10:譲れないこと - 3/5

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 綱吉を玄関まで見送って、東眞は少し後ろの暗がりに立っている修矢に声をかけた。修矢はそれに、何?といつものように返事をする。しかし、振り返った東眞の表情を見て、顔を強張らせた。
「あのね、修矢」
「俺!……哲と明日からの分担について話し合わなくちゃいけないんだ」
 また後で、という拒絶を示した修矢に東眞はきゅっと顔を顰めた。修矢は逸らした視線を合わそうともしない。
 このままではいけない、と東眞は奥に足を進めようとした修矢に待ってと声をかける。修矢は足を止めたものの、全身から逃げ出したい、という気持ちがあふれているのは分かった。しかし言わなくてはならない。理解してもらわねばならない。東眞はゆっくりと言葉を紡いだ。
「聞いて、修矢。私は
「聞きたくない」
 拒絶を繰り返す弟に東眞は重ねて声をかけた。永遠にこのままでいるわけにもいかないというのは、彼自身が一番よく分かっているはずだからだ。
「修矢」
「聞きたくないって言ってるんだ!」
 諭すような響きに修矢はぎりっと拳を握り締め、叫んだ。ぐっと唇を噛みしめて、肩で息をする。その瞳は影の落ちた床を睨みつけている。東眞はその叫びに一度ためらいを見せたが、しかしまだ続けた。
「聞いて」
「…嫌だ。聞きたくない…っ!」
 強く強く壊れそうなほどに握りしめられているその拳に東眞はそっと触れたが、それを否定するかのように腕は振り払われる。斜め下を注視している瞳には寂しさと憤りとそんなものがないまぜになって映し出されていた。修矢は首を小さく横に振る。今にも泣き出しそうな声に東眞は今度ばかりは言葉を止めた。
「や、だよ…っだって、聞いたら、俺が頷いたら――――――行っちゃうんだろ…っ」
「それは」
 そうだ、と東眞は言おうとしたが、その言葉はさらに激情の言葉に押し流されてしまう。頭をまるで駄々っ子のように振っている弟に、東眞は何と言えばいいのか分からなくなった。
「何で!なんであいつ何だ!あんなやつ俺嫌だ!姉貴泣かせたし、傲慢で我儘で…っ姉貴の気持ち、考えようともしてない!」
 それは修矢の唯の言い訳にすぎないことに東眞は気付いていた。XANXUSの性格を並べたところで、それは自論確立のための補強にはなりはしない。きっと修矢もそれに気付いている。修矢はぐしゃりと髪に手を突っ込んで額を押える。
「だって――――――――俺の傍にいて欲しい…っ」
 零れた本音に東眞は胸を締め付けられる。どれだけ強い信念を持とうとも、どれほど上の地位に座ろうとも、彼は結局まだ中学生なのだ。甘えたい時期に甘えられなかった分、その反動とも言えるものを東眞は受けている。
「修矢は、もう一人でも……大丈夫でしょう?」
「大丈夫なんかじゃない!」
「哲さんも、皆も、修矢のことちゃんと見てる。組長としてというのもあるけど、それ以前にここはもう小さな家族じゃない」
 その言葉に修矢は瞳をぎゅぅと細めて眉を寄せた。
「姉貴がいなけりゃ…嫌だ。家族だって言うなら、家族からなんで離れるんだよ!」
 吐き出すかのような叫びに東眞は静かに答えた。ただ本心を与える。

「私は、あの人の傍にいたいの」

 その一言に修矢の体が大きく震える。一番聞きたくない言葉だというのは、分かっていた。それでも与えなければいけない。渡さなくてはいけない。そして分かってもらいたい。
「私はいつまでも修矢のお姉さんだけど、でもそれ
 以前に、と言おうとしたが二つの震える手で口を押えられて言えなかった。何も言えずに修矢は肩を震わせて首を横に振っている。言わないで、とその口から零れて落ちて言葉は床で一つ跳ねてから冷たい夜の空気に溶けた。
「やだ、いやだ…姉貴は、俺だけの姉貴だ…っ」
 ずるりと両手が落ちて東眞はまた言葉を紡ぐ。
「そうだね、私は他の誰の姉でもない。ゆっくりでいい、だから聞いて」
 だらんと垂れた腕で俯いたままの修矢に僅かなためらいをもったものの、東眞ははっきりと告げた。
 何時か言わねばならぬことならば、先延ばしにするべきではなかったのだ。自分から気付いて納得するのが一番なのだろうが、もう時間もない。
 東眞は瞳を修矢にぴたりと合わせて口を開いた。
「私は桧東眞で桧修矢の姉で、そして、」
 時間がその一瞬で止まって、またからりと動き始める。
「一人の男を愛する一人の女なの」
 東眞は修矢の答えを待つ。まだ、返事は何もない。下を向いたままの視線は動かない。この一秒一瞬がまるで、永遠に続くかもしれないとさえ思えてしまうパラドクス。ぼそ、と何かがその沈黙を破る。空に昇る螺旋階段から言葉が落ちてきた。東眞は一回ではそれを拾えずに、まだしばらく待った。ゆっくり、と修矢の顔が上がっていく。二つの視線が絡まって、そして東眞は言葉を失った。
「俺を置いていかないで…姉貴があいつを好きでもいいから何でもいいから、俺から――――離れないで…っ」
 何を言うべきか、東眞は考えて考えて、そして言った。ごめん、と。思うのならば大切なのであれば、真実を隠して嘘を告げるのだけが優しさではない。
 東眞の言葉に、修矢の瞳からぽたりと雫が落ちた。泣かせてしまったと東眞は痛みを覚える。できるならば泣かせたくはなかった。笑顔は求めないが、それでも頷くだけでも。
 溢れた涙を袖で拭って修矢は走り出した。東眞の横をまるで風のように通り過ぎて、スニーカーに足をつっかけて、玄関を開け放つ。開け放たれた扉の向こうはどっぷりとくれた闇。月がぽっかりと浮いている。かしゃんと修矢の背にかかっている袋に入った刀が音を立てた。
「修矢!」
 東眞の制止の声は届いていない。慌てて東眞は自分の靴に足を突っ込んでその後を追おうとした。だが、そこに声がかかる。
「どうされました」
「哲さん、修矢が――――…」
 坊ちゃんが?と哲は開け放たれた玄関を眺めて、全てを察する。まだ早かったのだろうかと、それを受け止めるだけの弟としての彼は成長しきっていなかったのかと哲は僅かに顔を顰めた。哲は頷いて自身も靴をはいた。
「探しましょう。―――――放っては、おけません」
「はい」
「吉佐、太一!留守を任せたぞ」
 少し奥に叫ぶようにすれば、転がるようにして二人の男が出てきて、へいと返事をした。そして哲は東眞に武器を持っているかどうかを確認する。東眞は頷いて上着下のホルダーを見せた。
「坊ちゃんは」
「肩に」
「分かりました。自分は右に行きます、お嬢様は左を」
 はい、と東眞は返事をする。そして、二人は街灯がちかちかと点滅している夜道に駆けだした。

 

 銃弾の嵐からどうにかこうにか脱出したスクアーロはほっと息を吐いた。
 基本的にぶちのめすためにわざわざ追ってくることはないので、執務室さえ出ればどうにかなる。一房だけ短くなった髪を眺めながらスクアーロはがっくりと肩を落とした。
 喜ぶと思って持って行ってやったというのにこの仕打ちは酷すぎる。言われる前に飛行機を手配してやった自分に対しての功労の言葉が銃弾とは。スクアーロは少しばかり泣きたい気持ちになった。
 かつかつと廊下を歩いていると、ちょうど突当りで大きな影にぶつかりそうになった。
「レヴィかぁ。何だぁ、ボスに用事かぁ?」
 XANXUSよりも大柄なレヴィは完全に首を軽く持ち上げなければ視線を合わせることが出来ない。別段それは気にしてはいないが、その嫉妬深い視線に当てられるのだけは勘弁してもらいたいところだ。丁度今は。
「貴様!俺の許可もなしにボスにあったのか!」
「…てめぇの許可なんか取ってられるかぁ」
 馬鹿らしい、とスクアーロは思いつつ、その相手をしていると僅かに苛立っているのを感じる。理不尽な暴力をこうも毎日受けているからといって、決してそれに納得しているわけではないのである。とはいえども、このままレヴィがXANXUSの部屋に入ればこちらも銃弾を浴びることには間違いがないわけで。(反対に喜びそうな気もするが)スクアーロは取敢えず忠告はしておいた。
「今ボスの部屋に入らねぇ方がいいおぉ。命が惜しかったらなぁ」
「ふん、不躾な貴様と一緒にするな。俺はボスの機嫌を損ねるような真似はせん!」
 前に包帯だらけになっていたのはどこのどいつだと突っ込みを入れつつ、スクアーロはそうかぁと適当に返した。そしてふと自分の手にしている紙を思い出した。慌てて出てきていたので持ってきてしまっていた。
「なら、こいつも頼んでいいかぁ?」
「?何だこれは―――――…飛行機の手配書か?行先は…」
 指でなぞってレヴィの動きが止まる。そこでふとスクアーロはああ、と思いだした。そしてニヤッと笑ってそれに付け加える。
「そうだぁ。ボスが愛しの女を迎えに行くための飛行機だぞぉ」
 わなわなと怒りに震えているレヴィにスクアーロは追い打ちをかけるように続けた。
「あのボスが自らの出迎えなんざすげぇよなぁ」
 楽しげに言いながら、スクアーロはもうその場にレヴィがいないことに気付く。そしてにやにやと笑って、一二三、と数を数えつつその場を後にする。
 こつかつと歩きながら、ようやっと二十秒。鼻歌を歌おうとした直後、扉が重い何かに破壊される音が背後から響いて来る。それに合わせて聞き慣れた酒瓶の破壊音。ざまーみろぉ、とスクアーロは思いつつ足音を躍らせた。