ガラスの靴 - 2/2

2

 ワイングラスを一瞬のうちに空にしてミトは息を吐いた。警備を任されたパーティーの交代時間まで残すところ後五分。一度に出て行っては目立つので、二十分ほど前からまばらに退出させていっている。何事もなくて何よりではあるが、ミトはどうにも居心地が悪かった。首に触るかつらもその要因の一つであろう。普段よりもさらに高い位置から見下ろす光景は少し眩暈がする。不安定でおぼつかない靴も好きではない。これならばいっそ男としてタキシードの一つを身に着けた方が楽だったのではないだろうかと、そんなことに気付く。しかし、それは今更気づいても後の祭りであることも重々承知の上だった。
 パーティー自体は盛り上がっている最中なのだが、後は他の連中の仕事だとミトは軽く背筋を周囲に分からない程度に伸ばした。このような各式高いパーティーは肩がこる。船の上でやる酒盛りの方が随分と楽しい。部下は大層美味そうに、見たこともない、おそらくは目が飛び出そうに高いであろう料理を皿に取り盛って食いついていたが、そんな料理の何が美味しいのだろうとミトは思った。確かに旨くはあるが、味がしないように感じた。舌に乗せたその味は、酷く物足りない。潮の香も、潮の音もない。母なる海の揺らぎすら感じられない。美味しくないのだ。金の味がした。尤も、料理を食べに来たわけでは断じてないので、料理の味などどうでもいい。
 背の異様に高い女にダンスを申し込む奇特な人間も幸いに存在せず、ミトは不審人物が居ないかどうかだけに気を払い壁の花に徹していた。花、というにはいささか野性味が過ぎたが、それも部下の化粧によって、ある程度の誤魔化しは利いていた。鋭い空気だけは消しようもなかったが。しかし、その隣に靴の音が止まる。
「何してんだ」
 聞きなれた声にミトは驚いき顔を上げる。瞬きを数回し、きっちりとその滑らかな黒髪を後ろに撫でつけた男を凝視した。しかし、すぐさま口元に少しばかり引き攣った笑顔を浮かべ、ほほと笑った。口から飛び出た裏声は正直気持ちが悪かった。
「どちら様でしょうか」
「薄気味悪ィ」
「うるさい。仕事だ」
 葉巻を顔に吹き付けられた上、顔を盛大に歪めて見せられたのでミトは取り繕っていた仮面を勢いよく引きはがした。それにクロコダイルは何だこの髪はと、胸元にまで流れるストレートのかつらを軽く指先で抓んだ。ミトは再度視線をダンスホールに戻し、かつらだと手短に答えた。
「厚化粧なんざしやがって、どういう風の吹き回しなんだ。そりゃ」
「時間がなかったんだ」
「んぁ」
 だから、とミトは背中を壁に押し付けて続けた。
「本当はもっと薄化粧だったんだ。ナチュラルメイク。そしたらそれはいかんと言われてな」
「…ああ」
 ミトの視線の先にいる男をクロコダイルは見つけ、成程と頷いた。大変爽やかな笑顔で胸元と腰の綺麗な女をダンスに誘っている。あれでは女を漁りに来たのか、それとも警備に来たのか分からない。男は欲望に弱いとミトは溜息を交え、難しい顔をしながら米神を押さえる。そんな女にクロコダイルはクハと軽く肩を揺らして笑った。
「そんなこと抜かして、てめえも随分と気合いの入った面ァしてたじゃネェか。下着もキメてきてるみたいだが」
 体を逸らしてからかい笑うクロコダイルに、ミトは口を少し尖らせ、そういう訳じゃないと弁明した。尤も、あまりそれに説得力はない。だが無論、クロコダイルとしてもミトがそういう下着を場を選んで身に着けるような女でないことを知っているので、先刻の言は冗談の類の一つである。
 スリットの深いドレスを軽く抓んで落とすと、ミトは腕を前で組んだ。結局、部下よりの贈り物を溜息と共に履く始末となったのには頭痛がする。
「かく言うお前も女漁りか?」
「ク、ハッハハ…そう見えるか?」
「見えん。しかしよく分かったな」
 かつらを被った状態でミトは怪訝そうにクロコダイルを見上げた。鏡を見せられた時も、一瞬これは誰だとミト自身も驚いたものだったのだ。鏡の中の人間はまるで別人であった。化粧一つで人間はここまで化けられるものかとぞっとしたのは記憶に鮮明に残っている。
 口を曲げているミトをクロコダイルは葉巻をふかしながら、口角を吊り上げ、顔を傾けてやはり小さく笑った。
「てめぇみたいな馬鹿でけェ女どうやったら見間違うんだ。立ち方もまるでなっちゃいネェ」
 一から出直してこいとばかりの言い方にミトは顔を顰めた。失礼だなときっちりとそこは言い返しておく。
「でも綺麗だろう?私じゃないみたいだ」
「見た目だけだろうが」
「なんだそれ」
 破顔した女の頭にクロコダイルは手を乗せて、そのストレートの髪を撫でた。しかし、普段手に触れない作り物の髪に違和感を覚える。かぷりと煙を代りに吐き出した。
 口角で笑っていた顔の奥で、クロコダイルは手を頭に乗せた女をゆっくりともう一度視界に収める。鍛え上げられた筋肉には無駄がない。パーティーに出席しているどの女よりも上背があり、一切の贅肉がない肢体はすらりと上から下へと伸びている。首筋を流れている淡い色をした髪は、かつらとは言えなかなかに色欲をそそる。こいつも女らしい恰好の一つもできたんだなとクロコダイルは感心し、そして込み上げてくる笑いを堪えた。普段が普段であるが故に、しかしやはりぎこちなさは否めない。通常で見知っている姿とのギャップにクロコダイルは腹を抱えてらしくもなく大笑いしたかった。無論、するはずもなかったが。
 ミトは壁にかかっている時計を目にし、ああと声を出した。交代の時間が来た。クロコダイルへと視線を上げ、ふとその時、ヒールの高さ分普段よりも上げる角度が低くて済むことの楽さに気付きながら、声をかけた。
「私はもう帰るんだが、まだ残るのか?」
「残るも何もねぇだろうが。宴はこれからだ」
 パーティーではなく、宴という表現を用いるところに、ミトは穏やかに目を細めた。ふふと満足げに微笑んでいる女を見て、しかしクロコダイルは何故ミトがそんな顔をするのか分からずに、怪訝そうに顔を顰めた。何だと背を向けたミトに声を追わせたものの、返された返事はいいやと楽しそうな声のみであった。
「悪い女に引っかかるなよ?」
「は」
 鼻で笑い、クロコダイルは口にしていた葉巻を指ではさみ長い煙を深く吐き出した。しかし、思い出したようにミトの足を声をかけて止めさせる。普段はない髪が動きに合わせて流線上に滑らかに動く。綺麗に塗られたグロスは不自然を感じさせずに、しっとりといつもであれば色の薄いその唇をふっくらと見せていた。
「下着」
「ん?ほどけてないぞ」
「スリットに、ンなの合わせて履いてくるんじゃねェ。抱いてくれっつってるようなモンだ。馬鹿な部下にいちいち付き合うんじゃネェよ。だせぇジャージの下にでも履いとけ」
 クロコダイルの忠告にミトはからりと笑う。ひらひらと手を振り、一応ダンスホールで交代の人間が入ってくるのを確認した後、クロコダイルへと視線を戻した。引き継ぎは相手の顔確認のみで行われる。
「心配いらないよ。私だぞ?」
「…そりゃ、そうだな」
 確かにそうだとクロコダイルはとっとと帰れと手を外に振った。ミトは、気を付けて帰れよと一言掛けるとヒールを危なげに鳴らし、その場を後にした。外に出れば、夜風がひょうと頬を心地よく撫でる。人ごみは嫌いではないが、ああいう場はやはり肌に合わないのだとしみじみと思い感じつつ、ミトは大きく伸びをした。酔ってはいないが、肌は酒でほんのりと赤く染まって、程好い温かさとそして風の冷たさが気を緩ませた。確認のため、カバンに入れていた小型電伝虫を取出し、准尉、と呼びかける。
「こちらは終わった。そちらはどうだ」
『問題なくあります。中佐他五名全員無事帰還いたしました』
「ほう、中佐も帰ってきたのか。驚いたな。てっきり女を拝借して、ホテルにしけこむかと思っていたんだが」
『自分もそう思っておりました。尤も連絡は各自電伝虫のみですので、どちらからかけたかは定かではありません』
「確かに。兎も角、全員無事帰還したとの報告は入ったんだな」
『はい』
「ご苦労。そちらも今日は戸締りを確認後帰宅してくれ」
『了解であります。お疲れ様でした、大佐殿』
 ではな、とミトは一言いれて電伝虫を切り、カバンに突っ込んだ。これから帰って化粧を落とし、ベッドになだれ込もう。慣れないことをして疲れた足を早く休ませてやりたい。そして、明日には中佐がつるつるの元気な顔で出勤してくるのを想像し、堪えきれない笑いを肩を揺らしてどうにか収める。
 かつらだけでも外しておこうとミトは頭に手をかけたが、その直後に視界に入った色に動きを止める。禍々しいど、ピンク。外の風に当たり良い気分になっていたのが、一気に急降下する。それ以上に、本日海軍がここに警備に訪れていることは内密のことなのである。あいつには兎も角とミトは口の堅い友人の顔を思い描き頷いた。しかし、口どころかそれ以外のものもこれ以上ないほどに軽い男に出くわしてしまうなどとなんと運のない。
 ドフラミンゴが立っている位置からミトが立っている場所までは一本道しかなく、やむなく取り出したハンカチで口元を押さえ、少し俯きがちに歩きつつ、その場をやり過ごすことにした。こんな時には顔の横までしっかりと覆うかつらも役に立つものだとミトは感心しながら、大きな体の隣を通り過ぎる。一歩二歩、三歩。完全に体がすれ違い、ミトはほっと息をついた。そして、顔を上げ背筋を伸ばして歩みを速めた。否、早めようとした。
「おい、そこの女」
 そこの、と呼ばれミトは思わず足を止める。しかし振り返らない。ミト、であれば確実にドフラミンゴを無視して歩き去ったことだろう。しかし、この場にいるのはミトではない。通常よりも背が高いとはいえども、ドンキホーテ・ドフラミンゴを無視して通り過ぎるような女は少なくとも、本日のパーティーには参加していない。名簿を確認しているミトはそれだけは確信していた。しかし、振り返ってしまえばばれる。困った。
「お前だ、お前。なぁ」
 振り返らない女に焦れたのか、ドフラミンゴは手を伸ばしミトの肩に手を乗せた。素肌に触れた指先にぞっと肌が泡立つ。
「もう帰っちまうのか?もう少しここに居ろよ」
「…ぃ、いえ、わ、わたくし、もう帰るところでして…」
 自分でも気持ちの悪いほどの丁寧な言葉を裏声で使いながら、ミトはドフラミンゴの手を肩から叩き落とす、もとい退けようとした。だが肩を掴む手の力は異常に強く、ぐいと乱暴に脇に抱え込まれた。ヒールの不安定な足がぐらつき、スーツに体が押し付けられる。
「お前、おれを誰だと思ってんだ?ドンキホーテ・ドフラミンゴ。分かるか?フフ、フッフッフ」
 先程歩いてきた道を引きずるように引き返し歩かされながら、しかしミトはあることに気が付いた。ひょっとしてこの男、自分に気付いていないのかと。化粧の力は偉大である。ミトはこの瞬間、あの全く歪みのない程に手におえない部下に心の底から感謝した。明日少しくらい遅刻してきても大目に見てやることを決める。尤も、窮地なのは全く変わりないので、どうにかミトはその肩にかかった手を離そうとする。だが、思いっきり力を込めて振り払えばそれはどう考えても怪しまれるので、あくまでも一般人、それこそか弱い女性を器用に演じながら、ミトはドフラミンゴの手を押し返そうと必死になる。しかし、そんな抵抗が楽しいのか、ドフラミンゴは笑うばかりである。気持ち悪い。いっそヒールで足の甲の骨をへし砕いてやろうかと苛立ちを覚えながら、ミトはかつかつと履きなれないヒールで床を叩いた。
 ホールに入れば、オーケストラの音楽がダンス音楽を奏でている。場には、多くのカップルがくるくると花のように踊っていた。さっとミトは青褪める。この男と踊るのはまっぴら御免である。というよりも、生理的に受け付けない。放せと怒声を響かせ、油断でたっぷりの鳩尾に一撃を加え、膝で股間をかちあげてやりたい衝動をミトは必死になって押し留めた。
 怒りでふつふつと頭を沸かせていると、いつの間にか肩にあった手が腰に回されていた。ぞぞと鳥肌が服の下で一斉に悲鳴を上げる。
「もう、しわけありません、ドフラミンゴ様。生憎わたくし急用が御座いまして、大変心苦しくありますがお暇させて頂きたいと…」
「フフッフ…つれねぇなァ。だが、てめぇの意見なんざおれぁ聞いちゃいネェ」
「そう申されましても…こちらとしても」
 大変困ります。スリットからもぐりこんだ手の感触に悪寒を通り越した生理的嫌悪を覚えつつ、ミトは必死にその手を上から抑える。とはいえども押さえている力はやはりあまりこめられない。ばれては困る。しかしこの手首をへし折りたい。ばっきばきに、それこそもう再起不能になるまで。鋭い眼光で睨みつけるのを必死にこらえるために、ミトは長い髪の毛を借りながら俯いた。上を向けば、とんでもない形相で睨みつけている可能性は100%である。そうやって俯いている女を見下ろしながら、ドフラミンゴはそれを恥じらいと勘違いした。
 いつの間にやら、気付けば壁と大きな体に挟み込まれ全く身動きが取れない状態にまで陥り、ミトは本日履いてきたヒールを恨んだ。スリットから滑り込んだ掌は太腿、そして円を描くように尻を撫でる。下着と肌の隙間を空けるように、布の間に指が一本差し込まれつつりと布の形に添ってその指が動く。親指と布をなぞっている手が、その紐にかかり、ぎょっと髪の下で目を丸くする。大きな体と、流れる動作で押し込まれた室内の人の目が寄らない死角に、大きめのミトの体でさえすっぽりと隠された。だが、
 もういい。
 我慢の限界がぶっつりと突如訪れた。一撃で昏倒させ、笑顔でお酒の飲み過ぎでしょうかと周囲の人にアピールし、後はかかり付けの医師がいるであろうからそれに押し付ければいいではないかとミトは結論付けた。できるならば騒ぎは起こしたくなかったがやむを得ない。ふっと腹に力を籠め、ミトは拳を握りしめた。けれどもその力は、一つ。ドフラミンゴの背からかかった声に抜ける。
「楽しそうじゃネェか、フラミンゴ野郎」
「…何だ、ワニ野郎。てめぇも来てたのか。まァ、見りゃ分かんだろ?ちったぁ空気読めよ」
 らしくもねぇとドフラミンゴはサングラスをかけた顔をくっと折り曲げ、クロコダイルに口端だけで笑んだ。ドフラミンゴの手が緩んだのをミトは察し、するりとその腕と壁の隙間から抜け出す。ちらと視界を遮る髪の毛の隙間から、爬虫類のような瞳を見た。助かった、それだけ唇で動かしクロコダイルに伝える。それに答えるように、ドフラミンゴからは見えない位置で軽く指先が降られる。とっとと帰れ。そう、ミトにはクロコダイルがそういったように思えた。待て、と背を追った声を無視してミトは走り辛いヒールをぽんぽんと二つドフラミンゴに投げつけると、その場を極力、しかしできる限り一般人として不自然ではない速度で走り去った。
 背を見せてもドフラミンゴが能力を使わなかったのは、クロコダイルのおかげであろう。ミトは暗闇の中を裸足で走りながら、そっと友人に両手を合わせた。

 

 目の前に突き出された二つのヒールにミトは目を細めた。ピンク色の男はだからよぉと話を続ける。
「すっげぇイイ女だったわけ。ワニ野郎が邪魔さえしなけりゃ、おれがおいしく頂けたんだぜ!?」
「消え失せろ」
「おっと、嫉妬か?可愛い真似してくれんじゃネェの。安心しろよ、おれはてめぇにぞっこんだからな」
 本日何度言ったか分からない言葉と、それに合わせた侮蔑の視線をミトはドフラミンゴに送りながら、かりとペンを走らせた。そして、隣に座る男が見事にそれが自分であるということに気付かないという事実に安心しつつ、クロコダイルは分かったのになぁと自分の友人の観察眼の鋭さに関した。
「おい」
「お?」
 言葉を止めたドフラミンゴにミトは口角を軽く歪めて見せる。
「とっととシンデレラでも探しに行け。ここには居らんぞ」
 気づかないうちは暫く厄介払いができそうだと、少し遅れてやってきた中佐の頭を小突いてミトは必要書類をまとめるために外へと足を向け、呆然としているドフラミンゴを取り残して部屋の扉をしっかりと閉めた。