1
東眞は呆然と赤い瞳に映った己を見る。その二つの瞳に映っていることが信じられず。そしてXANXUSは黒い瞳に映った自分を見つめる。何故この二つの瞳が己を映さなかったのか理解できず。
「――――っい、」
信じられないほどの強い力で二の腕を掴まれて無理やり立たされる。
状況が全く理解できずにただその力だけに引っ張られる様に、東眞はXANXUSを見た。始めて目の前の男が心底恐ろしいと思った。今まで恐ろしくなかった理由はただたんに理解しようとせず、ただそれで構わないという点があったからだ。しかし今、理解しようとしても理解できないという恐怖に襲われた。
何故どうしてと自問自答しても答えが見つからない。東眞は僅かに足を一歩下げる。
先程まで自分が座っていたテーブルだけが嫌に静かだ。他の場所からあふれてくる喧騒だけが浮ついた音を奏でている。その静寂を一つの声が破った。
「東眞…さん、その人…弟君…っす――――――――――ひっ」
沈黙を破った声はすぐに引きつりに変わる。XANXUSの赤い瞳と威圧感はそれだけで人を黙らせる。圧倒的な迫力。力。人に本能的恐怖を与えるそれ。
XANXUSは無言で東眞の腕を引っ張った。東眞は慌ててその手を引き剥がそうとするが、その力にかなうわけもない。踏ん張った足はずるずると床を滑るようにして引きずられていく。黒い隊服が東眞の視界を黒く染めていく。放して、という声すらも出ない。
店員が一体どういうことか全く分からないと言った様子で、ありがとうございましたと困惑気味に声をかけている。
外に出ればひやりと冷たい空気が肌を撫ぜる。温かい室内にいたせいかそれが余計に冷たく感じた。コンクリートの地面を靴がずりずりと音を立てて引きずられていく。強く強く、骨が折れそうなほどに掴まれている腕がひどく痛い。周りを歩く人間はみな楽しげに酔っていて、ネオンライトがちかちかと視界の端に光って通り過ぎて行く。ずるずると引きずられていく人間を見咎める人はこの雑踏の中にはいない。
大きな手のひらの上に自分の手を重ねて力いっぱい引っ張るがやはりびくともしない。食い込んだ指を引き剥がすにもまるで食い込んでいるかのように放されることはない。 会えて嬉しい同時に会えて悲しいそして理解ができない。何のためにどうして何故。気持ちに整理をつけて、ようやく前を向けると思ったその矢先に。分からない。
手を引き剥がせば引き剥がそうとするほど、食いこむ手の力は強くなる。ぎりぎりと締め付けるその強さに目の奥がジワリと熱くなる。本気で痛い。薄暗い路地にそのまま引きずりこまれ、コンクリートの壁にたたきつけられる。見上げた先には二つの赤い瞳が光っていた。暗がりの中の所為か、余計にそれが恐ろしく見える。
怒っている。しかしなぜ怒っているのかが分からない。
東眞はゆっくりと首を横に振った。XANXUSの顔がその反応に歪み、二の腕を持つ力が強くなる。みしりと骨が鳴ったような気がした。ごべと音がして、耳のすぐ横に拳がめり込んでいた。東眞はひゅっと息を飲む。見開かれた瞳に映る己をXANXUSは覗き込むようにして、その瞳に映った自分の瞳に映る東眞を見る。
そしてXANXUSの唇が乱暴に開かれた。吐き出されるかのようにして叩きつけられる言葉。
「Lei mi tradi―――――――――――…Sei mia!Ho detto ti lo!!」
日本語以外の言語、おそらくはイタリア語で酷い剣幕でまくしたてられる。何を言っているのか全く分からない。ただ言葉の渦だけが東眞にのしかかる。分からないと首を振ってもイタリア語しか返ってこない。
何を怒っているのか、何故怒っているのか分からず、理解に詰めることもできず、頭が混乱をきたす。言葉が吐き出されるたびにぎりぎりと締め付けてくるその手と、震えるほどの怒りに満ちた理解できない言語。自分をせめ立てる赤い瞳が心底恐ろしい。怖い。敵意などではなく、そう。
憤り。
途端、言葉が止んだ。しかしその瞳の色は一つも変わっていない。反論する間もなく叩きつけられた言葉が今だ整理できずに東眞は身を強張らせている。
寄せられた唇に東眞は掴まれていない方の手を振るう。その手の平はXANXUSの頬に当たる前に手首が強い力で掴まれる。みしりと音がした。痛みで顔をゆがめたそこに唇が乗せられる。否、噛みつかれた。喰らうようにして唇が合わさる。二の腕が掴まれてはいるが、肘下が自由な腕を胸に押し当てて押す。大した抵抗にもならない。
しかしXANXUSはぱっと顔を離した。口端に付着した血を舌でなめとり東眞を見下す。その視線に東眞はXANXUSを初めて睨みつけた。肩で呼吸をし、その眼は僅かに濡れていた。それでも涙は流さなかった。東眞は壁に押し付けられたまま震える声で言葉を発する。分かりません、と。
「XANXUSさんが何を考えているのか、何をどうしたいのか…っ私にも分かる言葉で説明してください」
さっきから、と東眞は側に落ちてきた髪をふるって喉を一旦引きつらせて言葉を発した。ぎっと唇を噛みしめて首を横に小さく振る。
「分からないんです…少しも、分からないんです―――…っ押し付けないでください…っ」
分からないんです、と繰り返して下を向いた東眞からXANXUSは手を離した。XANXUSの手から離れて下に無気力に落ちた手首には痛々しい痣が残っていた。ごつん、と足音が響く。東眞はうつむいたまま何も言わない。大きな影が動いて東眞に光を当てる。
「――――――――っ…勝手にしやがれ…!」
吐き捨てられた言葉に東眞はぎゅっと眉を寄せた。がつがつと怒りにまみれた足音が遠ざかって行くのを東眞は俯いたまま聞いていた。
からりと玄関が開く音に修矢はぱっと立ちあがる。前で勉強を教えていた哲はその様子にふっと表情を緩める。修矢はがらりと襖を押し開いてその部屋を飛び出した。哲もやれやれと言った調子でその部屋を出て修矢の後を追う。
「姉貴!早かったなっ!あのさ、晩御飯余ってるけど食う?温めて……姉貴?」
ふらりと隣を無言で通り過ぎた東眞に修矢は言葉を止める。東眞はうつむいたまま顔を上げようともしない。ようやく追いついた哲がお帰りなさいませと声をかけた。しかし東眞は何も返事をしない。珍しいというよりも異常な返しに哲も修矢も顔を見合わせた。
「姉貴…どうかしたのか?」
返事はなく、ただ頭を小さく横に振って東眞は自分の部屋へと足を進め、そして襖を閉じた。襖を後ろ手に閉めて東眞はそのまま畳んでいた布団に突っ伏した。ふ、と声が漏れ出る。
「―――――――――ぇ、ぇ」
押さえていたものが、今更になって零れてくる。目頭が熱く、目の奥からジワリと涙が浮かび、布団に染み込んでいく。
こつんと襖の外から音が鳴った。遠慮がちな声がかけられる。
「姉貴…なんか、あったのか…?」
心配そうな声に東眞は布団から顔を上げる。ごくりと唾を飲み込んで、ゆっくりと口から言葉を送る。しかし言うべき言葉が見つからず、開きかけた唇をぎゅっと噛みしめ、ずるずるとゆっくり襖に手をかけそれを押える。外からは開けられないように。
「姉貴?開けるぞ」
「…」
「姉貴?」
がたがたとなる襖を押さえつけ、東眞は黒い髪の隙間で声を殺して泣いた。