06:日常の私とあなた - 4/6

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 東眞は大きく背伸びをしてパソコンの電源を落とした。後はこのUSBの中身さえコピーして提出すれば、卒業論文は終わりである。単位とは関係のない授業をいくつか取っているので、それは最後まで出るつもりだ。
 さてと立ち上がって東眞は台所に向かう。
 発酵させておいたパンはどうなっただろうか、と見ればいい感じで膨らんでいる。形を整えて予熱を済ませているオーブンで焼ければ完成だ。手を洗ってから清潔な布で拭き、手頃な形にちぎってそれを鉄板の上に乗せるとオーブンに入れた。そしてその間にジャガイモを切って水にさらし、人参玉ねぎ、そして鶏の腿肉も切っておく。次に煮込み鍋にバターを焦がさないように中火で溶かして小麦粉を入れ、粉っぽさがなくなり泡が細かくなるまで炒める。それに冷たい牛乳を一気に加えて火を少しばかり強め、泡立て器で玉にならないようによく混ぜ合わせつつ、とろみがついて来たところに塩コショウを加えた。火を弱めて、そこで他の作業に移る。鶏肉を焼き、そして玉ねぎ、ジャガイモ、人参を加えて軽く炒めて油をまわし、少々白ワインも加えておく。それを先ほどの煮込み鍋に加えて、のんびり混ぜながらスープを加えた。
 そこにがらりと玄関が開く音がして、誰かが入ってくる。さっと暖簾が上にあがり、哲が僅かに頭を下げて台所に足を踏み入れた。
「良い匂いですね。シチューですか?」
「はい。修矢が帰ってくるくらいの頃には出来上がります」
「しかしお嬢様は本当に料理がお上手だ。お嬢様を嫁に迎える男は幸せ者ですね」
 から、と笑って哲に東眞は苦笑した。
「何と言っても毎日旨い料理が食えるんですから」
「御上手ですけど、おだてても何も出ませんよ。あ、お風呂もできてますからお先にどうぞ」
 集金お疲れ様でした、と東眞は思い出したように労いの言葉をかける。哲はいいえ、と笑って、そしてちらちらと何か言いたげに東眞に視線を向ける。それに気付いて東眞はああ、と声を上げた。
「プリンなら二段目に入ってますよ。風呂上がりにどうですか」
「いや、有難いです。どうにも自分で買いに行くのは恥ずかしいものでして…」
「これくらい構いませんよ。いつも修矢がお世話になってますし」
 哲はその言葉に恥ずかしげに笑って、では失礼ながらと風呂に向かった。東眞はことことと音を立てる鍋に耳を傾けながら、ひょいとオーブンを覗きこんでパンの焼け具合を確かめる。
「…よい、お嫁さんか…」
 ぽつりと呟やいて東眞は視線を下に落とした。
 彼にとって一体自分はどのような存在なのだろうか、といつも思う。あの時の言葉もどれもこれも、彼にとっての本気なのか遊びなのか。分からない。恋は楽しくて気持ちが温かくなる。それだけでいいのかもしれない。
 きゅと胸辺りの服を掴んで、東眞は誰にも聞こえぬほど小さな溜息をついた。
 東眞は一度としてXANXUSの気持ちを聞いたことがない。一つ聞いたことがあるとすれば、「暇だから付き合え」との始めの言葉だけ。あの飛行場のキスだって、そう言った感情の延長線上であればと考え始めればきりがない。ただルッスーリアやスクアーロたちとは本当にいい友達だし、これからも友達でいたい。とはいうものの、XANXUSと友達になりたいのかと聞かれれば答えられない。友達、ではなくて。
「――――――――…ではなくて、」

ではなくて、そうではなくて。

「姉貴?」
「わ!」
 突然かけられた声に東眞は跳ね上がるようにして立つ。それに反対に修矢は驚いて半歩下がった。
「おわ!!な、何だよいきなり大声出して…。あれ、哲は?」
「あ、お風呂。哲さんでたら修矢もはいって。哲さん烏の行水だからそろそろ…」
 ちらとそちらを見れば、哲がタオルを首にかけて顔を出した。そしてお帰りなさいませ、と修矢に笑いかける。
「おう。集金はどうだった」
「ええ、滞りなく。すみません、先に入ってしまって」
「いーって。じゃ、俺入ってくる。姉貴は?」
「私はご飯食べた後にでも」
「分かった」
 修矢は背負っていた鞄をもう一度かけ直して台所を後にした。
 哲は東眞が混ぜるシチューの香りに鼻をくすぐられながら、いいですねと相好を崩して麦茶を飲む。ちゃっかりプリンを取るのも忘れない。傍の机に腰掛けて、顔をほころばせながらプリンの蓋を取ってスプーンですくい、幸せそうに食べる。東眞はそれを肩越しに見て、本当に好きなんですねと笑う。
「お恥ずかしながら。恥ずかしいと言えば、自分はカレーも実は苦手なんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。バーモンドの甘口ならばいいんですが。中辛、辛口は…少々」
「辛いものが苦手なんですね」
「図体ばかりでかくなってしまって」
 酒は平気なんですけどねと、プリンを食べ終え容器をさっと水で流してそれをプラスチックごみに捨てる。ところでと哲は続ける。
「卒業式まであと少しですが」
「哲さんまで。まだ一月半はありますよ」
「一月半なんてあっという間ですよ、お嬢様――――行かれるんですか」
 僅かに沈んだ哲の言葉に東眞はすっと視線を落とす。哲は麦茶の入ったグラスを温めるように触れる。東眞はゆっくりと口を開いた。

「待ってるんです、私」

 その言葉に哲はすっと東眞に視線を移す。
「XANXUSさんが来るのを、待ってるんです。修矢の言うとおりXANXUSさんにとっては遊びの一環かもしれませんけど。それでも私―――――――…イタリアに行って、もう一度XANXUSさんと時を一緒に過ごしてみたいです」
「坊ちゃんが、寂しがりますね…」
 小さな呟きに東眞はふっと笑う。
「飽きられたら帰ってくると思います」
「…お嬢様」
「私がXANXUSさんを好きなだけであって、XANXUSさんが私を好きかどうかは分からないんです」
 哀しげに笑った東眞に哲は思わず反論する。
「好きでもない女性にあんな言葉は―――――――…」
「言わないし、キスもしませんか?」
「…」
 言葉を先に言われて哲はぐっと唾を飲む。確かに嘘でないという確証はどこにもない。同様にそれが真実でないという確証もないが。しかしああいう類の、つまりは高い地位の奴等は女を道具としてしか見ていない場合も多い。
 哲にははっきりそうでないと言い切ることができなかった。
 東眞は苦しげな表情を見せた哲にふっと笑った。
「良いんです、別に」
「…」
「だって私、今とても――――――――幸せなんです」
 その穏やかな表情に哲は目を細めて、小さくそうですか、と呟いた。東眞はそこでふと思い出したようにそうです、と明るく声をかける。雰囲気がその一言でがらりと変わった。遠くからシャワーの音が聞こえてきていた。そして東眞は哲に告げた。

「私に、銃を教えて下さい」

 信じられない言葉に哲は目を瞬いた。
「いいえ、私が銃で自分の身を守れるようにしてください」
「お嬢様が銃を持たれるのは坊ちゃんが嫌がっております」
 返って来た拒絶の言葉に東眞はすっと目を細める。
「組の水面下での抗争も始まるでしょう。いざという時に一番頼りになるのは自分でなくてはなりません」
「…」
「哲さん」
 まるで脅迫するかのように、東眞は静かに、けれども威圧感をこめて名前を呼んだ。哲は眉間に深い皺をよせたが、深いため息をついて軽く首を横に振る。東眞は哲の答えを待つ。哲はすっと両手を上げた。
「分かりました。お嬢様のおっしゃられることはもっともです。桧は小さい組ですし、いざという時攻撃に回る人間は多い方がいいでしょう」
「有難う御座います」
「ただ」
「ただ?」
 哲は小さく笑う。
「坊ちゃんには黙っておいてください」
 お願いしますと言った哲に東眞は思わず笑い返した。そこで東眞はかたんとオーブンを開けてこんがりと美味しそうに焼けたパンを取り出す。哲は良い匂いです、と本日何度目になるか分からない言葉をまた言った。

 

「さ、召し上がれ!ルッスーリア特製愛のカルボナーラよ!」
 並べられた皿から漂う美味しい匂い。ルッスーリアはフリルのついたエプロンを椅子にかけてうふふと笑う。
「今回はパンチェッタ入りなのよ。私の愛がこもってるんだから美味しく食べてね」
「…う゛お゛ぉおい、急に食欲が失せたぞぉ…」
「ま、失礼ね!ほらボスを見てみなさい!あんなにおいしそうに食べてるじゃないの!!」
 眉間に皺をよせて食べている姿をどうみたら美味しそうに食べていると判断できるのだろうか。確かに食べっぷりは見事だが。スクアーロはそんなことを思いつつ、フォークにパスタを巻き付けて食べる。愛がどうたらこうたら言うけれどもルッスーリアの手料理は美味しい。ただ今日の食卓が平和なのは、間違いなくXANXUSが肉だなんだと騒がないせいだろう。
 レヴィの全身は包帯で全身巻かれていて、まるでミイラ男である。一体どうした事だとふと思って、スクアーロは尋ねる。
「レヴィ、てめぇそれどうしたんだぁ」
 ぴし、とその一言に場の空気が凍り付いた。が、当然スクアーロがそれに気付くわけもなく、言葉を続ける。
「今日は非番だったんだろぉ?何でそんなに怪我してんだ、てめぇ」
 事情を知っているマーモンやルッスーリアは視線を逸らして僅かに椅子をXANXUSから遠ざけておく。ベルフェゴールも彼らから粗方の話は聞いていたので、馬鹿で、と思いつつそっと被害避けるために遠ざかる。
 レヴィは視線を泳がせて答えない。スクアーロはひらめいた!と言わんばかりにレヴィにフォークを突きつけた。
「わかったぞぉ!てめぇボスに殴られたんだなぁ!!」
 大当たりだが、場の雰囲気を少しも読めていない。それを全く気にすることなくスクアーロは笑ってXANXUSに問いかける。
「なぁ、レヴィは一体何しでかしたんだぁ?」
「――――――――――――――――るせぇ」
 がっとXANXUSが突き立てたフォークが皿を割る。幸いパスタは全て胃に収まっていたので、汚くはならない。しかしフォークを立てて皿が割れるなど、この皿の強度はいかほどか。
 スクアーロはXANXUSのつぶやきを聞き取ることができず首をかしげる。
「聞こえねぇぞぉ、もっと大きな声で言えぇ。そんなんだから東眞との電話も単調になるんだぞぉ」

終 わ っ た 。

 スクアーロを除いた幹部の心は一つになった。
 ベルフェゴールは自分のパスタ皿をひょいと持ち上げる。マーモンやルッスーリアもそれに続き、レヴィも痛みをこらえつつ、次の瞬間の前にはどうにかパスタを確保していた。スクアーロは全く気付かずに笑っている。
 次の瞬間、机が綺麗に見事にひっくり返された。そしてがっがっと足を踏み鳴らす音がして、スクアーロが驚きの声を上げる前にその顔面に足が飛ぶ。
「ぶっ!」
「…うるせぇっつってんだよ…このカスが…っ」
「な、何しやがる!!本当のことだろぉが!!もう少し話に花を持たせるとかしたらどぉご!」
「かっ消す!!」
「ちょ、ま、」
 こぉとXANXUSの手にともった炎に流石のスクアーロも顔を青くする。そしてざっと振り下ろされた手から間一髪で前転して逃げる。折角食べかけていたパスタは床の上に散乱してしまっている。その上XANXUSのブーツがそれを踏みつけた。
「汚ねぇんだよ」
 そのパスタを踏みつけた足でスクアーロの胸を蹴る。しかしスクアーロも転んでもただでは起きぬので、胸の前で両腕を交差させてそれを防ぐ。尤も防いだ隊服には潰れたパスタがべっとり付いたが。
 スクアーロはその惨状にぎっとXANXUSを睨みつける。
「ホントのこと指摘されたからって怒るんじゃねぇ!!」
「黙ってろ、ど畜生が!!」
「知るかぁ!!俺はなぁ、親切なアドバイザーなんだぞぉ!!」
 ルッスーリアたちは少し離れたところでパスタを食べながら、一体誰がアドバイザーなんだろうかと心の中で突っ込みを入れる。勿論、言葉になど出したりはしない(被害を恐れるのは当然のことだ)  スクアーロはXANXUSが投げてくる酒瓶を数本頭に直撃させつつ、しかし数本は避けつつ、まだめげずに対抗する。酒瓶に混じって時折炎まで飛んでくるから要注意だ。
「短気な男は女に嫌われるぞぉ!!」
「カスが!ほざくんじゃねぇ!!」
「俺程気の長い男はいねぇんだからなぁ!撤回しろぉ!!」
 スクアーロはXANXUSにひっくり返された机を壁に対抗する。しかし机の強度はまぁそれなりではあるが、あくまでもそれなりなので、酒瓶に勝っても炎にはあっさりと負ける。XANXUSを飛び越えるように一回転してスクアーロは反対側に逃げる。
 そしてスクアーロは叫んだ。

「そんなんだからてめぇには東眞から電話がかかってこねぇんだぁ!!!!」

 その一言に部屋の空気が完全に凍った。
 ルッスーリアたちは部屋の隅ではなく、この部屋から避難するべきだったと後悔した。そしてスクアーロもようやく自分の失言に気付く。
「そ、そのだぁ…いや、東眞も気を使ってんだと思うぜぇ…」
今更な言葉に反応してくれる人間は誰もいない。俯き加減でだらんと手をたらしていたXANXUSの瞳がすっと上がる。はっきりとした殺意が見られるその瞳にスクアーロはぴくりと動きを止めた。

「―――――――――――死にさらせ」

このカスが、という一言の後、ボンゴレ暗殺部隊ヴァリアー本部に凄まじい爆音が響いた。