13:嫉妬深いカレ - 7/8

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 草食獣は常に逃げる。肉食獣の爪から逃げ惑う。肉食獣は常に追い回す。獲物である草食獣を食い散らかすために。
 両者の力の差は歴然で、逃げきれるか捕えるか、それがただ一つの命運を分かつ。

 撤回してください、とその静寂を与えた言葉は空気を震わせていた。その動きがようやく止まり、二つの瞳に射すくめられていたレヴィははっと我を取り戻す。そして取り繕うようにして怒鳴りつけるように叫ぶ。
「き、貴様にそのようなことを言われる筋合
 いは、と続けようとした言葉を東眞はやはり静かに遮った。スクアーロはその気配にごくりと唾をのむ。静かすぎるほどの怒りは肌を震わせる。
「謝罪は求めていません。撤回を、と言っています」
 ソファに座っていた東眞の腰がすっと持ち上がり、レヴィとスクアーロにこつりと近づく。眠る前だったので解かれていた黒髪がさらりと動きに合わせて揺れる。机の上に置いていた眼鏡は既に東眞の顔にかかっている。底の見えない瞳に覗くものはやはり静謐なる静寂だ。恐ろしいほどの。空気を零れ堕ちていく声が斬り裂く。
「撤回を」
 がなりたてられる声ではないが故の恐ろしさ。ぞくりと背筋が泡立つ。
 レヴィが唾をのむ音がスクアーロの耳に届く。返事をしないレヴィに東眞はさらに続けた。
「私自身をあなたが認めない上での罵詈ならば謹んでお受けいたします。それは私に至らない何かがあるからでしょうし、いつかは認めさせてみせます」
 はっきりとそう断言した東眞にスクアーロは目を瞬かせる。
 彼女は狩られるだけの草食獣ではない。必要とあらば爪を振りかざし戦う獣だ。以前からそういう内面的な強さには気付いていたが、ここまでとは思っていなかった。
 ですが、と東眞はすとレヴィに視線を叩きつける。発される言葉の一つ一つの重さにレヴィはごくりと唾をのむ。
「あの人と交わした言葉を貶める発言は許しません」
 私は自分の発言に責任を持っていますと、そう続けられた瞳の強さにレヴィは押されていたが、しかしそれでもぐっと踏みとどまる。東眞をむっと睨み返して声をさらに荒げた。
「貴様に許される必要はない!俺に許しを与えられるのはボスだ
 そう言いきろうとした瞬間、乾いた音が室内に響く。突然のことでレヴィも反応しきれていない。ただスクアーロは目の前の信じられない光景に瞬きをするしかなかった。
 振り切られた細い手。それに合わせて動くレヴィの顔。高い音。重なる反響。沈黙をぱきりと木の折れた音が破る。
「き、きさ、きさ」
 貴様、と言おうとしているのだろうが、レヴィは怒りのあまりまともな言葉を作るのも難しいようである。唇がわなわなと小刻みに震えて、眦は怒りのあまり吊り上がって、泣く子も泣きやまぬほどの形相になっている。
 しかしレヴィは叫ぼうとして、ふと止まってしまった。見上げてくる瞳は強いそれそのものだというのに。レヴィは見た。その細い手が震えていた。考えてみれば恐ろしくないはずはないのだ。二m近くもある巨体から見下ろされて、しかも相手は暗殺部隊だということも知っていて。そしてかつ目の前の女は唯の一般人で。そう、怖くないはずがない。これで恐怖はないと言ったのであればそれはおかしな話だ。
 振り上げようとした拳をレヴィは力を抜いて下ろした。二つの瞳がまだこちらを気丈に見据えている。否、気丈ではないのだろう。やはり怒っているのだ。レヴィはそれにだんだんと爆発しそうなほどに沸騰していた怒りを冷まされていく。
「―――――――――――――すまん」
 自然と言葉がこぼれた。謝ったのは別に自分が悪いと思ったからではない。ただ、撤回の意を示して謝罪した。すると、きつい眼差しを向けていたその瞳が落ち着いたものへと変化する。
「私も、はたいてすみませんでした」
 そこでようやくレヴィは理解する。目の前の女の本質を見誤っていた己を。
 吹けば飛びそうなただの軽い女だと思っていたが、違った。読みの甘さに頭を金づちで殴られたような衝撃が走る。しかしここでそれを認めてしまえば外聞が立たない。恥をかくだけだ。そもそも難しいことを考える性質ではない。混乱をきたすばかりで、むむむと口から意味のない言葉が漏れる。しかしその思考を声が遮った。いつか、と響く。
「認めて下さい」
 東眞の言葉にレヴィは目を見開く。驚いた表情のレヴィに東眞は柔らかな瞳で微笑んでいた。その言葉がどういう意味を持つのか、いくら鈍重なレヴィでも分かった。
 押しだされたラインを少し押し戻し過ぎたので、一歩下がったのだ。それは最も適当な妥協ライン。両者の顔を立てることのできるラインである。
 むぅ、とレヴィは口をへの字に曲げて、ふんとそっぽを向いた。
「し、仕方あるまい」
「有難う御座います」
 そう言って東眞はソファに戻った。そしてスクアーロに視線を戻して話しかける。スクアーロは突然話をふられてなんだぁ、と慌てた返事をする。
「おやすみなさい」
 その一言で、そういえば部屋に戻る所だったのを思い出して、おうと頷いて手を振る。レヴィはちらりと東眞に視線を落して、毛布とスクアーロのコートというあまりの軽装備に眉間に皺を寄せた。そして、ぐいと自身のコートも突き出す。スクアーロはそんなレヴィの行動に目を丸くする。
「貴様が風邪を引いてはボスに顔が向けられんからな!」
 先程の礼だと言えばいいのに、とスクアーロは思いつつも、東眞にコートを押しつけたレヴィがどすどすと足音を立てながら扉をくぐっていくのを見送った。礼を言い損ねてどうしようかと困っている東眞にスクアーロは声をかけた。
「どうせ明日も顔合わせるんだぜぇ、そん時にでも言やぁいい」
 じゃあなぁ、とスクアーロは一つ言って扉を閉ざした。大きな問題かと思われたことを、XANXUSの力も借りずにたった一人で片付けてしまった女に少しばかりの尊敬を抱きながら。