Brute - 4/5

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 どうしたとクロコダイルは肘に氷嚢を当てて部屋に入ってきたミトにそう声をかけた。それにミトは大したことはないと返事をする。
「腱を軽く痛めただけだ。テーピングをしておけばいつも通りに行動できる。ただ、今少し冷やしておけと言われてな」
 この様だとミトはからりとクロコダイルに困ったような笑みを向けた。詮索するような視線をクロコダイルは向けたが、口を割るようなことはしないと判断したのか、そこで言葉を止めてそうかと話を終わらせた。
「無茶はするんじゃねェ、うすら馬鹿」
「…お前。毎度毎度のこと私を馬鹿馬鹿と言いすぎなんじゃないのか。そこまで言われるといい加減に自分を馬鹿だと誤認してしまいそうだ」
「誤認ではねぇな」
 事実だろうがとクロコダイルは葉巻をふかして、ミトの顔に煙を吹きかけた。煙たさに顔を顰めて、傷ついていない方の手で煙をはたき、口をへの字に曲げる。不機嫌になった女の顔を見て、煙をふかした男はクハハと楽しげに笑った。そんな男の笑い声に、腕を痛めている女もつられるようにして笑う。
 笑ったミトの顔を確認して、クロコダイルはふっと小さく穏やかな笑みを作った。こうやって笑えているうちはまだ大丈夫なのだと確信できる。そして、自分の目の前に何も出されていないことに男は不平を述べた。
「客に茶の一杯もだせねぇのか」
「この腕の主にそれを言うのか。お前が淹れろ。勝手知ったる場所だろうが。茶菓子くらいなら私が出してやる」
「なんて野郎だ」
「褒められているのか、それは」
「褒めちゃいねぇよ」
 心地よい切り返しを互いにしながらクロコダイルはコートを椅子に掛け、茶を都合するために立ち上がる。だが、それと同時に入ってきた男の手に持たれていたものを確認して、上げた腰を再度下した。部屋に入った男は、大佐ぁと呆れた調子で言葉をかける。
「何客人に、それも王下七武海のサー・クロコダイルにお茶なんて淹れさせているんですか。大佐なら片手でもちょちょいのチョイでまずいことこの上ないお茶淹れられるじゃないですか」
「おい、誰がまずい茶だ」
「大佐のお茶、味が薄いんですよ。ええそれはもう大佐の胸並みの薄さで…っぅ゛ほ…ッ!」
 膝が見事に一言も二言も余計な口をきいたギックの腹にめり込む。中佐の手から離れた盆をミトは空中で見事にキャッチし、クロコダイルの前の机の上に盆を置くと、きちんと入れられた湯呑をその前に置いた。茶菓子はすでに机の真ん中に置かれていた。
 出された茶を礼の一つも言うことなくクロコダイルは口をつけ、置かれている饅頭を一つ手に付けた。口に入れた瞬間、甘いという単語が頭を過ったが、それを口に出すこともなく、もう一度茶を飲みその甘さを緩和した。そして、床に膝をついた男が震える手でミトに差し出した黒い布に注目する。それを確かに上官に渡した部下は失礼しますと一言述べて、部屋を後にした。
 二人に戻った部屋でクロコダイルはミトに問うた。
「そりゃ何だ」
 問われ、ミトはああと預かった旗を机の上に大切そうに置く。
「海賊旗だ。今日、一隻沈めてな」
 瞳に陰りができる。クロコダイルはわずかに顔を顰めたが、それにミトが気付くことはない。
「そいつが言ったのさ。もう一度、この海に帰ってきてやるとな。だから、私はこの旗を持っておく。彼が返り咲いたときに、真っ先に取り返しに来られるように。ああいう威勢の良い海賊は、好きだ。大好きだ」
 大好きなんだ、とミトはもう一度繰り返し、机の上に置かれている、畳まれた旗へと視線をやった。その横顔に浮かんでいる色を顔を横に割る傷の入った男はその目で見る。
 なんて顔してやがる。
 その言葉は喉から先に出てくることはなかった。ただ、額に縦皺が一本刻まれた。眉間には大量に皺が寄る。海賊を捕縛して自由を奪う。自由を求める人間から自由を奪う。自由を愛し、海賊を海をこよなく愛する女がそれをする。ただ一つの目的のためにそれを遂行する。馬鹿な女だとクロコダイルは幾度ととなく思ったことをもう一度思う。どうしようもない女である。だが。
「そうか」
 そうかとクロコダイルは口の中で繰り返した。吐息が口内で転がる。
 この女は、もう、止まれないのだ。坂を転がる石のように、止まるのは、石自体が壊れて消えたその時だけであろうことを、クロコダイルは知っている。
 右手で左の鉤爪をなでる。もう湯呑の中に茶は残っていなかった。そうかともう一度繰り返し、クロコダイルは今度こそ腰を上げた。ソファが元の形に跳ねるように戻った。もう帰るのかとミトはしたから男に声をかけた。それにクロコダイルは、くっと口端を歪めて答える。
「お前が、馬鹿やってねぇかどうか見に来ただけだからな」
「私は大丈夫だ。お前が思うよりも、ずっと」
 瞳の奥に見えた、誰にも崩せないそのかたくなな意思をそこに見る。クロコダイルは自嘲染みた笑みを浮かべ、重たい鉤爪を持ち上げるとミトの頭を小突こうとしたが、それは女の手で受け止められる。頭一つ分は低い位置にある赤が男の金色を射抜いた。薄めの唇が開かれ、中には歯と舌が覗く。男は眉間の皺をきつくし、その目を細める。しかし、視線は逸らさない。
 ミトは鉤爪を押さえたまま、言葉を紡ぐ。聞け、と言葉が空気を震わせる。
「私は、後悔などしていない。お前がこれに、心を裂く必要などない。私は」
 細められた金色の瞳が、さらに細くなる。女の口から零れ落ちる言葉はまるで、己を痛めつける鞭のようであった。
「海兵だ。海賊を捕縛することが、私の、仕事だ」
 海兵だと、その言葉を落とした後に向けられたその視線にクロコダイルはそっと目を閉じた。似合わない。てめぇにその面は似合わない。そう、言おうとした言葉は飲み込み表に出すことはない。それを告げたところで、何も変わりなどしない。
 鉤爪を持つ指先には力がこもっている。手の甲には筋がくっきりと浮かんでいた。今現在、一体目の前の女がどんな気持ちでその言葉を口にしているのか、砂の体を持つ男はその心情を慮る。しかしながら、返せる言葉と言えば、最初の母音を二つ並べただそれに過ぎない。
「そうだな。お前は、海兵だ。海賊の」
 敵だ。
 口にされた事実に、ミトはああと頷いた。
「私は、彼らの敵だ。戦う友であり、しかし絶対的な、敵だ」
 倦み疲れたものが、ただそこに残っていた。
 クロコダイルは伸ばしかけた右手をポケットに戻す。慰めも同情も、今の彼女には不必要なものだと気づいていた。噛んでいた葉巻からあふれる煙が肺の中に充満する。
 自分の前だけでは、人間としての表情を取り戻しているのだろうとそうクロコダイルは思うのだが、やはりそれでも眼前の女の中には立ち止まるまで変わることのないものが確固としてある。否、正しく言えば、その確固たるものが今現在女をここに居させているだけで、それがなければ彼女は今頃海に消えていることだろう。
 海軍なんて、とクロコダイルは小さく呻くようにして言葉を残した。
「そんなセンスのない白いコートは、似合わねぇよ」
 正義を掲げたその姿程、奇怪なものはない。歪に見える。目の前の女のかつての姿を知っているものからすれば、その姿は異質なものにしか映らないに違いない。この女には海がよく似合う。潮風をめい一杯に受け、笑っていた姿の方が余程、よく似合うことをクロコダイルは瞼の裏に思い描けるほどに気づき、知っている。
 クロコダイルが吐き出した言葉に、ミトは掴んでいた鉤爪を下させた。女の視線はようやく男のそれから外れる。
「それでも。それが、私の選んだ道だ。クロコダイル」
 突き放すような言葉を耳が拾う。
 馬鹿な選択をしたものだとクロコダイルは思う。しかし、その選択をしてしまうほどに、彼女にとって失ったものは大きかったのだとも言える。それがどれだけ大きかったものか、彼女が失ってしまった者たちと触れ合ったことのあるクロコダイルはよくよく、身に染みるほどに分かる。気さくな海賊団であった。船長は鬱陶しい、キチガイがと思われるほどに海を愛していた男であった。その男に育てられた娘は同じく海が好きになった。海の恐ろしさも怖さも、全てを知った上で海を好いた。そして、自由そのものである海賊をまた、愛した。全てを与えてくれた人間たちを唐突に奪われる。まっすぐな傷を女の中に残して、彼らは海へと消えてしまった。
 多々ある選択肢の中で、最も愚かで尤も馬鹿な選択をしたのは、その他の選択肢が女の目に入っていなかったからだ。はなからそれしか選ぶつもりがなかったくせにとクロコダイルは腹の中でぼやく。吸い込んだ煙とその感情はぐるりと混ざって飲み込まれた。
 言っても考えても、詮無いことではある。
 一呼吸おいて、クロコダイルは一度ポケットにしまいこんだ右手をだしミトの額を小突いた。そして、その手で葉巻を取りふぅと眺めの煙をもう一度女の顔に吹き付ける。顔を顰め、手で煙を払う動作は本日二回目であった。ふ、と短く最後の一つを吐き出して、それでも一応、目の前の女が肉体的には生存できていることを確認してクロコダイルはそれで良しとした。
 ソファに引っ掛けておいたコートを取り、肩にかける。向けかかけた背中を一度振り返り、そこに立つ女を視界に入れる。死ぬなと、そう言おうとしたがそれは口を閉ざして止める。女の返答をクロコダイルは予想できた。死なないと、あの男を殺すまでは私は死なないとそう言うのだろう。その先の話をしているのだが、その先など女の中にはありはしない。そこで終わってしまう人生なのだ。そのために、女は今ただここにある。
 溜息混じりに首を振ったクロコダイルにミトはどうしたと声をかけた。それにクロコダイルは何でもねぇと短く返す。
「馬鹿が」
「…知っているよ」
 そんなことは。
 うっすらと笑んだその表情があまりにも儚く見えた。クロコダイルは扉を押し開けると、ミトは送ろうかと尋ねたが、ガキじゃねぇんだとそっけなく返された。それよりもと続けられる。
「大人しくして、とっとと怪我を治せ」
「すぐに治る。寝たら」
「…寝て治ったら医者はいらねぇんだよ」
 全くと頭を振って、クロコダイルは扉を閉めた。背中で扉が閉まる音が響いた。廊下を歩くと、その曲がり角で、先刻茶を持ってきた男が立っていた。お送りいたします、と屈託のない笑顔が向けられる。いらぬと告げたところでどうにもついてきそうな気がしたので、クロコダイルは無視をし、歩き続けた。数歩後ろから白いコートの男がついてくる。
 互いに言葉を交わすこともなく、あっという間に波止場まで到着し、出港準備の整った船には梯がかけられていた。サー・クロコダイルと己の名が呼ばれる。葉巻をくわえたままクロコダイルは声のした方へと振り返った。ミトの部下である男は恐れも畏れもなく、その双眸にクロコダイルを映し込んでいた。
「大佐を宜しくお願いします」
「…お前に宜しくされる覚えはないんだがな」
「おれは大佐の部下ですから。そして、我々は大佐がとても大好きですので。馬鹿で無鉄砲で、頼りがいがあって力強いあの人が」
 信頼はしてもらえても信用はいただけませんがね、と困ったように男は笑う。返事のないクロコダイルに続けた。
「大佐が心を許しているのは、ただあなたにだけです。あの人は、独りです。誰も、中将でさえもあの人の心に踏み入ることはできない。大佐がそれを許していませんから。無駄に頑固なんです。あなたもご存じのとおり、大佐は海軍では厄介者です。海賊を好きな海兵など論外にも等しい。風当たりの強い中であの人はたった独りで立っておられる。大佐が何を考え、何のためにここにいるのか分かりませんが、あの人は海兵として尊敬できる人だ。おれは、まだあの人に潰れてほしくはないのです。こんなに居心地のよい部隊も、そうはないでしょうから」
「…知ったことか」
 クロコダイルは履いている革靴でかけられた橋を叩く。木の板に乾いた音が響いた。だが途中で足を止め、何故と白いコートのよく似合う男に問うた。
「おれに言う。あいつにちょっかいの多いのはドフラミンゴの方だろう」
 その投げられた言葉に、ギックはからりと笑って返した。いや、全く馬鹿らしいですと肩を軽く揺らす。
「あの方は大佐に嫌われておりますから。おれも嫌いです。そもそもおれも、海賊はそう好きではないのです」
 海兵ですので、と続けた単語にクロコダイルは完全に足を止めて体自体を男へと向けると、葉巻を指先で取り、ふぅと紫煙を吐く。
「おれも海賊だが」
「あなたは、大佐が選んだお人です。大佐に関しては信用ができます。他のことはどうかと思いますが」
「お喋り鳥は早死にするぞ」
「おれが死んでは誰があの大佐の尻拭いをするんですか。まだまだ、死ねません」
 葉巻を咥え直し、歯で葉巻を挟んだ。生意気そうな中佐の顔をもう一度見ると、クロコダイルはコートをはためかせて踵を返し船へと乗り込んだ。背中ではその男が綺麗な敬礼を取っていることは、靴の音で分かった。
 煙を流しながら船の中を歩く。靴底に海の揺れを感じた。それが、女の最も求めるものであり、そして羨望するものである。クロコダイルは自室に入り、葉巻を灰皿に押し付けて消す。新しい葉巻を出し、その先端を切り落として、そして、その葉巻をもう一度箱に戻した。何故だか、葉巻を吸う気分ではなかった。