09 :Sei unica. Sei unico. - 4/6

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 無言の電話の向こう。目の前のアナログ時計の秒針だけがかちかちと時を刻んでいた。五月蠅いほどの心臓の音を聞きながら、東眞はようやっと唇で始めの文字を形作った。
「XANXUS――――――――…さん、ですか」
 返事はない。それはそうだろうと少し眉尻を下げながら東眞はゆっくりと続けた。
「聞きたいことがあって、電話をしました。できれば切らないで聞いて下さい」
 喉を落ちて行く唾に頭を冷やしていく。携帯を握っている手が僅かに震えていた。どうか切らないでと切に願う。この想いが届いていることは決してないのだろうけれども。  無音の部屋に響く秒針の音だけが耳につく。息を吸って、吐いて、震える手をもう片方の手で押さえつけて東眞は尋ねた。あの時に伝わらなかった、分からなかった言葉の意味を探して。
「日本に来られた時、どうして―――…いえ、私に何を伝えたかったんですか」
 そう一言口に出してしまえば、まるで堰を切ったように言葉は口から次々と零れ堕ちて行く。冷静に考えて考えて考えて、そうやって積み重ねた心の中でのトレーニングは無駄になった。いつのまにか頬に零れている雫に気付くこともなく、唇は言葉を紡いだ。
「どうして怒ってらしたんですか。どうして日本に来られたんですか。何を怒ってらしたんですか。何故電話をかけられたんですか。どうして――――――…
 しかし、その声はあっさりと電話向こうの声で潰される。
『女から、電話があったのか』
 会話の主導権をあっさりと握られて言葉に詰まってしまう。自分の質問に答えないまま、電話の声は静かにそう尋ねた。からん、とその向こうで何かが割れる音がする。質問の答えを得られず、ただそう尋ねられて東眞は何を言っていいのか分からなくなった。子供のようだ、と東眞はふと思う。突然の出来事に対応できないなどと、まるでそんな。
 東眞が答えられないことなど承知のように、否答えなど実際は気にしていないのかもしれない、電話を通した声は告げた。
『俺を、裏切るな』
 荒げられた声ではない静かで落ち着いた声はすっと東眞の胸に入ってきた。今度は、しっかりと理解できる。さらに言葉は続けられる。
『俺はてめぇを裏切らねぇ――――――お前も俺を裏切るんじゃねぇ』
 裏切った、とやはり思われていたようだった。裏切った覚えはないが、そう思われていたという事実が分かる。真っ白な頭の中に考えていた図に線引きがされて行く。そして、自分の考えにひとつ間違いがあったことに気付いた。そのたった一つの間違いが、以下全ての物事をずれた状態で与えていたということにも。
 訪れが浮いたいたのではない。浮いていたのは電話だ。たった一本の電話だ。
『てめぇは俺だけを信じてろ。俺の言葉を、俺自身を、俺の全てを』
 無条件に信じてりゃいいんだ、と言葉が耳元で鳴る。裏切らない、という先の言葉でそれが補強されていた。東眞は何かを言うことはできず、むしろその言葉の続きに耳を傾けた。
 理解したいならば、理解しようとしなければならない。そうでないと人は何も伝えられないし、伝わることもない。相手の言葉を聞き、感情を聴き、心を知る。
 落ちた涙を拭い、東眞は瞼を落として話の続きを待った。伝えようとしてくれている声に。
『待ってろ――――――――俺を』
 他の誰でもない、彼を。
 謝罪はもとより求めていなかった。寧ろ謝罪をしなくてはならないと思っていた。だが、彼は謝罪を求めていなかった。ごめんなさいと謝ることを許さない。求められている言葉はそんな消極的な言葉ではない。関係を断ち切る言葉ではないことを、東眞は知った。それだけで十分だった。
 いつのまにか手の震えは止まっている。東眞は瞳をそっと細めて、口元に笑みを浮かべた。どんな笑みよりも、やわらかい笑みを。唇はそのままに言葉を紡ぐ。
「はい」
 いいえでもごめんなさいでもありがとうでもない、二文字の承認の言葉。電話の向こうで、小さく相手が笑ったような気がした。じゃぁなと一言置かれて電話が切られようとしたので、東眞は慌てて声をかけた。
「あの」
『何だ』
「どうしても聞きたいことがあるんですけど…」
 無言は肯定と取ってほぼ間違いないので、東眞は一拍置いて尋ねた。それは今の今までずっと胸にあったシコリ。だが彼を信じると告げたのであれば、これだけははっきりと口にしてもらいたい。
「私のことは…その、暇つぶしなんですか」
『―――――――――――おい』
「あ、はい」
 僅かに落ちたトーンに、東眞はきょとんとしながら返事をする。ちっと小さな舌打ちが電話の向こうでされた。からんと冷たい音がする。
『てめぇ、今までそんなこと気にしてやがったのか』
「…気にしてましたよ、それなりに。それでも構わないと思ってたんですが…」
『が?』
 もう一度音がした。東眞は目元を穏やかに微笑ませて続けた。
「信じるなら、その言葉を聞きたいです」
『…』
「この想いが揺るがないように」
 聞きたいです、と東眞はもう一度続けた。こつんと固い板の上に、ガラス製のものが置かれた音がした。東眞は静かに電話向こうの声を待つ。
 言ってほしい。なによりもその言葉が欲しい。信じて欲しいのであれば、人はそれなりのものを示さなくてはならない。譲歩という言葉だ。声が、ようやく届いた。

『Sei unica.(てめぇだけだ)』

 それは英語でもなければ当然日本語でもない。イタリア語なのだろうと東眞は思う。これっぽちも理解ができないその言語。だが、なにも言語を知らねば、言葉を理解できないということはない。東眞は、有難う御座いますとそれに返した。
「信じます、XANXUSさん。そして私も信じて下さい」
『――――二度と、下らねぇことに気をやんな』
 今までのことをあっさりと、下らないと言われてしまった。振り返って種が分かってしまえばそれは確かに下らないことだったわけだが。思わず小さく笑ってしまった。そして、じゃぁなともう一度言われて電話は切れた。

 

 切った電話を机の上に滑らせる。そして滑った電話は書類にあたって動きを止めた。
 何故だか自然と口元に穏やかな笑みが浮かんでいた。机の端に置かれているデジタル時計に表示されたカレンダーを見やって現在の日付を確かめる。
 二言、あっさりと求めていた言葉が返された。他の言葉など欲しくはなかった。一番の言葉だった。
 XANXUSはデジタルの時計を机の上に伏せさせて表示を隠す。そして机に一度置いていたウィスキーの入ったグラスを手に取り、そっと口元で傾けた。