君を思う - 2/2

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「以前からゆうちょった!わしはあんガキは好かんのじゃ!海賊の肩なんぞ持ちおって…!」
「そうお言いでないよ。あの子が暴れてる海賊放置してたことはないだろう」
 その会話を遮るようにして両開きの扉が押し開かれた。部屋の中にいるのは赤犬、つるは扉を開けた人間へと視線をやり息を止めた。海兵のシンボルたる白の制服はどす黒く染め上げられ、それを身にまとっている青年も指の先まで血に塗れている。既に乾いたそれは皮膚の上でひび割れていた。血液の、独特な臭いが部屋に充満する。
 つるは一瞬止めた呼吸を再開する。
「あんた…どうしたんだい。怪我でもしたのかい」
 駆け寄ろうとしたつるの足元に青年は麻袋を転がす。口を縛っていない袋の口から海賊の首が転がり出た。つるはその首が誰のものであるか瞬時に判断がついた。賞金首の一人である。
 麻袋から覗くその首の顔は酷く怯えており、瞼すら下されていなかった。
「鋼鐵のガルイド…ハルバラットが追っていた海賊じゃないか」
 その海兵の名を聞くだけで、青年は猛烈な吐き気を催した。何が追うだ、と心の中で吐き捨てる。追っていると見せかけ、実のところはガルイドと組み、村と海賊から金を毟り取っていただけの海兵の面汚しである。
 青年は転がり落ちた首よりもただこちらをひたと見据える瞳に気付いてそちらへと顔を向ける。けわしい顔をした赤犬サカズキがそこにいる。
「サカズキ中将。何か」
「…その首級はどうしたんじゃ」
「問題でも」
「単騎かぁ」
「私は海賊の肩を持つのではなく、彼らの信念を誇りに思うだけです。私は海賊ではない。一、海兵です」
 信用頂けますか、と青年は数年にわたるつるの教育で得た敬語でサカズキに話しかけた。麻袋から転がる首へとサカズキは再度視線を落とし、もう一度青年へと顔を向けると、鼻を軽く鳴らした。
「勝手にせい。おつるさん、わしは行くけぇの」
 そう言い放つとサカズキは転がされた首を麻袋の中へと戻し、片手に持つと部屋を出ていった。
 二人取り残された部屋でつるは深く溜息を吐いた。
「…突然いなくなったもんだから、一騒ぎあったんだよ。あんたはもとから仲の良い海賊もいる。あまり勘違いされる真似はするんじゃないよ」
「気をつけます」
 感情なく言葉をこぼした青年につるは近付き、すっかり乾いてしまった血で覆われた頬に手を振れた。過ぎ去りしあの日に思いを馳せる。
「随分と大きくなったけど、あんたはまだまだ子供のようだよ」
 図体ばかり大きくなって、とつるは困ったように眉尻を下げる。青年は被っていた制帽を外した。血に濡れていない髪の毛ではあったが、それでも布から滲んだのか毛先にはうっすらと赤い色が付いていた。
 酷い臭気である。つるは溜息を吐いた。
「風呂に入っておいで。酷い臭いだ。もう服は捨てるんだよ、洗っても落ちないだろう」
「中将」
「…なんだい」
 真剣な様子につるは言葉を顰めた。
「休みを頂きたい。ヤッカが血の臭いに酔っています」
 それはまるで言い訳のように聞こえた。実際言い訳なのかもしれない。しかし、つるはそれ以上の追及をしなかった。澱んだ目をした教え子をこれ以上窮地に追い込むような真似をする趣味はなかった。
 一拍間を持たせ、つるはいいよと青年の問いに答えた。
「思えば、あんたはずっと休みをとっていなかったね。構わないよ、ゆっくり休んでおいで。帰ってくるころには階級も上がっているさ」
 あんたが珍しいことをしてくるから、と言いかけつるは言葉を噤んだ。この場にその言葉は非常に不釣合いであると判断し、代わりに青年の頬をするりと撫ぜた。指先が乾いた血液のかさつきを感じ取る。一瞥して赤くないところがない青年は黙ってそこに佇んでいた。
 いつも以上に感情が死んだ目は暗く鈍く澱んでいる。
 初めて声をかけたあの時も、同じ顔をしていた。どこか薄暗い、何かとっかりを覚えるその目である。つるはゆっくりとしかし確実に口を開く。
「何があんたをそうさせたのか、あたしはあんたに聞いた方がいいかい」
「どうぞ、何も」
 白い兵士の服は赤い海兵の服に成り果てている。つるはそれ以上追及することをしなかった。
 海兵が海賊を殺す。それは何も変わったことではない。捕まえることもあれば殺すこともある。ただそれでも、いままで眼前の青年は海賊を捕まえこそすれ、殺したことは一度もなかった。まるでそれが信条であるとでも言うかのように。それを破った。
 黙したつるに青年は頭を下げた。
 あの日あの時の少女から随分と成長していた。背丈も人よりずっと高く、その体躯は体を支える筋肉をつけている。成長した。
 ただ、つるはそう思う。本当に彼女は変わったのかと。自分はどこかで何かを見落としているのではないかと。
「感謝痛み入ります」
 発された声はその外見とは裏腹に平静である。
 踵を返し部屋から出ていこうとした一兵卒につるは声をかけて止める。
「ミト」
 それは、少女が名前を聞かれて答えたものだった。少女の過去は誰も知らない。聞くことをつるはしなかった。ただ、あの時のあの言葉こそ少女の真実であるとつるは信じてやまない。
 それは今なお真実なのか。
「ここに、帰ってくるのかい」
「当然です、中将。私が帰る場所は」
 ただこの場のみ。
 そうかい、つるはそう短く返して部屋を出ていったその背を見送った。

 

 中将、と湯呑に入れる茶が終わる。
「茶菓子はどうされますか」
「煎餅があったろう。ほら、そこの戸棚だよ。あんたも食べるんだよ。もう一つ茶をいれな」
「いえ、私は」
「何言ってるんだい。大人しくお座り」
 つるの言葉に大柄の女は大人しく従い、つるの正面に坐する。茶菓子の煎餅を一枚開けて音を立てて割食べる。醤油の味が口に広がり、それを緩和するかのように女は茶を啜った。
 つる自身も煎餅の袋を開きばりんと大きく音を立てて食べる。
 眼前に座る女ははじめて会った時と比べれば恐ろしく大きく育った。あの時は、こんなに大きく育つなど想像だにしていなかったのだ。それは少女自身思っていなかったに違いない。
「うまいかい」
「はい、中将」
 美味しいですとミトはつるの前に座ったまま答える。
 この人ともどれほどのつきあいになるだろうかと思う。
「中将も、お年を召された」
「当たり前だろ。老けないやつがいたらお目にかかりたいもんだよ。あんたもまあ、でかくなって」
「はは、そんなことを仰るのは中将くらいです」
 老兵は思う。この子は変わったのだろうかと。あの日あの時の切り取られたその時間から。
 そして女は思うのである。ただただ、あの日あの時に果たせずにいる復讐ばかりを。
 互いに思うのである。
「このお茶もおいしいです」
「そうかい。ならまた仕入れようかね」
 ただ、きみをおもうのである。