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船に乗り込んだところでドフラミンゴはふっと財布を忘れたことに気付いた。また来た時にでもと思ったが、ないとそれなりに不便が生じるので、船の出港を待たせて財布を取りに戻る。
ひょいひょいと廊下を歩きながら、おそらくはめっぽう絞られたおつるさんの部屋だろうとドフラミンゴはあてをつけ、そちらへと足を向ける。部屋の主はいなかったものの、財布は机の上に置いたままで忘れ去られていた様子であった。それをポケットに戻すと、部屋の主がいなかったことを少々残念に思いつつ、ドフラミンゴは船へと戻る廊下を歩く。だが、その途中で思いとどまり、出入口とは反対の方向へと足を進めた。もう、ワニ野郎も帰っているのではないだろうかと考えた。
こっこと軽い足音を立てながら廊下を歩き、目的の扉の前に立つ。耳をそばだたせても人の声はしない。ひょっとして、お目当ての人物も留守にしているのだろうかと思いつつ、ドフラミンゴは部屋の扉をゆっくりと押した。だが、その考えは外れ、部屋の主は部屋にいた。氷嚢を肘にあてたままソファに横になっている。目を閉じ、規則的に胸が上下している様子をしていると熟睡しているようであった。おいおいとドフラミンゴは笑う。不用心にもほどがある。襲われでもしたらどうするつもりなのかと、不釣合いな心配をしながら、ソファの端に腰掛けた。
目を閉じて静かにしている姿は、普段自分に見せる表情からは想像ができない。あの、人を捨てている目が見たいとドフラミンゴは思った。自分に靡かない女も、自分を嫌う女も、何をもってしても手に入れられそうにないものを手に入れるのは楽しく面白い。疼く。
緩められたネクタイと第一ボタンが外され、さらけ出されているしっかりとした首にドフラミンゴは手を伸ばした。気道を閉めて、両脇の頸動脈でも押してみようかと、そんな遊び心がふつりと腹に沸いた。危害を加えてやろうとそう手を伸ばした。だが、その手は首筋に触れるそのほんのわずかな手前で手首がとられ、乱暴に関節を利用して捻じ曲げられる。折られないようにと体をそれに合わせて動かせば、あっという間に体は先程まで女が寝ていたソファに押し付けられていた。背には、女の膝の感覚が乗り、首筋には刃が添えられていた。氷嚢が絨毯の上に落ちる。
「…お前か」
誰とも分からず、ただ殺気だけに反応して行動をとったようでドフラミンゴはついつい笑う。
「何の用だ」
しかし、ミトは捻りあげた腕を緩めることはなく、上から男を抑えつけたままそう問うた。警戒心が解かれることはない。おれも随分と嫌われたもんだとドフラミンゴは口元を大きく歪めた。
「愛しいおれのカワイ子ちゃんに会いに来たのさ」
「部屋を間違えたようだな。出て行け」
刀はそのままに、ミトはドフラミンゴの腕を解放した。手を出すことはないと分かっていても、首筋に刃を突きつけられるのは気持ちの良いものではない。しかし、ドフラミンゴは笑ったままで、刃を首の皮一枚のところで器用に回させながらミトと向き合った。ソファの上に尻をつけ、まともに座る。蔑みの瞳が強く向けられている。机の上には、畳まれている海賊旗があった。
なぁ、とドフラミンゴはようやく本日二度目に会えた女に問うた。長い舌で唇を湿らせる。
「イイことしようぜ」
「その口を閉じろ。万年発情期男が」
ソファ押し付けられた際に香った葉巻の香はクロコダイルのものだろうとドフラミンゴは考える。間違いではないだろう。そう思うと、ふつりと腹が立った。
あの、無愛想な男はこの女が奪われたらどんな顔をしてくれるだろうかとそう考えるのも楽しい。スかした面程苛立つものはないという。部屋には男と女の二人きり。することとくれば一つしかないだろう。フフとドフラミンゴは笑った。それが不愉快なのか、ミトは眉間の皺をより深いものにした。
「さっきは悪かった」
「お前の言葉に一切の信用はない」
「おれが素直に謝るなんて国宝級だぜ」
「お前の存在の方が国宝級だな。どうしてここにいるんだ?出て行け」
「つれねえなァ」
すっと手を伸ばし、先程捩じりあげた肘を取った。微かに表情が歪んだが、それ以上顔色が変わることはない。痛さは表に出てくることはなかった。放せと代わりに言葉がドフラミンゴの言葉を叩いた。しかし肘から先の力は殆ど入っていない。
くっと口角を吊り上げ、ドフラミンゴはさらに強い力をかけてミトを引き寄せた。空いているもう片方の手でその顎を取る。口を開け、薄い色をした唇を食べようと口を開けた。だがしかし、その動作はそこで止まる。
「放せと、聞こえなかったか」
口内に差し込まれた切っ先はつんと粘膜の薄い喉をつつく。刃は上顎を丁寧に沿っていた。近距離から見えるその瞳の鋭さに、ドフラミンゴはぞっと唾を飲んだ。しかしそれとは裏腹に歓喜が腹を叩く。冷や汗が背筋を伝った。
ドフラミンゴの手が顎と肘から離れたのを見て、ミトはすっと刃を抜き取った。切っ先がドフラミンゴの歯をかりと掠める。刃の曇りを拭い取り、ミトは鞘に戻した。
「出て行け」
三度目の言葉にフフとドフラミンゴは笑みを落とし、腰を上げる。そして何度も繰り返した言葉をもう一度懲りることなく女に捧ぐ。
「おれの女になれ」
「断る」
にべもない返事に軽く肩をすくめ、ドフラミンゴは入ってきた部屋の扉を押した。そして、桃色のコートを揺らして振り返る。赤い舌がちろりと覗いた。
「ワニ野郎よりも上手い自信はあるぜ?」
どん、とそのすぐ真横にペーパーナイフが突き刺さる。随分と部屋の主を怒らせてしまったようで、しかしさらにその神経を逆撫でするようにドフラミンゴは笑い、ひょいと扉の向こうに桃色のコートごと消えた。
そしてミトは、落ちてしまった氷嚢を拾い上げ、机の上に落とすと、部屋にこもってしまった気分の悪くなるような香水の香りを外へと出すために、窓を叩くように開けた。