10:譲れないこと - 4/5

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 はぁ、と息を切らして走り続けた足を止める。どっぷりとくれてしまった闇の中に一つのスーツの影が溶け込んでしまっている。
 修矢にも分かっていた。本当は姉を祝福して笑顔で送り出してやることが、一番理想的な形なことくらい。だがそれをまだ納得できていない。
 川縁を歩き、水の流れに月が映し出されているのをぼんやりと遠くで眺める。水のせせらぎの音だけが、荒だっていた心に冷静さを取り戻させていった。
 あんな困った顔させるつもりはなかった。あんな辛そうな顔させるつもりもなかった。<ただ自分は姉に笑っていてほしいだけなのに。
「傍で――――――笑っていてほしいだけなのに」
 どこか遠くに行ってしまうと、もう二度と会えなくなるような気がして仕方がない。それはきっと唯の杞憂であることも分かっている。しかし毎日毎日、帰ってきたら姉の笑顔があった日常がなくなる。自分の姉がその日常から忽然と姿を消す。考えるだけで胸がぎぅと音をたてて締めつけられる。こんな駄々っ子のような意見が通せるとは思ってない。姉が間違いなくあの男の手を取ることも分かっている。分かっているからこそ許せない。
 切ない辛い苦しい傍にいて欲しい居なくならないで欲しい。
 唯一人の何物にも代えがたい存在がいなくなるというのを見送るのは、やはり嫌なのだ。一人になったら、また一人ぼっちになってしまう気がする。
 今では哲も舎弟もいるという言葉も正しい。が、姉がいてくれるからそれらが繋がっている気がする。だからこんなにも怖い。  あの笑顔にどれだけ救われてきたのだろうかと、そう思う。あの差しのべた手にどれほど笑顔を与えられたのだろうか、そう考える。
 爪先が小石を蹴って、蹴られた小石はころころとなだらかな傾斜を転がって水の中に音をたてて落ちた。ゆっくりとあてどなく歩き続ける。今夜は帰れそうにもない、と修矢は思った。きっと姉のことだから追いかけてきてくれているのだろうけど、会わせる顔はない。
 そう考えるとまた目の奥がジワリと熱くなってきて泣き出しそうになる。ごくりと唾を飲んでそれを耐える。
 本当の本当の本当の自分は姉には幸せでいて欲しい。姉を幸せにしたい。彼女が自分を幸せにしてくれたように。日々に光をくれたように。だが今自分がしていることは一体何だろうかと考える。
 苦しめているだけだ。人一倍自分を思ってくれている大切な姉を。
「―――――分かってるさ。そんな、こと」
 思わず声が落ちてしまう。
 爪を立ててしがみついている手を放さなくてはいけないのだ。ただまだ怖くて。それだけの勇気は自分になくて。どんどんと追い立てるようにして迫ってくる期日に怯えて。どうしようもない。
 先日の屋上でのことも冷静に考えればあれは八つ当たりに近かった。分かって欲しい人が離れてしまう苦しさにあったのに、それに重ねてどうして分からないんだよと言われて。姉ならばきっとこう言う。謝ろうね、と。自分が悪いと思ったならば、相手にちゃんと謝ることが大切なのだと。それでようやっと自分と折り合いをつけることができると。
 今日のことは謝るつもりはないが、先日のことは謝らなくてはいけないかもしれない。いや、謝るべきなのだろう。結局あれは八つ当たりだったのだから。ただああ言った手前すぐには謝れないな、と修矢は思った。
「だったら」
 俺は、と修矢は足を止めて空を見上げる。
 姉貴に謝るべきなのか。悪いと思っているならば、やはり謝らなくてはならない。酷いことを言って傷つけた。駄々をこねて困らせた。謝ったら、心の底からのごめんなさいが言えたのならば。自分との折り合いをつけることができるのだろうか。
 まだ今はできないことに修矢は目を伏せる。
 その時、鼻が臭いを敏感に拾った。薬の、臭い。ぱちりと目を開けてきょろりと辺りを見回す。街灯は少ないが、月の光が強いので意外に辺りははっきりとしている。視線を移しながら臭いの元を探す。そして、橋の下に何かを吸引している人影を見つけた。目を凝らせば、月の光がその足元にあるガラスを反射している。注射器だ。
 ちっと修矢は舌打ちを一つして、その草が生えている傾斜を滑り下りてそちらに向かって歩いて、そして止まる。無精髭の生えた男は修矢に気付くことなく、袋で鼻と口を覆って胸を上下させている。目が完全に虚ろでどこか分からない方向を眺めている。完全な薬物中毒だ。
「あんた、そこで何してんだ」
 取り合えず修矢は尋ねてみた。勿論返事はない。ただ、声には反応したのかその落ちくぼんだ瞳がぎょろりと動いて修矢を捉える。修矢は至って冷静に、続ける。
「ここじゃ薬は禁止だ。勧告する、今すぐそいつをやめて隣町にでも行け」
 その言葉に男は袋で口元を覆ったまま、その瞳でにたぁりと笑った。<気味の悪い笑みに修矢は思わず顔を顰める。
「もう一度言う。やめて、出て行け。でなけりゃ俺はあんたを始末する」
 すっと修矢は肩にかけてある袋に手をかけた。それでようやっと男は口から袋を放して、しかしやはり薄気味悪い笑みを今度は口元に作った。両口端がぞっとするほど奇妙に歪む。
「三度目だ―――――――――――今すぐやめろ」
「いやだぁ」
 男の答えに修矢は冷たい視線を向けた。
「―――――――、分かった」
 凄まじい速さで袋を解いて柄に手をかける。そして引き抜き、刃を男の肩口から腹に向かって切りはらう―――――そのはずだった。
 赤くて丸いもの。
 それに思わず修矢は動きを止めた。
 傾斜の上から転がってきた赤い果実。禁断の実。蛇がイヴとアダムをかどわかした食べ物。声がそれに沿って落ちてくる。あ、落ちちゃったと何とも普通の平凡な女の声。影がこちらに向かって伸びてきた。
「やめろ!来るな!!!」
 叫んだが遅かった。女の足はこちらに転がってきた赤い果実を拾うために滑ってしまっていた。そして果実は男の足元でころりと止まっていた。
 修矢は反射的に動いたが、それよりも男の方が早かった。あ、と短く叫んだ女の体を枯れた腕が掴み取り、どこに持っていたのか違法拳銃をその米神に突きつけた。
 男は笑った。笑っていた。その意味するところを修矢は言わずとも分かった。そして修矢は。
 刀をその手から離した。

 

 綱吉は深く溜息をついてベッドに突っ伏す。言われた言葉と冷たい視線が頭に残ったままくるくると出口を知らないままに回っている。
「どうした、ツナ」
 相変わらずの調子の声に綱吉はリボーン、と返す。そして思っていることをそのまま口にした。
「俺は…間違ってるのかな」
 リボーンはそれに答えない。それに綱吉は気を払うこともできずにそのまま続ける。ベッドに顔をうずめて言葉を吐き出す。
「でも、俺は――――やっぱり間違ってないと思うんだ。誰かが誰かを殺したりするのって…絶対におかしい」
「マフィアの台詞じゃねーな」
「分かってるよ。それが、甘ったるい考えなんて」
 幾度も自分に向けて言われてきた言葉だ。骸に、XANXUSに、今まで戦ってきたすべての相手に。悉く言われた。甘い、と。でも、と綱吉は思う。
「俺は、そんな甘い考えが――――いつか、普通になればいいと思う。何かを守るために人を殺すっていう代償を払うんじゃなくて、守るために――――…」
 そこで綱吉は言葉を止めた。

「誰も殺さなくていいくらい、強くなりたい」

 シーツがずしりと一つ分沈んだ。少し目をあげて見てみれば、リボーンが枕の上に立っていた。それを見ていると、笑いたくなって口元がちょっとだけ綻ぶ。
「信念を持って人を殺すって言われたし、俺が彼を侮辱してるって言われたよ。リボーン」
「そうだろーな」
「何だよ、分かってて俺の背中押したの?」
 当然だ、とリボーンはいつものように答えた。そんな自分の家庭教師に綱吉は突っ伏していた上半身を持ち上げる。
「ひどいや」
「いい勉強になっただろ」
「勉強って…」
 言葉を詰まらせた綱吉にリボーンはすっとその大きな瞳を綱吉に向けた。そして、さも当たり前のように告げる。
「守るために殺す、XANXUSや骸たちとは根本的に考えがちげーだろ」
「違うけど、でも」
 言い澱んだ綱吉にリボーンは続けていく。
「そういう考え方をするヤツもいるってこと、覚えとけ。それで受け止めろ」
「う、うけとめ
 られないよ、と言いかけたのをリボーンはさらに続けてその言葉を押しつぶした。二つの瞳に飲み込まれる様にして綱吉は言葉を失う。
「受け止めた上で、ツナ、テメーの意見を言えるようになりやがれ」
 それがどんなに甘い砂糖菓子のような言葉でも。綱吉にはそう聞こえた。
 大きく見開いていた瞳を細くして、綱吉はふわっと笑いそして頷いた。うん、と。しかし部屋に鳴り響いた音にびびびと電気が走ったように体を震わせる。慌てて見回せば、机の上に置いていた携帯が大声を出して点滅していた。
「うるせーぞ、とっと取れ」
「わ、分かってるって」
 綱吉はリボーンにせっつかれながら、転げるようにしてベッドから降りて携帯を取って耳にあてた。
「はい、沢田です」
『沢田か!!』
 きらめく爽やかなすっぱいレモンのような背景がさらっと見えそうな明るい声が一体誰のものなのか、綱吉にはすぐ分かった。ちらりと時計を見れば、八時半ごろ。この時間帯になんだろうかと思って答える。
「お兄さん?どうしたんですか」
『うむ!そっちに京子は来てないか!実は買物に行ったきり帰って来なくてな!』
「え…こんな時間に?」
 外はもう月しかない。灯りと言えば路上を照らす街頭くらいだ。
『心配はいらないと言ったので出したんだが、一時間しても帰ってこん!流石に俺も心配になってきた!』
 今から探しに行くところだ!と叫んでいるので、綱吉も慌てて放り投げているパーカーを拾う。肩と頭で携帯を挟みながら会話を続ける。
「お、俺も探しに行きます。どこに行ったんですか?」
『それがだな、場所を聞いてないのだ!』
 一大事だな!と笑う。笑っているあたりが一大事には聞こえない。綱吉はああとがっくりきながら、質問を続ける。
「じゃ、じゃぁ何を買いに行ったかとか…」
『ん?おう、そうだ!明日の調理実習のアップルパイに使うリンゴがないと言っていたな!』
「…果物屋さんはもうしまってるし…スーパーかな…。人手は多い方がいいですよね?獄寺君たちにも一緒に探してくれるように頼みます」
『すまんなー頼んだぞ!』
 そして電話は切れた。綱吉は一階まで駆け足で降りてシューズを履きながら、電話をかけた。