11:君に笑顔を - 2/7

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 修矢の視界が真っ赤に染まる。
 かしいだ目の前の体に思考が一瞬停止した。しかしその髪が顔に触れた瞬間、ぞわりと止まっていた思考が一気に頭の中核を支配する。気付けばその手は東眞のホルスターに入っていた銃を引き抜き、そして、かき消されるようなくぐもった音が冷たい空気の中ではじけ飛んだ。東眞の背後に立っていた男の額から血が飛び出た。ぷしゅ、と呆気なく。そして男の体は体を統率する脳を撃ち抜かれてそのままだらしなく石の上に倒れこんだ。一二度痙攣すると、男の体はそれっきり動かなくなった。
 は、と東眞は息を吐き出して、その手を石の上につき体が完全に倒れこむのを防いだ。息を吐き出したはずなのに、何故か出てきたのは赤黒い血液が口から落ちた。それは修矢のように口の中を切ったから出てきたものではない。
「―――――――――っぁく」
 腹部から全身に走る痛みに東眞は僅かに呻いた。溢れ出る血がじわりと布でできた服とジーンズを黒く染めていく。染みる冷たさを感じるだけの余裕は今はない。何とも奇妙な具合で腹から刃が突き出している。酸素や二酸化炭素、はたまた養分を運ぶ赤い液体がとめどなく零れていくせいで意識がかすんでいく。東眞はぐっと、拳を握った。ちらりと見上げれば、修矢が銃を撃った手をだれりと落して呆けている。呆然自失、といった表現が一番正しい。その視線がゆっくりと東眞を捉えて、からりとその武器を落とした。両手がやんわりと東眞の両頬を捉える。見開かれた瞳は考えることを放棄していた。
「――――――――――…」
 修矢、と呼ぼうとしたが、腹に力が入らず声が出ない。頭が思考しようとする能力を次第に放棄していく。息を吐きだして東眞はその手に自分の手をそっと重ねた。どう、と体が横に倒れる。震える瞳をとらえながら、東眞はゆっくりと微笑んだ。大丈夫、と言いたいところなのだが現状態はそう楽観視していいものではなさそうだった。ただ、その一言をかけてやれればと思う。こくりと喉を動かして、かすれた声を出した。
 痛みはもう既にアドレナリンが大放出されて感じていない。腹の感覚はほとんど麻痺してしまっている。流れていく血に体が次第に冷えていく。
「――――、ぃ、う…ぶ…」
 発した音は言葉にならない。は、と息が口から零れ堕ちた。次第に瞼が重くなっていき、視界をシャットダウンしようとする。まだ起きていなくてはならないのに、と東眞はそう思いながら、しかしその瞼を押し上げるだけの気力もなく。東眞の手は頬に添えられた手からずるりと落ちた。

 

 哲はようやくその視界に人影を捉える。サングラス越しに、しかしその姿はやけに鮮明に映った。は、は、と一定の呼吸を取りながら呼びかける。
「坊ちゃん!」
 しかし返事はない。ちっと舌打ちをして、ずっ、とその緩やかな傾斜を滑って降りる。河原の石を蹴りながら、影の中にある人影に走って近づいた。
「坊ちゃ――――――――――――――――
 そこで言葉は区切れた。
 目の前の光景はまるで一枚の写真か何かのようだった。腹に深く刃を突き立てた女の頭を優しく抱きしめてうずくまっている少年。女の方は意識を完全に失っているようで、手がだらりと垂れて動く様子が一切見られない。腹部から散っている赤い緋色の華がその傷の深さを物語っていた。吸いきれない血液は石の上にだらたらと模様を描いている。
 哲はその隣に膝をつき、東眞に手を伸ばした。
「坊ちゃん、お嬢様の容だ
 だがその言葉はすぐに止まる。
 真直ぐに向けられた銃口。手負いの獣が見せる鋭さをもったその眼光。哲は咄嗟に横にくるりと受け身を取った。サイレンサーで消された銃声が一つして銃弾が飛び、石の間に埋まる。小さく舌打ちした哲の耳に、他三人の足音が届く。
「来るな!餓鬼共!!」
 しかし警告は少しばかり遅く、修矢の指がテリトリーに入る敵に向かって引き金を引く。運良く当たりはしなかったが草がはらりと空気に乗った。
「な、な、――――桧、君?」
 綱吉は驚いて名前を呼ぶが、当然のごとく反応はない。撃たれたことに対して隼人が瞬間でボムを構えたが、綱吉は慌てて止める。その瞳に映るものが何かを知った。
「おねえ――――――さん」
 そしてその横に転がっている動かぬ死体。死体、というものは初めて見た。死ぬかもしれないという体験は幾度も味わってきたが、死体は初めて見た。思わず口元を押えて吐きそうになる感覚を押し殺す。
 哲はそんな綱吉たちに向かって叫ぶ。
「餓鬼共!上がれ!」
「で、でも!」
「上がれ!殺されてぇの
 か、と最後まで言う前に哲は向けられた銃口から体を外して受け身を取りながら石を拾う。そしてまたぱすんと音がする。
「お兄さん!」
 思わず駆け寄ろうとしたが、綱吉は足を止める。射すくめられた、こちらを見つめるその瞳に。全身を恐怖が一瞬で縛りつける。動かぬ体を抱きしめて、それを守るかのように銃を握りしめる一人の少年。それは綱吉が知っている桧修矢という人間とはかけ離れていた。確かに彼とは仲がいいとは決して言えなかったし、信念も理想も違っていた。けれども、それでも彼は彼だった。だが、目の前の少年はまるでぽっかりと穴が空いたかのような感覚がする。
「十代目!取敢えず上に!」
「で
 でも、ともう一度言いかけた綱吉を隼人は上に押し上げる。そして、ボムを構えると、任せて下さい!と笑う。
「駄目だよ!それを使ったらお姉さんにまで――――…っ。それに桧君に怪我させちゃいけない!」
「なら俺の出番か、ツナ?」
 にっと笑った武だったが、考えてみれば武器を所持していないことに気付く。しまったな、と頭をかいたが、現在の状況は打破されない。そこに平静な声がする。
「困ってんのか、ツナ?」
「リ、リボーン!」
 ひょっこりといつものようにどこからともなく現れたリボーンに綱吉は目を見開く。そして両手をわたわたと動かしながら状況を説明する。リボーンはその光景を眺めて、それから綱吉に手袋を二つ投げて渡した。
「ならテメーがどうにかして来い、ツナ」
「え」
 ぱん、と良い音がした。

 

 ぱすん、とまた音がした。哲はそれを避けて三発目、と数える。東眞に渡した銃にこめられる銃弾は合わせて十二発。先程の三発、と男の体内に食い込んでいるであろう、足の一発、腹の二発、頭の一発。現在合計で七発。残り五発。もう一度音がして、サングラスの端がちっとかすって地面に転がる。残り四発。ああまで固く握りしめている上に、意識があれでは石を手にぶつけたところで銃を手から取り落とす可能性は非常に低い。それならば銃弾が尽きるのを待ってそれから押さえた方が、と考える。
 しかし、東眞の状態は見て分かるほどに悪い。一刻を争う。ちっと哲は舌打ちをした。
「坊ちゃん!一刻を争います!」
 ぱん、ともう一発銃弾が飛ぶ。それは頬を掠めて壁に銃痕を残した。これでもし東眞が死にでもしたら間違いなくそれは、と哲は考える。想像したくもない。懐に装備してある銃で東眞の銃を破壊する手も考えるが、破片が二人を傷つける可能性もある。八方塞がりである。銃弾はまだ三発残っている。
「坊ちゃん…っ」
 ぐっと哲は顔を顰める。このままでは確実に最悪の方向になってしまう。
 しかしその直後、静かな声が届いた。
「死ぬ気で――――――――――助ける」
 す、と隣を燃える色が通った。それは一度イタリアで見た色とは異なる色だった。明るく優しい色。接近した綱吉に修矢は容赦なく引き金を引く。しかしその銃弾は炎によって防がれ、地に落ちる。二発一発。ぱすん。ゼロ発。
 哲はその音の後、だんと地面を蹴った。そして綱吉の脇を通り抜けて修矢の腕から銃をもぎ取り、その頬をはたいた。
「しっかりしてください!」
「――――――――――…」
「坊ちゃん!」
 反応がない修矢に哲は舌打ちをして、ともかく救急車を、と携帯を取り出す。しかし、その動きも声で止まる。
「救急車なら呼んどいたぞ」
 初めて見る小さな赤子のような子供に哲は目を見開いたが、今はそれについて言及している時間はない。すまない、と一つ礼を言って修矢の腕から東眞を受取ろうとする。が、その腕が離れない。
「…坊ちゃん」
 ぼそ、と修矢の口から音が零れる。救急車の音が近づいてきていた。このままの状態では東眞を救急車に乗せることもままならない。
「坊ちゃん」
「―――――――――――あね、きが」
「…」
 見開かれた目からは何も零れてこない。少し前に見た景色を反芻しているかのようでもあった。
「姉貴が――――――――、いま…い、ま」
「大丈夫です、坊ちゃん。兎も角今はお嬢様を救急車に乗せなければなりません。その手をお放し下さい」
 さあ、と促されて修矢の腕の力がようやくゆるむ。哲は突き立っている刀に手を添えてふっと抜いた。血が一瞬その動きに合わせてどぱっと飛び散る。即座に出来うる限りの止血を施して、哲はその腕に東眞を抱きかかえた。きっと上の道路に救急車が到着する。中から出てきた人間の服装は普通の救急隊員のものではない。哲はリボーンをはっと見たが、しかしここで断れば完全に東眞は命を落とす。哲は東眞を救急車の台に乗せた。そして修矢の所まで下りて行き、その手を取る。
「お嬢様の傍に――――――――居て、差し上げるのでしょう」
 坊ちゃん、と続けられた言葉に修矢ははっと顔をあげて、救急車に乗り込んだ。そして扉は音を立てて閉められた。