09 :Sei unica. Sei unico. - 3/6

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 ごろんと寝転がって空を見上げる。遠く遠く、どこまでも遠くまで広がっているその空に手をのばして、修矢はやはり手をおろした。四時間目が自習だったので教室から出てここにいるわけだが、カーン、と音がしたようやくそれが終了したことを知る。
 上半身を起こして、隣に持ってきた弁当を膝の上に乗せて包みを開く。蓋を開ければタコウインナーやら厚焼き卵、それにホウレン草のおひたしなどなど。栄養面に気を使っているなぁと感心しながら修矢は箸をとり手を合わせる。口の中に卵を放り込んで咀嚼する。甘くて、優しいいつもの味。
「…なんつーか」
 頼りない、と修矢はぼやいた。
 大切な姉を守りたいと思いつつも、結局姉は自分一人で立ち上がる。どんな逆境だって受け入れて立ち向かう。自分にとっての最善が何かということをいつも分かっている。決めている。そんな姉に憧れている。が、同時に心配で仕方がない。
 水筒から温かい茶をコップに入れながら修矢はそんなことぼんやりと思う。今日は寒いからとわざわざ温かいお茶にしてくれた。ず、と口に含めば体がほんのりと温まる。それは茶の温かさではなく心づかいの温かさだろう。
 ぱくぱくと料理を平らげながら、ある不安に襲われていることに修矢は気付いていた。気付いていながら、近づく日から目を逸らしている。
 姉貴はあの男のことに心底、それはきっと引力的な法則に近い何かで惚れている。
 箸が止まる。
 姉を見ていれば分かる。幼いころから姉を見てきた自分には分かる。姉が誰の隣にいれば一番幸せな顔をしてくれるのかくらい。分かってはいるのだが、どうにも納得したくない。電話をして分かった。あの男の中心はあの男自身で他の何物でもない。自分の世界の中心が姉であるのと同様に。  ご飯とオカズを交互に食べながら、次第に少なくなっていく弁当の中身を眺める。
 姉が幸せであることが一番であると言いながら、姉がいてくれるという今の幸せを壊されたくない。実を言えば、姉が喧嘩をしていると気付いて少しばかり喜んだ。これで、姉は自分の傍にいてくれると。なんとも情けない考えだ。
「……でも、嫌なんだ」
 側にいて欲しい。ずっとずっと。自分の傍で笑っていてほしい。優しく温かく。それを突然現れた男にかっさらわれる。信じられないほどに、嫌だ。修矢、と笑顔で名前を呼んでくれることに自分が一体幾度救われたことか。数えきれない。
 哲が連れて来たその少女は顔立ちがよくよく似ていたけれど、自分よりも背が高くてずっと大人びて見えた。小さい頃から結構背は高い方だったが、年齢の差はそれにも勝ったようだった。けれど年を経るごとに自分と姉の身長はほとんど変わらなくなり、今では少しばかり自分の方が高い。外見は変わったが、変わらないものはある。その優しさと笑顔。
 姉を卒業する。姉は姉でなくなって、誰かの女になる。果たして自分はそれを笑顔で祝福できるのか。否、できそうにもない。タイムリミットは刻々と近づいてきているのに、心は急くばかりで心の整理はつかない。姉が自分の立場なら、間違いなく笑顔で見送りだしてくれる。おめでとう、と心からの一言をくれる。
「言え、ないって」
 そんな一言は。
 時間が止まってしまえばいいのに、と空に願うが、空はただ遠くに伸びているだけでそんな願いは叶えてはくれない。ああ無情、と本の題名を思い出しながら修矢は水筒から熱い茶をもう一度入れた。ふぅと息を吹けば湯気が揺らいで空気に溶ける。
 その時、がちゃりと扉が音をたてて開き、騒がしい連中がやってきた。武がにかっと笑って腰を下ろす。
「よ、桧!やっぱいたのか」
「ああいたよ。プリントとノート、ありがとな」
「いーって。な、ツナ!」
「う、うん」
 武に振られて綱吉はへらっと笑う。修矢はその笑顔を見ながら、平和な顔だと思う。そして気付けばその一言はポロリと出ていた。
「平和な、顔だよな」
 羨ましい、と。
 それに綱吉は誤魔化すように笑っていたが、隣にいた隼人がいきり立って修矢に怒鳴った。煩わしさを覚えながら修矢は横目でそれを見る。
「十代目はな!俺たちのこの平和を守るために…っ!!」
「ご、獄寺君!いいい、いいって!」
 その慌てようが大したものだったので、修矢はふと引っ掛かりを覚えて尋ねる。
「何だ、あんた同業者か何かか」
 だから自分が極道だと知っても普通に話しかけてくるのか、と思った。しかし沢田などという名前の組は聞いたことがない。言葉の齟齬に修矢は眉間に軽く皺を寄せる。すると聞いてもいないのに、隼人がこの御方はな!とばばんと綱吉を示した。獄寺君!という制止も全く耳に届いていないらしい。
「イタリアマフィアの頂点に君臨するボンゴレファミリーの十代目だ!!」
 あああ、と綱吉はその一言にうなだれて落ち込んでいる。しかし、修矢はマフィアは詳しくないし、映画程度の情報しか知りはしない。
「へぇ」
「…あ、あれ、お、驚かないの?」
 あまりにも簡単な一言に綱吉は落ち込んでいた顔をあげて修矢を見た。修矢は食べ終わった弁当を包みに戻しながら、別に答える。
「極道の組長がそれで驚いてどーすんだ、ツナ」
 ひょいと振ってきた声に綱吉はリボーン!と叫ぶ。赤ん坊くらいの小さな人間が素晴らしい身体能力でその場に降り立つ。
「そいつの言う通りだ、沢田。それに俺はマフィアなんてものはよく知らないし、俺に分かるのはアンタが平穏を好む人間ってことくらいだ」
「―――――――――お前は、違うのか?桧修矢」
 リボーンの声に修矢はすっとそっちの目を向ける。口元に小さな笑みを漂わせているリボーンは修矢は好きになれなかった。嫌な、人を試すような目をしている。
「平和は好きだ。だけどそれを乱す奴は嫌いだ」
「お前ツナと同じ意見なのな」
「…」
 武の言葉に修矢は言葉をつぐみ、ちらりと綱吉に視線を向けた。そして静かに目を閉じた。
「一緒じゃないさ」

 一緒なわけがない。

 くつ、と修矢は小さく笑って綱吉を見た。
「警察に厄介になる人間と一緒にしちゃ、気の毒だ」
「け、警察って…」
 それなら俺も一緒だよと言いかけたが、綱吉は慌てて口を止めた。校舎をこれでもかというほど破壊した思い出はどうにも苦い。仕方のないことにだったにせよ。それに警察にお世話になるならば、そちらよりも露出狂という方面で訴えられそうな気がする(何と言ってもパンツ一丁)
「人殺し、とか」
 姉のことで気が立っているのか、調子が狂っているのか。らしくもなく言葉がポロリとこぼれた。
 その一言に周囲の空気が一瞬で凍る。くっと自嘲染みた笑みが口元に浮かび、そして憐れむような視線を向けた。唯一言、リボーンの高めだが平坦な声が空気を破る。
「今回の組長交代は掟破りだって聞いけどな」
「よく知ってるな。ああ、そうだ」
 父親の最期の言葉と怯えた顔が修矢の脳裏を一瞬で支配した。口元の笑みは自嘲じみたそれへと変貌する。
「わかるだろ?桧に置いての掟破りは死に直結する」
 弁当を持って修矢は立ち上がり、水筒を手にした。信じられない、という約一名の視線が背中に突き立っている。弱い、動揺にまみれた声が投げられた。
「―――――じゃ、じゃぁ、君は…」
 答える必要などない。無言は肯定だ。
「何で!」
 困惑。修矢はは、と肩を笑わせた。本当にらしくない。
 肩越しに振り返って、こちらを震える瞳で見てくる男に視線を送る。
「あんたさ、マフィアの十代目なんだろ?」
「で、でも俺は――――――!」
「優しいマフィアか、結構な事だよ。いいんじゃないか?そういうのも」
 真実、本人がそれがいいと望みそう行動するのであれば、それに間違いはない。権力は持つだけで抑止力になる。
 修矢はそのままぺらとしゃべり続ける。
「いいよ、そういう考え。俺、好きだ」
 平穏であればいいと思う。平和であればいいと願う。自分が守る場所が、人々の笑顔であふれていればいいと思う。
「でも、だ」
 こんな時は、姉の顔が見たくなる。
「あんたの意見は上にしか座ったことしかない者の言葉だよ」
 綺麗な床に置かれている椅子の上で。不透明なガラスの下にあるのは押し潰された死体なのだろう。床の上の人間がそれを見ることなどはないが。
「だからさ、沢田。あんたの言葉は俺には届かない」
 いくつもの命を奪った自分に届かない。聞く耳を持つ気もない。綱吉はぐっと唇をかみしめて修矢を見つめ返す。
「でも、なんでそんな掟――――人の命を奪う掟にしたがったんだよ!」
「それが掟だからだ」
「そんな掟、ぶち壊せばいい!」
 綱吉の叫びに修矢は目を細めた。隣の男はそれに感動したように頷いている。滑稽だ。
「あんたにとって人を殺したくないっていう思いが絶対の掟であるように、俺にとっては人を殺してでも守るべき掟がある。俺はそういう世界で生きてきたし、それ以外の生き方を知らない。悪いが知ろうとも、思ってない」
「…っ」
「俺とあんたの道は交わらない。それでいいじゃないか」
「でも君が、そんなかなしい――――――――!」
「俺はもう救われてる。沢田、あんたの手はいらないよ」
 叫びに修矢は柔らかく返した。納得いかないという綱吉の顔を見ながら、修矢はゆっくりと振り返った。
「飯時にこんな話にして悪かったな。気にするなって。俺は俺であることを悲観したことはない」
 そして明るく笑った。
「俺は俺が大切に思ってる人に俺を分かってくれれば、それいいんだよ」
 いらないことをしゃべり過ぎたと修矢は思いつつその場を後にした。幸い声は追ってこない。そして、姉のことで結構落ち込んでいるのだろうと改めて嫌というほど再確認させられた。

 

 洗濯物も終わった。掃除も終わった。ご飯の下ごしらえも終わった。銃の訓練も終わったし、今日の講義も全部終了した。東眞はあらためて電話を見つめる。
 昨日の失敗(?)から一日。一度失敗していると次の挑戦をするのに前よりも一層の勇気と決断が必要である。
「落ち着け、私」
 別に携帯電話が噛みついて来るわけでもない。ただ、操作してボタンを押して相手が電話に出るのを待つだけである。今まで一度も自分からかけたことのない電話をまさかこういう形でかけることになるとは思わなかったが。もう一度深呼吸して東眞は机の上の電話を取った。そして画面を見ながら操作して、一拍の、長すぎるほどの時間を開けて通話ボタンを押した。 て恐る恐るそれを耳に押し付ける。
 呼び出し音が響いている。一回二回三回四回。今までかけてくれていた電話も同じようだったのだろうかと思う。五回。呼び出し音が止んだ。