲がまたむっと眉間に皺を寄せる。
「お嬢様がおられないからといって行儀が悪いのは感心しません」
「哲」
 がっと修矢は箸を机の上に置いてぎんっと哲を睨みつけた。その眼にはある一種の真剣さがある。哲は真顔になってその視線を受け止め、はい、と極めて真面目に返事をした。
 スーツに割烹着という姿で。
 修矢はがたんと音を立てて席を立つ。
「お前もういい加減にしろよ!いつまでそんな恰好で台所に立つ気だ!俺がノイローゼになる!!!」
「な、じ、自分は坊ちゃんがお嬢様がおられず寂しかろうと思って…っ」
「ふざけんなー!!姉貴が哲みたいにごっつい訳ないだろ!トラウマになるぞトラウマに!!」
 うわぁあああ!と叫びながら修矢は机に拳を打ちつける。椀が倒れたが、幸いなことに味噌汁は既に全て腹の中だ。
 修矢はぎんっと哲を睨みつけて指を突き付ける。哲はそれをそっと指先を下ろさせて、まっとうに返す。
「坊ちゃん、人に指を向けてはいけません」
「お前の格好こそ犯罪だ。どうにかしろ」
 修矢の切実な頼みだったが、哲はそうでしょうかと首を傾げただけだった。こんな強面の男に割烹着を着られたところで悲しさしか湧き起こらない。そして至って真剣に返すものだから性質が悪い。この時ばかりは修矢は何故こんな斜めに間違っている男が自分の世話役なのか嘆いた。
「確かにお嬢様はエプロンでしたが、自分がエプロンをつけたところでそれは普段と同じでしょう。こう懐かしさを思い起こさせる台所の一品とくればこれしかないと思ったのですが」
「もう口を閉じてくれ」
 そして着替えろ、と修矢は涙をぬぐいながら懇願する。しかし、哲はめげることなく笑顔で修矢に腕を広げる。
「お嬢様が恋しくなられた時は、不肖ながらこの榊哲。坊ちゃんに胸を貸すくらいのことはで
「うわぁあああああああああああああああああ!!!!!」
 カムバック姉貴!と修矢は絶望のどん底に突き落とされる。
 一体全体何が嬉しくてごつりとした男のしかも割烹着の胸に飛び込まなくてはならないのか。割烹着はおふくろの味などと吹聴している人間の舌を切り落としてやりたい。
 そして哲はそうですかとあっさり引き、そして思い出したように割烹着のポケットに手を入れて封筒を一つ取り出す。
「お嬢様から手紙が
 届いておりましたよ、と最後まで言う暇を与えずに修矢は哲の手からそれをかっさらう。そして目を輝かせてその手紙の封を切って便箋を取り出す。しかし修矢の笑顔は次の瞬間絶対零度の冷凍庫にでも放り込まれたかのように瞬間的に凍りつく。
 便箋にくるまれて入っていたのは一枚の写真。男に抱きしめられて、少し恥ずかしそうに微笑んでいる姉の姿。極めつけは手紙に書かれたたった一言の言葉。
『ざまぁねぇ』
 びっと修矢の手の内の便箋と写真が破かれる。頬の筋肉がきりきりと引きつり、ぎりっと奥歯が鳴る。
「あ、の」
 あの野郎ぉおおおおおおおおおおお!!!との絶叫が家を震わせた。勿論その後、修矢は哲に近所迷惑ですとたしなめられた。