08:理解不能行動不能再起不能? - 3/4

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 こつん、と哲は脇の柱を叩いて東眞に知らせる。
「お嬢様、自分は夕飯の買い出しに行ってきます。舎弟も出払っていますのでお気を付け下さい」
 暫く待っていると、擦れに擦れた声で、はいと返事があった。哲はそれに顔をしかめて、心配がにじみ出ている声で続ける。
「坊ちゃんも心配して居られます。夕食には、顔を出して下さい」
「ごめんなさい…今日は…」
 無理そうです、とやはり擦れてしまった声で返答がされた。泣いて声が嗄れたのだろうと容易に答えは出たのだが、どうして泣いたのかその理由が分からない。襖のすぐ向こうに座っているのだろう、声はすぐ近くに聞こえた。
「お嬢様」
 はい、と返事がされる。
「泣き顔を坊ちゃんに見られたくないのですか」
「…これは私の問題ですから、修矢にいらない心配をかけたくないんです」
「相談してくださった方が、坊ちゃんは喜びますよ」
「…ごめんなさい」
 拒絶の言葉と取った哲は目線を足元に落とす。二つの足が暗がりに落ちていた。哲は襖というただ一枚の隔たりに負けて背を向けた。
「では行って参ります」
 いつもならばある行ってらっしゃい、という返事を東眞はすることができなかった。遠ざかって行く足音を聞きながら東眞は目元をぐいと袖で拭う。鏡を見ればおそらく兎のように目が赤いに違いないと簡単に想像できた。
 ことりと頭を襖に凭れかけさせて、天井を見上げる。く、と喉が曝された。さあ食らいついてくれと言わんばかりに。
 少しずつ東眞は考えを整理していく。しかしどうしても最後のブロックだけがうまくはまらずに、手元から転げ落ちてしまう。XANXUSが日本にまで来て、怒りをぶつけてきたという理由だけが分からない。そこまでする理由は彼にはない。電話を取らなかったことに対する怒りかとも考えたが、そんなことでわざわざ日本に来るのだろうかと考えてしまえば、この論理は成立しない。
 もう少し遡って冷えた頭で東眞は考えていく。
 まず電話があった。それは彼が自分を本当は厭うているという報告の電話だった。次に自分はは彼のことをあきらめた。終わった恋だとそう自分自身に告げた。そしてXANXUSから電話があった。その電話はおそらくルッスーリアたちに言われてかけられた電話に違いない。自分は状況についていけずその電話をすぐに切った。二度目の着信は取る前に切った。それから昨日、彼は日本に来て自分に怒りをぶつけた。それで終わりだ。
 最後の一文だけがどうしても浮いてしまっている。一から三までの出来事にはまだ筋が通っているというのに、四つ目の出来事はぽつんと離れているのだ。
 理解できない言語でまくしたてられた、あの内容は一体何だったのだろうかと東眞は思う。
 XANXUSは理性的ではあるが、感情が理性を超えた時には感情のままに行動するきらいがあった。だとすれば、あの時のあの言葉は何らかの彼の感情だったに違いない。ただそれが分からない。分かりたいのに分からない。伝わってこない。伝わるのは純粋な憤りのみ。
 東眞は手にしている携帯に目を落とした。そう言えば、鞄を飲み屋に忘れてきていたことを今更ながらに思い出す。財布と携帯はポケットに入れていたので、こうやって手元にあるわけだが。あの後の空気を考えると、悪いことをしたと東眞は少しばかり気を落とした。メールで謝罪をしておこうと東眞は携帯を持ちあげて、アドレス帳を回す。そして、ぴたりと一つの名前で止まった。

 XANXUS

 機械的に記入された名前に東眞は指を乗せた。そしてぽちりとそのボタンを押す。ぱっと画面が変わり、電話番号、メールアドレスが表示される。通話ボタンの上で手が止まった。
 分からないならば、分かる努力をすればいい。伝わらないならば、伝える努力をすればいい。理解できないなら、理解しようと努めればいい。
 東眞は画面を見たまま動きを止める。思い出されるのは昨晩の言葉。ひどく、そうだ。あれは。
『――――――――っ…勝手にしやがれ…!』
 傷ついていた?思い通りにならなかったことに対して、違う。
「伝わらないことに、対して」
 何を伝えたかったのだろうかと東眞はまた考える。聞いた方がずっとずっと早いのだろうが、心の準備ができていない。
 ふと東眞は立ち上がる。
「…こんな所で腐ってても、始まらない」
 兎も角この情けない顔を洗おうと一瞬ためらって、襖を引いた。丁度その時、インターホンの音が廊下に響く。そういえば家には一人しかいないことを思い出して、東眞ははいと返事をしてそちらに向かった。

 

「山本…ほ、本気で行くの…?」
 綱吉は鞄を両腕で抱えて武の隣を歩いていた。その隣には隼人がきっちりと陣取って構えている。
「心配御無用っす!十代目!!俺が付いてますから!」
 付いているから一体どうなるというわけでもないのだが、綱吉は有難うと言葉を返しておいた。それに隼人は有り難いお言葉!と感激して涙を流している。毎度思うのだが、あれで火薬が湿気ることはないのだろうか。
 武はノートとプリンをひらつかせて、頼まれたからなーと能天気に言う。
「た、頼まれたからって!でも相手は極道の組長なんだよ!!…い、一体何が起こるか分からないじゃないか…」
「ツナも心配性だなー。桧はそんなやつじゃねーって」
 からからと笑う武に綱吉はうんと同意はする。
「い、いや俺も桧君が悪い人じゃないのは分かってるんだけど…」
 ね、と綱吉は長々と続く白い塀を見ながらううと顔を青ざめさせた。それらしい人間と言えば、先ほど顔に大きな傷のある男がすれ違った。スーツの着こなしといい何といい、もう完全にそっちの人だ。綱吉はぶるりと体を震わせた。
「リボーンも今日はいないみたいだし…」
 いざと言う時が本当に困る。
 涙をぐっとこらえて綱吉は深く溜息をついた。隣で隼人が十代目の守りは任せて下さい!と叫んでいるが心配なものは心配だ。
 そうこうしているうちに、とうとう門に到着してしまう。門構え、その隣についている何ともいえない達筆で「桧組」と書かれているあたりがもう駄目だ。
「や、や、やややや山本!やっぱり帰ろう!今からでも遅くないって!!」
 俺達ハチの巣にされちゃうよ!という綱吉の叫びは遅し。武の指はすでにインターホンを押していた。ピンポーンと無情な奇怪音が響く。ここでピンポンダッシュなどという手を使えばハチの巣どころではないかもしれない。全身に冷や汗をかきながら綱吉は全力で失神したい気持ちに襲われた。
 しかし予想に反してはいと柔らかい返事がされた。そして、暫く三人で待っているとからりと扉が開かれた。
「はい…修矢のお友達ですか?」
 泣いていたのだろうか、目をはらした女性がそこに立っていた。だが、彼女は口元に目とは不釣り合いなほどの優しい笑みを湛えていた。

 

 修矢は東眞の鞄を受け取る。
「どーも」
「東眞大丈夫だった?ホント驚いちゃった」
 女の発言に修矢は何がですか、と問いかける。その問いに女は、ひらひらと手を振りながら笑う。
「聞いてない?ところで東眞ってあっち系の人と付き合ってたの?」
 質問しているのはこちらだというのにと修矢は思いながら、首をかしげた。女はあ知らないんだ、と続けてようやく質問への返事をした。
「昨日ね、すっごい背の高い男が東眞を連れてっちゃったのよ。酣って時に。もー、その人の怖いこと怖いこと」
 睨み殺されるんじゃないかって思ったわ、と女はぶるりと体を両腕で支えて震える。修矢はその男、という単語に嫌な予感を覚える。
「それ、どんな男でした」
「あら、お姉ちゃんがどんな男と付き合ってるか興味あるの?」
「当然です」
 即答した修矢に女は苦笑して、そうねぇと特徴を口にする。
「黒づくめにブーツ…うーんでもあんまり思い出したくないなぁ…あんな目、正直一生に一度でいいわ」
「他には」
「本当にお姉ちゃん好きなのね」
 鋭く問う修矢に女は僅かに口元を引きつらせて、頭を押える。一度見たら絶対忘れられないと思うんだけど、と続けてうんうんと唸った。
「顔に傷があったわね…あれなんでついたのかな。それと黒で短髪。それくらい。私から言うのもなんだけど、ああいう人とは付き合わない方がいいと思うのよねー。ま、個人の自由だけど」
 東眞によろしくね、と女は手を振ってその場を去った。修矢は礼を述べ、頭を下げて見送る。
 そしてふっと目を上げた。その瞳には明らかな怒りが宿っている。
「………まさか、あいつか」
 目付きが悪く、黒ずくめ、恐怖感を相手に植えつける。そんな男は姉の近くに一人しか存在しない。
 ぎりっと修矢は歯を鳴らす。
「――――――泣かせやがったな…っ、あいつ…!」
 姉が幸せであればいいと思って、今まで黙認してきたというのに。電話があるたび、葉書が来るたび、メールがあるたび、見せたこともないような嬉しげな顔で微笑むから。
 修矢は拳を痛いほどに握り締めた。