01:御曹司と - 7/9

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 静かな空間。どちらも話さない場。
 東眞は食べ終わった食器を洗い、XANXUSといえばその後ろにある椅子に腰かけて書類を眺めている。これでは見張られているようで(実際に見張られているのかもしれない)何かとやりづらい。
「XANXUSさん」
「何だ」
 ぱらりと紙をめくる音だけが静寂に響く。東眞は相変わらずの様子で切り出した。
「か
「やってみろ」
「…まだ、か、しか言っていないんですけれど…」
「聞かなくても分かる」
 そんな対応に東眞は思わず苦笑をこぼす。そしてふと尋ねた。
「冗談なんですよね」
「何がだ」
「俺の女発言は」
「本気だ」
 XANXUSは僅かの間も空けずに答えを返した。しかし書類から目を上げることはない。かちゃりと水音と食器の音が空気を震わせている。カップを皿受けに置き、一拍置いてから東眞は半分笑い混じりに言った。
「会って、ほんの少しですよ」
「それがどうした」
「…それで彼女になれと言われても、唯の冗談にしか聞こえません」
 ほとんど使われなかったフォークを洗う。書類をめくる音が落ちる。
「俺は」
 固い板の上に何枚もの紙が散らばる音がした。東眞は振り返らずにそのまま食器を洗い続ける。
 声だけがその耳に届く。

「てめぇがいいとそう思った」

 水音だけがやけに大きく耳に聞こえた。
 東眞は手を止めて、ゆっくりとそちらを振り返る。赤い瞳がこちらをまっすぐに射抜いていた。

「それだけでは不服か」

 当てられる感情に心が揺れ動く。しかし東眞は目を細めて微笑んだ。
「少し、XANXUSさんが羨ましいと思いました」
 その言葉にXANXUSは瞳をゆっくりと動かす。その瞳でもう一度東眞を捉える。
 椅子から音を立てて立ち上がれば、そのまま椅子は背を床に預けて転げてしまった。こつこつと足音が流し場を背にしている東眞に近づいていく。東眞は微動だにせず、そのままただ待っていた。足音が止まる。指先が頬に触れた。
 少しばかり色の薄い唇が言葉を紡ぎ出す。それは一体何度目になるだろうか、分からない言葉。
「お暇させてもらっても、いいですか?」
「できるものならやってみろ」
 至近距離で相変わらずの調子で言ったXANXUSに東眞は頑張ります、と微笑み返した。その表情にXANXUSは僅かに口元を歪ませた。

 

 きゅ、と東眞は一人になった部屋で地図にバツをつけていく。一つ、二つ、三つとつけて、そして同じ記号が書かれているところはこの周辺では一つになってしまっていた。
「…多分、ここかな」
 ずり落ち掛けた眼鏡を指先で押し上げて地図を畳み、ポケットにしまいこむ。そして嵌め殺しの窓から外を眺める。まだ日は高く、気持ちが良いほどの青空が広がっている。
 部屋の扉に鍵など一切掛けられておらず、引けば簡単に扉は開く。東眞は立ち上がりその取ってに手をかけて内側に引こうとした。が、直後酷い痛みが顔面を襲い、その場に尻餅をつく。
「すまねぇ、大丈夫かぁ」
「いえ、大丈夫です」
 伸ばされた手を素直にとって東眞は立ち上がり、尻をはたく。そして、赤くなっているであろう額をそっとさすった。後でこぶになるかもしれない。
 苦笑しながら東眞は頭一つは間違いなく高いと思われるスクアーロを見上げた。
「何か用ですか」
「外出るかぁ、気分転換だぁ」
「出ます」
 丁度良い、と東眞は訪れた好機にぱっと表情を明るくした。スクアーロはこっちだぁと長い長い回廊をかつかつと足音を立てながら先導する。腰のあたりまである綺麗な長い銀色の髪がゆらゆらと揺れていた。東眞は半ば反射的にその髪をひっつかんだ。
「ぐぇ」
 蛙の潰れたような声が聞こえ、慌てて掴んでいた手を離す。きっとスクアーロは涙目でぎっと東眞を睨みつける。
「う゛お゛ぉぉおい!何すんだぁ!」
「すみません、つい。それにしても綺麗な髪ですね」
「…まぁ、色々だぁ」
 途端口調の低くなったスクアーロに東眞は何か聞いてはいけないものを感じてそれ以上は言わないことにした。スクアーロはふと思い出したように口を開ける。
「そういやぁ、お前の弟の髪かつらだったなぁ。ありゃどうしてだぁ?」
「私が修矢の影だからですよ」
 何でもないことのように東眞はさらりと言う。
「普通逆だぞぉ?」
「私が修矢に合わせるって言ったんですけど、修矢が長い髪が好きだからって言って」
 髪を伸ばすことになったんです、と微笑む。しかしスクアーロは首をこくと傾けた。
「それにしても変だぜぇ。影っていうなら何で女がやってんだぁ?それとも…」
「私は女ですよ」
 はっと顔を青くしたスクアーロに東眞は苦笑しながら答える。そしてのんびりと話し始めた。
「顔立ちが本当によく似ていたでしょう。血の繋がりはほとんどないんですけれど」
 世界には三人同じ顔の人間がいるとはよく言ったものです、と続ける。スクアーロはこつこつと歩きながらその話に耳を傾けた。
「修矢は私の姿で表向きではない仕事をするんです」
「…ああ、そうかぁ…」
「次期組長ですが、組の粛清などは修矢自身がかって出て行っています」
「…強ぇのかぁ…?」
 にたぁ、と口元を歪めたスクアーロに東眞は僅かに言葉を止めたが、はい、と答えた。
「桧組自体の規模は小さいものですけれど、修矢はそれには余るほどの力を持っていると私は思っています。スクアーロはXANXUSさんの護衛をしているようでしたけど…」
 そこでスクアーロはXANXUSが自分達の仕事をはぐらかした(かどうかは定かではないが)ことを思い出す。東眞はその返事がないことを取り立てて気にせずに続ける。
「修矢も負けてません」
「…」
 確かに刃を交わらせたあの時点でかなりできることは分かった。が、それでも自分が負ける姿など想像できない。人を斬る太刀筋ではあったが。
 再会できる日が、待ち遠しい。
「でもそれもおかしな話だぜぇ」
「何がですか?」
 不思議そうに言い返した東眞にスクアーロは首筋をかきながら疑問を口にする。
「自分の強さを見せつけりゃぁいいだろうが。何でわざわざ影に扮するんだぁ?」
「命の危険性を減らすためだと聞きました。もし相手を仕損じたとしても狙われるのは修矢ではなく私です」
「…それで、いいのかぁ?」
「はい、構いません。もし殺されても私は役に立てたでしょう?」
 一般人の、いや一般人ではないが、それでもほとんど一般人と変わらぬ女の発言とは到底思えなかった。
 スクアーロの表情を見て、東眞はぷ、と噴き出す。笑いだした東眞にスクアーロは面食らう。くすくすと笑いながら東眞はまっすぐに前を向いて歩き続ける。

「それは殺されるのではなくて、自分が大切に思っている人を守ることができる――――いいと、思います。それがたとえただ振られた役割だとしても、問題は私がどう考えてどう思うかということですから」

笑った女のその顔に、スクアーロは少しばかりXANXUSの言葉が分かったような気がした。