ああ、お噂はかねがね伺っております。
そう、目の前の額に傷跡を残す男は自分に告げた。ドフラミンゴは男を見下ろす。人のよさそうな笑みの向こうに何かしらいやらしそうな色が見える。性的な意味ではなく、性格的な意味で。もしくは性質的な意味で。つまりはっきり言ってしまえば、本音と建前を使い分けることが大層上手そうなのである。にこやかな笑みの腹の奥底では一体何を考えているのか知れたものではない。
ドフラミンゴはサングラスの奥から男をマジマジと観察した。男の言葉の真意を探る。男は、中佐は、ギックと言う名のミトの部下である人間は、そんな口元の笑みを残したまま、観察を止めないドフラミンゴへと相変わらず笑顔のままで言葉を続けた。
「大佐から、ドフラミンゴ様のお話は」
「へぇ、あいつから」
おれのことなんぞ口にするのも嫌がっているものだと思っていた。
口にすれば多少落ち込まざるを得ない事実をギックの口で否定され、ドフラミンゴは目に見えて気を良くする。だが、その持ち上げられた気分は即座に地面に叩き落される。それどころか、靴底でぐりぐりと踏まれるような一撃に見舞われた。意図的であれば、この男は大層人が悪い。人の事を言えた義理ではないが。
面だけ見れば精悍な顔をした男はにこやかにドフラミンゴへ言葉を渡す。温厚な声の割には、話の内容はかなりひどい。
「それはもう。女の尻を追いかけまわす頭のイかれた下種も下種、人間にしておくにはあまりにもひどい、生物学的には取敢えず霊長類である人間であると」
「…」
言葉を失う。ドフラミンゴは口元を軽く引きつらせた。ギックはそれに気付きながらさらに言葉を付け加えた。
「尤も、大佐は口にするのも嫌だとばかりに人に聞かれた時にしかあなた様の事は話にも上げません。ちなみに我々からすれば、全く大佐の仰る通りかと。いやはや、王下七武海というのは随分と暇な役職のご様子。恩恵にあやかりたいものです」
「…アァ?」
聞き捨てならない一言にドフラミンゴは眉間に皺を寄せた。額には青筋がびきりと浮かぶ。しかしながら、ギックはそんなドフラミンゴの変化をものともせずに笑顔で話を止めず、なおも続ける。
「しかし、大佐を女扱いなどと。サー・クロコダイル以上の変わり者ですよ、ドフラミンゴ様。はは。どこまでも嫌われているのを理解しておられる上での行動…ああ、ひょっとして、マゾヒストでいらっしゃる?大佐に罵られるのがお好きとか。いや、王下七武海には変わり者が多いと存じてはおりましたが、元懸賞金3億4000万ベリーのあなた様にそのような御趣味がおありとは。いや、良い酒の肴になります。ご安心ください。マゾヒストであると言うことは、そう恥ずかしいことではありません。人とは異なった趣向を持つだけで変態だと罵るような器量の狭さではありませんので。なんでしたら、今度大佐に上申しておきましょうか。ドフラミンゴ様を喜ばせるならば、鞭と蝋燭を用意しておけば良いとでも」
「…口の減らねェ男だな…殺されてェのか?」
凄んだドフラミンゴに男は手を一つ打って朗らかに笑った。馬鹿にしているとしか思えない。
「まさか!まぁ、我々は常に戦場に居る海兵なわけですが…死ぬならば甲板か海が一番望ましいところです。こんな狭苦しい場所で死ぬのは何とも悲しい」
暗澹とした表情を顔の表面に乗せて、男は悲しそうな演技をする。みえみえ、というよりもわざとそう見せているのはドフラミンゴでも理解できた。こちらの神経を意図的に逆撫でしているのは確かである。
殺してしまおうか、と指を軽く持ち上げる。不敵な笑みを口元に乗せたまま、男はドフラミンゴ様、と滑らかな発音で己の名前を口にした。
「おれに手を出しますか?おれに」
「ここまで侮辱されちゃァな。の、割にゃ、慌てる様子一つ見せねェのは今一面白くねェ」
ドフラミンゴの言葉にギックははは、と勝ち誇った様子で笑った。
「おれをこの場で殺せば、大佐は大層悲しまれることかと思いますが。ええ、それこそあなた様と一生口を利かない、もしくは顔を合わせない。存在すら否定するかと」
「…フッフ、それを」
「どうやって証明する?試しにおれの命を奪ってみますか?生憎とおれは悪魔の実の能力者ではありませんので、一度殺してしまえばゾンビでもありませんし、生き返ることは不可能です。まさに、取り返しがつかない、ことでしょう。ドフラミンゴ様」
どうされますか、と男は目を細めてドフラミンゴへと微笑みかけた。食えない笑みである。悔しげに舌打ちを一つすると、ドフラミンゴは出していた手をポケットへと入れる。
全く忌々しい男である。様々な事柄を承知し、そしてそれを自分の命と天秤にかけている。そして発言する際は必ず自身の命に重みが来るように。計算高い、そう表現するのが最も適している。これがおつるさんならば、とドフラミンゴは憎々しげにサングラスの向こうから男を見た。彼女であれば、腹立たしいとは思わず、いっそ清々しい程に敗北を認めることができるだろう。それができないのは、この男のやり口が大層汚いからである。無論、これも自分が言えたことではないが。どこか、自分と同じような臭いがする。
フンとドフラミンゴは一つ鼻を鳴らすと、口角を歪めて男に一太刀返そうと言葉を長い舌で上唇を舐めてから紡いだ。
「流石はあいつの部下だ。一癖も二癖もある。しかし躾ができねェ」
ドフラミンゴの逆襲にギックは爽やかに微笑むにとどめる。躾と言えば、とそこで返す。笑顔で返された言葉にドフラミンゴは何か嫌な予感がした。
「大佐もとある躾のできていない小鳥に悩まされておりましてね、ドフラミンゴ様。同じ鳥の名前をお持ちのあなた様であれば、可愛い小鳥をどうすれば檻に戻すことができるかどうか、ご存じではありませんか?」
白々しい。全くもって白々しい。白々しいにも程がある。この場合、檻が示すのは海底監獄インペルダウンだろうか。どちらにしろ、あまり笑えないジョークである。
白い歯を見せた笑みは完全に引き攣った。ドフラミンゴの引き攣った表情にギックは目を細め、片方の口角をつついと持ち上げていやらしい笑みを添えた。殺しはしないまでも、多少痛めつけるくらいはしてやろうかとドフラミンゴはかくりと指先を動かした。その時、何をしておいでだいと背中に声がかかる。してやられた。ドフラミンゴはポケットから引き抜こうとした腕を再度大人しく出した袋に納め、憎々しげに男を睨みつけた。
片や上機嫌、片や不機嫌。しかも普段であればその機嫌は明らかに真逆であろう光景につるは軽く首を傾げた。
「中将。お日柄もよく」
「…何を、話していたんだい?ギック」
「いえいえ、大佐が心労を患っておられますので、大佐を大層気に入ってくださっておられるドフラミンゴ様も耳が…ああ失礼、胸を痛めておられることだろうと」
耳が痛いと言いかけたのはもはや嫌がらせに近い。ちっと上から落ちてきた舌打ちにつるは思わず噴き出した。
このギックと言う中佐は顔の割に、否、顔で人を判断すべきではないのだろうが、随分と人が悪い。やり口が汚い。勝てば官軍とばかりの策を張り巡らせ、のらりくらりと相手の言葉を交わす。その様はさらに相手の神経を逆なですることだろう。彼の場合は気に食わない人間であれば、誰かれ構わず、つまるところ同僚上官、それこそ本当に誰にでも喧嘩を売り機嫌をこねるものだから完全に海軍では厄介者扱いである。上からの評判は全くよろしくない。それは一件上官の言うことを聞かないスモーカーとよく似ているが、彼の場合は則って喧嘩を打ってくるからたちが悪い。こちらの反論すらも封じてくるのである。性質が悪すぎる。体面が取れない。尤も、ミトの部下に落ち着いてからは、彼以上に上官に立てつき、しかも罰則上等の大佐に何か思うところがあるのか、空気を読んだ発言をすることが多くなった。問題児が多い彼女の部隊、と言うよりも海軍の厄介者を集めた部隊はそれなりに機能しているようである。
つるは目を細め、小さく笑う。
上官にストーカーまがいの真似をされて、あまり気が良くないのは分かるが、まさか七武海相手に喧嘩を売るとは流石のつるにとっても予想外の事であった。
笑ったつるにドフラミンゴは肩を落とし、口をへの字に曲げた。やんちゃな子供であるドフラミンゴも、つるの前では色々と形無しであった。
「笑いごとじゃないぜ、おつるさん」
「お前も少しは痛い目を見たらどうだい。あまりあの子を困らせるようなことをするからだよ。あの子の部下は唯でさえ癖者が多いんだからね。うっかり手を出すとお前であっても噛みつかれるよ」
「もっと先に言ってくれよ、おつるさん」
もう噛まれた、とドフラミンゴはひらりと手を振った。猛犬揃いの隊を率いる女はケダモノそのもので、ウッカリ手を出せば、手と言わず、喉を噛み千切りそうな勢いなのだが。全く、危険極まりない部隊である。
ところで、とつるは楽しげに笑うのを止めて、ギックへと向き直った。それを期に、ドフラミンゴもふっと思い出したかの如く、つるが口を開く前にギックに問い詰めるようにして尋ねた。
「おれはてめぇなんかと遊びに来たんじゃねェんだよ。おい、てめぇの自慢の飼い主はどこにいるんだ?」
「申し訳ありません、ドフラミンゴ様。お答えできません」
「アァ?知らねェはずが」
ねェだろう、と続けようとしたドフラミンゴだったが、それを眺めていたつるはまた一つ笑って、同じ質問を言葉を変えてギックにした。
「忘れるところだったよ。ミトはどこに居るんだい?いくら首を長くして待っていても、あの子が始末書を持ってこないから足を運んだったんだ」
穏やかな笑みを向けたつるにギックはそれは大変失礼いたしました、と頭を下げる。
「全く、大佐ときたら世話の焼ける方です。まぁ、そういった部分を補うのが我々の仕事でもあるわけですが。中将、大佐ならば、先刻目元にクマをはっきりと残して中将の部屋に向かわれました。おそらく、どこぞですれ違ったものと思われます」
はっきりと、かつ明朗に断言した男にドフラミンゴはふに落ちない表情をする。先程の自分への態度と全く違うではないか。頬を膨らませて、不服を子供のように露わにしたドフラミンゴを横目で見ながら、つるは堪え切れなくなった笑いを弾けさせる。老兵の楽しげな笑い声に、ドフラミンゴは眉間に皺を寄せた。全く、彼女にはかなわない。
「おつるさん、笑いごとじゃァねェぜ」
「ふふ、ふふ。ドフラミンゴ、お前…ふふ」
「おつるさんおつるさん、勘弁してくれよ、おつるさん」
あまりにも楽しげに笑うつるにドフラミンゴは眉尻を下げ、両肩をがっくりと落とす。外股の両足で立つ姿は見るからに情けない。つるはその情けない姿を見て、さらに笑った。口元に手を添え、くすくすと声を零して笑う。笑うのを止めないつるをドフラミンゴは攻撃するわけにもいかず、溜息をついて、唇を曲げた。精一杯の反抗が、見た目の凶悪さに反して可愛らしく、つるはまた笑う。
孫を見て笑う祖母のような光景を目にしながら、ギックはふと廊下の向こうに見慣れた姿を見た。正義のコートをその肩に乗せ、かつんと廊下を蹴る革靴。伸ばされた姿勢でまるで戦場に向かうかのような足運びをする。戦女とはまさに彼女の事ではないかとギックはその姿を見ながら、毎度のことのように思う。
ミトの来訪に先に気付いたのは笑っていたつるであり、続いて気付いたのは口を曲げていたドフラミンゴだった。女はドフラミンゴと言う男などその場に居ないとばかりにつるに話しかける。その毒々しいまでの蛍光色のピンクが彼女の視界に入ってないなどと言うことはあり得ない。
「中将、こちらにおられましたか。先程部屋に向かったのですが…すれ違ったようですね。こちらが始末書です」
そう言ってミトは親指一本分の厚さは在るであろう紙の束をつるに差し出した。これほどの始末書を書かされるとは一体何があったのか、考えるに易くはないが、それを考えてしまえばきりがないので、誰もそれを問う様な事はしない。
始末書を手渡すと、ミトはギックに不審げな視線を向けた。
「何をしている中佐。お前には水陸両用戦の訓練の統率を任せたはずだ」
眉間に皺をよせ、恐ろしい表情をしている上官に下士官はびっと敬礼をする。ぴぃんと一本物差しでも入れたかのような完全な直立不動の体勢はいっそ美しささえ感じさせた。二人のやりとりに、先程やりこめられたドフラミンゴはざまぁみろと腹の内で舌を出す。尤もその際に自分が現状完全に無視をしていることは含められていない。
敬礼をしたままギックははきはきとミトの質問に答える。その回答にドフラミンゴは目をサングラスの下で見張った。てめぇ何を、と言う言葉は大きな発声に押し潰される。きびとギックは声を張り出した。
「先刻兵の指揮に向かおうとしましたが、王下七武海ドンキホーテ・ドフラミンゴ様から質問を承り、そちらに返答しておりました!」
「…何…?」
盛大な舌打ちと共に、下から睨み上げてくる強い視線にドフラミンゴはぎょっとする。確かに男の言うことは間違ってはいないが、彼は一言として急いでいるなどと言わなかったたし、むしろ自分との会話を長々と続けていた傾向がみられる。とっととミトの居場所を話せば早々に切り上げられた話のはずだった。
怒りの矛先を向けられたドフラミンゴは違う、と両手を軽く振って否定する。おつるさんと彼女の上官に助けを求めたが、つるは必死になって笑いをこらえているようで口元を押さえて斜め下を見ている。おい、とドスの利いた声が空気を震わせた。おれが悪いわけではないのにと(全くその通りではあるが)ドフラミンゴは肩をびくりと震わせた。仇敵ここに見つけたり、と言わんばかりの鋭い視線が、サングラスの奥の瞳を恐ろしい鋭さで持って射抜いた。
「…どういうつもりだ、鳥野郎。どこまで私の癇に障ることをすれば気が済むんだ。ええ?」
ドフラミンゴは米神に青筋を立てている女の後ろでつると同じく笑いをこらえている青年の姿を発見する。この野郎!と叫びそうになったが、足を踏み潰された痛みに慌てて女に視線を戻す。
赤い双眸が鬼のような形相の中でぎらぎらと光っていた。暗闇で見れば、妖怪か何かと間違いそうなほどにとんでもない形相である。なまはげなぞ呼ばずとも、子供たちが裸足で逃げ出しそうな、そんな表情であった。ドフラミンゴは表情を強張らせる。
「何とか言ったらどうだ」
「いや…まずは足をのけようぜ…痛ェ」
「片足もぎ取ったらその鬱陶しい巨体は地面に沈むか?」
「待てよ、おれは何もしてねぇって。そいつが勝手に」
「勝手に?言い分があるなら聞いてやる。二文字以上五文字以内でおさめろ」
「無理だろ!!」
「綺麗に四文字だが全く理解できんな」
嫌がらせだ、とドフラミンゴはここにきて改めて、ミトがどれほど自分を嫌っているのかの再確認をさせられた。涙が出そうである。
ギックは笑いをこらえたような声を上手く押し殺し、ではおれは指揮に行ってきますとそそくさとその場を後にした。もとい逃げ出した。あの野郎後でシめる、とドフラミンゴは固く心に誓い(何故だか捕まえられる気がしなかったのだが)相変わらずの鬼の形相で睨みつけてくる女に視線を戻した。そして、心からの助けをつるに求めた。二度に渡る縋るような視線に、つるはようやく腰を上げ、その辺におし、とミトにストップをかける。
「中将が、そう仰るのであれば」
「本気でおれは何もしてねぇぞ…濡れ衣も濡れ衣だ」
「仮に濡れ衣であったとして、私が常日頃お前に掛けられている迷惑を考えれば、この程度では済まんと思うがな」
「チェ。わざわざ会いに行ってやってンのに、その言い分はねェだろ」
「会いに来るな。わざわざ足を運ぶ必要など微塵もない。むしろ来るな。邪魔だ。消え失せろ。可能であるならば即刻私の視界から消えて欲しいんだが」
ブチ殺すぞと言わんばかりの視線にようやく調子を取り戻してきたドフラミンゴはフッフと肩を揺らして笑った。癪に障るその独特な笑い声にミトは吐き捨てるような舌打ちをかまし、睨みつける視線を鋭くする。
「そりゃ、できねェ相談だ。折角運命的な出会いを果たしたってのに、今直ぐ別れろなんざ酷だね。なぁ、おつるさん」
「アタシに話を振るんじゃないよ。やれやれ。茶の一杯でも都合してやったらどうだい、ミト」
つるの言葉にミトはさも嫌そうに眉間の皺をさらに深く刻んだが、老兵の言葉には大人しく従った。つるに一礼すると、くると背を向けて自身にあてがわれている部屋へと足を運ぶために一歩踏み出した。革靴が小気味よい音を立てる。
正義の二文字が揺れた。
かつかつと遠ざかっていく足音に、つるはつっ立っているドフラミンゴのコートを軽く叩く。サングラスの中から小さなつるをフラミンゴは見下ろした。
「茶を一杯出してくれるそうだよ。ほら、お行き」
そう言って同じように背を向けて歩きだしたつるの正義の文字と、長めのコンパスですいすいと先へと歩みを進める女のコートを眺め、ドフラミンゴはありがとよ、とつるの背中に一声かけた。
そして、待てよとその大きな体を揺らしながら不機嫌そうな背中へと近づく。長い脚はあっという間に女の隣に追いついた。