01:御曹司と - 9/9

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「…」
「遅いぜぇ、ボス」
 目の前に広がっているのは異質な空間。
 何故どうしてここは一体どこなのだと思わず頭を押さえた。そうしていると、ひょいと後ろから声がかかる。
「ああ、XANXUSさんの分もありますよ」
 その手には天丼が。安心してください、と微笑んだが決してそのために立ち止まったわけではない。
「東眞ー王子おかわり」
「デザートに林檎を切ったので、そっち食べて下さいね」
 そう言って東眞は机の上に天丼を持っていない方の手で持っていた皿の林檎を置く。ベルフェゴールの手がひょいと伸びて、兎にきられた林檎を口の中に放り込んだ。
「あら、東眞ったら器用なのねぇ」
「修矢が風邪をひいたときにはよく看病してましたから」
 小さい頃は体が弱かったんですと付け加えて東眞はとんと手にしていた天丼を置いた。そこはXANXUSが座る定位置。立ち止まったままのXANXUSに視線が集中する。
「食べましょう」
「…」
 声に促される様にして席に座り、何故だか箸とフォーク、両方置かれているその机に向かった。二種類の食器を見つめていると耳障りな声が隣からがなりたてる。
「う゛お゛ぉい、ボス!箸が使えねぇならフォーク使ってい
「黙れ」
 フォークをスクアーロの額に突き立ててXANXUSは箸を持った。完全な握り箸をてんぷらに突き立てて口に入れる。流石にそれに注意をできるような人間はここには見当たらない。
 かぶりついたXANXUSは咀嚼を繰り返してそれを喉に通す。もう一口かじろうとしたが、その動きがぴたりと止まる。笑い声が一つ。スクアーロはこれ以上ないほどに顔色を真っ青にして、ベルフェゴールとマーモンはあちゃといった顔で、ルッスーリアは口を音もなく開閉させている。
 XANXUSはその笑い声が響く方に視線を向けた。笑う女が一人。すみません、と謝られた。一体幾度この女は謝ればいいのだろうか。東眞はXANXUSに自分の手を見せた。
「こうです」
「食えたらいい」
 XANXUSが天丼を投げつけなかったことに一同は驚きと安堵をする。そんな皆の心配をよそに東眞は苦笑しながら、食べにくくありませんかと笑う。
「なら食わせろ」
「XANXUSさん、小学生ではないんですから」
「フン」
 なら文句を言うな、と言わんばかりにXANXUSはそのまま天ぷらにかじりついた。しかし、ご飯粒の方は流石にうまく口に運べない。ひくり、と額に青筋が浮かぶ。スクアーロが慌ててXANXUSにスプーンを渡した。
「これ使えぇ!」
「カスの分際で準備がいいじゃねぇか」
 ぎん、とXANXUSはスクアーロを一つ睨みつけてその手からスプーンを奪い取ってご飯を食べる。普通はまとめて食べるものなのだろうが、大して気にしていないらしい。ただし音は立てずに全てを食べ終えると、林檎に手を伸ばす。そして一つ二つ食べて、すっくと立ち上がり東眞に視線を向ける。
「来い」
「後片付けが」
「そこのカスにやらせろ」
「な、何で俺が…っ」
 反論しかけたスクアーロだったが、ぐとすぐさま口を噤んで了承の意を渋々ながら示した。XANXUSは東眞の手首を掴むと無理やり立たせ、そのまま引きずるようにして部屋を出た。
 取り残された一同はぱちぱちと瞬きをしながら、何事もなかったかのように食事を再開した。

 

 ずるずると引きずられる様にして寝室に押しこまれる。とんと東眞は数歩前のめりになってこけそうになりながらどうにか体勢を立て直す。
 XANXUSを見れば、ネクタイを緩めて柔らかなベッドにどさと腰を下ろしていた。そしてそのまま背中をシーツの中に埋めてしまう。東眞は所在をなくしてぼんやりとその部屋の床に足をつけていた。そこに声がかかる。
「おい」
「はい?」
「何か話せ」
「歯磨きはしなくていいんですか」
「―――――…いい」
 そして来いと指示する代わりに片手でその布団を数回たたいて座るように示した。東眞は言われるままに足を動かしてそこに腰掛ける。人一人分、シーツが沈んだ。
「話せ」
 肌蹴たブラウスから鍛えられた筋肉と大きな傷跡が見える。それは顔にあるものと同種である。あの印象的な赤い瞳は閉じられていて見えない。放り出された体はすっかり力を失っていた。
 ベッドの端に腰かけたまま、東眞はゆっくりと話し始めた。
「では日本の伽話の一つを」
 音楽も物音も何もしない部屋でその声だけが静かにゆるやかに空気を振動させた。
「昔々ある雪深い地方に貧しい老夫婦がいました。新年も近いと言うのにお餅一つ買えない状況でした。おじいさんは傘をいつものように町に売りに出かけますが、一つも売れません」
 すうと胸が規則的に上下する。まさか眠ったのかと思い、東眞はふと話を止めた。すると続けろ、と言葉が発される。
「雪が吹雪いてきて、おじいさんは仕方なく家に帰ることにしました。その途中、七人のお地蔵様に会います」
 一拍置いてから、話を続ける。
「お地蔵様は寒そうに雪を全身にかぶっています。おじいさんはそれを見て可哀想に思ったのか、その雪をはらい、まだちらちらと降る雪を見上げてお地蔵様に手持ちの傘を一つ二つと差し上げました」
 三つ四つ、と数える声にXANXUSは口を挟むことなくそれを聞き続ける。話の朗読など久しく、というよりもこの方一度も聞いたことがない。
「五つ、六人目のお地蔵様におじいさんは自分の傘を差し上げました。ところがお地蔵様はもう一人います。そこでおじいさんはその寒い中自分が持っていた手拭をお地蔵様にかぶせて、凍えながら家に帰りました」
 話の内容は反吐が出るほどの無償の善意に満ちた話。それでも話を黙ってつづけさせているのは、ただその声が心地よいからである。
「その夜のことです。家の外で何やら音がします。おじいさんとおばあさんはおそるおそる戸をこっそり開け、外の様子を窺いました。すると、そこには米から酒やら沢山の食料と小判などの財宝が積まれていたのです。そしてふと遠くを見ればそこには――――…」
 すぅ、と落ち着いた呼吸に東眞は話を止めた。気付いて視線をやれば、今度こそXANXUSは眠ってしまっていた。きょとんと東眞は目を一度大きくしたが、それをすぐに細めて穏やかなものにする。
 音を立てないようにしてベッドの上から腰を上げる。シーツはXANXUSが下にしてしまっているので、東眞は椅子にかけてあった毛布を手に取って冷えないようにその体の上にかけてやる。
「食べてすぐ寝ると牛になりますよ」
 おやすみなさい、と声をかけてぱちんと部屋の壁にある灯りを落とす。そして極力音を立てないようにして部屋を出る。ぱたりと閉じて、足を動かしくるりと一回転して何かにぶつかった。銀色の髪が視界を埋める。
「なんだぁ、ボス寝たのかぁ」
「あ、ええ、はい」
「…へぇ」
 意外、という表情を隠しきれずに表に出したままスクアーロは何とも間抜けな返事をする。そしてふと東眞に視線を移す。
「こっから出て、どうすんだぁ?」
「広間のソファが大きいのでお借りしようかと」
「ここで寝りゃいいじゃねぇかぁ。ボスのベッドはでけぇだろぉ?」
「…流石に二日続けて自ら危険に飛び込むような真似はしません」
 そう返事をされて、スクアーロはああ、と少々抜けた答えを返す。そして自分の着ていたコートを脱いでずいと差し出した。
「風邪引かれると困るからなぁ」
「…でも使われるんじゃないですか?」
 心配そうに尋ね返した東眞にスクアーロは気にするんじゃねぇと手を振った。
「明日は非番だぁ。それに持ってるのは一枚だけじゃねぇ」
「でもあそこにも毛布、あります」
「あれ一枚じゃぁ風邪引くぞぉ」
「…では、お言葉に甘えて。有難う御座います」
「また明日、なぁ」
 ひら、と背中を向けて手を振ったスクアーロに東眞はおやすみなさいと返事をした。