10:譲れないこと - 5/5

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 はぁ、と息を切らす。走って走って東眞は足がしびれてくるのを感じた。
 もう少し待ってあげるべきだったのかと、少しばかり後悔している。まだ心の準備ができていないことをきちんと察してもう少し柔らかい言い方をすべきだったかもしれないと。
 一拍立ち止まって息を大きく吐き出し、そしてまた走り出す。
 確かにいつかは気付かなくてはならない。いつかは気付かなくてはならないが、自分は行ってしまう。できることならば、その前に気付いてほしかった。自分が取りたいのは「彼」の手であることを。燃えるような炎の目をした大空の男の手を。
 素直に喜んで受け入れてくれるなどということは正直な話あまり期待していなかった。ただここまでとも想像はしていなかった。
『俺から――――離れないで…っ』
 大切な弟のただ一つの願いもかなえてやれない。駄目な姉だと東眞は思う。しかし知って欲しい。彼はもうすでに一人ではない。そして自分が彼から離れるというわけではないことも。
 物質的距離はあっても、いつだって心を通わすことができる。自分が「彼」とそうであったように。そして成長して欲しい。相手の幸せを素直に願うことができる人間に。それは間違いなく相手だけでなく自分にも幸福を与えられる。
 ちかちかと淡く光る街灯の下を東眞は駆け抜ける。コンクリートの床が切れて、砂利を足が踏んだ。さらさらと静かに流れていく川の中には月が沈んでいた。それはたゆたいかすれ、くらりと揺らぐ。あまりにも音がなさすぎて余計に心臓の音がうるさく感じてしまう。はっはという息を紡ぐ音が繰り返しその静寂を乱していく。
 修矢、と東眞はその名前を頭の中で繰り返す。大切な人の名前である。家族を失った自分にできた新しい家族だ。義弟は救われたというが、救われていたのは決して彼だけではない。自分もまた、救われていた。
 泣きそうになった時挫けそうになった時、姉貴と笑ってくれた彼がいたから自分は笑っていられた。彼に恥じぬ自分に、自分に恥じぬ自分になろうと強く思えた。そして何よりも自分の思いに嘘はつかぬ自分になろうと―――――そう、思った。小さな手を包み込める大きな存在になりたかった。全てを拒絶するような目をして全てに心を閉ざしたその子供が見せた初めての涙を優しくぬぐえるような人に。
 救いたいなどとは思っていない。ただ、自分もまた思っていたのだ。笑っていてほしいと。
 じゃりっと地面を踏んで東眞は速度を上げる。だが直ぐに人っ子一人いないその空気の中に生まれた音にぴたりと足を止めた。重たい、砂の入った袋を蹴るようなそんな音。止まった位置で周囲をぐるりと見回す。橋の上、道の上、川の中。しかしどこにも人は見当たらない。
 東眞はぎゅっと目をこらした。細部に至るまでその視界のあらゆるものに集中する。そして見つけた。暗がりの中で二つの人の形をした影を。東眞は迷うことなく、地面を蹴った。

 

 げは、と血を吐き出す。骨はイっていないが、やたら滅多らに蹴られて体が悲鳴を上げている。打ち身切り傷は重症だ。僅かにでも動けば相手を間違いなく刺激する。引き金が引かれてずどん。男の腕で震えている女の命は一瞬で散る。刀に触れることもできない。男の足を掴み抵抗を見せても結果は一緒。  腹部に爪先が入って体が僅かに浮き、河原の石の上を転げる。男は何も言わずに笑っている。ただ笑っている。不気味だ。次の瞬間頭の上に足がずしりと乗せられて、顔が冷たいでこぼこの石に押し付けられる。人質さえいなければ、と修矢は思う。あの時に躊躇しなければとも同時に。
 どこかで見たことがある顔だが今はそんなことも思い出せない。痛みでいい加減頭がもうろうとしてきた。強い力で蹴り飛ばされて体が半分水に浸かる。この時期の水は凍るように冷たい。痛みどころか全身の感覚すらも麻痺してしまいそうだった。
「…っぅ、」
 流石に凍死になるのは避けたいので、ずるりとその水から這い出す。びちゃりと水が落ちる音がした。男の笑い声にそれが混ざる。体がまるで石のように重い。体力の消耗が激しすぎる。男の足が何度も何度も何度も何度も体に食い込み、押しつぶされる。
短い呻きが口から零れていく。
 女の抵抗に期待するが、体が竦んで一切動けないようだ。米神に銃を突きつけられれば当然か、と修矢は小さく笑う。この状況を打破するためには、どうにかして人質をこの男の手から逃さなくてはならない。だが、今の自分の状態ではそれは非常に難しい。哲がいてくれたならば、と修矢は無理な望みを頭に思い描く。
 しかし男がこちらに完全に気を取られている今ならば、どうにか逃げられるかもしれないのだ。なのに女は動かない。くそ、と修矢は小さく舌打ちした。自分の刀は男のすぐ後ろに落ちている。それを手にできず抵抗もままならないこの状況には歯噛みするしかない。自業自得、というのは尤もだ。
「―――――――――ぁ、がっは…っぐぁ…っ」
 笑う男の声が耳につく。
 しかし女は守らなければならない。守るために自分はいるのだから。考えろ、と修矢はかすれる意識の中でどうにかそれを思う。どうにかしなくてはいけない。どうにかどうにかどうにかどうにかどうにかどうにかどうにか。どうにか。
 一瞬でもいい、女が男から逃れるために僅かに行動さえ起こしてくれればいい。そうすればこのままならぬ体でも男の足をひっつかんで引き倒して、それでどうにか女は逃がせる。動いてくれ、と修矢は思う。しかしそれは届かない。酷な事を願っているのは分かるが、それでも思わずにはいられない。
 深く腹に足が喰い込み、ずっと肉が沈む。一瞬で空気が口から飛び出した。
 怯えた女の顔が揺らぐ視界のなかで鮮明に映る。女からの行動は一切期待できない。窮鼠猫を噛む、といったようにはうまく事は運ばない。
 一回二回三回と足が自分を踏む回数を無意味に数え出す人の体というものは想像以上に頑丈にできており、そうそう簡単に骨など折れたりしない。だからまだ頑張れば刀くらいは握れるのだ。立てば膝から崩れ落ちそうなほどの痛みだが文句は言っていられない。
「がっ、は…っぐぁ!」
「桧君!」
 やっぱり知り合いか、と修矢はどこか遠くで思う。見たことがある顔だとは思っていたのだが、やはりそうなのだろう。どうもこうも最近は知り合いに関してろくなことがない。
「―――――――――…っそ、で…っ」
 べっと修矢は口の中の血を吐きだして女に笑ってみせる。それは酷い痛みで随分と引きつっていたけれど。
「ま、…って、ろ…っよ――――はっ、くすけ、て…っや、っから…っ」
 叫んだことで、女の米神にあった銃がさらに強く押し付けられて女は短く悲鳴を上げる。助けてやるとは言ったものの、未だいい案は浮かばない。
 助けなくてはならない。自分はそのためにある。そのための――――――――自分だ。人を殺すための力を手に入れ、守るための力として行使してきた。ここで、こんな所で挫ける自分であってはならない。姉に恥じぬ自分でありたい。
 その時だった。男の足から血が飛ぶ。偶然なのか、それは女の体には当たらなかった。
 男は痛みで叫び声をあげて、手の内の女を突き飛ばして血が拍に合わせて飛び出していくその足を押えた。叫び声とはあまりにも対照的な声が静かに響く。
「離れなさい」
 そして声は突き飛ばされた女に逃げるようにそっと告げる。突き飛ばされた女は言われたとおりに頷いて、走って逃げた。ほっと落ち着く。
 声はぞっとするほどの怒りに満ちていた。月が放つ冷たい光のように。

「修矢から―――――――――私の義弟から、離れなさい」

 男は上から滑り降りてきた女に銃を構えた。そして次の瞬間、男の腹に銃弾が二度貫通した。