01:御曹司と - 6/9

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 パイ生地にカットされた苺や生クリーム、カスタードやチョコレートをデコレーションしていく。
「うしし、王子天才!」
「おぉ、凄いですね…」
 輝かんばかりの美しいデコレーションに東眞は感嘆の溜息を零しながら拍手する。にまーっとベルフェゴールは顔に良い笑顔を作って次のものに取り掛かっている。ルッスーリアは小さなものを細々と可愛らしく飾っていた。その隣でスクアーロはホイップクリームとチョコをでろりとかけている。そして最後に苺をちょこりと乗せた。
 XANXUSがそれを横目で見て、はっと馬鹿にしたように呟いた。
「ひでぇ」
「あぁ?てめぇのだって五十歩百歩じゃねぇか。俺の笑えねえぞぉ」
 そう言ってスクアーロはXANXUSの前にある力の加減で崩れたパイ生地を指差した。ホイップクリームと苺というごくごく一般的なものであるはずなのだが、かなり不格好である。
「は!ボス様にはよぉ、俺様の独自性ってのがわかんねぇんだなぁ」
「カスが…」
 ごっと鈍い音がしてスクアーロが作ったものがXANXUSの拳で一瞬にして消し炭になる。それに悲嘆に近い声を上げたのは作った張本人である。
「何すんだぁ!」
 スクアーロはだん、とXANXUSの不格好なミルフィーユをその手で叩きつぶした。元から不格好であったが、さらに不格好、というよりも真っ平らになる。
 ばち、と二人の間で火花が散る。
「――――かっ消す」
「――――おろすぞぉ」
 その両方の口が一瞬で塞がれる。
 間に割って入ったのはルッスーリアだった。その両手のミルフィーユは綺麗に双方の口の中。
「喧嘩は駄目よぉ。仲良くしましょ?」
「痛ぇえ!!」
 XANXUSは突っ込まれたミルフィーユを咀嚼しながらスクアーロの頭を鷲掴みにすると即座に机に叩きつけた。ずるずるとスクアーロは床に座り込み、強打した額をさする。その空間に笑い声が混じり、動きが止まりそちらに視線が一斉に向けられる。
 視線の先では東眞が笑いを一生懸命に押し殺していた。それぞれの視線に気付いて東眞はすみません、と謝る。
「仲が良いんですね、皆」
「しし、王子も東眞と仲良しだって」
 ベルフェゴールがどしりと東眞の背中にのしかかるようにして抱きつく。東眞は落ちかけた眼鏡を支えてふと目を細めた。
「仲良し――――いいですね、とても」
 酷く柔らかい色になる。羨望、憧れ、そんな色が僅かに混じったその眼鏡の奥の瞳。
東眞は顔をあげてにこやかに微笑む。
 そして出来上がったミルフィーユを大きめの皿に一つずつ乗せていく。全てを乗せ終わり、ひょいと東眞は皿を持ち上げた。振り返り、笑う。
「じゃぁ、もう一度お茶にしましょうか。今度はミルフィーユ付きで」
「貸せ」
 その東眞の手からXANXUSは皿をかっさらい、エプロンを適当に椅子の上に置いてそのままつかつかと歩きだす。ぽかんとしている東眞の肩をポンとルッスーリアが叩いた。
「素直じゃないのよ、ボスは」
「…、あ、私ここの片づけ済ませてから行きます」
「手伝うぜぇ」
「大丈夫ですよ、すぐに済みますから」
 そう言って東眞は笑顔でスクアーロたちを先に行かせた。
 足音が完全に消えてから、飛び散った粉などを台拭きで綺麗にしていく。バターなど油類を使ったものは暖かい湯で洗い、てきぱきと片付けをこなす。かちかちゃと金属の音が一つ寂しく響く中で、東眞の動きが僅かに鈍る。
 その唇が小さく、ほんの僅かな音を立てた。

「――――これは、夢」

 リアルでもいつかは覚めてしまう夢だ、と東眞は己に言い聞かせる。
 儚く終わるその瞬間まで楽しみ、そしてそれに心を残さぬように。
 きゅ、と栓を絞り湯を止めた。
 脳裏を黒い影がよぎった。赤い瞳が印象的な。東眞はそれを打ち消すように瞳を一度閉じる。まるで何かに手繰り寄せられるようにして引きつけられている。
 人が人を好きになるのに理由は要らない。そして人が人を好きになる理由は要らないから、どんな人でも愛することができる。必ず、きっと、多分。出会ってたった一日、時間など大して共有していないというのに、こんなに惹きつけられる理由を知りたい。ただ一度目と二度目の出会いが驚くほどに鮮烈な印象を放っている。瞳に、恐ろしいほどに、僅かな恐れを抱くほどに心を鷲掴まれた。
 もしもと東眞は考えてみる。そんなもしもは絶対にあり得ないことを知りながら。もしも婚約者がいないとすれば、今の気持ちを自分はどう整理しているだろうと。
「…まるで、子供みたい」
 十の子供ではあるまいし、と東眞は小さく自嘲した。
 一目惚れなどとそんな笑ってしまいそうだ。修矢が、自分の優しい義弟がいれば何と言ったであろうか。笑っただろうか。
 あの時マフラーを貸したのだって、ただひょっとすればもう一度会えればという願いがあったのかもしれない。そんな小さな自分の希望だったのかもしれない。籠の鳥になることをどこかで拒んでいた気持ちがあったのかもしれない。
「だらしのない」
 ぱちん、と両頬をはたいて東眞は自身に叱咤の言葉を投げかけた。
 そもそも自分がした選択に後悔の一つもしていない。後悔などしては相手方にも失礼だ。育ててもらった恩義を忘れたことなどこの方一度もない。
 エプロンの端で濡れた手を拭いた。
 神に与えられたと思えるほどに心地よいこの空間に思わず、全てを忘れそうになってしまう。短い時間だからこそそれが余計に強く感じられるのだろう。しかし忘れてはいけない。忘れては決して駄目なのだ。わすれてはい
「おい」
「はい!」
 思考を中断されて、ぱっとかけられた声に東眞は肩を震わせてそちらを振り返る。そこには赤い瞳の男がいた。その瞳に喰われる様にして視線を寄せる。
「とっととこい」
「…え、あ、はい」
「遅ぇ」
「すみません」
 向けられた黒くて大きな背中に東眞はふと立ち止まる。足音が止まったのを音で聞き取ったのか、XANXUSは眉間に皺をよせていささか不機嫌そうに振り返った。
「来い」
「…はい、今行きます」
 この背を見ることができるのは後少しだ、と東眞は足を進めた。

 

「もう、ボスも短気ねぇ」
「短気なのは今に始まったことじゃねえぞぉ」
 皿の上の菓子に手を出そうとしてルッスーリアに叩かれた手をさすりながらスクアーロは当然のように言った。
 机に皿を置いて、半ば入れ違いのようにXANXUSは部屋から出て行ってしまった。勿論彼が向かっている先は先ほどまで自分たちがいた場所である。
「何がいいんだか、わからねぇ」
 ただの勘、だというのは聞いたのだが、それでもやはり良く分からない。
 そこにルッスーリアが茶々を入れた。
「恋に落ちるのに理由なんていらないわよぉ」
 心よ心、とその指先でスクアーロの心臓をつついた。その動作にスクアーロはぞぞと身を震わせる。
「東眞だって満更じゃないみたいだし、いいんじゃないかしら?」
「でも東眞は帰るって言ってたけど?」
 ナイフをひょひょいと掌で弄びながらベルフェゴールが口を挟んだ。それなのよね、とルッスーリアは相槌を打つ。スクアーロはここに連れて来るまでのあの奇怪な経緯を知っているので、うんと唸った。
 あんな厄介な女を連れこみ、かつ自分の女だということにすること自体おかしい。勘だか本能だか何だか知らないが、やはりおかしい。それにあの女だってはっきりと拒み続けているというのに、それでも手元に置こうとしている。
 一番信じられないのはあの、あのXANXUSが手を出していないという事だ。普段ならばこんなことはない。いや、そもそもあの男がたった一人の女に興味を持ったという前歴はない。どれもこれも使い捨てだ。後腐れのない、さっぱりとしたそれだけの関係。 「…一体何があったんだぁ…?」
 分からねぇ、とスクアーロはぼやいた。