01:御曹司と - 2/9

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 体が睡眠を欲さなくなり、東眞は瞼を上に押し上げる。目を開いた先は見たこともないようなふかふかの白い海。のっそりと頭の中で状況整理しながら目を擦る。隣にいたはずのXANXUSの姿はなかった。
 少し、と東眞は今更ながらに動悸を感じる。あれだけ冷静に対処しておきながら、顔が火照った。よくもまぁあんな大それた(もしかしたら殺されていたかもしれない)ことをしたものだ。
 寝転がったままでぱちぱちとその両頬を叩く。瞼をもう一度閉じて、とくとくと血液を送り出していく心臓に耳を傾け、心を落ち着ける。何もなくて良かったと心の底から安心する。無理矢理ことに及ばれれば、正直な話拒める術を持ち合わせていない。
 何もない視界の中で心臓の音だけに耳を澄ませながら、東眞は息を細く長く吐いた。どうやってここからお暇するか考えなければならない。ぱちん、と目をもう一度開けた。が、その先にあったのは白い天井ではなかった。
「…」
「うしし。王子面白いもの見つけちゃった」
「…えぇ、と。どなたですか」
 きらきらと輝く金色の髪に愉しげに笑う口元が非常に印象的である。その相貌は長い前髪に隠れてしまっていて見えない。尤も今は眼鏡をかけていないので見えないのも当然だが。銀の髪といい金の髪といい、ここでは何かがはやっているのだろうか。
 東眞の質問に王子と名乗る男はにたぁと笑って答えた。
「王子は王子だぜ」
「はぁ、王子ですか?」
「そう」
「ベル、何してるんだい」
 にっと笑った王子に押し倒されたままの東眞にさらなる人物が声をかけた。それは随分と幼い。天井ではない人の影のさらに後ろ、そこにもう一つ小さな影が現れた。浮遊しているその姿はいささか奇怪である。
「…貴方は」
「人に名前を聞くならまず自分からって言葉を知らないのかい」
「…そうですね、失礼しました。私は桧東眞です。東眞が名前です」
「僕の名前を知りたければお金がいるよ」
「でしたら勝手に名前をつけても構いませんか?パッチワーク21や、コリキシパックなんでもいいですけれど」
「あはは!王子大爆笑!!」
「…マーモンだよ」
「はじめまして。マーモンさん、王子様」
 そして東眞は王子に上から退いてくれるように頼む。が、ずしりと反対にのしかかられて動くに動けない。子供が母に抱きつくような仕草に東眞はぱしぱしと柔らかくその背を叩いた。
 東眞がシーツに沈んでいるのに対して、マーモンはすととそのベッドの上に足をつけて反対に尋ねた。
「君は何処の誰で、どうしてボスの寝室にいるんだい」
「…」
 どうして、と聞かれれば東眞は上手い言葉が見つからない。暫くの間考えて、ようやっと答えた。
「泊っていたホテルを引き払ったので泊めていただきました」
「…ふぅん」
 その時扉の所からがなり声が響く。それが長い銀の髪だったので、輪郭がはっきりせずとも誰なのかはすぐに分かった。
「な、何してやがるんだぁ!」
「おはようございます、スクアーロさん」
「あぁ?お、おう、おはよう…ございます?」
 つられて敬語になったスクアーロに王子はやっと東眞から離れて喉元を押える。
「スクアーロの敬語気持ち悪ぃぃ。王子吐きそう」
「んだとぉ!!」
 拳を振り上げたスクアーロだったが、本来の用事を思い出して東眞に声をかける。
「ボスが呼んでるぞぉ」
「分かりました。そうです、スクアーロさん」
「何だぁ」
 ベッドからようやく腰を上げて東眞はスクアーロに声をかける。スクアーロがこちらに視線を合わせたのを確認してから言葉を発する。
「地図を一枚頂けますか。この周辺のできるだけ詳しい地図が欲しいのですが」
「地図?ああ…いいぜぇ。でもよぉ、んなもんで逃げられると思うなぁ」
「後、」
 こほん、と咳をして東眞は困ったように微笑んだ。
「着替えるので出て行ってもらっても構いませんか」
「…そ、そうだなぁ!!う゛お゛ぉおい!!何てめぇそこに居座ろうとしてんだ!行くぞぉ、ベル!!」
「えー、王子東眞の生着替え見たい」
「馬鹿言うんじゃねぇ!!」
 そう言ってスクアーロはずりずりとベルフェゴールを引きずって出て行った。マーモンもちらとかえり見たものの、そのまま二人と一緒に部屋の外に出た。スクアーロは二人に覗くなよと念を押してからその場を後にした。
 マーモンはベルフェゴールにちらと視線を向ける。
「あの女…おかしいね…」
ベルフェゴールはその手にしゃんとナイフを幾本も取りだした。抱きしめていたあの時、確かベルフェゴールは東眞にナイフを首筋に紙一重のうちで止めていた。しかし東眞がそれに気付くような仕草はなかった。気付いていたのか、それとも本当に気付いていなかったのか。どちらにせよ不自然なところが多い女ではある。
「まー、変な事したら死ぬだけだけどー」
 ひらと出していたナイフをしまってベルフェゴールはうししと笑う。しかしマーモンはそれにつられて笑うこともなく、ただ口元に猜疑心を刻んでその扉を見つめていた。

 

 取り出しやすいように置いていたボストンバッに手をかけて中の服を適当に選んで取り出して、ごそごそと着る。深い緑のネックのセーターに黒いジーンズ。それと、眼鏡ケースから眼鏡を取り出して掛ける。それでようやくぼやけていた視界がはっきりとした。
「…」
 その眼鏡を東眞の指がさらりと撫でた。そして短く息を吐いて、嵌め殺しの窓に手を添える。ガラスは冷たく、外気温が低いことを教えていた。そこから外の景色を眺める。クリアな視界の中で備え付けられている監視カメラを一つ二つと数える。この部屋には監視カメラはおそらく無い。人の、ボスと呼ばれるXANXUSの部屋に監視カメラをつけることはないだろう。
 このままここに閉じ込められているわけにもいかない。遊びは遊びでありリアルにはなりえない。
 東眞はきゅ、と表情を引き絞った。しかし、と東眞は一つ疑問に思う。
「…一般家庭にこんなに監視カメラがあるなんて…」
 随分と大家族だったけれど、と首をかしげた。ボスと呼ばれるのは家長か何かだろうと頷いた。
 そうやって考えているとどんどんと扉が叩かれ、スクアーロの声がしたので東眞は返事をして扉を開ける。
「お待たせしました」
「行くぞぉ。それと地図だぁ、さっき取ってきた」
  折りたたまれた紙片を礼を言って受け取り、そのままポケットの中に入れ、扉の隣にいたベルフェゴールとマーモンに視線を移して目を細めた。
「一緒に行かれるんですか」
「ああ、そうするよ」
 少しばかりの警戒心を光らせてマーモンはそう答えた。ベルフェゴールはうししと笑って東眞の腕を取った。
「東眞はボスの女なの?」
「違いますよ」
 やんわりとしかし確かにはっきりと言った東眞にスクアーロは視線を逸らした。これを聞いていればXANXUSの額に青筋が一つ浮かぶこと間違いはない。しかし東眞は相変わらずののんべりとした調子で会話を続ける。
「私には婚約者がいますし、日本にも近いうちに帰るんです」
 婚約者、という言葉を聞きながらスクアーロは眉間に僅かに皺を寄せた。

 

「う゛お゛ぉい、ボス。言われてた調べものだぜぇ」
「貸せ」
 そう厚くもない書類をスクアーロから受け取りXANXUSはぱらぱらとそれをめくっていく。スクアーロはどんと背中に壁をつけて口を開いた。
「あの女の言ってることは嘘じゃねぇぞぉ。桧東眞、性別女。14歳の時に二親を自動車事故で失くし、その後桧組に引き取られて現在まで育てられる。大学卒業と同時に関東を占める組長と結婚予定だぁ。だが、あれだなぁ」
「…」
「あの女も60に手が届くジジイと結婚なんざついてねぇ。ただ子供に恵まれなかったみたいでよぉ。それで本妻の次に娶って子供作らせる話らしいぜぇ。小せぇ組の存続方法だろうなぁ」
 ぺちゃくちゃと喋るスクアーロをよそに、XANXUSは読み終えた資料を机に叩きつけるようにして放った。
「ボスさんよぉ、どうするんだあ?」
「どうもこうも、あいつは俺の女だ」
「…何にそんなにこだわってるんだぁ」
 強いわけでもなければ家柄も何もない、そんな普通の女などそこら辺にゴロゴロといる。その中であの女を選んだ理由がスクアーロにはちっとも分からなかった。
 XANXUSがそこまで言うには何かしら理由があるように思う。しかし調べた限りではそんなものは少しもない。
 机の上から滑り落ちた紙を拾い集めてスクアーロはXANXUSを見つめた。XANXUSは特に何を言うわけでもなく、瞳を細めてどこかを見ている。
 だが暫くの後、一言、告げた。

「さぁな」

 戯れとは言わなかった。スクアーロはそれに一抹の不安を覚える。その表情を読み取ったのか、XANXUSはさらに言葉をつなげた。
「勘だ」
 理由なんてねぇ、とまるで十の餓鬼のようにそう言った。
「当てになるのかぁ」
 XANXUSはその問いかけには答えず、ちらとスクアーロを睨みつけるようにして命令した。
「女を連れて来い」
 勿論、それにNOという返事はありはしなかったが。